「チュティマの蝶(中編版)3/4」伊野隆之

「上々の反応ですね。僕たちが広告塔を買って出た甲斐があったというものです」
 バンコク市街を見渡す高層ビルの一室に、チュティマはいた。目の前のデスクには上機嫌のティラポン=サドックヤーンが座っていて、にこやかな笑みを浮かべている。その横では、背筋をまっすぐに伸ばしたナライが、無言で立っていた。
「ありがとうございます。注目度の高いご結婚披露で使っていただいたおかげです」
 空を舞う蝶は、タイ全土で放映され、一千万人近くが目にしたことになる。実際にビジネスに繋がる割合は低いにしても、これだけの広告を自前で行うのは不可能だ。
「ダーオも喜んでいたよ。私たち以上に注目が集まったのは、予想外だったがな」
 ナライによれば、蝶を放つ様子が放送された直後から、多くの問い合わせがあったという。画面を埋め尽くした蝶が、ティラポンのファンドが出資しているベンチャー企業の製品だという情報も知れ渡っていた。
「今、ラインの増設を検討しています」
 林明幹が実家の支援で作った小さな工場は手狭になり、新工場の建設が始まっていた。原材料やオペレーション人材の確保のため、林とプーイは忙しくしている。
「それは良かった。ところで、僕の式に香港から来ていた親戚が、今度、一人娘の結婚式で使いたいって言ってきている。メディアへの露出はそんなに期待できないけど、式への参列者は有力な財界人が多いらしい。大陸への足がかりにもなると思う」
 チュティマが見込んだとおりだった。サドックヤーン一族は、元々、中国本土の潮州にルーツを持っており、今でも交流がある。
「いつ頃ですか?」
「二ヶ月後だけど、間に合うかな?」
 香港がうまく行けば、まだ立ち上げ段階の中国でのビジネスにも弾みがつくだろう。林には、最優先で取り組んでもらった方がいい。
「大丈夫です。間に合わせます」
 タイ国内だけでは足りない。大量の蝶を空に放ち続けるためには、それだけの需要を喚起しなければならない。世界中でブームを起こし、持続させなければならない。
「それなら、連絡先を送っておこう。ちゃんとやってくれよ」
 チュラポンの背後で、ナライが一度、頷いた。
 引き合いは結婚式だけではなかった。チュティマのところには野外の音楽イベントや、スポーツ大会の開会式で使いたいという問い合わせが来ていたし、ナライを経由して映画で使うプランも届いていた。
 タイで火がついた需要は、華人ネットワークを通じて東南アジア全域に広がるだろう。香港で成功すれば中国本土にも広がっていく。そうなれば、次は、最大のマーケットであるアメリカになる。
 中国とアメリカ。大量の二酸化炭素を吐き出してきた二つの国が、大量の蝶を放つ国になる。それがチュティマと林明幹の目論見だった。

 北京で林明幹が拘束された。
 理由は明らかにされていないものの、杭州の工場に環境保護省の立ち入りがあった。工場自体には問題ないはずなのに、操業停止命令が出ていた。
 林からの連絡は、北京に出発する直前のもので、そのときは、さほど切迫感がある感じではなかった。
 タブレット越しに林は言った。
「面倒が起きているみたいだ。一応、弁護士の周先生には同席してもらおうと思ってるけど、ちょっとした誤解だと思う」
 バンコクでの成功以来、四年が経過し、事業は順調に拡大していた。香港に始まり、大陸では杭州と上海、深圳、東南アジアではシンガポール、マラッカ、ジャカルタのイベントで数万の蝶が使われた。生産工程を湿式プロセスからプリント方式に変更することで効率が上がり、生産能力も大幅に増強されていた。
 ハリウッドでの映画撮影では二十百万個の蝶が砂漠を飛んだ。多色化によって蝶の需要は確実に増加し、中国共産党の地方幹部が中央の幹部を迎えるために準備したのは三百万の深紅の蝶だった。
「デンパサールには行けそうなの?」
 チュティマが尋ねた。インドネシア、バリ島のデンパサールでは気候変動枠組み条約の締約国会議が一週間後に開催される予定になっている。
「大丈夫だと思うよ」
 自信なさそうに林が言った。チュティマと林は、締約国会議の関連イベントへの出席を要請されている。
「気をつけてね。あなたなら大丈夫だと思うけど」
 杭州の工場からの出荷が止まっていてもナコンパトムの第二工場があるから、製品供給には問題ない。チュティマの蝶は世界中に供給され、空を舞うだろう。けれど、気候変動枠組条約の締約国会議を間近に控え、杭州の工場の操業停止はよくない知らせだった。
「僕たちがやってることは、秘密でも何でもない。実際に環境の改善に貢献しているんだから、心配することは何もないと思うよ」
 二人は、太陽光で飛ぶ蝶を作り出し、イベント用の商品として事業化した。事業は順調で、北米と中国大陸を中心に、今までに十数億もの蝶が空に放たれている。
「ちゃんとわかってもらえるといいんだけど」
 空を飛ぶ蝶は、地球に降り注ぐ太陽光のエネルギーを減じ、温暖化の進行を緩和する。
「今までだって批判はあったじゃないか。それを説明して、ここまでやってきた。別に難しい事じゃないよ」
 一つ一つは小さなものであっても、大量の工業製品を環境中に放出するのである。環境汚染の懸念は当然のことだった。
「でも、今度はあなたの国よ。簡単には行かないかも」
 数は多くても、重量は小さい。年間何百万トンにも上るプラスチックゴミの海洋放出量に比べたら微々たるものだ。それに、チュティマの蝶は、すべてが生分解性の素材でできている。レジ袋の十分の一の厚さしかない蝶の羽根は、地面や海面に落ちたとたんに分解プロセスが始まり、やがて環境中で完全に無機化する。蝶は、環境負荷をもたらすような製品ではなかった。
「脅さないでくれよ。一党支配に対する脅威にならなければ、酷いことはしないさ」
 心なしか林の表情に元気がなかった。
「そうね。今から心配しても仕方がないわね」
 環境中にゴミをばらまくという批判は、砂浜で分解する様子を記録した動画を公開することによって沈静化することができた。それでも、蝶に対する批判は残っている。デンパサールでは、そんな批判にさらされることにもなるだろう。
「いざとなったら、君一人でも大丈夫だろ?」
 冗談めかした言い方だったが、この時すでに林は拘束の可能性を察知していたのかも知れない。
「そうならないことを祈るわ」
 努めて明るくチュティマは言った。
「じゃあ、デンパサールで」
 その翌日、弁護士の周から、林の拘束を告げる連絡が入った。
「どうしてなの?」
 チュティマの問いに周は答える。
「環境保護省は、意図的な環境汚染を禁止する環境保護法に対する違反の可能性を指摘しています。ですが、拘束はそんなに長くならないでしょう」
「なぜ、あなたにそんなことがわかるの?」
 落ち着いた様子の周に、チュティマはつい強く言ってしまう。
「私にも、知人はいます。環境保護法では罰則は生じた汚染の規模に応じたものになりますし、当局も、罰則を課す条件である『現に汚染を生じている』とは証明できないと考えている節があります」
「あなたの、その知人に合わせて。私もどういうことか聞きたいわ」
 林のために、何かできることがあるはずだ。必要なら会社のお金を使ってもいい。林に何かあったらと思うと、チュティマはいても立ってもいられなかった。
「それはできません。それに、あなたにはやるべき事があるはずだ」
 デンパサールだ。でも、締約国会議の前に北京に飛ぶ時間は十分にある。北京に行き、林と合流してバリに向かう。そんな旅程も可能だった。
「あなたが言うことではないでしょ」
 チュティマの口調が、思わずきつくなっていた。
「そうですね。ですが、林さんからの伝言があります。『僕のことは心配いらないから、デンパサールに行って、僕たちの蝶を守ってくれ』とおっしゃってました。それに、いったん中国に入国してしまえば、あなたが足止めされる可能性も否定できません」
 中国で足止めされれば、デンパサールに行けなくなる。せっかく、蝶の効果がわかったのに、未だに否定的な意見もくすぶっている。デンパサール行きを決めたのは、宣伝のためだけではない。蝶の正当性を訴えるためだった。
 チュティマは成層圏を飛ぶ蝶たちの存在が確認された時のことを思い出していた。

9

「ICAO、ってご存じですか?」
 会社の総務を取り仕切っているプーイが誰に言うともなく声を上げた。オフィスには十人程度しか社員がいない。大きな声をあげればどこにいても聞こえる。
「ICAOって、国際民間航空機関のICAO?」
 制御プログラムのアップデートに関する報告を読んでいたチュティマが応じた。緯度が高くなると、どうしても南向きに飛んでいってしまいがちで、制御プログラムで補正してやる必要がある。
「その通りです。運輸省の係官と一緒に、明日にでもうちに来たいみたいで」
 チュティマは戸惑っていた。ICAOがなぜチュティマの元を訪れる必要があるのか。イベントの引き合いではあり得ない。
「明日の予定は?」
「杭州との打ち合わせがありますが」
 訪問を避けたくはなかった。何があるにせよ、ちゃんと対応した方がいい。政府を相手に不要なトラブルは避けたい。
「打ち合わせの時間を変更して。でも、林はリリースしないようにね」
 広報用のアドレスから、チュティマにメールが転送されてきていた。オペレーションの責任者に話を聞きたいという素っ気ない書きぶりが、逆に警戒心を呼び起こさせる。
 ICAOは、民間航空機の安全規制に関する国連の専門機関だった。その機関の職員が、何の理由があってチュティマの会社に来るのか。
 午前十時からの対応が可能との返信をして、林にもメッセージを入れる。
『ついに来たね』
 デスクトップに林からのメッセージがポップアップする。
『ついに?』
『僕たちの蝶を見つけたんじゃないかな。ここのところたくさん飛ばしてるからね』
 翌日、約束の時間ぴったりに、ICAOの係官二人と、運輸省の係官が二人、チュティマのオフィスを訪れた。
「意外と小さなオフィスですね」
 ベトナム系らしい、ニャンというICAOの係官は、流ちょうに英語を話す。もう一人のユーリと名乗った係官は、ロシア出身らしく、訛りが強くて聞き取りづらかった。
「これで十分なんです。難しいビジネスはしていませんから」
 提供するサービスは一つ。蝶だけだ。
「こちらでも調べさせてもらいました。本社がバンコクで、中国の杭州とロスに支社がある。立派な多国籍企業だ」
 ニャンが指摘する。事実はその通りだが、多国籍企業と言われることには違和感がある。
「共同で研究をしていたんです。ロスにいるリタはメキシコ出身ですが、私と林明幹は、出身国に戻ってこのビジネスを始めました。自分たちで開発したものをマーケットに出したんです」
 設立の経緯を含め、基本的な情報は、会社のサイトで公開してある。資本金や役員、従業員数に売り上げ、主要な事業所、どこまで調べてあるのだろう。
「そういうことですか。あの蝶は三人で開発したと」
 ニャンの背後で、まるで何かを探しているかのようにユーリがオフィスを見渡していた。
「実際は私と林で開発し、必要なところをリタに手伝ってもらいました。彼女も蝶のことは気に入っています」
 技術的な貢献は限られていても、アメリカの市場を一気に開拓できたのは、リタがいてくれたからだった。しかも、リタは、蝶のコンセプトができた瞬間に立ち会っている。
「ところで、あの蝶は、最初から高々度を飛ばすことを目的に作られたのですか?」
 快晴の空の下で放たれた蝶は成層圏まで上昇し続ける。十分な高さまで上昇した蝶は、夜の間も空を漂い続け、日の出とともにさらなる高みへと登っていく。
「どういう事ですか?」
 成層圏にできた無数の蝶たちが漂う層は、太陽光を遮り地球の温暖化の進行を緩和する。それがチュティマと林が目指したことだった。
「これを見てください」
 ニャンが持参したタブレットを立ち上げた。
「定期点検時のジェットエンジンのタービンブレードです。ここを拡大してみると、付着物があることがわかります」
 灰色の表面に、黒い点がいくつも張り付いている。
「飛行に影響があるのですか?」
 チュティマはおそるおそる尋ねた。
「この程度であれば特に影響しません。最初に報告された事例は半年ほど前の定期点検時に発見されました。主に、シンガポールとシドニーの間を飛んでいる機体です」
 ニャンの答えに、チュティマはひとまず安堵する。
「それが何か?」
 黒い点は、多分、蝶の燃え滓なのだろう。さもなければ、モントリオールにあるICAOの係官が、バンコクにまでやってくる理由がない。
「小さな事でも異常は異常です。航空機の安全な運行を確保するには、どんな小さな異常でもないがしろにはできません。私たちは、航空宇各社に、同様の付着物が見つかっていないか、民間航空各社に定期点検データの確認を求めました」
 つまり、高々度を飛ぶ飛行機のエンジンにチュティマの蝶は焼かれているということだ。
「結果はどうだったんですか?」
 シミュレーションの上では、成層圏に到達することになっていても、実際に到達しているという証拠(エビデンス)はなかった。そんな状況でICAOの係官がもたらした情報は、蝶の本来の目的からすれば歓迎すべきものだ。
「興味深い結果でした。この付着物は赤道に近い低緯度地方を飛行する国際線で広く見られている一方で、高緯度の航路を飛ぶ機体では、ほとんど確認できませんでした」
 チュティマからすれば当然だった。蝶は光を最大限受けるように姿勢を制御するように作られている。結果として、蝶は走光性とも呼ぶべき性質を示し、長い時間をかけてより太陽光の強い低緯度地方に移動していく。
「自分たちが何をやったのかわかっているのか?」
 突然、今までほとんど口を開かなかったユーリが言った。
「この付着物がどうしてエンジンのタービンブレードに生じるのか、私たちには謎でした。しかも、これが見られるようになったのは、各社の点検記録を改めて分析すると、ここ数年のことだったようなのです」
 言葉を継いだのはニャンだった。運輸省の係官は、状況の展開にとまどっているようだった。チュティマは、ニャンの次の言葉を待ち受ける。
「そういえば、スーパーボウルの開会式の演出は見事でした。映像でしか見てませんが、すばらしかったようですね。しかも、現場にはほんの僅かの蝶しか落ちていなかった」
 スーパーボウルの開会式は、今までで最大規模のイベントの一つだった。フィールドいっぱいに描かれた星条旗と自由の女神が、数千万の蝶になって空に舞った。
「私たちにとっても大変なイベントでした」
 星条旗に不可欠な青い色を出すのには苦労した。顔料を使うのではなく、蝶の羽根の表面を微細加工して発色させたのはウィラシット教授のアイデアで、モルフォ蝶を模した構造色だった。
「そうでしょうね。ところで、あのときに使われた蝶ですが、環境中では速やかに分解すると言うことでしたが、あれほど多くの蝶が放たれたにもかかわらず、どこかに落ちている形跡もないし、組織的に回収が行われている様子もない。かなり長距離を移動するらしいとは想像していましたが、成層圏まで達する能力があるとは、思いもよりませんでした。しかも、地上に落ちればすぐに分解が始まるのに、成層圏では違うらしい」
 成層圏では大量の紫外線が降り注ぎ、オゾン濃度も高い。生分解性と成層圏での堅牢性の両立は、蝶の素材を決める際の重要な要素だった。
「発見された付着物と、私たちの製品の関係をどうやって確認をしたのですか?」
 チュティマが尋ねた。
「実験用のエンジンであなたの蝶を燃やしました。そのときにできた燃え滓と、点検の際に集めた付着物を比較した結果、形状や微量元素含有率が一致しました」
「そうでしたか」
 予想通りの説明だった。世界中で蝶が使われている今、実験用のサンプルの入手は、そんなに難しいことではなかったろう。
「ICAOは民間航空機の安全のための機関だ。現時点では危険ではないとしても。エンジンに影響があるような状況は看過できない」
 どちらかと言えば友好的な雰囲気のニャンとは違い、ユーリの言葉は威圧的に聞こえた。
「何か罪になるのですか?」
 チュティマの問いにユーリは答えようとせず、横に控えた運輸省の係官を見据えた。
「え、えっと、まず、一つの前提として、条約の履行は締約国の責任になります。もちろん、航空機の飛行に危険を及ぼす行為は犯罪ですが、現状では危険を及ぼしているとは言えないと考えております。それから、蝶自体を飛ばす行為も、無人機を飛ばす行為と見なし得ますが、現状では余りに出力が小さすぎて……」
 運輸省の係官の説明をニャンが制した。
「そこまででいいでしょう。現状では問題があるわけではありませんが、ICAOとしては、あなたの会社の製品に強い関心を持っています。ですから、今日のところは今後に向けた協力依頼だと思っていただきたいのです。つまり、蝶のスペックや、過去まで遡った蝶の放出状況、大量の蝶を放出する際の事前通告と言った形でのご協力をお願いしたい。もちろん、すぐに提供して頂けるデータがあればありがたいです。ICAO内部にはずいぶん神経質になっている専門家もいますので」
 最後に付け加えられた一言は、横で不満そうな顔をしているユーリのことかも知れなかった。
「もちろん、できる限りの協力はさせていただきます」
 チュティマはスタッフに必要な情報の提供を指示した。蝶の製造ができるのはチュティマの会社だけで、競争相手はいない。製造技術の詳細を除けば、秘密にしておくべき情報は何もなかった。
「そういえば、まだ答えていただいてない質問がありました」
 帰り際にニャンが言った。
「どんな質問でしょうか?」
「最初に伺った質問です。あなたの蝶は、成層圏を目指して作ったものなのですか?」
 情報を提供し、今後の協力も約束した。だったら、ニャンの質問にどんな意味があるのだろう。
「ええ、その通りです」
 チュティマの答えを聞き、ニャンは納得したように頷いた。
「だとしたら、お伝えしておくべき情報があります。民間航空機にとって、運行に支障を来す原因はいくつもあります。機体の整備不良や、空港の混雑、乗員乗客のトラブル、気象による影響も無視できません。ですから、トラブル情報の収集と分析も、ICAOの仕事の一つになっています」
「どう言うことですか?」
 ニャンが何を言おうとしているのか、チュティマには想像できなかった。
「航空機の運航も、気候変動の影響を受けているんですよ。降雨や強風による遅延は日常茶飯事です。飛行場の運用技術の向上でカバーできる面もありますが、二年ほど前までは、気象条件を主要な原因とする遅延が増えていました。それが、昨年から増加が止まっているようなんです。つまり、付着物が見つかるようになった時期と一致しているんです。偶然ではないでしょうね」
 つまり、それは……。
「教えていただき、ありがとうございます」
 チュティマはニャンに向けて思わず手を合わせた。タイ式のお礼であるワイだ。
「私たちが集めた情報は、内部利用が目的ですが、ICAOはIPCCとも情報交換のチャンネルがあります。カメラの向こうで誰が見ているのか存じませんが、IPCCへの情報提供も検討された方がいいと思いますよ」
 ニャンは会議卓に置かれたコミュニケーター端末に向かって言った。スイッチは入れられており、画像だけでなく、音声も拾っている。
「失礼をしました。遅れて参加したものですから。杭州の林明幹です」
 コミュニケーターのディスプレイが立ち上がり、林の顔を映し出す。
「お国の当局との調整がついたら、そちらにも伺いたかったのですが……」

 このICAOの係官の訪問が一つの転機だった。
 ICAOから提供された情報も加味して、林明幹は、改めて大気中での蝶の挙動のシミュレーションを実施した。蝶は、高度十二キロ前後の領域を浮遊するというのが、林明幹の計算で、一方、航空機の平均的な飛行高度はおよそ十キロ。蝶たちの密度が最も高くなる領域ではなかった。林の計算では、一回のフライトでエンジンに吸い込む蝶の数は、最大でも五千を越えることはない。燃焼によって大部分が消失することもあり、航行の安全に特に影響を及ぼすものではないだろう。
 チュティマは、シミュレーション結果をニャンに送る。ニャンは、林の結論を肯定も否定もしなかったが、その後のICAOのアクションは、チュティマの蝶に関して特別なものではない。成層圏における蝶の存在を認めるとともに、特に赤道付近を通過する航路では、蝶の存在を前提にして、今までどおりの定期点検を行うべきというものだった。
 ICAOはチュティマの蝶に関して継続的に情報を収集することも決定していた。それ以上でも、それ以下でもない。ICAOによって優先すべきは、超大型の台風のような極限気象イベントであり、各地の政情不安や宗教対立を背景としたテロ対策だった。
 チュティマの会社も独自の調査を実施した。成層圏観測用のゴム気球(ラジオゾンデ)を使った調査の結果は、林のシミュレーションの妥当性を裏付けるものだった。
 結果は、タイ政府を通じてIPCCに提供された。締約国会議にも提出されるIPCCの第七次評価報告では、世界中の気象情報、大気の成分組成、太陽の放射エネルギーなどの情報を、地球環境シミュレーターで統合した結果が報告される。チュティマたちが提供した蝶の分布を考慮に入れた場合と、考慮に入れない場合が比較され、IPCCの年次報告書は結論を導く。蝶による遮蔽効果が、おそらく、地球の平均気温の上昇速度の緩和に寄与していると。

(続く)