(PDFバージョン:takeutihirosisanntonodeaitodai2kaiSFsho-gajibunnnogenntenndatta_hikawaryuusuke)
2011年6月27日に、竹内博さんが亡くなった。ゴジラやウルトラマンなど怪獣映画を再評価し、円谷英二ら特撮の基礎を築いたクリエイターに関する研究を生涯貫いた大先輩であり、大事な師匠である。激しい喪失感にとらわれた。
竹内博さんはビジュアル文化の旗手・大伴昌司さんの弟子である。しかし、大伴さんと竹内さんのアプローチはすこし違っていた。
少年マガジンの巻頭特集や怪獣の内部図解に見られるように、大伴さんはフィルムのなかにある世界をメディアなりに料理して、その地続き感を拡大してイラストなどを駆使していた。講釈師というか、ある意味、現実を過大にプロデュースすることで生じる幻惑感みたいなものを子どもに伝える役割をはたしてきたと思う。
一方の竹内さんは、フィルムを人の手がつくりあげた作品であることをとても大切にしていた。資料主義であり、写真や雑誌記事など実物のもつパワーを信奉していた。そしてリスト魔でもあった。現実に存在する混沌とした情報を整理することで、新たに見えてくる高次の流れをつかむという点では、学究肌であった。
どちらが良いということでもない。また、大伴さんは1973年早々に亡くなっている。ちょうど『ウルトラマンタロウ』が始まろうとするあたりまでが、大伴さんの活躍時期だ。まだ怪獣映画のファンは子ども中心である。大人向け(出版界ではアダルト向けとも呼んでいたが、エロは関係ない)の特撮・アニメ雑誌、ムックが立ち上がるのは1977年、かつての児童ファンが高校生以上になったころで、そこからSFビジュアル文化が盛大に開花し、竹内博さんの大活躍も始まる。
もし大伴さんが『宇宙戦艦ヤマト』(’74)や『スター・ウォーズ』(’77)の大ヒットを前提としたこの時期までご存命だったらと思うこともあるが、竹内博さんがこの直前に同人・怪獣倶楽部を主宰して立ち上げていた研究の方法論や価値観の醸成が、以後の展開を大きく決めたことは間違いはない。
この時期の竹内さんの代表作には「ファンタスティックTVコレクション 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマン」(’78、朝日ソノラマ、安井尚志氏と共同編集)がある。そこでは今でこそ「掲載されて当たり前」のように受け止められがちなアイテムの初出が満載である。作品リスト、怪獣・宇宙人リストに加え、フィルムを切り出した場面写真や、それを使った「バルタン星人二代目」といった怪獣の別バージョンなどなど。
こうした実証主義的で研究ありきの特撮出版物は、後世のもろもろの原点として機能した。たとえば食玩の異同バージョンなどという展開も、「そうか! バルタン星人は3回も出てるんだ」という、この時期の竹内さんの出版物があたえたインパクトの果てにあるものだ。
こうしたことはアニメにも影響をあたえている。たとえばアニメ雑誌の台頭は、1977年の「月刊OUT創刊2号 宇宙戦艦ヤマト特集」を起点としているが、ライターとして参加した筆者の受け持ったパートは、スタッフインタビュー、各話の脚本・演出入りのストーリー、用語辞典などで、これも怪獣倶楽部で竹内さんから受けた指導の影響が大きい。
こうした流れがあること、原点となった竹内博さんの仕事の偉大さは、実はまだまだそれほど知られていない。大伴昌司さんと同等か、それ以上の影響力があったはずなのだから、不肖の弟子としてはきちんとこうしたことを語り継いでいきたい。
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そんな竹内博さんと自分を結びつけてくれたのは、S-Fマガジンだった。1973年に同誌の投稿欄てれぽーとで、中島紳介さん中心に怪獣映画ファン同士の交流が始まる。そしてそれが「宙(おおぞら)」というファンダムの怪獣ファンジン「PUFF」に発展した。
この会の命名は当時発売されて難読で話題だったタバコにちなんでいるあたり、時代性を感じる。後に各地に支部ができたとき、たとえば怪獣イラストレーターの第一人者となる開田裕治さんの大阪支部は「セブンスター」と命名されたように、なぜかタバコネーミングで統一されていく。
怪獣倶楽部の会合にしても、参加費代わりにタバコを竹内博さんに貢いでいた記憶がある。まだ高校生だった私は「みなさんオトナだなー」と感動するばかりだった。まさか21世紀になってタバコが迫害されてみたり、オトナになることの意味が喪失するなんて、思いもよらなかったが、「早くオトナの仲間入りして、怪獣映画を語ることも認めてほしいな」という気分が、なんとなく反映している。
さて、1974年の夏になって「宙」の第2回会合が開かれた。これがわが人生最大の転機となった。情報が満ちあふれる現在からすると、当時はなんて連絡不徹底だったのかと思うばかりだが、「ウルトラQが見られるらしいですよー」と、会長のO氏は不鮮明なことを電話で言う。ちょうど当時、テレビのカラー化が一段落して二度と『ウルトラQ』が見られないと思ってた時期だから、それだけでも行く動機になった。それがいまや総天然色化(カラーライズ)だから、現実もけっこうSFになっている。
その会合の集合場所も上野駅の○○線ホームの端である(笑)。集団就職じゃあるまいしと思ったが、地方から上京された方もいたから仕方がない。そして安井尚志さんに引率されて出かけた先が、祖師ヶ谷大蔵の円谷プロダクション本社だったというわけである。当時プランナーと守衛を兼務していた竹内博さんのお招きだったわけだ。
このときの会合が竹内博さんの主宰する同人「怪獣倶楽部」に発展する。「PUFF」のメンバーと大きく重なっていてよく混同されるのだが、別の団体である。
竹内さんは毎月第1日曜日に円谷プロにみんなを集め、会合を定常化していった。秘蔵のフィルムを2本ほど上映して情報交換と雑談をすることが中心だった。黎明期には共通認識のもてる「場」が必要で、そこから同人誌「怪獣倶楽部」の編集を通じて、竹内さんの指導があった。不思議なことに、必ずこうした時期には専門がそれぞれ違ったメンバーが集まるもので、お互いに刺激をあたえあう梁山泊的な雰囲気が醸成されていた。
小生も父親の影響で若干「写真ができる」ということで、TV撮りやスクリーン撮りをするノウハウがあり、「怪獣倶楽部に書きなよ」と声をかけられて居場所を見つけることができた。同人誌にしてもガリ版かコピーが中心、映像を記録するのにはフィルムで複写しなければならない時代、それは大変なことだったのである。
竹内さんの不思議なところは、自分が何者なのかをきちんとアピールしなかったことだろう。当時すでにペンネーム酒井敏夫としてS-Fマガジンに「フォーカスオン」というコラムを井口健二さんと持ち回りで書いていたのに、きちんとそう説明してもらえなかった。もっとも当時は自己紹介や挨拶がずさんで、聞き漏らしたらそれで最後だから、単なるこちらの不注意という可能性もある。
ようやくそれが一致したのは、1974年の文化の日、つまり11月3日に開催された「第2回日本SFショー」である。そのSFショーのメインイベントはゴジラの成人式で、つまり20周年ということであった。まだ知り合って間もない時期、壇上に現れた竹内さんが酒井敏夫と名乗ったことで、ようやくそういうことかと腑に落ちた。まったくもって鈍くて申し訳ない。
当時の私はまだ16歳。ずいぶん年上だと思いこんでいた竹内さんも、実はまだ19歳だったはずだ。中学卒業と同時に円谷プロに入社したという経緯も、後から聞いたのである。それですでにあれだけの考え方をもっていたのだから、やはりある種の天才だった。だからこそ、世間の動きに先回りできたのだと思う。
SFショーでは『ゴジラ』のフィルム上映に加え、竹内さんのスライド講演会があった。貴重なメイキング写真が満載の講演会だったが、残念なことに機械的故障で中断してしまった。さらに背広姿で新調したものの、問題は足だった。なんとサンダル履きだったのである。あとから聞いたところ、靴まではお金が回らなかったのだという。そんなあたりが、いかにも竹内さんらしかった。
そして本命は、座談会「ゴジラの頃」である。出席者はプロデューサーの田中友幸、監督の本多猪四郎、福田純、円谷英二の次男・円谷皐、照明の岸田九一郎、宣伝の斉藤忠夫、評論家の石上三登志、それに酒井敏夫(竹内博)という陣容である。生き証人、当事者ばかりが集まった、ほとんど唯一の機会だったのではないだろうか。
司会は小松左京が担当した。たしか第2部が「小松左京ショー」で、その関係もあったはずだ。7月26日、竹内さんの死から約一ヶ月後に小松左京さんまで逝ってしまったが、両者に接点があると考えた方はすくないのではないか。
この座談会の様子は、竹内博さんが村田英樹さんと共同で編集した「ゴジラ1954」(’99、実業之日本社)に再録されている。実はその原本は、筆者がイベントの直後、初めて編集した同人誌であった。正月休みを使ってテープ起こしとガリ切りを行い、手伝ってもらった友人に作業の大変さに怒られたりして、竹内さんにも届けたところ、非常に喜んでもらった。こんなに早い時期に、しかも自発的にということを高く評価され、関係者全員に配ってあげるとまで言われたので、こちらも天に昇るような気分だった。
私はまだアルバイトを1回やったかどうかの時期だから、自分にとって初めて社会に出ている人から褒められた瞬間だったのではないか。そういう意味でも大きな恩を感じている。
なぜそこまで盛り上がってしまったのか、自分も何かしなければならないという気分になったかと言えば、やはり同じSFショーに原因がある。そこでは実はテレビでは見逃していた『宇宙戦艦ヤマト』の第1話が16ミリでフィルム上映されたのである。超鮮明で大画面に展開するそのSF映像は、大きな衝撃を刻みこみ、同じ年内に制作スタジオへ見学に行こうという機運が盛り上がる。それが翌年のファンクラブ結成へと発展していくのだから、本当に自分の原点は、竹内博さんと初めて出会ったころにあるのだと、振り返ってそう思う。
実は円谷プロでの怪獣倶楽部の会合は日曜日だから、夜7時半は『宇宙戦艦ヤマト』の本放送であった。ところが裏番組は他ならぬ円谷プロ制作の『SFドラマ 猿の軍団』だから、そっちをかけていた。『猿の軍団』の原作は小松左京、豊田有恒、田中光二各氏で、夜8時は同じ小松左京原作のドラマ『日本沈没』である。『ヤマト』の監修は豊田有恒氏だし、SFショーのパンフレットの表紙を描いていたのは『ヤマト』のデザインを担当したスタジオぬえだったりするので、なんだか同じような要素がグルグル回っているが、要するにそういう濃密な時代だったわけだ。
通例だと『日本沈没』が終わって会合がお開きになっていたように思う。『ヤマト』の本放送が見られなかったのは4話(10/27)、5話(11/3、SFショーの日)、9話(11/24)、15話(1/12)と克明に記憶している。これが初期の会合の開催日というわけだ。「決戦!!七色星団の攻防戦!!」の22話(3/2)だけは会合を途中で抜けたはずだから、このあたりから第1日曜日と決まり、会誌ができたのではないか。
書き漏らしたこととしては、SFショーのクイズである。「ロジャー・ヤングの艦長は男か女か」という『宇宙の戦士』からの出題に正解した。同席されていた矢野徹氏(『宇宙の戦士』の翻訳者)が「ロジャー・ヤングって何だ?」と問題発言をされたのも記憶に残っている。まだ、スタジオぬえのパワードスーツ版文庫が出る前であり、ということは高校生の自分は銀背で読んでいたわけだ。よく考えれば原作を読まなくても解答できそうな出題だが、商品として用意された中に写真集「円谷英二 日本映画界に残した遺産」(小学館)が残っていたので驚きつつ、映画『ノストラダムスの大予言』B全ポスターとともにいただいて帰った。
これは「円谷一 編」となっているが、実作業としては竹内博さんが大伴昌司さんと共同で編集した写真集である。1973年早々の発行直後に円谷一さん、大伴昌司さんが相次いで亡くなり、円谷一さん宅に寄宿していた竹内博さんは絶望感を覚える。その反動もあって起こしたのが、1974年の一連の行動だったのではないだろうか。竹内さんは『ゴジラ』のフィルムを研究するためにSFショーを途中で抜けているが、情熱と精魂をこめたこの写真集の行方を気にかけていたと聞く。
それが自分の手にわたり、自分自身の続く37年にわたる活動の情熱に火がつく原点となったのは、聖火のバトンリレーのようで奇縁であるように感じる一方で、最初から仕組まれていた運命でもあるように、いまは受け止めている。
その大きな意味を噛みしめつつ、天に召された竹内博さんに改めて深い感謝を捧げたいと思う。
【付記】ここまで書いた後、8月14日のコミックマーケットで、氷川のブースに財団法人大宅壮一文庫の資料課の方が来訪された。なんと竹内博さんが生前、S-Fマガジンのバックナンバー全部など(2008年まで)、個人としては最大数の雑誌寄贈をされていたという。そのお礼のコンタクト先を訪ねてのことだった。脱落している号のみきちんと古書店で見つけて補填された等の逸話は、まさに「バルタン星人三代目」や「巨大ラゴン」の写真を差し込んだのと同じ竹内流の発想。円谷英二や香山滋に関して後進が調査するとき、大宅壮一文庫に行けば何の問題もない状態にされたのだろう。竹内さんは資料を死蔵せず、万人が使えるかたちにすることを生涯貫かれたのだと感激した。この志をどう継いでいくのか、真摯に考えていきたいと思います。
竹内博既刊
『特撮をめぐる人々 日本映画昭和の時代』
『定本円谷英二随筆評論集成』