「鳥か葡萄、あるいは炎」片理誠

 気がつくとタクシーを降りていた。いったいどうやって下車したのか、まったく覚えていない。料金を払った記憶がないのだが。それでもこうして道端に突っ立っていられたわけなのだから、ちゃんと支払いは済ませたのだろう。そうでなければ今頃は、警察署にでもいるはずだ。
 あぁ、それにしても頭がやけに重い。こめかみがズキズキする。だが、この痛みには覚えがあった。これまでに何度も味わった、大して強くもないくせに無理して酒を飲んだ時のヤツだ。文字通りの、痛飲、というわけだ。
 毎度、飲まなきゃいいのに、と自分でも思うが、人間、しらふじゃやってられない時もある。酔夢の中にしか安らげる場所がないというのも情けないが、知ったことか。夢だろうが幻だろうが、ないよりはマシだ。俺の一生は「酔生夢死」、つまりはまったくの「無」、平たく言えば「ゼロ」ってことで終わりそうだが、そんなのは俺に限った話ではないだろう。
 ところで、ここはいったいどこだ?
 どこかの繁華街だろうか。そこら中で派手なネオンが瞬いている。だが、酔っているせいか、よく見えない。頭が重たくて、顔を上げることすら億劫だ。ふらふら、よろよろと、真っ直ぐ歩くこともできなかった。街の明かりに照らされている箇所以外は、深海のように真っ暗で、何も見えない。どうやら今は夜中のようだ。腕時計、はしてないんだった。しかたなく上着の内ポケットをまさぐってスマホを取り出すが、バッテリー切れなのか、操作してもウンともスンとも反応しない。――チッ!
 とにかく、帰らなくては。いつまでも酒に浸ってばかりはいられない。
 手を挙げてタクシーを呼ぼうとしたが、こっちが酔っ払ってるせいか、それともそういう時間帯なのか、連中は、客は降ろすくせに、俺を拾おうとはしなかった。目の前を次々に素通りしてゆく。くそう。何て怠け者どもだ。職務怠慢だ!
 さて、どうしたものか。歩いて帰ろうにも、ここがどこなのか、俺には分からないのだ。家はどっちだ?
 とにかく、どこかで朝を待つしかなさそうだ。その頃には俺の酔いも多少は醒めているだろうし、元気一杯で稼ぐ気満々のフレッシュなタクシー運転手だって捕まえられるだろう。
 ふと、『Bar Bacchus』と書かれた看板が目に入った。
「バッカス? ……確か、酒と豊穣の神様、だっけ」
 他にも何かがあったような気がしたが、頭が痛くて、よく思い出せなかった。とにかく、酒神の名前であることは確かだ。そうでなくとも「バー」と書かれてあるのだから、酒場であることに間違いはない。
 飲み屋か。できれば今は酒よりも水が飲みたいのだが。とは言え、今が夜中なら、酒場ぐらいしかやっている店はないのかもしれない。
 しかたがない。あまりいい顔はされないだろうが、安い酒でもちびちびやって、朝まで何とか粘らせてもらおう。とにかく今はもう、これ以上は立っていられそうにない。俺には椅子が必要だ。さもないと路上にひっくり返ることになる。そいつはさすがに、願い下げだ。

 そのバーはビルの地下一階にあった。階段が狭く、酔っ払いの千鳥足には少々難物ではあったが、どうにか俺は転げ落ちることもなく、きちんと二本の足で歩いて店の前までたどり着いた。
 葡萄のレリーフが施された、なかなかにお洒落な扉だ。バッカスは人間に葡萄の栽培とワインの製法を教えてくれた神様なので、それにあやかっているのだろう。階段の上に溢れていたネオンのケバケバしさに比べると、まるで別世界のように地味で控え目だ。
 ドアを開けると、頭の上の方で何かが「カラ、カラン」と鳴った。
 店内はかなり狭い。L字型のカウンター席しかなく、十人も入れば満席になりそう。
 店主と思われるバーテンの男性に「いらっしゃい」と声をかけられる。まだ若そうに見えた。三〇代半ば、くらいだろうか。
「ちょっと一杯、いいかな」
 へらへらと愛想笑いを浮かべながら、崩れるようにして席に着く。
 ゆっくりしていって下さいな、とグラスを磨きながらマスター。
 少し暇をもてあましているようにも見えた。
 カウンターの向こう側こそピンスポットに煌々と照らされているが、客席の方にはかなり控え目な間接照明しかなく、店全体としては薄暗い。いかにも隠れ家めいていて、常連客の四、五人くらいはいても良さそうな雰囲気だが、実際には俺の他に客は一人しかいなかった。おかげで随分と静かだ。どうやらあまり流行ってはいないらしい。
 もっとも、今の俺にはこの方が助かるが。耳元で大騒ぎでもされては堪らない。頭痛がますますひどくなってしまう。俺はここでただ静かに、朝を待ちたいだけなんだ。
 そうだ、朝だ。朝になったら俺は帰るんだ、自分の家に。でも、どうやって? ここはいったい、どこなんだ?
 恥を忍んで、怪しいろれつで恐る恐る尋ねてみると、店長は嫌な顔一つせず、丁寧に教えてくれた。
 が! 酔っているせいか、何度聞き返しても彼が何を言っているのか、よく分からない。まるで霧の向こうからの声のようだ。……リンゴク? え? ルンゴク? リョンゴク? そんな場所、あったっけ?
 だがしばらく考えて、ようやく合点がいった。そうか、「両国(リョウゴク)」だ! そう言ってるんだ。国技館のあるところだ。子供の頃、何度か来たことがある。
 なぁんだ、それなら安心だ。ふぅ、と俺は安堵のため息。両国なら電車だって通ってるし、バスもある。もちろん、タクシーだって沢山走ってるだろう。大相撲で有名な場所だ。帰る手段はいくらでもある。
 よっぽどへんぴな土地に迷い込んだのではと不安だったが、蓋を開けてみれば全然そんなことはなかった。良かった。これで一安心だ。
 ん?
 すっかり気をよくした俺の目の前に、いつの間にかワイングラスが置かれていた。鮮やかな赤い液体が入っている。
 あれ? 酒なんか頼んだっけ? まずは一杯、水が飲みたかったんだが。もしかして、サービス?
 まぁ、何だっていいや。どっちにしろ何かは飲む気でいたんだ。
 口をつけてみる。途端に葡萄のさわやかな風味が鼻から抜けていった。舌に残るのは酸味と甘み、それと微かなほろ苦さ。清涼感にも似た感覚が全身を包む。
「んんッ! こいつぁ、美味い!」
 思わず言葉が口から飛び出した。
 ありがとうございます、とマスター。少しはにかんだように微笑んでいる。
 細かな酒の味が分かるほどの通ではないが、そんな俺にとってもこれは今までのものとは別格だった。やっと美味い酒に出会った。
 これまでの俺にとって飲酒とは酔いつぶれるための手段でしかなく、味などは二の次、三の次。ずっとどうでもいいことだった。だが、このワインは違う。
 ああ、やっと救われた。そんな気がした。出会うべきだったものに、俺はやっと出会えたのか。
 視界の中のワイングラスが、じんわりと滲む。
 しがない酔っ払いでしかない自分が、心底、恥ずかしかった。これはきっと、いや、絶対に、溺れるために飲んでもいいような酒ではないのだ。一口、一口、味わって、感謝とともに頂くべき酒だ。美酒とは、勝者のためのものだ。だが、この俺ときたら――
 そのままがっくりとうなだれていると、すぐ隣から声がした。
「あなたはいつまで、こんなところにいるつもり?」
 んあ?
 顔を上げる。すぐ隣の席に黒っぽい服を着た女がいた。もう一人の客だ。女だったのか。暗くてよく見えなかった。
 今もよく見えてはいない。若そうな雰囲気だが、どうだろうな。薄暗いところでは大抵の女性は綺麗に見える。おまけにこっちは酔ってるわけなので、なおさらだ。
 とりあえず、俺の目には美女に見えた。ただし、愛嬌があるというタイプではなく、どちらかと言うとあまり親近感を感じられない感じの顔つきだ。射るような鋭い目をしている。喪服めいた装いのせいなのかもしれないが、どことなく不吉な印象がした。
 美人ではあるんだろうが、こういう愛想のない女性は、酒場ではあまり歓迎されないんじゃないのかな、などとぼんやり思った。
「もし良かったら、私と一緒に来ない? こんなところよりもずっと良い、雲の上に連れて行ってあげるわよ」

 ――それとも、炎の方をお望み?

 そう言って妖しく微笑む。
 ハハハッ! 思わず笑ってしまった。軽く手を振って断る。最後の付け足し部分の意味はよく分からなかったが(たぶん、また何かを聞き間違えているのだろう。ホノオ?)、冗談じゃない。こんな安っぽい誘いにうかうかと乗ったら、どんな目に遭うやら。余計なトラブルは真っ平ご免だ。
「ここの客を誘惑されては困ると、何度も言ったはずですよ」
 マスターも渋い顔をしている。
 女が挑発するように笑った。
「あら、私がいたらお邪魔? 止まり木(bar)には、誰よりも相応しいと思うのだけれど」
 何が面白いのか分からないが、クククと愉快そうに喉を鳴らしている。
 俺はふと、強烈な眠気に襲われた。
 どこかで何かが鳴っていた。何かが風を切る音。あれは、翼?

 気がつくとカウンターに突っ伏していた。
 ああ、すまない、と慌てて身を起こす。
 構いませんよ、とマスター。
「ゆっくりしていって下さい」
 グラスの中のワインは、まだ半分以上残っている。
 客は俺一人だけになっていた。
「こんなに美味しい酒があるのに、みんな、この店を見落としてるんだなぁ。飲んべえったって、大したこたぁないな、ここに気づかないようじゃぁさ」
 ふふん、と俺は世の酒好きどもを笑ってやる。
「この店を見つけられる人は、滅多にいないんですよ。この辺りじゃ、浮いた存在ですから」
 グラスを磨きながら、マスターが言った。
「寂しいですがね。しかたがありません、そういう場所ですので。
 まぁもっとも私は、どんな苦罰の中にも一抹の救いくらいはあるべきなんじゃないか、と思っていて、だからこそここにいるんですが。よく異端と言われますよ」
 少し困ったようにはにかんでいる。苦笑い、だ。
 俺もつられて少し肯く。相変わらず、彼の言葉は上手く聞き取れなかったが。クバツ、って何だろ? まだ酔ってるんだな。何かを聞き間違えている。
 そう言えば、さっきの女性は、と話題を変える。
「彼女は、ここの常連なんじゃないの」
 とんでもない、と店主。
「追っ払っても、追っ払ってもやってくるんです。彼女の誘いには乗らない方がいいですよ」
 もちろん、相手になんかしないよ、と俺。
「ただ、まぁ、美人ではあったよねぇ。もう家に帰ったのかな」
「用事ができたとかで故郷に戻りました。しばらくは来ないでしょう。え、場所? ああ。山ですよ、コーカサスという名の」
 ん、と俺。コーカサス……どこかで聞いたことがあるな。どこだっけ?
「ロシアとトルコの間、黒海とカスピ海に挟まれているところです。アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージア、それにチェチェン。ウクライナにも近い。あの辺りはずっときな臭いんです。おかげで忙しいんでしょう、彼女らも」
 顔をしかめている。
 何だ? 俺は急に不安になってくる。さっきから彼は、何を言っている?
 コーカサス、思い出した。その昔、プロメテウスという神様が磔(はりつけ)にされた山だ。彼が毎日、肝臓を大きな鷲(わし)についばまれるという責め苦を受けた場所。不死の存在であるがゆえに死ぬこともできず、数万年もの間、その苦しみは続いたという。
 これはつまり、神のはらわたを食った鳥がいる、ということでもある。
 マスターの話はまだ続いていた。
「鳥葬という葬法もあるように、鳥とともに肉体も魂も天へと送り届けられる、という信仰は古来より存在します。
 ですが、雲の上が本当にそんなに良いものなんでしょうかね。私なんかはむしろ、こういう地下の方が居心地が良いくらいですよ。大地と自然の、大いなる円環を感じられますので。
 彼女たちはまるで、北の方で言うところの戦乙女(ヴァルキリー)にでもなったつもりなのか、良いことをしている気でいるようですが。私個人としては、肉体はやはり土に還すべきなんじゃないかと思うんですけどね」
 はは、と笑う。
 だが突然、真剣な顔つきになった。
「そうは思いませんか、お客さん」

 ――それとも、炎の方が良いですか?

 何を言っている。まるで理解できない。
 地下、土――
 そうだ、思い出した、思い出したぞ、バッカス! バッカスは豊穣と酒の神であると同時に、冥界に関する神でも――
 さらさらとどこかで微かに音がしている。これは、俺の血が流れる音か。今、体中の血の気が引いていっているということなのか。それとも――
 思わず俺は立ち上がっていた。
「ば、馬鹿な、なんであんたが、なぜあなたがここに」
 マスターが不思議そうな顔をした。
「意外ですか? ここだってあの世であることに違いはない。何しろ天国と地獄の間なのですから、煉獄(レンゴク)は」
 俺は悲鳴を上げる。
 煉獄! 天国にも地獄にも行けなかった霊がさまようところ。その魂は火によって清められた場合のみ、天国に入れると言う。
 ふらふらとよろめきながら、俺は必死に出口へと向かう。
 朝だ。朝になれば、俺は帰れるんだ。い、急がないと。もうそろそろのはずだ。早く、早く戻らなくては。

 ドアの隙間から光が漏れている。あれは朝日か、朝焼けの光なのか。それとも――