A Catroid Story Side B ミィにおかえり」伊野隆之

 母の猫が死んだ。交通事故だった。高齢になって、滅多に庭から出ることもなく、それで安心していたのだろう。いつの間にかお気に入りの庭石の上から姿を消したミィは、生け垣の下の僅かな隙間を抜け、さらに二メートルほどの高さがあるコンクリートの塀を降りて、そこで事故に遭った。しばらく姿を見ないことを不審がった母が、通いのヘルパーの望月さんに探させたのは、そろそろ日が傾こうという頃で、下校途中の小学生が、路肩で横たわるミィを心配そうに見ていたのだという。
 目立った傷こそ無かったが、ミィは呼吸をしておらず、口元からは血が流れていた。慌てて抱き上げた望月さんの腕の中で、ミィは既に事切れていた。
 母を見て貰っている望月さんからメッセージが入ったのは、夕方の五時前。予定に入れていた顧客との交流会は常務の韮崎に任せることにして、わたしは冒頭の挨拶だけで抜け出した。横浜の家までは、車で三十分とかからない。それでも到着は七時を過ぎていた。
「すいません、こんな時間まで」
 六時までの契約にもかかわらず、玄関先には望月さんがいた。
「大丈夫です。それより奥様を……」
 望月さんと一緒にリビングに向かうと、ソファに置かれたお気に入りのクッションの上に、ミィが寝かされていた。すぐ横には庭で咲いていた花だろう、白い花が飾られていて、ミィが既に死んでいるのだと判る。そのソファの前で、床に座り込んだ母が、無言でミィの背を撫でている。
「眠っているみたいだね」
 背中越しに声をかけた私に、母は答えなかった。私は母の横に並んで床に座り、ミィに手を伸ばす。柔らかな被毛の感触は、以前と変わらない。
「ちょっと目を離しただけなのよ。いつもは庭から出る事なんて無いのに……」
 そんな母の言葉に、どう答えれば良いか判らない。
「夕食の準備はできているから、望月さんには帰ってもらうけど、いいかな?」
 改めてそう問いかける。ダイニングには、母一人分の夕食が用意されている。
「あ、温め直しますね」
 望月さんの言葉に、母は小さく頷いた。たった一人の食卓。でも今まではミィがいた。母が頻繁に刺身を頼んでいたのは、ミィのためだったと、私は望月さんから聞いていた。
「すいません。遅くなってしまって」
 その翌朝、午前の打ち合わせをキャンセルした私は、縁側からよく見える庭の片隅にミィの亡骸を埋めた。一晩経って冷たくなったミィの亡骸は、全身がこわばっていた。

 母の様子がおかしいと最初に気付いたのは望月さんで、一日中、ぼんやりしていることが多くなったのだという。気がつけば、何も無いのに涙を流していたり、独り言を言ったりするらしい。それだけならまだしも、ミィがいなくなったので探してきて欲しいと言うらしい。望月さんが適当に調子を合わせてくれているので良いのだが、どうして探してくれないのかと怒り出すこともあるようだ。
「ペットロスはうつ病に繋がるし、うつ病は認知症の原因にもなるのよ、パパ。新しい猫を飼えれば良いんだけど……」
 自宅のパソコンのディスプレイには、留学先のボストンに居着いてしまった娘の梨花の顔が写っていた。
「そういうものか……。でも、望月さんは嫌がるだろうな」
 実際、ミィがいたときも、世話をしていたのは望月さんだった。ずっと手作りの餌にこだわっていた母の指示で、母の食事だけでなく、ミィの餌も作っていた。トイレの世話だけで無く、爪切りや毛繕い、それに毎日の掃除が大変だとこぼしていたのを思い出す。
「お孫さんがアレルギーなんだっけ?」
 望月さんには二人の孫がいる。その孫たちが、猫アレルギーだと聞いたのは、ミィが死んだ後だった。
「うちに帰ると、すぐにシャワーを浴びて、新しい服に着替えていたらしい。それでもなかなか遊びに来てくれなかったそうだ。それに新しい猫を貰っても、今度は猫の方が長生きするんじゃ無いか?」
 飼い猫の寿命は伸びていて、今では二十年以上生きるのも珍しくないらしい。
「そしたらパパが引き取れば良いのよ。いつまでも会社べったりじゃまずいから」
 そう言って笑った梨花の言葉が、私の胸に刺さった。私が会社と結婚しているみたいだと言った妻の言葉を思い出す。妻の和世は、元々母と折り合いが悪く、梨花が心配だからという理由でボストンに行ってから、まだ一度も帰ってきていなかった。すぐに離婚を切り出されるとは思わないが、別居状態が普通になってしまっている。
「それはそうなんだが……」
「判ってる。パパには無理よね。猫がかわいそう」
 梨花にそう言われて、私には返す言葉が無かった。
「……大丈夫よ。私は判ってるから。でも、おばあちゃんのこと、ちゃんと気にかけてあげて」
 もちろん、私はそのつもりだった。母には私しか頼る者がない。
「望月さんと話してみるかな」
「ちょっと待ってて。良い方法があるかも」
 そんな話のすぐあとに送られてきたのが、キャットロイドを紹介する動画だった。
 最初はただの猫動画だと思った。尻尾をピンと立てて歩き回り、気まぐれに爪を研ぐ。猫じゃらしを追いかけ、ソファの上にジャンプする。飼い主の膝の上で喉を鳴らす様子に続くのは、飼い主のインタビューだ。
「――この子が来てくれて。本当に助かりました。いろんな仕草を見ているだけでも癒やされます。私たちのことが心配で、それで、帰ってきてくれたんだと思います」
 動画の最後にこんなキャプションが付いていた。
「――数多くの高齢者施設で定評ある猫型コンパニオンロボットの個人向けリースが始まります。生前の様子を映した画像があれば、完全にカスタマイズされたあなたの愛猫が、キャットロイドになって帰ってきます」
 リンク先に飛ぶと、技術的な説明が書かれたページがあった。猫の本体は、AIで制御されるロボットのようなスケルトンモジュールで、百カ所を超える可動部分があるという。それに限りなく本物に近い手触りを感じさせるアウトスキンを装着することによって、現実の猫そっくりのキャットロイドが実現できたという説明が書かれていた。つまり、動画の猫は、本物ではなく、人工の毛皮をかぶった猫型のロボットなのだ。
 私は改めて動画を見直す。仰向けになって喉を掻けとねだる様子、足に脇腹をこすりつける様子。そのどれを見ても本物のように見えた。
 私のスマートフォンには、母と一緒に写ったミィの写真や動画があった。それを使えば、ミィが帰ってくるのではないか。
 昼間は望月さんが来てくれるから良いものの、私は帰りが遅いし、出張も多い。無駄に広いこの家で、母の孤独を紛らわせてくれていたのはミィだけだった。
「ねえ、ミィに帰ってきて欲しい?」
 翌朝、朝食の席で、冗談めかして母に訊いた。
「もちろんだわよ。あの子がいてくれたら……」
 母は、そう言うと深いため息をついた。その答えを聞いて、私は梨花が教えてくれたサイトの会社に連絡してみようと思った。

 その会社のオフィスは恵比寿にあった。ベンチャー企業が多く入居しているオフィスビルで、私の会社からも遠くない。ビルの受付にある案内を見ると、同じフロアに何社か入っている様子で、従業員が多いようには思えなかった。
 七階にあるその会社の受付カウンターでは猫が眠っていた。本物か、それともキャットロイドか、ぱっと見では見分けが付かない。
「田口様、アイ・フェリスにようこそ」
 カウンターの向こうのディスプレイに、いかにも有能そうな女性の姿が映る。もちろん、現実の秘書ではなく、バーチャルセクレタリーだ。今でも、セクレタリーのイメージは、若い女性がデフォルトになっている。
「まだアポイントには早かったかな?」
 猫の写真を送れば、すぐにそっくりな猫ロボットが送り返されてくるというものでもないらしく、オンラインでのインタビューのためのリンクが送られてきた。個人向けのリースは始まったばかりで、細々とした契約が必要らしい。
「ミライがご案内します。右手の会議室でお待ちください。すぐに霧島が参ります」
 カウンターの横の扉が開いたと思うと、猫が伸びをした。軽やかに床に飛び降り、尻尾をまっすぐに立てる。私の方を振り向き、ニーと啼く。
「この猫が案内役か?」
 尻尾を優雅に揺らしながら、私を導く。
「ええ、とっても優秀ですよ」
 その声は、セクレタリーのものではなかった。猫が進んでいくその先にオフィススペースが見え、そこからきっちりとスーツを着こなした女性が歩いてくる。
 サイトにあった写真よりも若い印象で、多分、娘の梨花とそんなに変わらないだろう。
「あなたが代表の霧島さんかな?」
 霧島由佳里。経歴にはMITへの留学経験があると書かれているから、もしかしたら梨花と接点があったのかも知れない。
「ええ、こちらにどうぞ」
 オンラインでのインタビューではなく、このオフィスへの訪問を選んだのは、霧島由佳里という、研究者であり経営者でもある女性に興味があったのかも知れない。
「田口さんですね。事情はお嬢さんから伺っています」
 彼女の言葉は私の予想を裏切るものではなかった。やはり、彼女と娘の梨花とは接点があったのだろう。
「梨花とは、ボストンで?」
「ええ、研究室が同じでした」
 最初に小さな会議室に入った猫は、軽やかにテーブルに飛び乗った。僅かに青みがかった灰色の毛並みはロシアンブルーがモデルなのだろう。
「触ってみても良いかな?」
 大きな目が、まるで、撫でてもらえるのが当然というような様子で私を見上げていた。
「ええ、そのためにここに置いているんです。最新の個人リース用のモデルになります」
 それ以降の霧島由佳里との話は、ほとんどが雑談のようで、キャットロイドのリースの話は順調に進んだ。
「これは、梨花さんのアイデアでもあるんです。田口さんは、以前にも別の猫を飼っておられましたよね?」
 ミィの先代、ハヤテは梨花と一緒に育ったようなものだった。そのハヤテが死んで、代わりになればと思って貰ってきたのがミィだったが、高校に入学したばかりの梨花は気に入らなかった。梨花にとってハヤテは特別な猫だったろうし、どんな猫であっても、ハヤテの代わりにはなれなかったろう。
「ええ、ハヤテという雄猫で、どこにでもいる雑種のキジトラでした。好奇心の強い活発な猫で、梨花は、随分とかわいがっていました。ミィは、そのハヤテが死んだ後で貰ってきた猫なんですが……」
 私の答えに、霧島由佳里は納得したように頷く。
「その次が亡くなったミィちゃんですね?」
「ええ、梨花には怒られましたけど」
 梨花に拒絶されたミィをかわいそうだと思ったのか、母はハヤテ以上にかわいがっていたし、ミィも誰よりも母に懐いていた。
「ええ、その話も聞いてます」
 霧島由佳里の言葉に、私は苦笑するよりなかった。娘の気持ちがわからない、駄目な父親なのが、娘とさほど年齢の変わらない若い経営者にも知られている。
「それで、ロボット猫を作ろうと?」
 私は、そう聞き返す。
「最初はロボット犬を作っていたんですよ。盲導犬や麻薬犬、災害救助犬です。育成が全然間に合っていないので、需要はあるんですが、梨花さんは、これからは猫の時代だって。実際、ペットとして飼われている数では、随分前に猫の方が多くなっていましたから」
 そう言って霧島由佳里は笑みを見せた。
 キャットロイドのミィが届いたのは、それから二週間後だった。梱包を解き、リモコンでスイッチを入れると、ロボットのミィは猫らしい仕草で伸びをした。
「えっ、ミィなの?」
 母は複雑な表情を見せた。驚きと、疑念と、もちろん、喜びもあったろう。
「猫のロボットだよ。ミィをモデルにして作ってもらったんだ。触ってみる?」
 ミィの前にしゃがみ込んだ母は、機械の猫に手を伸ばす。
「よくできているわね」
 疑わしげに母が言った。それが、母とキャットロイドの最初の出会いだった。猫型のロボットは、母の脚に頭をこすりつけ、それから小さな声で啼いた。

 望月さんから、母がキャットロイドを避けていると聞いたのは、翌週、私が出張から戻った週末だった。
「――そういうことでしたか。まだ改良の余地がありますね」
 キャットロイドを持参した私は、霧島由佳里に母がキャットロイドを遠ざけた理由を説明した。もちろん、猫とロボットの違いはある。それに加えて、母が気にしていたのはキャットロイドの重さだった。
 ミィは雌猫にしては重く、七キロ近かった。キャットロイドはそのミィよりもさらに重く、まるで、猫のトイレに使う砂の袋を持ち上げているようだという。確かにぐったりした機械の猫は、男の私からしても重たかった。
「それに、声が綺麗すぎるんだそうです」
 私がそう言うと、霧島由佳里は小首をかしげた。
「そうですか。そんなこともあるんですね……」
 彼女が言うには、猫の軽量化については既に検討を進めているのだという。一方で、声についてはいろいろな意見があり、あまり本物の猫に似せるのは良くないという判断があったらしい。今の声は、試行錯誤を繰り返した結果だそうだ。
「それに、背中を撫でられると喉を鳴らすことはできますが、まだ、状況に合わせた発声までは行っていないんです」
 キャットロイドの動きを制御するのが、現状の能力では精一杯なのだという。それでも彼女は改良を試みると約束してくれた。
「難しいんですね」
 私がミィを連れてきたとき、かわいい子猫ならどんな猫でも梨花は喜ぶと思っていた。でも梨花は、喜ぶどころか私に対して怒ったような表情を向けてきた。
 梨花にとって特別な猫だったハヤテ。
 母にとって、多分、特別な猫だったミィ。
 私は、同じ失敗を繰り返しているのではないかという疑念を感じていた。

 次のキャットロイドが来てから一週間も経っていなかった。最初はかわいがるそぶりを見せていた母が、また機械の猫を遠ざけていた。
 契約のキャンセルを連絡した私に、霧島由佳里の方から猫を引き取りに来たいという連絡が来た。
 私の自宅の応接間で、彼女は望月さんの煎れた紅茶を飲んでいる。私は、バッテリーの切れた猫を、そっとテーブルに置いた。ぐったりしたキャットロイドは埋葬する前のミィのようだったが、死後硬直はない。
「わざわざすいません。母からまた突き返されました。やっぱり、これはミィじゃないそうです」
 テーブルの上のキャットロイドは、まるで、本物の猫が眠っているように見える。
「シャットダウンしたんですか?」
 霧島由佳里に訊かれて、私は、猫をシャットダウンする方法を知らなかったことに気付く。
「昨日のうちにベッドの電源を抜いておきました。捕まえるのが面倒ですから」
 追いかければ逃げる。その意味で、キャットロイドは本物の猫らしい。
「いいやり方ですね」
 彼女はそう言ったが、私がやったのは特別なことでも何でも無い。段ボールでできたベッドを兼ねた爪とぎは、ワイヤレス充電器を兼ねている。キャットロイドの内蔵バッテリーの容量は小さく、頻繁に充電する必要があるが、私はそのベッドの電源を切ったのだ。
「……ところで、お母様はどこがご不満だったんでしょうか?」
 彼女からすれば当然の質問だろう。
「やっぱり、全然違うそうでしてね。見ているのが辛くなったらしい」
 私は、母が言った言葉を繰り返す。
「お母様は、どこが違うとおっしゃっていますか?」
 彼女の問いに、私は思わず肩をすくめていた。
「性格が違うんだそうです。私には何のことかさっぱりですが」
 私がそう告げると、霧島由佳里はがっかりした表情を見せた。多分、今度の猫は自信作だったのだろう。しばらく考え込んだ後で、彼女はおもむろに口を開いた。
「お母様にお話を伺えますか?」
 私が提供したのは、ミィの写真と動画だけで、それだけで性格が判るはずがない。ミィは母の猫で、留守にしがちだったとはいえ、母と同居していた私ですら、ミィがどんな性格だったか説明できない。
「今日は、もう休んでいます。薬の影響もありますが、歳のせいですかね、猫みたいによく眠りますよ」
 几帳面な性格の母は、医者に処方された何種類もの薬をきっちり服用している。本当は要らない薬をのまされているような気もするのだが、それを指摘しても医者ではない私の言うことを聞くような母ではなかった。
「じゃあ、日を改めましょうか?」
 彼女の言葉には、ちょっとした棘があった。猫を引き取って貰うだけだから、母の言葉を伝えるだけで十分だと思っていたのだ。
「今日はそこまで気が回らず、すいませんでした。私はいませんが、明日の午前中なら大丈夫です」
 母を起こそうとは思わなかった。それに、死んだミィのことは、母しか話せない。
「ええ、それで大丈夫です」
 多分、霧島由佳里は個人向けのキャットロイドを諦めるつもりがないのだろう。母のような顧客を満足させられなければ、ビジネスの成功はおぼつかない。
「でも、母がお役に立てるかどうか、本当に判りませんよ」
 私は、そう、念を押す。
「そんなことはありません。今までもいろいろと開発のヒントを頂いていますから」
 ハヤテが死に、私が連れてきたミィは梨花に拒絶された。梨花にとって唯一無二の存在だったハヤテを、簡単に他の猫で置き換えられると思っていた私自身が拒絶されたのだ。いくらミィそっくりに作ってあってもキャットロイドは所詮機械でしかない。そんなキャットロイドが、ミィの代わりになるはずがない。私は口にしかかったそんな想いを飲み込んだ。
「上手く行くと良いですね」
 社交辞令に過ぎない私の言葉に、霧島由佳里はしっかりと頷いた。

 私は間違っていた。母は機械のミィを受け入れ、ミィもまた機械とは思えないほどの熱心さで母の愛に応えているように見えた。
 私は霧島由佳里の説明を思い出す。最新のキャットロイドはセンサー機能が強化されており、ネットワークを通じて接続されたAIが、飼い主の様子に応じた最適な反応を決定するようになっているということだった。
「やっぱり良かったわね」
 ちょうど米国から、学会参加のついでに一時帰国していた梨花が言う。母の体調の異変をミィのセンサーが感知し、霧島由佳里の会社を通じて私の元に連絡が来た。母の最期を看取ることができたのは、言ってみればキャットロイドのおかげだった。
「もう、機械かどうかなんてわからなくなってたんじゃないかな」
 霧島由佳里が新しい猫を連れてきたのは、彼女が母と話した半年後だった。その頃の母は既にケアハウスに入っていて、常に寄り添っていてくれる存在としてのミィを、それこそ切実に必要としていたのかも知れない。
 母自身の体調も思わしくなかったが、私を除けば唯一の話し相手と言って良かった望月さんもまた体調を崩していた。それが母がケアハウスに移った理由だった。
「それはないと思うわ。この子とダメ出しをされた前のミィとでは、全然違うもの」
 霧島由佳里が連れてきた新しいキャットロイドは、外見こそ先代のキャットロイドと寸分違わなかったが、母の受け止め方は全く違った。最初こそ疑わしげだったものの、すぐに馴染み、膝に乗せている姿をよく見るようになった。実際、猫なで声で話しかける様子は、まるで死んだミィが帰ってきたようにも見えた。
「確かにそんなことを言っていたな」
 わざわざケアハウスにまで猫を運んできた霧島由佳里の話を、私はほとんど聞いていなかった。自宅から移った母の精神状態が思わしくなく、そっちの方が心配だったのだ。
「技術的には全然別物になってるの。先代までは実質的にスタンドアローンで、処理できる情報量も限定的だった。身体を動かすのに精一杯で、定型的な反応しかできなかったって訳ね。その上、性格パターンを反映しようとして処理能力が不足したため、対人コミュニケーションをネットワークを介して処理するようにした。結果的に賢いAIを使えるようになったし、そのAIは、最適な反応を選ぶだけではなく、多くの猫たちと一緒にシステムを介して対人コミュニケーションの経験を積み上げることができるようにもなった。あらかじめ設定された性格パラメータだけではなく、学習を通じてさらに賢く、複雑になっていくの」
 梨花が説明を要約してくれる。要は、最新のキャットロイドは学習し、変化する。それが一番の違いだった。
「すごい技術みたいだな」
 梨花の説明に対し、私はその程度の論評しかできなかった。ただその結果は明らかで、今のキャットロイドが来てからの母の状態は随分良くなっていた。ミィが交通事故で死ぬ前の状態に戻っていたと言っても良いくらいだ。
「ええ、そうね」
 母の眠るベッドで、母の亡骸に寄り添うキャットロイドは、まるで母と過ごした時間を愛おしんでいるようにも見えた。
「ねえ、会社はどうするの?」
 梨花が突然訊いてくる。私が営む広告代理店は、行ってみれば仲介業のようなものだ。広告主が広告を打つメディアを探すのに、以前であればノウハウが必要だったし、アイデアを出して付加価値を付けることもできた。だが、そんな機能は、今ではマッチングサービスによって代替されつつある。広告のコピーにしたってあっという間にAIが作ってくれるし、デザインも一瞬だ。クリエーションの価値が下がっている今、広告業は先行きの難しい業種になりつつあるのだ。
「そろそろ止めようと思っている。今なら従業員に退職金も払えるしな」
 産業革命が続いている。AIの進歩によって起きるのは、ホワイトカラーの大規模な淘汰だ。広告代理店という業種もまた、その波に洗われている。変化の波を越えられないのなら、消えていくしかない。
「もう、ゆっくりしても良い頃よね。ママもそろそろ日本が恋しいみたいだし」
 梨花の言葉に私は不意を突かれた。仕事を言い訳に母を押しつけていた私に愛想を尽かして、妻は出て行った。その妻とやり直せるのか。私がそんなことを口にすると、梨花は思いがけないことを言う。
「二人で猫を飼えば良いのよ。キャットロイドでもいいけど、本物の猫の方が良いわね。二人だけど煮詰まるけど、猫がいれば大丈夫よ」
 妙に真面目な顔で梨花が言った。
「それって、おまえとスティーブのことか……?」
 半年ほど前に、長い付き合いのボーイフレンドと暮らし始めたと聞いていた。二人だけではなく、梨花が飼っていた二匹の猫も一緒の筈だ。
「ええ、私の実体験。本当はスティーブも一緒に来たかったようだけど、今は一人で猫の世話をしてるわ。以前はパパと同じで苦手だったみたいだけど、今はデレデレ」
 そう言って、梨花が笑った。
 学習し、変化する。それができれば私もまだやり直せるかも知れない。
「そういうものか……」
 母の横にいるミィが、まるで本物の猫のような伸びをした。そのミィは、ネットワークを介して霧島由佳里が管理するAIと繋がっている。
 猫を通じて人間を学んだAIは、どんなAIになるのだろう。私は、ふと、そんなことを思った。