「京極夏彦「逃げよう」から読み解く恐怖の本質――マンリー・ウェイド・ウェルマン「〈ショノキン〉ども」との比較から」白藍

京極夏彦「逃げよう」から読み解く恐怖の本質――マンリー・ウェイド・ウェルマン「〈ショノキン〉ども」との比較から
 白藍

 怖いものとは、一体何だろう。
 例えば吸血鬼、ゾンビ、悪魔、鬼、妖怪など、文芸作品内に登場する怖いものは、その多くがはっきりとした姿で描かれている。またその容姿は、描く人間の解釈が大きく反映されているため、人間らしいものもいれば、獣やおぞましいクリーチャーなど作品によって様々だ。

 立ち上がった姿はこちらより背が低かったが、横幅は広く、肩から胸、四肢も毛で覆われていた。顔は大きくのっぺりとしていて、毛だらけの蜥蜴を思わせ、ひたと見つめてくる目は底知れぬ光をたたえていた。耳は狼のように尖っていた。(M.W. Wellman, 2021, p.128)

 マンリー・ウェイド・ウェルマン作「〈ショノキン〉ども」に描かれている怪物の描写は、恐ろしい容貌を呈していながらも、どこかコミカルで作品を象徴するキャラクターとして成り立っている。また〈ショノキン〉たちは主人公と言葉によるコミュニケーションをしており、作中でも互いの行動の先を読む戦い方をしていることから、彼らは人間と同等の知識を有しているとわかる。彼らのように、恐怖を感じるほどおぞましい姿をした中にも人間と同じような意思があれば、生い立ちや性格などの人間らしい愛嬌が生まれ、物語に深みを出すことができる。
 対照に京極の描く怖いものたちは、姿も、特徴も、存在自体も幽微で、判然としていない。言葉を話せるモノもいるが、はっきりとしたコミュニケーションは取れておらず、何のためにそこにいるのか、何がしたいのか、といったことは全くわからない。『逃げよう』に登場する〈厭なもの〉は、そうした奇怪なモノを象っている。

 変なものに追い掛けられて逃げた。
 校門の横の泥溝から湧いたんだと思う。翠色だった。わりと大きくて、意外に速い。
 がむ、がむ、がむと意味の分からない言葉か、そういう声で啼く。迚も厭なものだ。
(京極 2013、p.134)

 「翠色」「わりと大きい」「動きが意外と速い」「がむ、がむという鳴き声」と、〈厭なもの〉を指す特徴はどれも抽象的で、おおよそキャラクター性は見られない。おそらく泥溝の中の、苔や水草が浮いた泥水のような、生命を持たない何かのただの塊でしかないといったものだろう。しかしそれは、生きているように蠢いている。この現実離れした違和感は、恐ろしさを孕み、対象を怖いものへと変身させている。
 また〈厭なもの〉に、知性や意思は無い。人を追っていたのだから、もしかしたら多少の意思はあるのかもしれない。だが、殺してやりたいとか、喰いたいとか、自らの行動に明確な目的は持っていない。ただひたすらに、付いて来るだけなのだ。そして、最終的に〈厭なものの〉正体は判然としないまま、物語は終わってしまう。
 もし、追ってきているのが刃物を持った殺人鬼や、鋭い牙を持った猛獣だったとしても、おそらく怖いだろう。その時感じる恐怖の中身は、痛みを経由した死に向けられているものだ。動物社会の中で死への恐怖は当たり前に存在し、その正体を広く知られている。そのため、死を連想させる怖いものを登場させれば、万人に広く同じクオリティーの恐怖を与えることができる。『〈ショノキン〉ども』などで描かれる、恐ろしい怪物たちは、死への恐怖を偶像化した存在だと言えよう。
 だがそうした怪物たちによってもたらされる恐怖は、痛みや死を恐れることで生まれているものであって、追ってきているモノそのものへの恐れではない。実際、追ってきているモノが殺人鬼でも、怪獣でも、恐怖のカテゴリーは変わらない。僕を追いかけてくる〈厭なもの〉への恐怖は、そのようにカテゴライズされたものではなく、追ってきている〈厭なもの〉が恐怖そのものとして存在するように描いているのである。
 『逃げよう』で恐怖を造形している要因として、引き起こすモノの観取が挙げられる。
 感情は、引き起こす原因となるモノがあることは当然のこと、同時にそのモノを観取していなければ、起き得ないのである。モノを観取することで感情を引き起こした実際の事例がある。
 2016年8月4日午前7時半頃、JR仙台駅の東北線上りホーム内で女子高校生が背中を刺された。凶器は千枚通しで、背後から近づいてきた男の犯行だという。この事件の最も驚くべき点は、女子高校生が刺されたことに気が付いていなかったということだ。傷は2ミリ~3ミリと小さかったが、それでも刺されたのだから痛みはあるはずだろう。だが彼女は周囲の人に言われるまで、「男に背中を押された」としか感じていなかった。刺された痛みに気が付いていなかったのだ。[1]

 勘がいい奴だけ見えるとか、鈍い奴には見えないとか、そういうことではなくて、要は気付くかどうかなのである。気付いたって別にどうにも思わない奴だっていただろうし、そんな感じがしただけでべそをかいてしまう奴だっていた。(京極 2013、p.134)

 刺された彼女も、もしかしたら鈍い奴だったのかもしれない。周囲の人に指摘されなければ、そのままいつものように電車に乗って高校まで行っていたことだろう。
 僕はたまたまその存在に気が付いてしまった。もし気が付かなければ、本屋の雑誌を見ながら3人でゲラゲラ笑い、公園で友達と一緒に野球をする、いつもの楽しい帰り道だったはずだ。そこに〈厭なもの〉がいても、気が付かなければ恐怖を感じることはなかった。痛みも恐怖も、引き起こすモノを観取して初めて、その存在を知ることができるのである。痛みと恐怖の関連についてここでは追求しないが、つまり、恐怖は観取の上で成り立っているのだ。
 〈厭なもの〉を観取してから、僕は緊迫感と嫌悪感の入り混じった恐怖に体を委縮させながら下校する。歩く背後にぴったりと付いて来るそれを、見てはいけないような気がして、余計厭になる。この構図は、日本最古の歴史書である『古事記』から存在している。死んで黄泉の国に行ったイザナミがその醜い姿を見られないよう『絶対に私の姿を覗かないで欲しい』と言ったにもかかわらず、イザナギは約束を破って中の奇怪な姿のイザナミを目にする。逃げ出したイザナギを、イザナミが追い掛ける。[2]こうした話の流れは、童話や都市伝説といった伝承に至るまで、多くの物語の常識として扱われている。古典のジンクスを取り入れることで、恐怖に退廃的な意味合いを付属させ、読者との親和性を生んでいると読み取ることができる。
 読み進めていくと急に「小学校六年生の時の想い出」(京極 2013、p.153)と、今までの話が小学校時代の思い出であったことが明かされ、話が一転する。そして、ここから始まる友人山下との会話によって、僕の怖かった想い出は徐々に崩されていく。
 あれだけ嫌いだったばあちゃんも、汚くて臭いばあちゃんの家も、冷静に事実を見返すとその存在は霧が掛かったように朧気だ。また友人曰く、あの時一緒に帰っていた吉田と川村は、6年生の時にはどちらもクラスに居なかったという。では、僕のこの想い出は本当に起きたことだったのだろうか。こうした記憶は、幻だったのだろうか。事実か幻想か、判断のつかない想い出は、非常に不思議で幽かな雰囲気を纏っている。自分の記憶という強い信頼があったものに不信感が芽生え、崩壊していくことによって追われていた時とは別の不安が膨らんでいき、読者すらも巻き込んだ巨大な恐怖へと変換される。
 こうした事実と幻想の行き来は、京極作品においてよく用いられる物語構図である。
 『手首を拾う』の場合は、主人公が七年前に妻と訪れた記憶を、クロスカッティングの手法を用いながら、7年前と現在を行き来しながら辿っている。異なる時空が混合して進んでいく様子は、怪奇を演出している。
 『柿』と『逃げよう』とは、物語構図が酷似している。主人公は小学生の時、虫を追いかけて入った板塀に囲まれた庭で、大きな柿の木と木造の汚い家の窓からこちらを見る、真っ黒で不気味な婆を見た。ひどく恐ろしい想い出だが、母はそんな家は何十年も前に取り壊したから行ったことが無いはずだという。そして、その柿の木に上って落ちたという、覚えのない記憶。自分の記憶の齟齬を外部から指摘され、再度客観的に観取することで、より深く鮮明な恐ろしさを得ることができるのである。
 『逃げよう』の〈厭なもの〉は、現実離れしているようで、その実我々の生活の片隅に多く潜んでいる。電柱の裏、道路の排水溝、車の下、隣家の植木の間、天井の溝、ベッドの下。どこにでも確かに存在している。ただ、我々が見ていないだけなのだ。そうした恐怖そのものを描く京極作品は、今までのホラー作品の根幹を追求した、新たな恐怖を感じさせてくれる。

〇参考文献
・[1]朝日新聞DIGITAL「女子高生、駅で背中刺される 男から任意で聴取 仙台」(2016年)
https://www.asahi.com/articles/ASJ84320ZJ84UNHB006.html

※(編集部注:現在リンク切れのため、こちら(https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG04H39_U6A800C1CC0000/)をご参照ください)」

・[2]編纂1300年を迎えた古事記の神話「イザナキとイザナミ」
https://www.kankou-shimane.com/shinwa/shinwa/1-0/index.html

・マンリー・ウェイド・ウェルマン「〈ショノキン〉ども」渡辺健一郎訳(「ナイトランド・クォータリーvol.24 ノマド×トライブ―多世界における異質の再定義」アトリエサード、2021年、p.123以下)p.128

・京極夏彦「逃げよう」(『幽談』第3版、KADOKAWA、2013年、p.133以下)p.134、153
・京極夏彦「手首を拾う」(前掲書、p.6以下)
・京極夏彦「柿」(『冥談』第2版、KADOKAWA、2013年、p.144以下)

(初出:シミルボン「白藍」ページ2021年8月5日号)

※本稿は、東海大学文芸創作学科で岡和田晃が2021年度上半期に担当したSF・幻想文学論の期末レポートの優秀作。白藍氏は当時の受講生です。