――宝石を探して欲しい、と依頼者は言った。
手足のない死神が僕を追い詰めようとしている。昼なお暗い密林の中。周囲にはごくわずかな木漏れ日がまばらに点在しているのみで、見通しはちっともきかない。まるで海の底のようだ。
永遠にほどけそうもないくらい複雑に絡み合ってこんがらがり、混沌そのものと化した木々の根が、網の目のように僕を捉える。それらはじっとりと湿り気を帯びていて、腐りかけているものも多い。分厚いコケに覆われているものもあったし、表面が剥がれてつるつるとした木肌が剥き出しになっているものもある。実際に踏んづけてみるまで、足下の感触は分からない、ということだ。
この呪われたくそったれな森の中では、ジャングル用のブーツを履いていてさえ、移動するのは一苦労だ。ましてや走るとなったら、とてもじゃないが二本足では無理。獣のように四つん這いになって転がるようにして駆ける。これ以外に手はない。
周囲にびっしりと立ち並んでいる木の幹はどれも僕が登るには細すぎるし、どのみち木登りであいつに勝てるはずもない。奴にとってはまさにお手の物なのだから。蛇に“お手の物”というのも変なたとえかもしれないけれど。
とにかく、樹上には逃げられない。
「くそッ! せっかくあと少しだったのに!」
森に入って今日で五日目。これまでは比較的順調だった。目的地は目の前で、さぁいよいよだと胸が高鳴りつつさえあった!
何度も振り返りながら、僕は来た道を急いで引き返す。
もはやクエストどころではない。今は自分の命が最優先。何しろ殺されかかっているのだ! いや、殺されるならまだ多少はマシな方だ! 下手をすると生きたまま丸呑みにされるッ!
墨絵のような景色の中に動くものの姿はない。だがこちらを追ってきている、確実に。迫り来る奴の気配をひしひしと感じるのだ、革ジャンの上から、背中に。
そうでなくても、何かを引きずるような音が絶えずしているし、時折どこかで微かに空気が漏れるような音もするのだから間違いない。
奴がこちらの位置を探っている。先端が二つに分かれた舌で周囲の匂いを感じ取っている。あいつはこちらの体温を感知することもできるので、どんなに真っ暗な中でも獲物を見失うことはない。
まさに死神だ。
今のところはまだ少し距離がある。死に物狂いで駆けた結果、多少は引き離せた。だがおかげでこっちは著しく体力を消耗してしまった。すでに息もかなり荒い。全力での移動はいずれ限界を迎える。いいとこ、あと一時間保つかどうかだろう。だが奴は何日でも追いかけてくる。それがあいつの狩りのやり方なのだ。このままならいつか必ず追いつかれ、仕留められてしまう。
その前に“あそこ”にたどり着かないと。
「直接見たわけじゃないけど、でも絶対にいるはずなんだ! 昨日、気配がしたッ!」
あちこちに衝突したり、足を何かに引っかけて転んだり、折れた木の枝に体のあちこちを引っ掻かれたりしながら、僕は急ぐ、四つん這いで。
つかめる物は何でもつかみ、蹴れる物は何でも後ろに蹴飛ばして、転がったり這いずったり滑ったり。でんぐり返しに蛙跳び。とにかく早く、先へ先へ、前へ前へ!
臆病な獣そのものの惨めな姿。生き延びるためなら人間としての見栄や体裁などかなぐり捨てても構わないと心に決めてはいるが、それでも我ながら目まいのするようなみっともなさだ。密林の中で、子供のように脅えながら、転がり回っている。
くそ、と駆けながらつぶやく。
何てついてないんだ、今日は厄日だ!
先生にお客様ですと告げられて、あの日、僕は自室の作業台から顔を上げた。もう一週間以上も前の話だ。
あの時、僕は琥珀(こはく)の中に閉じ込められた小さな昆虫の詳細なスケッチを描いている途中だった。それは新種である可能性があった。
とはいえ、巨大な拡大鏡を覗いては手を動かす、という作業を朝から何十回も何百回も繰り返していて正直、ちょっと飽きが来てもいた。そろそろ少し休憩でもしようかと思っていたところだったのだ。
首をひねって、振り返る。
「僕に来客?」
「はいぃ。大変、お綺麗なかたですよ」
分厚い眼鏡をかけた地味な恰好の女子が、廊下で意味ありげにフヒヒと微笑んだ。僕の助手は、いつだって余計なことを言いたがる。
だが一階の応接室に降りると、果たして彼女の言ったとおりだった。
濃紺のローブをまとった、ほっそりとした女性が一人、部屋の真ん中に立っていた。真っ直ぐに背筋を伸ばして。その超然とした佇まいたるや、まるで彼女の周囲だけは黄金色の時間が流れているかのようだった。思わず階段を下りるこちらの足が止まってしまったほどだ。
よく見ると玄関の左右にも一人ずつが立っていた。少年と少女。従者だろうか。それとも彼女の子供たちか。こちらは白い外衣を着ている。
三人とも、色の濃いサングラスをかけていた。どうやら、お忍びでの訪問であるらしかった。
「初めまして、ジョワン教授」と年長の女性が口を開いた。
歳は三十代半ばくらいだろうか。長身白皙(はくせき)の美女だ。夜のような色の長い髪を、後ろで一つに束ねている。色眼鏡のせいで瞳は見えないが、均整のとれた細面。少し緊張しているのか、口を真一文字に結んでいた。
「初めまして、ええと」
「わたくしのことは、ティエン、とお呼びください」
そう言うと彼女は深々とお辞儀をした。
「もちろん、本名ではございません。とある理由により身分を明かすことができないのです。また、ご覧のとおりわたくしたちはサングラスをしておりますが、これも同じ理由により外すことができません。ご無礼の段、どうかお許しくださいませ。何卒、横柄とは思われませぬよう、お願い申し上げます」
どうかお顔をお上げください、と僕。ソファを勧める。
働き者の助手がいてくれるおかげで、この応接室の清潔度や快適度はこの国の平均よりもかなり上なんじゃないかと僕は思っているが、それでもこの麗しい訪問者の前では、ここにある全ての調度品はどれもガラクタ同然に見えた。
彼女はまるで粗末な鳥かごの中に押し込められた孔雀か極楽鳥のようだった。その服が特別にあつらえられた高級品であることは一目瞭然だ。素晴らしい仕立てで、彼女の体型にぴったりとマッチしている。見たこともない艶やかな生地で、金糸銀糸をふんだんに用いた手の込んだ刺繍によって様々な花の意匠が施されてもいた。どことなく異国の民族衣装を思わせる。
宝石を探して欲しいのです、と彼女は静かに用件を切り出した。
「亡き夫の、忘れ形見ですの」
僕は事情がさっぱり飲み込めなかった。
「それはつまり、何者かに盗まれた、ということですか? もし犯罪が絡んでいるのでしたら騎士団か、そうですね、失せ物探しが得意な連中を何人か知っておりますので、きっとご紹介できると思いますよ、奥様。中には大層、腕の立つ奴も」
「いいえ、教授。この国の騎士団も探偵も、わたくしの役には立ちません。なぜなら、その宝石は盗まれたわけではなく、自らの意思で隠れているからなのです。その宝石は町や村の中にはなく、森の奥をさまよっているのです。一刻も早く、保護しなくてはなりません」
僕は首を傾げる。
「その宝石には心がある、ということですか? しかも移動できると?」
ティエン夫人が肯(うなず)いた。
「しかし、そのような話は聞いたことも……確かに高位の魔法使いたち、特にエルフやドワーフ族は、クリスタルやオーブなどに不思議な魔力や霊力を宿すことができるそうですが、それにしたって、逃げたり隠れたりする宝石なんて」
「その宝石は生きているのです」
僕はますます話が分からなくなる。普通、宝石は生きていない。
夫人も少し困っているようだった。眉間に小さな皺が寄っている。僕たちの話が噛み合っていないことに戸惑っている。
「ええと、何と申し上げれば良いのでしょう。とにかくその子には、手や足があるのですわ。あるいは翼かもしれませんけども」
僕の頭の中で、色とりどりのクエスチョンマークが踊り始めた。
どうやらこのご夫人は、亡くなられたご主人の形見の品を、実際には見たことがないらしい。その具体的な姿を知らないのだ。それにしても、手足の生えている宝石? さっぱり分からない。
突然、夫人の頬を涙が伝った。
慌てて顔を背け、ポケットから白いハンカチを取り出す。
「ご、ご免なさい、取り乱してしまって」
白い服の二人がやってきて、ティエン夫人の肩に手を置いたり、その手を取って何かを囁いたりした。夫人も「ありがとう。もう大丈夫よ」と小声で応えている。
彼女が再びこちらに向き直った。唇が少し、わなないている。
「わ、わたくしたちはその瞬間に立ち会っていないのです。あぁ、それができていたなら、そもそもあのようなことには……。ええぃ、口惜しきは我が身の定め。
わたくしたちはまだ長い眠りから覚めたばかりで、思うように力を使うことができないのです。夫の死に目に立ち会うこともできず、あの子を助けてあげることも……。
それに、どちらにせよ探索はわたくしどもの得意とするところではありません。今はデアス王立大学の博物学教授であり、冒険者でもあるあなた様に、おすがりするより他は」
頬を何度もハンカチで押さえている。
演技だろうか、と一瞬、僕は考えた。クエストにはとかく厄介がついて回るものだ。美女が絡むとなれば、なおのこと。偽りの涙にはとても見えなかったが、世の中には息を吐くように嘘をつく者もいる。
とはいえ、依頼が珍妙すぎるせいで、今のところは疑うべき材料すらも見当がつかない。
「あの、森の奥をさまよっているとのことですが、その森というのはまさか」
「もちろん、ザーラムの森のことですわ」
他にどんな森がございますの、と言いたげな口調だった。
思わず僕はこめかみに指を当てる。軽い目まいがしていた。
「あのジャングルは別名、果てなしの樹海。海よりも広いと言われている森で、あの先に何があるのかは誰も知りません。僕らが持っている地図は、たぶん森全体の百分の一にもなっていないでしょうね」
彼女は何も言わなかった。何かを言いたそうな感じではあったが。
「あの広大な森の中からお目当ての宝石を見つけ出すのは、大洋に落とした一本の針を探すよりも難しいでしょう。ましてやその宝石は逃げ回っているわけですし。それに、どんな特徴があるのかも分からないのでは」
大変に残念ですが、お力にはなれそうも――、と言いかける。
特徴ならありますわ、見間違えようのない特徴が、と彼女がソファから身を乗り出した。
「その宝石は赤く、燃える石炭のように輝いているのです、その子の頭で」
え、と僕。
「な、何ですって!」
思わずソファから腰が浮き上がる。声が裏返ってしまった。彼女の言葉が急速に僕の脳内で一つの塊となり、やがてある単語に変換される。
「頭に、赤く輝く宝石? ……まさか、幻獣カーバンクル!」
こちらではそのように呼びますの? と夫人が不思議そうに小首を傾げた。
「わたくしたちはまだ、この辺りの言葉には不慣れで」
「あれは幻獣中の幻獣です。何しろ公的な記録には一切残っておらず、不正確な噂話がいくつか伝わっているのみ。どんな姿をしているのかすら分かってません。一つだけ確かなのは、頭に真っ赤な宝石を頂いている、ということだけ」
そのとおりです、と彼女。やっと話が通じたことが分かって、少しリラックスしたようだ。嬉しそう。
「カーバンクルは存在しない、という者もいます。何かを見間違えただけなのだろうと」
「いいえ、教授。その子は必ず存在します。わたくしは、そう確信しております」
「噂では、カーバンクルの宝石を手に入れた者には、富と幸運がもたらされるとか」
彼女は微かに肯いた。
「ですからこそ、こちらに参りました。氏素性の定かならぬ者の耳にこの話を入れるわけにはいきません。
聞けば冒険者を標榜する者の中には、密猟者や墓荒らし、闇商人、ならず者、悪魔崇拝者なども混じっているとか。恐ろしいことです。そのような者を、あの子に関わらせるわけにはいかないのです!」
なるほど、と肯く。
「それで冒険者ギルドを通してではなく、直接ここにいらっしゃったわけですか」
彼女が、ずい、とこちらに迫った。
「あなたが書かれた論文は全て読ませていただきました。その、内容に関しましては、二、三、ご指摘したい点がないわけでもありませんが……とにかく! 研究対象への真摯な姿勢には感銘を受けました。信じられるのはあなただけです、教授!」
彼女の全身から発せられる圧倒的なオーラに、気圧されかける。
僕は左右の手のひらを、彼女に開いて見せた。
「ぼ、僕は冒険者としてはさほどの実績があるわけでは。クエストといっても僕が担当するのは下調べや背景調査、あるいはアイテムの鑑定などで、他の冒険者たちのサポートがメインです。直接フィールドに出ることは、あまり」
「もしわたくしの願いを果たしていただけるなら、報酬はそちらの思いのままに差し上げますわ。あるいはそう、教授にとっては金貨よりも歴史的な遺物の方が魅力的かもしれませんわね」
ここで夫人は顎に手を当てて、少しの間、考え込んだ。
「では、ルゼルの石板、ではいかがかしら? 古代ドワーフ語の解読の役にきっと立ちますわよ。それともエギドラ真言集の方がよろしいですか? これはとあるエルフの族長が残した魔導書で、わたくしが持っているのはその写しとなりますが、彼らの呪文の基礎を理解する上では、またとない好著と言っていいかと。あるいは太上枢機卿のペンでも。こちらは大天使の羽でできていて――」
わ、分かりました、と僕。実を言うと彼女が口にしたのはまったく聞いたことのないアイテムばかりだったが、確かに単に金貨をもらうよりも、そっちの方が面白そうな気はした。これも冒険者の性(さが)、か。
それを言うなら、誰も見たことのない幻獣に挑む、というこのクエスト自体が、僕の血を静かに、だが確実に、掻き立てていた。何かがふつふつと沸き上がってくるようなこの感覚。この魂の沸騰から尻込みするくらいなら、最初から冒険者など名乗らなければよいのだ。
僕は腹を決める。
「では、最初の石板で」
かしこまりました、と彼女が微笑んだ。
「教授なら、きっとそう言われるだろうと思いましたわ」
「それと、もう一つ」
はい? と彼女。
僕は彼女の手元を指さす。
「そのハンカチ、しばらく預からせていただけませんか。探索の役に立つんじゃないかと思うんです」
は、はぁ、と一瞬、怪訝そうな顔をしたが、彼女はそれを綺麗に折りたたむと、僕に手渡してくれた。
「もちろん、これ以外にも捜索に必要な装備や経費等があれば、何なりと仰ってください。費用はどれだけかかっても構いません。いくらでもお支払いいたします。
どうかあの子を無事、無傷で、いいですか、一切の危害を加えることなく、わたくしにお届けください。この願いさえ叶えていただければ、わたくしどもは生涯、あなたの恩を忘れません」
三人が深々と頭を下げた。
その後、実務的なやりとりをしばらくすると、彼らは帰っていった。
その後ろ姿を見送ると、ロロア君(鼻の頭に少しだけそばかすがある、僕の助手)が、こちらに振り返った。瞳をキラキラと輝かせている。
「先生、気づきました? あの服! あれ、シルクですよ! あの袖一本だけでも私の稼ぎの三年分、ううん、五年分くらいはするはず!」
「……すまないね、給料が安くて」
僕は上着を羽織り、中折れ帽を被る。
「あ、先生、どちらへ? 今日は授業、ないですよ?」
「休講届けを出してくる。それと、図書館でいくつか調べたいこともあるしね。ああ、そうそう、しばらく新規の予定は入れないでおいて。ちょっと留守にするからさ」
もう先生、またですか、少しは研究に身を入れてください、大学を首になっても知りませんからね、という眼鏡女子の声を背に僕は家を後にする。
たっぷりと下調べをし、入念に準備をした上で冒険に出かけた。のだが、いざ蓋を開けてみれば、密林の中で恐ろしい大蛇に追われて今まさに死にかけている。
最初の一撃をかわせたのは僥倖(ぎょうこう)だった。視界の端で何かが動くのがちら、と見えたのだ。咄嗟(とっさ)にかがんだ僕の頭上で、奴の鎌首が素早く空を切った。もしあれを食らっていたら助からなかった。奴は水牛すら絞め殺す。巻きつかれたら最後、僕なんかひとたまりもない。
黒っぽい網目模様をした大蛇が、木の上から僕を狙っていた。僕に噛みつきそこねたあいつはそのまま、ずるり、ぼとり、と地面に落ち、まるで呪いで動くおぞましい絞首用のロープのように、うねうねとうねりながら、足がないとは思えない速さで僕に向かってきた。
僕は子供のような悲鳴を上げて、全速力で駆けた。
カイナ蛇だ。別名は、悪魔の触手。あれは悪魔の腕が化けたもので、あれに捕まるとジャングルの奥に引きずり込まれ、そこで悪魔に食べられてしまう、と昔は信じられていた。
僕はその手の迷信には囚われておらず、あれが全長十メートルほどもある単なる育ちすぎの蛇にすぎないことや、毒すら持ってなく(ほとんどの相手をたやすく絞め殺すことができるので、毒を持つ必要がないのだ)、奴の親戚の中には悪魔も堕天使もいないということを確信している。しかしだからといって恐ろしくないということにはまったくならないのだ。
ジャングルの中をどこまでも追いかけてくる。木にも登れる。狭いところも通れる。川にでも飛び込まない限り、奴の熱源探知能力から逃れるのは難しい。だが水辺や川の中にも恐ろしい生物はごまんといるし、どのみちこの辺りにはそんなに大きな川はない。
すでに息がだいぶ上がっていた。ジャングル特有の湿度のせいもあって、全身が汗でぐっしょりと濡れている。僕は体温が上がった状態のまま、派手に自分の匂いを撒き散らしながら走っている、というわけだ。追っ手はさぞやほくそ笑んでいることだろう。どんどん追跡が楽になってゆくのだから。もっとも、蛇に微笑むことができるのならば、の話だけれど。
そのまま小一時間ほど駆けた後、足を止める。
はぁはぁと息を荒く吐きながら、僕は辺りを見回し、耳をすませた。この辺りのはずなのだ。昨日、確かに奴らの足音を聞いた。おかげで大きく迂回する羽目になった。
ただし、奴らは数日おきに移動を繰り返す(だいたいそのくらいの期間で、周囲の食料をあらかた食べ尽くしてしまう)から、今もここにいるとは限らないが。これは賭けだ。
この時、何かが僕の腕を刺した。棘? いや、違う。革手袋と上着の袖の隙間、僕の肌が剥き出しになったところに、何かが噛みついていた。黒っぽい、小さな何かだ。鉄の削りクズのようにも見える。
「痛ッ!」
僕は慌ててそれをたたき落とす。
そして、笑った。
「いたぞ、やっぱりいた! 絶対にこの辺りだと思ったんだ!」
虫に噛まれた辺りが腫れてきていた。良い傾向だ。これで間違いない。奴らだ。
普段なら恐怖の悲鳴を上げて一目散に逃げているところだが、すでに厄介な死神につきまとわれている身だ。それがもう少し増えたところで、どうということはなかった。どうせこっちの命は一つしかないのだし。
やがてすぐ、周囲に、カサカサという微かな足音が充満しだした。まるで突然の雨音のように。それは互いに囁き会う百万匹の蚊の羽音にも似ていて、僕のあらゆる神経を逆なでしてくる。だが怖気に立ちすくんでいる場合ではなかった。
暗くてよく見えないが、間違いない。奴らが集まってきている。枝から枝へ素早く伝い、あるいは大地の上を小川のように滑らかに流れながら。ここに。僕のいるこの場所に。やったぞ! こっちの思惑どおりだ。さぁ、よく耳をすませろ。奴らがどの方向から来ているか、判断するんだ。群れは、その先にある。
僕は腰の後ろの鞘から、大型ナイフを抜き放つ。もし大蛇に巻きつかれて全身の骨をバッキバキの粉々に砕かれるのだとしても、せめて一矢は報いる。ただ生きたまま丸呑みにされてたまるか。こいつを土手っ腹に突き立ててやるぞ。
ナイフを構えたまま、大きく弧を描くようにして移動する。
数十メートル後方に、蛇が来ていた。やっぱりだ。薄暗い中をうねる姿が、辛うじて見て取れる。確かに、真っ暗な荒海の中をするすると伸びてくる巨大な触手のようだった。あるいは、どこまでもつきまとってくる不吉な影法師か。
僕が急に走るのをやめて歩きだしたので、獲物が弱ったと判断したのだろう。とどめを刺すべく、一気にこちらとの距離を詰めてくる。最短ルートを通るべく、倒れた大木を乗り越え、複雑に絡まった木の根をかいくぐり、細い幹と幹の間を縫うようにして通り抜け――
と、そこで突然、その大蛇は苦しそうに身をよじらせ始めた。やがてボールのように丸まって、そこいら中を転がりだす。だがもう手遅れだ。奴はすでに百億もの敵に囲まれている。悪食(あくじき)蟻の巣に突っ込んで、無事でいられるものなどいない。例外はドラゴンのようなごく一部の強力なモンスターだけだ。
悪食、とついているがその蟻は雑食などではない。完全なる肉食性。恐ろしく凶悪な虫で、肉でさえあれば何でも食う。悪食と呼ばれる所以(ゆえん)だ。虫だろうと、鳥だろうと、獣だろうと。人間だろうと、蛇だろうと。動物なら何でもだ。
死肉も食うが、新鮮な肉も好む。何万、何億という数で一斉に獲物にたかり、手当たり次第にむさぼり食って仕留める。
奴らは強靱な顎に加えて、強力な毒針を持っており、ジャングルの中では並の猛獣などよりよっぽど恐ろしい存在だ。しかも怯(ひる)むとか脅えるとかということを知らない。そんな知恵は持っていないのだ。食欲の塊のような昆虫で、群れの仲間がどれだけ殺されようともそんなことには一切構わず、遮二無二襲いかかってくる。
蟻は熱を出さないので、カイナ蛇には探知できなかったのだ。それでも普段なら奴らの出す微かな臭いや足音などの気配で存在を察知できたのだろうが、今は奴も完全な狩猟モードになっていて、僕というターゲットへ神経を集中していたため、周囲への警戒がおろそかになっていたのだろう。悪食どもの巣(と言っても、単なる蟻の塊だ。女王を中心とする奴らの集合体である)に、もろに突っ込んでしまった。
悪食蟻は、蟻の中ではかなりの大型だが、それでも絞め殺すには小さすぎるし、数百匹程度をつぶしたところで、群れ全体からすれば痛くも痒くもない。この勝負、蛇に勝ち目はなかった。
助かる方法がもしあるとしたら、それは全速力で逃げることだけだ。が、あの蛇はすでに見当識を失っているようだ。出鱈目に転がっては、腹や尾で激しく大地を叩いている。同じ場所でのたうち回っているだけで、ほとんど移動できていない。
僕は奴らを尻目に走りだす。人食い蛇と、人食い蟻。ろくでもないもの同士の戦いの結末など、こちらにとってはどうでもいいことだった。この隙に少しでも遠くまで逃げなくては。
蟻が何匹か、服の中に入ってきていた。
「痛たたたッ!」
走りながら、自分の体をバンバン叩く。数匹程度なら脅威ではないが、それでも肉を噛み切られればやっぱり痛い!
ああ、もう! と僕はつぶやく。何てついていない日なんだッ!