「パラサイト惑星 第一部」スタンリイ・G・ワインボウム(大和田始・訳)

「パラサイト惑星」 スタンリイ・G・ワインボウム (大和田始・訳)

 スタンリイ・G・ワインボウム(Stanley Grauman Weinbaum)は1902年4月に生まれ、1935年12月に死去した。
 SFの処女作「火星のオデッセイ」が1934年7月号のスリリング・ワンダー誌に発表されるやたちまち大評判となり、太陽系惑星を舞台にした短篇が毎月のように雑誌に発表されたが、18ヶ月の活動の後、病気のため没した。当時の科学的知識を基にして惑星の環境を推理し、そこに生存可能な動植物を登場させるという、極めて科学的な小説であった。
 ここに訳したのはハム・ハモンドを主人公にしたシリーズの第1作で、1935年のアスタウンディング誌に発表された。

 「火星のオデッセイ」が1963年6月号の「SFマガジン」に掲載されたとき、編集長であった福島正実氏が熱のこもった導入文を書かれていました。ここに大幅に引用して紹介したいと思います。
 「SFクラシックといわれる作品は、今までにも何度かSFマガジンに掲載してきましたがこのスタンリイ・G・ワインボウムの『火星のオデッセイ』は、クラシック中のクラシックといっても過言ではありますまい。(中略)
 SFクラシックといわれる作品は、たいてい何か、その後のSFにパターンとして残る創案をしていますが、ワインボウムの場合は、彼が、まったく人類とは異なる宇宙生命を創造したというところにあります。ワインボウム以前には、火星人にしろ金星人にしろ、みんな非常に擬人的で、姿かたちもさることながら、その本能や欲望や、心理のはしはしに至るまで、人間的なものが多く、眼が七つ手が八本のモンスターでも、けっきょく人間的規範からのがれることができませんでした。1934年〈ワンダー・ストリーズ〉に載ったこの小説は、はじめて、全く人間とは異なる火星の生物を人類に紹介した、記念的な作品なのです。これ以外の彼の作品も、この点では一貫性を持って、のちのカットナーやラッセル、ファーマー、シマックなどの作品に、つよい影響をのこしています」

                      第1部
 幸いなことに、「ハム」ハモンドが泥の噴出にみまわれたのは真冬のことだった。真冬といっても、それは金星に住むものの感覚で、地球で一般的に想像される冬という季節の概念とはおよそかけ離れていて、想像できるのはおそらくアマゾン盆地やコンゴといった酷暑の地域の住人だけだろう。
 彼らなら最も暑い夏の日を思いおこし、ジャングルの熱気やそこに住むものの不快感や、いたたまれない気分を10倍ないしは12倍することによって、金星の冬というイメージを漠然とでも脳裏にえがけるかもしれない。
 現在よく知られているように、金星においても季節は地球と同じように、片方の半球から反対側の半球へと交互に入れ替わるが、そこには非常に重大な違いがある。地球では、北米とヨーロッパが暑さにうだる夏には、オーストラリアと希望峰[ケープ・コロニー]とアルゼンチンが冬になる。季節が交代するのは北半球と南半球だ。
 しかし金星では、奇妙きわまりないことに、季節が交代するのは東半球と西半球なのだ。というのも、金星の季節は黄道面に対する傾きではなく、秤動[ひょうどう]に依存するからだ。金星は自転しないが、月が地球に同じ面を向けているように、常に同じ面を太陽に向けている。片半球は永遠に昼であり、反対側は永遠に夜であり、人間が居住できるのは幅800キロメートルの帯状の薄暮地帯[トワイライトゾーン]の中だけだ。惑星を一周する細いリング状の領域である。
 太陽の照りつける側に向かうと、一帯は灼熱の砂漠となり、金星の生物でも棲息しているのはごく僅かとなる。そして夜の辺縁に向かうと、圧倒的にそびえる氷の壁のところで、薄暮地帯は突然の終わりをむかえる。灼熱の半球から絶え間なく吹きあがる上昇風が寒い半球からの風に冷やされて沈みこみ、また吹きあがると、水分は凝縮して氷壁が形成されるのだ。
 暖かい空気が冷やされると必ず雨となり、闇の辺縁では凍りついて、あの壮大な壁面を形成する。その先に何があるのか、どれほど驚異的な形態の生物が星のない暗闇の凍りついた地表に棲息しているのか、またその領域は大気のない〈月〉と同様に死の世界なのか――それらすべては謎である。
 しかし、ゆっくりとした秤動、惑星の鈍重でわずかな揺らぎの結果として、季節が生みだされる。薄暮地帯では、初めは東の半球で、次には西の半球で、雲に隠された太陽が15日かけて徐々に昇り、それから同じ期間をかけて沈んでいくように見える。太陽は決してそれ以上高くは昇らず、氷壁の近くにいけば、地平線に触れているように見えることだろう。秤動は角度にして7度しかないが、充分に感知できる15日ごとの季節を生みだしている。
 しかし、その季節ときたら! 冬には、湿度が高いもののなんとか耐えられる摂氏32度にまで気温が下がることもあるが、2週間後には、薄暮地帯の焼けつく方の近縁では涼しい日であっても摂氏60度に達する。そして、冬でも夏でもおかまいなく、断続的に降る雨の雫はしとしと滴り、海綿状の土壌に吸いこまれ、またふたたび、不快で不健康でねばつく蒸気となって循環する。
 金星に最初に降り立った人間が最も驚いたのも、その計り知れない量の湿気だった。もちろん、雲は以前から観察されていたが、分光器は水の存在を否定していたのだ。惑星の地表から上空80キロメートルにうかぶ雲の上部に反射する光を分析していたので、無理もないことだった。
 水は豊富に存在するものの、奇妙なことが起こっている。太陽の当たらない側の半球には、広大で、静まりかえり、永遠に凍った海が存在するのではないかと予想されるかも知れないが、金星には海もなければ、大洋もない。暑い半球では蒸散があまりにも速く、氷の山脈から流れ出た川はたちまち水かさを減じ、最終的には干上がり、消えてしまうのだ。
 また、水の豊富さは、薄暮地帯の土地に安定性を欠いた奇妙な性質を与えている。地底には目に見えない巨大な河が流れており、沸騰している河もあれば、発生地点と同じく氷のように冷たい河もある。それが原因となって泥の噴出が起きるため、人間が〈集熱地帯[ホットランド]〉に住むことは博打そのものだった。申し分なくしっかりとしていて、見たところ安全そうな土壌でも、突然、沸騰する泥の海に変わるかもしれず、建物はそれに飲みこまれて姿を消し、そこに住む人々が巻きこまれることも頻繁に起きるのだ。
 このような災害を予測する方法はない。基岩が露出しているところは滅多にないが、その上に建物をたてれば安全なので、恒久的な人間の居住地はすべて山裾[やますそ]に集中している。
                          
 ハム・ハモンドは交易商人だった。辺境地帯や居住地域の外縁に出没する一匹狼の冒険家の一人だった。そうした連中のほとんどは2種類に分けられる。危険をものともしない、無謀で恐れを知らない連中か、あるいは、孤独のうちに忘れ去られたいと願う追放者やはぐれものや、犯罪者のたぐいだ。
 ハム・ハモンドはそのどちらでもなかった。彼が追い求めるのは、そのような茫漠[ぼうばく]としたものではなく、確実に富をもたらす魅惑的な品物だった。実際に彼が現地人と取引をしているのは、金星の植物クシクトティルの莢[さや]の中にある胞子である。地球の化学者たちはその胞子からトリヒドロキシ ターシャリー トルニトリル β アントラキノン、略してクシクトリン、トリプルTBAを抽出する。これが回春療法に絶大な効果を発揮するのだ。
 ハムはまだ若く、なぜ年老いた金持ちの男性――それに女性――が、若々しさをたかだか数年延ばすために、途方もない金銭を払うのか不思議に思うこともあった。とりわけこの療法は、実際に寿命を延ばすのではなく、ただ一時的に、人工的な若さを作り出すだけなのだから。
 白髪まじりの頭髪の色が深くなり、しわが埋まり、禿頭にはふさふさと毛が生えるものの、その後、数年もたてば、若返った人も、否応なく、本来の寿命をまっとうすることになる。しかし、トリプルTBAの公定価格が同じ重さのラジウムに匹敵する限り、ハムとしては、博奕を打ってでも手に入れないわけにはいかないのだ。
 ハムはこれまで一度も、泥の噴出が起きそうだと感じたことはなかった。しかしもちろん、それはいつでも起こりうる災難ではあったのだ。住居の窓から、地面がうごめき蒸気が噴きだす金星の平原をぼんやりと眺めていた時、突然、あたり一面に沸騰する熱水が噴き出したのだった。それはまさに驚天動地の衝撃だった。
 一瞬、麻痺したように身体が動かなくなったが、すぐにハムは狂ったように素早く行動を起こした。すっぽりと身体を包みこむゴムに似た衣服、トランスキンを着込み、大きなボウルのような泥靴を足に縛りつけ、貴重な胞子莢の袋を肩にかけ、食糧を詰めこむと、外に飛び出したのだ。
 地面はまだなんとか固さをたもっていたが、みるみるうちに小さな建物の金属壁の周りには黒い土が噴き出し、立方体の小屋は少しだけ傾いてゆっくりと沈み、視界から消えた。その場所では、泥がごぼごぼと音をたてた後、静かに口を閉ざした。
 ハムは冷静さを取りもどした。ボウルに似た泥靴を頼りにしたとしても、泥の噴出のさなかにはまっすぐに立つことはできない。粘り気のある土が泥靴の縁を越えて流れこんでしまう不運に見舞われた者は、足をとられて犠牲となるほかない。吸引力に逆らって足を持ち上げることはできず、初めは徐々に、そのうちにもっと早く、住居の二の舞いになる。
 そこでハムは歩きはじめた。練習を重ねて身につけた独特の足さばきで、決して表面から泥靴を離さず、湾曲した靴の縁に泥が乗らないように慎重に足を滑らせながら、沸騰する泥沼を越えた。
 骨の折れる動きだったが、絶対に必要なことだった。ハムはまるで橇[そり]靴を履いているかのように足を滑らせ、西に向かった。それは暗黒世界[ダークサイド]の方角であり、安全のためには涼しい場所を歩く方がよいからだった。蒸気を発散する沼地は途方もなく広がっていて、2キロメートル近く進んだところで、ようやく、わずかに隆起した地面に足がかりを得て、固い、あるいは固いと言えなくもない土を泥靴で踏みしめた。
 びっしょり汗にまみれ、トランスキンのスーツの中はボイラー室のように暑かった。ただ金星では誰しも暑さには慣れていくものだ。スーツのマスクを開いて、蒸し暑い金星の空気でもかまわず、一息でも吸いこむことが出来る選択肢があるのならば、ハムは手持ちのクシクティルの莢[さや]を半分は差し出しただろうが、それは出来ない相談だった。少なくとも、少しでも生きのびようとする気持ちがあれば。
 薄暮地帯の暖かい方の辺縁に近いところでは、どこであっても、フィルターを通過していない空気を一息でも吸いこめば、瞬時に苦痛にみちた死を迎えることになる。ハムは獰猛な金星の黴[かび]の胞子を何百万となく吸いこみ、胞子はたちまちふくれあがって、吐き気をもよおす塊となり、鼻の穴、口、肺、そして最終的には耳や目からも噴きだすだろう。
 胞子を吸いこまなければ良いというものでもない。ある時ハムは、身体の中から黴が噴きだしている商人の死体に行きあたったことがあった。何があったのか、哀れな男のトランスキンのスーツには切れ目が入っていたが、お陀仏になるには充分なのだった。
 こうした状況であるため、金星における屋外での飲食は問題をはらむ。雨が降って空気中の胞子が一掃され、安全になるまでには、30分かそこらは待たねばならない。その場合でも、水は沸騰させたばかりでなければならず、食べ物は缶を開けた直後でなければならない。さもないと、ハムも何度か体験したように、食べ物は時計の分針が動くように猛烈な速さで膨れ上がり、ふかふかとした黴の塊になってしまう。むかつく光景だ! むかつく惑星だ!
                        
 こんな考えがハムの心に浮かんだのは、自分の住居が泥沼に飲みこまれるのを目の当たりにした時だった。大型の植物は泥に巻きこまれて姿を消したが、生命力が強く貪欲な生き物がすぐに姿を現した。蠢[うごめ]く泥草や、「歩くボール」と呼ばれる球根状の菌類だ。あたりの泥の上には一面に小さなスライム状の生物が100万匹も這い回り、出会い頭に相手を食べ、ずたずたに引き裂かれると、その断片の一つひとつがまた膨れあがって、完全な生き物になった。
 種としては千種もあるだろうが、ある見方からするとすべて同じで、みな食欲旺盛である。ほとんどの金星の生物と同様に、複数の足や口を持っている。中には、皮膚が何十もの飢えた口に分かれた肉塊と呼んでもよいようなものもあり、蜘蛛のような百本の足で這いまわるのだった。
 金星の生命はすべて、多かれ少なかれ寄生的である。土や空気から直接栄養を摂取する植物でさえも、動物を食糧として――たびたび罠にかけて――取りこみ消化する能力を持っている。炎と氷にはさまれた細長い湿潤な土地での苛烈な生存競争は、目にしたことのない人には想像すらできないほどのものである。
 動物たちは動物同士で、また植物相手に絶え間ない闘争を繰り広げている。植物たちはその報復として、しばしば植物と呼ぶのをためらうほど奇っ怪で恐るべき食肉植物を生みだし、動物たちを出しぬこうとしている。恐ろしい世界だ!
 立ち止って振り返ったわずかな時間に、たちまち、細い綱のようなクリーパーが彼の足に絡みついた。もちろんトランスキンが傷つけられることはないが、ナイフを使って切り離さねばならなかった。すると吐き気を催すような黒い汁が噴き出してスーツを汚し、そこからたちまち黴が生えて、瞬時に毛羽立ちはじめた。ハムは身震いした。
 「ここは地獄だ!」ハムは唸るような声をあげ、身をかがめて泥靴を脱ぐと、用心深く背中にかけた。
 よじれた植物をはねのけて突き進み、あわよくば腕や頭を捕らえようと投げ縄を放ってくるジャック・ケッチの木の厄介な襲撃を、反射的にかわした。
 幾度となく、罠にかかった生き物がぶら下がっている木の下を通り過ぎたが、ふわふわした黴の覆いに包まれているので、獲物が何であるのかは認識できなかった。樹は音をたてることもなく獲物と黴を一緒に消化していた。
 「恐ろしい場所だ」ハムはつぶやいて、行く手にうごめく名もなき小さな害虫の塊を蹴り飛ばした。
 ハムは思いをめぐらせた。彼の住居は、どちらかと言えば薄暮地帯の暑い方の辺縁に近いところに建っていた。もちろん秤動によっても変わってくるが、暗黒世界の境界線からは400キロメートルをわずかに超えている。しかしどうあがいても、境界線のすぐ近くに行くことはできない。なぜなら、熱い上昇風が夜の半球の氷のように冷たい風にぶつかると、とうてい想像もつかないほど猛烈な嵐が吹き荒れ、轟音をとどろかせながら氷の障壁が形成されてしまうからである。
 そんなわけで、涼しさを求めるには真西に250キロメートルも行けば充分で、黴にとっては寒すぎる地域に入ると、彼も比較的快適に歩くことができた。そこから北に80キロメートルも行かないところには、アメリカの入植地〈エロティア〉がある。この名は明らかに、神話に登場するヴィーナスの息子、いたずら好きのキューピッドにちなむものだった。
 間に立ちはだかるのは、言わずと知れた〈永遠の山脈〉の峰々である。地球上の望遠鏡でも時折その頂上を垣間見ることができるような高さ3万メートルを超える高峰ではなく、英国植民地とアメリカ保有地との間を永遠に隔てるものでもないが、彼が横断しようとしている地点でさえ、実際には標高の高い見事な山々であった。彼が今いるのは英国側だが、誰もどちら側かなど意に介しない。商人たちは自由に行き来している。
 しかしながらこれは320キロメートルにもおよぶ旅である。踏破できないわけではない。武器は自動拳銃と火炎拳銃の二つがあり、水は慎重に沸騰させれば問題ない。必要に迫られれば、金星の生物を食べることもできる――だがそれを受けつけるためには空腹と、徹底した加熱調理と、丈夫な胃が揃っていなければならないだろう。
 味はともかく、外見には気を配れ、と言い聞かされてきた。彼は顔をしかめた。缶詰の食料はおそらく旅を終えるころには底をつき、食糧を自分で調達せざるを得ないことは明らかだった。何も心配することはない、とハムは何度も自分に言い聞かせた。実のところ、自然に頬がゆるむほどの大収穫なのである。荷物の中に入っているクシクティルの莢は、地球に戻れば10年の重労働を積み重ねなければ手にすることのできないほどの値打ちがあるのだ。
 危険はない――それなのに、何十人もの人間が金星で姿を消している。黴にやられたのか、あるいはこの世のものとは思えない恐ろしい怪獣にやられたのか、それとも、植物なのか動物なのかは分らないが、未知の怪物にやられたのか。
 ハムはジャック・ケッチの木が作った広い道をはずれないように進んだ。この雑食性の植物は、貪欲な縄の届く範囲にいる他の生命を跡形もなく貪り尽くしてくれているからだ。その他のところでは先に進むことは難しい。金星のジャングルは、複雑によじれた形態の植物が凄まじく絡み合っていて、移動するには一歩一歩、途方もない労力をかけて切り開いていくしかないのだ。
 それでも、人知の及ばない危難と言うものもある。毒牙をもつ生物が現れて、その牙がトランスキンの保護膜を突き破るかもしれないのだ。服の亀裂は死を意味するだろう。それに較べれば、歓迎しがたいジャック・ケッチの木でさえも、望ましい同僚と言っていい。そう思いなおしながら、ハムは獲物を追いつめる投げ縄を叩きのけた。
 不本意な旅を始めてから6時間がたつと、雨が降りだした。彼はこの機会をとらえて、泥の噴出が起きたばかりで重量級の草木が一掃されている場所を見つけ、食事の支度にかかった。しかしその前に、汚れた水をすくい上げると、そのために水筒に取りつけられている濾過器に通して、滅菌をはじめた。
 火をおこすことはむずかしい。というのも金星の〈集熱地帯〉では乾いた燃料は実に珍しいからだ。しかしハムが液体の中に熱化剤の錠剤を放りこむと、化学物質が瞬時に水を沸騰させ、熱化剤はガスとなって蒸発した。水にはわずかにアンモニアの味が残るけれども――不快に感じるほどではないぞと思いながら、ハムは蓋をして、冷えるのを待った。
 豆の缶の蓋を開けると、しばらく眺めて、食物にまとわりつくはぐれ黴が空中に残っていないことを確認してから、スーツの面頬[バイザー]を開けて急いで飲みこんだ。そのあと、人肌にまで冷えた水を飲み、残りを慎重にトランスキンの内側の水袋に注いだ。黴にさらされておらず、死を招くことのない水をチューブを通して口に運び、吸いこめるようにしたのだ。
 食事を終えて10分後、休息をとり、煙草をふかすという我慢しきれない贅沢に想いをはせていた時、缶に残った食べ物の表面は、突然、もこもこした被覆[ひふく]におおわれた。

      第一部 終