「柘榴石の少女」宮野由梨香

連作:ミネラル・イメージ

柘榴石の少女
                             宮野由梨香
 
 面談室の机の隅に、紅い弁当包みが置かれていた。
「忘れ物か。このごろ多いな。全くだらしがない」
 ボクの正面の椅子に腰かけながら、アイツは言う。
「さて、手短かに済ませよう。ここに呼ばれた理由はわかっているな?」
 もちろんわかっていたが、ボクは返事をしなかった。
 しばらくの沈黙の後、アイツが口火を切る。
「担任のやり方に不満があるなら、まず本人の俺に言えばいい。どうしてスクール・カウンセラーのところに行ったりするんだ?」
「……カウンセラーの先生が何かおっしゃったんですか?」
「ああ。テストの採点ミス直しに不正が横行しているとか、定期テストや模擬テストの内容が漏洩しているとか。それを指示しているのが担任で、そんなクラスにいるのが耐えられないだとか。……本当にそんなことを言ったのか?」
「はい」
 今さら否定しても始まらない。カウンセラーに相談したのは一昨日のことだ。少しは調べてみてくれるかと期待したボクが甘かった。相談内容をそのまま担任に伝えたと見える。それで自分は責任を果たしたということにしたかったんだろう。
「カウンセラーもあきれていたぞ。ちょっと被害妄想が酷すぎるんじゃないか?」
「妄想……ですか?」
「事実を歪曲してとらえて、被害を捏造しているんだ。俺はそんな指示なんか一切していない」
 そんなことはないと言いたかったが、言葉が出なかった。
「いったい俺がどんな指示を出したと言うんだ?」
「……『主体性を持て』とか…」
「ああ、それは確かに言ったな。『主体性を持って、自分の人生を切り開け』というのはいつも言っている。それから?」
 無駄と知りつつ、ボクは言う。
「大学入試で一般受験をする者は、推薦入試を目指す者に、評定(ひょうてい)を譲れだとか」
「それは語弊のある言い方だな。『一般入試で受けるなら、高校の成績なんか関係ない』とは言った。もう少し踏み込んで『一般入試をする者が受験に関係ない科目の授業に時間と労力を投入して、第一志望の大学に現役合格できないなんてバカバカしい』とも言ったことがあるな。個人的な感想だよ。これのどこが問題なんだ?」
 発言が問題なのではない。クラスで、受験に関係ない教科での内職が組織化されているのを、担任が知らないわけがないのだ。
 推薦志望者がしっかりとノートをとって、それを試験前に配布する。その印刷は担任が引き受けているはずだ。これで、授業を聞いていなくても点数は充分にとれるから、単位を落とすことはない。その代わり、推薦志望者は答案を書きかえて、先生に採点ミスを主張することが、クラス内で黙認されている。
 そもそも、この答案の書きかえも、この担任が指示したことだ。
 だんだんと頭に血がのぼってくるのを感じる。マズイなあと思いながらも、止めることができない。
「一学期中間テストの答案返却の時、模範解答を配って解説して、その後、何度も『採点ミスはないか?』とお尋ねになりましたよね? 最初は誰もいませんでした。でも、何度も『本当にいないのか? ここで直さないと点数が確定してしまうぞ。よく見直して、主体性をもって判断して持って来い』とおっしゃったら、何人かが出てきて、結局、十人くらいが点数を直してもらいました」
「……それが、何なんだ?」
「この『主体性をもって』って何ですか? 暗に不正を促しているんじゃないですか?」
「それは曲解だ。自分の答案を自分の責任でよく見直せというのが、どうしてそういうことになるんだよ?」
「一学期期末テストの時には、もうクラスの半分くらいが点数を直してもらいましたよね。これって異常ではないですか?」
「ああ、申し訳ないなあ。採点ミスが多くて。しかし、ミスは誰にでもあるだろう。そこは寛容であってもいいんじゃないか?」
 アイツは両手を頭の後ろに回してため息をつく。「やれやれ」のポーズである。
「定期テストは学年共通問題です。先生の教えているクラスは、他の先生が教えているクラスよりも平均点が高いです。模試もそうです。どちらも直前の授業時間にほぼ同じ問題が配られて、解説の後、回収されるんですから、当たり前だと思います」
「何が言いたいんだ? 定期テストの前に、その期間に身につけるべき重要事項のポイントを解説して、知識の定着を促すのは、君たちのためじゃないか」
「模試では、先生が解説したのと、そっくり同じ問題が出ましたね。回収されてしまったから、証拠は手元にないんですけれども」
「出そうな問題で練習させるのは、君たちが大学入試で困らないようにするためじゃないか。過去問を研究するのは、あたり前のことだ。T大学の英文和訳は毎年仮定法だし、J大学の長文には大統領演説がよく採用される。受験するなら、そこをきちんと押さえて勉強しなくてどうするんだ? 寝る間も惜しんで過去問を研究して、その成果を君たちに還元しているのに、その結果がカウンセラーへの駆け込みか?」
「それなら、なぜ回収するんですか?」
「君自身がその答えじゃないか。偶然、同じような問題が出題されたら『漏洩だ!』とか言って騒ぐんだろう? そんな馬鹿げたことに巻き込まれたくはないからね。ああ、馬鹿げている! 馬鹿げている!!」
 拳でドン!と机をたたく。 かなり大きな音がする。
「君の悪意はよくわかったよ。あまりにも子供っぽい。そういう自分の感情で難癖をつけて、真面目に仕事をしている忙しい人間をさらに忙しくさせることはやめてくれ。カウンセラーも担任もヒマじゃないんだ」
「悪意、ですか?」
「そうだよ。『不正をこのまま放置するのがストレスだ』とか言ったんだって? 正義の味方のつもりなんだろうが、それは公憤の皮をかぶった私怨(しえん)だよ。君は成績が悪い。それを誰かのせいにしたい。それだけだ」
 ボクは口をつぐんだ。ボクは確かに成績が振るわない。それは事実だった。
「最初に戻るが、担任に不満があるなら、直接言えばいい。スクール・カウンセラーのところに行って『この世に絶望しそうです』なんて言うのは、どうかと思うね」
「それなら、ここで直接言います。本当に絶望しつつあるんです。このままだと自殺しそうです」
 アイツは薄笑いを浮かべた。
「甘えているな。そう言えば成績の悪いのを何とかしてもらえるとでも思っているんだろう。もう十六歳なんだから、自分のことは自分で決めるんだな。……そうだ。くれぐれも頼むよ。変な責任転嫁だけはやめてくれ」
 ほとんど自殺教唆じゃないか、とボクは思った。そして、遺書に「事情」は書くな、と?
「君が、今、何を思ったか当てようか? 『担任に自殺を促された』と遺書を書いて決行しよう。そんなところかな? それで、どうなる? 少し騒ぎになって、それで終わりだ。君が命を捨てたって、俺は変わらないよ」
 まあ、もちろんそうだろうな。ボクもそんな期待はしていない。ただ、これ以上、ここに留まるのは嫌なんだ。ここ、つまり、こんな奴らがはびこるこの世界に。
「俺のことを『教育者の風上にも置けない奴だ』と思っているんだろうが、真に教育的な教師とは俺のことだよ。君たちのことを思えばこそ、現代社会での生き抜き方のノウハウを伝授しているんだ。馬鹿正直な教師より、将来、はるかに役に立つことを教えているつもりだ。……生き抜いてみれば、君にもわかるよ。前向きに生きていってくれ、な?」
 しゃべりながら、アイツは立ち上がった。最後の「な?」と同時に面談室のドアを開け、ボクに退室を促した。 
 うなだれて面談室を出ようとするボクと入れ違いに、クラスメートの佐島が入って来た。
「あ、あった! それ、私のです!!」
 机の上の弁当包みを抱きしめる。
「捜したんですよ~っ。よかった」
 そのまま面談室を出ようとする佐島を、アイツが呼び止める。
「生徒の面談室の無断使用は禁止されているはずだが」
「はい? ああ、先生は私がここを無断使用して置き忘れたと思っていらっしゃるんですね。違います。私、クラスでいじめにあっていて、しょっちゅう、物を隠されているんです。今日も机の中に入れておいたはずの弁当箱が無くなっていて、捜していたらクスクス笑われて『面談室よ』って言われたんです。そう言ったのは……」
「ちょっと待った」
 佐島の言葉を、アイツはさえぎった。
「他の者もいるところで、そんな話はマズイだろう」
「私はかまいません」
「聞かされる方の迷惑とか、君が名前をあげようとしている生徒のプライバシーも考慮しなさい」
 威圧的な口調で決めつける。
 「他の者」「聞かされる方」とはボクのことなのだろうか?
彼はさっき、ボクに対する面談室への呼び出しをクラスの皆の前で大声で行ったのだ。ボクにはプライバシーが無いらしい。
「……まあ、佐島」
 急に猫撫で声になって、アイツは言う。
「今は興奮しているだろう? よく考えたら、『友達どうしの軽い悪戯でした』ということになるかもしれないぞ?」
「でも……」
「場所を教えてもらって無事に発見できたんだ。いいじゃないか。そんなに怒っておおげさにするのは大人げないな」
「……」
「ゆっくり話を聞きたいところだが、残念なことに、これから会議があるんだ。中途半端になるのは失礼だから、この場での話は無かったことにしよう」
 佐島はゆがんだ顔を弁当箱で隠すようにしながら、小走りに去っていった。ボクは面談室前の廊下に立ったまま、その後ろ姿を見送った。
 カウンセラーにも担任にも言わなかったことがある。ボクが点数直しの列に並ばないのは、正義感とか公憤とか、そんなものがあるからじゃない。原因は彼女なんだ。クラスに佐島なつきがいるから、ボクは点数直しに参加できなかった。
 ボクが担任の言うところの「主体性」を発揮しようとすると、何故かボクは彼女を意識してしまう。彼女に見られるかもしれないと思うと、席を立つことができなかったんだ。
 
           〇
 
 翌日は、よく晴れていた。
 いつものように家を出て、いつものように電車に乗ったのに、いつもの駅で降りることができなかった。同じ制服を着た集団が電車を降りていく。誰もボクのことを気に留める様子はなかった。
 よく晴れていた。青い空に白い雲が浮かんでいる。秋空のテンプレを貼りつけた書き割りのようだ。
 アニメーションのように動いていく景色を見ながら、ぼんやりと考えた。
 佐島なつき……彼女がクラスでいじめにあっているなんて、思いもしなかった。彼女も点数直しの列に加わらないが、それは必要ないからだ。クラス平均点を下げているボクと違って、彼女は上げている側の人間だ。でも、そんな彼女でも、物を隠されるというような陰湿ないじめにあっていたんだ。
 改めて絶望する。ボクは何も気づかず、何も出来なかった。
 トンネルを越えると、急に視界が開けた。幾重にも重なる山なみ、青空の下に広がる大きな景色が不自然なくらいにバランスのとれた構図になっている。
 ああ、帰りたいなとボクは思った。
 家に帰りたいのではない。こんな風景の中に溶け込んで、居なくなってしまいたい。
 その時、ふと気がついた。線路に並行した道路を一台のバイクが電車と同じ方向に走っている。赤いつなぎに赤いヘルメット、背負っているリュックまでもが赤い。それが、背景の緑の山々から浮き上がるように見えている。
 「万緑(ばんりょく)叢中(そうちゅう)紅一点だなぁ。いい絵だ」とぼんやりと見ているうちに、線路は道からしだいに離れ、電車はトンネルに入った。
 トンネルを出て、いくつかの駅に停まり、終点に着いた。電車を降りて、ホームのベンチに腰掛けて、しばらくぼんやりしていた。
 何かが変に心に引っかかっている。
 ああ、わかった。「紅一点」だ。かつてこの言葉を憎んだことを思い出したんだ。
「いつも、紅一点だね」と、幼い頃からよく言われた。お人形遊びよりもチャンバラごっこの方がはるかに面白かった。木登りも、塀の上を歩くのも大好きだった。
 結果としての「紅一点」が、「男好き」と解釈されているとは気がつかなかった。
 気がついた時には、遅かった。
 そうだ。あの時にケリをつけてしまえばよかったんだな。
 
 その時、ホームにアナウンスが流れた。駅に電車が数分後に到着することを知らせるアナウンス……。
 今度こそ終わらせてしまおう。簡単なことだ。
 ボクはふらふらと立ち上がった。電車の近づく音がだんだん大きくなってくる。
  
 いきなり目の前に赤いものが現れた。赤い服に赤いヘルメットの人物だ。電車は、その人物の後ろに入線した。
「いいお天気よね」
 涼やかな声が響き、ヘルメットの下から白い歯の笑顔が現れた。
 佐島なつき?! ボクはあっけにとられた。
「秋晴れって感じね。どこへ行くの?」
 なつきは無邪気な笑顔で問うてくる。
 答えないまま、ボクは電車に乗り込んだ。どこに行く電車なのかも知らない。ただ、その場から逃れたかっただけだ。
 なつきも、ボクの後ろから乗ってきた。
 電車が動き出す。
 ひとり言のように、なつきが言った。
「この駅で死んだのよ。私のイトコ‥‥とても真面目で優しい人だった」
「え?」
「座りましょう。ゆっくり話すわ」
 ボクたちはボックス席の窓際に向かい合って座った。
 車両内はとても空いている。近くの席には誰もいない。
「高校生だったイトコが死んだ時、私は小学生だったの。夏休みに親せきの家に遊びに行って、そのイトコの顔を見たとき、何やら独特の感じがしたの。……夏休み明けに、そのイトコは電車に飛び込んでしまったわ」
 初めて聞く話だ。
「……それは、報道されなかったのかな?」
「世間の好奇の目にさらされるだけだからって、学校に説得されて、公にしなかったの。その代わり、叔父と叔母は、クラスメートにアンケート調査をすることを学校に要求したの。いじめが原因の自殺ではないかと疑ったのね。……でも、そのアンケートの報告書はほとんどが黒塗りだった。叔父も叔母も怒ったわ。『ただ、真実が知りたいだけなのに』って」
「どうして黒塗りに?」
「『生徒のプライバシーを侵害するから』と説明されたそうよ。……その時は、まさか自分がイトコと同じ高校に行って同じ担任に当たるとは思わなかったわ」
 なつきは、リュックから弁当包みを取り出した。昨日、面談室にあったものだ。
「これは、こういうものだったのよ」
 弁当箱を開けると、中にはボイスレコーダーが入っていた。
「事後承諾でゴメンね。昨日、あなたが面談に呼び出された直後に、これを面談室に仕込んだの」
「え?」
「いじめにあっていると言ったのは、深く追求されずに回収したかったから。担任があまりにも予想通りの反応をするから、もう可笑しくってたまらなかったわ」
 なんてこった! 
 憮然とするボクに、佐島なつきは真剣な顔で向き直る。
「申し訳ないけれども、面談の内容を聞かせてもらった。あなたの了解が得られれば、イトコの死について調べてもらっている弁護士に渡したいの」
 だんだんと事情が呑み込めてきた。それとともに、怒りが湧き上がってきた。
「嫌だね」
 ボクは言った。
「知らないうちに仕掛けられた機械で情報を集められるのは、不愉快なんだ」
「そ、そう? そうよね。……ごめんなさい」
「データ消去してくれ。この場で」
 なつきは黙ってボイスレコーダ―を取り出し、操作した。
「これ、昨日の日付で、面談の時刻になっているわね。これを選択して…」
 削除ボタンを、なつきは押した。
「消したわ。いわゆるゴミ箱機能は付いていないし、バックアップもとってないから、安心して」
 ボクは、ほっと溜息をついた。
「本当にごめんね。変なことしちゃって」
 心から申し訳なさそうに、なつきは言った。
 しばらく二人とも黙って座っていた。
「ところで、どこまで行くの?」
「決まっていない」
「……あ、あのね、私はせっかくここまで来たから、大好きな場所に行こうと思うの。きれいな泉がたくさんある所なのよ。……一緒に行かない?」
「え?」
「着替えも持ってきたの。私のものでよかったら使って」
「はぁ?」
「制服のままだと目立つと思って。私たち、ほぼ同じサイズでしょ? このジーンズとTシャツなんか似合うんじゃないかと……うん、大丈夫」
 クリーム色のTシャツをボクに押し当てながら、なつきは満足げに微笑んだ。

            〇
 
 降りた駅のトイレで着替えた。
 ボクの制服と、なつきのヘルメットとつなぎの服をコインロッカーに収納する。
 なつきの道案内で、泉に向かって歩き始めた時、なつきが赤い石のペンダントをしているのに気がついた。
「きれいな石だね」
「ありがとう。これね、柘榴石よ。イトコの形見なの」
「柘榴石か」
 ちょっとドキッとした。柘榴の花こそ「紅一点」という言葉のもとだった。「万緑叢中紅一点」とは、周囲の緑の中に溶けてしまわない「紅一点」の鮮やかな美しさを讃えたものだ。
「なつきって、もしかしたら、七月生まれ?」
「そうよ。どうしてわかったの?」
「何となく、そうかなって」
 七月は、柘榴の花の咲く時期だ。

 なつきの道案内で泉を巡った。地下水があちこちから吹きあがっている場所だそうだ。
 泉が空を映している。泳ぐ魚は、空の中を泳いでいるように見える。
「思うに……世界は、もう壊れているんじゃないのかな?」
「うん」
「アイツは自分のことを、『現代社会での生き抜き方を伝授している』って言っていたけど、そんな壊れた世界で生き抜く理由なんて、何も無いよね?」
 こともなげに、なつきは応じた。
「もちろん無いわよ。でも、だからこそ、そんな世界に染まってあげる理由も無いわ」
「……そうだね」
 周囲の全部が緑色でも、柘榴の花は紅色のままだ。

 深い泉、浅い泉、大きな泉、小さな泉、いろいろあって、それぞれの色をしていた。
 ひときわ深い泉からあふれ出した水は澄んだ流れとなって、サラサラと音を立てていた。
「……流れが、見えるのよ」
と、なつきは言った。
「生きている人からは、命のエネルギーが泉のように湧き出しているの。私にはそれが見えるの。見えなくなった時、その人は危ないの」
 ボクは不得要領な顔をしたのだろう。
「イトコに最後に会った時に感じたのは、つまり、そういうことだったって後でわかったの。その時にわかっていれば、何か出来たかもしれない。何が出来たんだろうってずっと考えていたの。……もう誰も見殺しにしたくないの」
「……そうか」
 それ以上、言えることは何も無かった。
 二人とも黙って、しばらく泉に見入っていた。
 ボクは話し始めた。
「中学生の時に学校のトイレで盗撮されて、ネットに流された。クラスの女子の半数くらいが共謀してやったんだ。だから、さっきは盗聴器を仕掛けられたことに、つい過剰反応してしまった。おかしいよね?」
「おかしくなんかないわ。改めてごめんね。そんなこととは知らなかったの」
「その時に学んだんだ。被害を訴えること自体が、新たな被害を生むってね。あったことを口裏合わせて『無かったこと』にされ続けると、自分の記憶に自信が持てなくなって来る。……だから、記録することにしたんだ」
 ボクは携帯電話を取り出して操作した。
 アイツの声が流れ出す。
「忘れ物か。このごろ多いな。全くだらしがない」
 あっけにとられた顔をしているなつきに、ボクは尋ねた。
「さて、発信器はどこに仕込んだのかな? カバンの中か?」
「え?」
「発信器でもなければ、居場所を特定することは不可能だろう? あるいは監視でもつけて連絡させた?」
 なつきは唇をかんだ。
「とんでもないわ。今朝、起きたら、手が勝手に着替えをリュックに放り込んだの。気が付いたら、バイクを走らせていたわ。途中でやっとわかったの。あなたがあの駅に向かっていること。イトコと同じ道をたどろうとしていること。……考えたら、偶然とは思えないわよね。イトコと同じ担任に当たるなんて」
 イトコの怨念によって導かれたとでも? ……バカバカしい。信じるもんか。
 そう思ったことが顔に出たのだろう。
「もうっ、二学期になってから、ずっとあなたのことを心配して、何とか出来ないかって考えていたのに! 駅に戻ったら、カバンも服も全部ひっくり返してみるといいわ。発信器なんてどこにもないから!」
「着替えている間に回収したのかもしれない」
「そこまで疑うの?」
「うん。筋金入りの人間不信なんだ」
「その筋金、曲がっているわね。鍛えなおしてやる!」
 なつきは拳を振り上げた。
「うわっ、カンベン!」
 本当に発信器なんて無いままに、なつきはボクに追いついたのか? 思えば、ボクが「主体性」を発揮できなかったのは、なつきの存在を意識したからだ。ボクも、なつきのイトコの怨念に操られていたのか?
 わからない。
 わかるのは、なつきなら、アイツと勝負することが出来るかもしれないということだ。
「こら~! 一発、殴らせなさい~!!」
 走り出したボクを、なつきが追いかけてくる。
 ボクは思い当たった。アイツの周辺で「このごろ増えている忘れ物」の中には、ボイスレコーダー入りのが混じっている可能性があることに。そうやってアイツを追い詰めるための証拠を集めている? そうでなければ、いきなり呼び出されたボクの面談に対応できるわけがない。
 そうかもしれない。そうではないのかもしれない。
「わかったよ~。カウンセラーとの面談も録ってあるよ~。使っていいよ~」
 逃げながら、心の底からボクは笑った。