「おいで、みずきちゃん(上)」青木和

 そのときぼくはどういうわけだか実家にいて、縁側にぼんやり座って庭を見ていた。
 実家に戻ってくるのは久しぶりだった。大学に入った年に一人暮らしを初めて、以来親戚の冠婚葬祭などで外で両親と会うことはあったが、実家に帰省したことは数えるほどしかない。
 理由の一つは、両親が(特に母親が)築数十年という古い家の不便さによほど飽き飽きしていたらしく、姉とぼくとが実家を出るのを待ってましたとばかりに、家を建て替えてしまったことだ。思い出の一つもない真新しい家はなんだか他人のうちのようで、帰省しても落ち着かなくなった。
 もう一つは、ぼくに対する結婚しろ攻撃だった。四十も近いのに彼女の一人もいないのか、縁がないなら見合いはどうだといきなり写真を持ってくる。顔を見るたびにこんな事を繰り返されては足も遠のこうというものだ。
 それが――今回は何の理由で帰ってきたのだっけ。
 そんなことを考えていると、いつの間にか庭先に男が一人現れて、こちらを向いて立っていた。
 おそらく裏木戸を開けて直接庭へ入ってきたのだろうが、まったく気がつかなかったので、ぼくはぎょっとなって腰を浮かした。
 男は、縦にも横にも見上げるほどの大男だった。若くも見えるがそうでないようにも見える。丸っこい童顔で、ぽよんとなめらかな生白い肌をしていた。女なら餅肌と言って褒めるべきなのだろうが、巨漢の体躯の上に乗っかっていてはかえって不釣り合いで気味悪い。心持ち開いた薄い唇の間からこれも妙に白い歯がのぞいている。おだやかな表情に見えるものの、垂れ下がった一重瞼の目は笑ってはいなかった。
 この男は誰だったろうと、ぼくは記憶の中を一生懸命探った。庭から直接入ってくるくらいだから、両親とは親しい間柄なのかもしれないが、ぼくにはさっぱり分からない。見覚えがあるような気もするが、ないような気もする。田舎とはいえ物騒な話がないわけではないし、さてどうしたものか。
 迷っていると男は二、三歩前に出てぼくに近づき、突然口を開いた。
「これ」
 ぐいっと片手をぼくの方へ突き出す。
 思わず視線を落とすと、男の手の中には一体の人形が握られていた。女の子の人形だ。髪は暗い栗色で、丸い顔に大きな目をしている。一目で女児用玩具と分かる着せ替え人形だった。箱などはなく剥き出しで、あちこち汚れている。かなり使い古された物のように見えた。
「君のだ」
「……はあ?」
「君のものだ」
 男は早く受け取れとでも言うように、人形を持った手を突き出してくる。何の事やらさっぱり分からないままに、ぼくは男の勢いに押されるように手を差し出して人形を受け取った。そして、自分でも意外な一言を口にした。
「くれるの?」
 その声がいかにも嬉しそうに聞こえて、自分でぎょっとなった。何も喜ぶ理由などないのに。
 しかし男は、違う違うというように首を横に振ると、もう一度念を押すように言った。
「君のものじゃないか」
 そして背を向けて歩き出す。待ってくれよ、と叫んだが、聞こえないのか聞く気がないのか、どんどん遠ざかって、あっという間に見えなくなった。
 残されたぼくは、どうしたらいいのだろうと途方に暮れた。いったいあの男は誰だ。何のつもりでこんなものをこのぼくに。
 こんな使い古しの、安物の。
 気持ちが悪い。さっさと捨ててしまおう。
 家の中に入ろうと振り返ると、いつの間にかあたりの風景が変わっていた。家は影も形もなく、薄暗い森の中にぼくは一人でぽつんと立っていた。ただ一つ人工的な物といえば、錆をふいたトタン板で蓋をされた古井戸が下草に半ば埋もれてあるきりだ。トタン板は少しずれていて、隙間から真っ暗な井戸の内部がのぞいていた。暗闇の中からは古い水の匂いがする。
 それがひどく恐ろしくてぼくは思わず悲鳴を上げる。そして走り出したところで――

 目が覚めた。
 電池が弱っているのか、ちりちりと息も絶え絶えな音で、目覚まし時計が鳴っている。ぼくは自分のアパートの、自分のベッドの中で布団にくるまり、荒い息をついていた。心臓が激しく打っている。寝ぼけた頭で人形を探してうろうろとあたりを見回した。が、当然のことだがどこにもなかった。
(えらくリアルな夢だったが……)
 人形の手触りや男のねっとりとした声、森の湿った匂いが、まだ記憶にはっきりと残っていた。しかし夢は夢だ。リフォームで洋風に改造されてしまった実家には、庭に面した縁側はもうない。ぼくがあの縁側に最後に座ったのは、十八歳の昔だ。
 なぜこんなおかしな夢を見たのか、理由は分からないが原因には心当たりがあった。昨日会社からの帰り、駅前のショッピングモールにテナントとして入っている大型玩具店へ行ったからだ。姉の娘がもうじき五歳の誕生日を迎える。そのプレゼントを買うためだった。
 孫というのがどうしようもなく可愛いという話はしばしば聞くが、姪というのもこれほど可愛いものだとは、実際にできてみるまで夢にも思わなかった。母親である姉の方はというと、昔から気さくなのはいいががさつで偉そうで、可愛いという言葉とは縁遠い女だと思っていたが、その姉から生まれたとはとても思えない。
 会社の帰りにネクタイをぶら下げておもちゃ屋なんぞに近づくのは恐ろしく気後れしたが、いざ店に入ってみると男の客は案外いた。姪くらいの子供がいる父親か、祖父か。
 ほっとしたぼくは、あらためてゆっくりと、おもちゃ屋の巨大な売場を見て回った。
 姪のリクエストは、猫のぬいぐるみだった。幼児のおもちゃとしては高性能な人工知能が仕込んであって、教えた言葉を記憶し組み合わせてしゃべるらしい。
「まあ単純なロボットね」と姉は言った。「機械系のものが好きなのよ、あの子。ちょっと目を離すとリモコンいじったり勝手にパソコン起動したり、もう油断も隙もない」
 そういうところはやはり姉の娘なのだろう。姉も幼い頃は、親戚中でたった一人の女の子ということで祖父母やおじおばから可愛らしい人形なぞを山ほど買ってもらって持っていたが、それらはたいてい箱の中に突っ込んだきりで、どこから持ってきたのか壊れた時計やラジオを分解したりしていた。
 姪もいずれ、機械系のおもちゃを欲しがるようになるのだろう。来年の誕生日にはもう、おもちゃ屋ではなく電器屋でプレゼントを選ぶことになるかもしれない。
 最初で最後になるかもしれない女児玩具の売場を、ぼくは博物館の展示でも見るような気持ちでしげしげと眺めて回った。
 数多いおもちゃの中で一番広い売り場面積を誇っていたのが、やはり着せ替え人形のコーナーだった。金色や栗色をしたつやつやのロングヘアに、マンガじみたぱっちりと大きな目。手足が長くて人間離れした頭身の少女人形が、凝ったデザインのドレスやカジュアルウェアを着て壁一面に並んでいる。そしてそれと同じくらいに豊富な量の「着せ替え」が、これまた反対側の壁を埋め尽くしていた。
 ぼくや姉が子供だった三十数年前とは、おもちゃの勢力地図もずいぶん様変わりしたはずだが、これだけのものが置いてあるからにはやはり女の子にとって着せ替え人形というのは根強い人気を保っているのだろう。姉のような少女は少数派なのだ。
 そういえば、姉が大量にかかえていたあの人形たちは、どうなったのだろう。
 ぼくは人形売場のピンク一色の棚をぼんやり眺めながら、ぼくと姉が幼年時代を過ごした子供部屋を思い浮かべた。
 西向きの六畳間。ささくれて黄ばんだ畳。あの頃まだあたりは田んぼと藪ばかりの田舎で、窓からは竹林が見えた。部屋には半間ほどの押入があって、そこにぼくと姉と、それぞれのおもちゃ箱が詰め込んであった。
 ピンク色のプラボックスが姉ので、ブルーのがぼくのだ。ぼくの箱にはどんなものが入っていたのか、不思議なことにほとんど覚えていない。思い出すのは、ピンク色の箱に無造作に突っ込まれてはみ出した細い手足と、ナイロンの髪の毛と、きらきらした服ばかりだった。
 姉が少数派の少女だったなら、ぼくもまた少数派の少年だった。ぼくは、姉の人形が羨ましくてたまらなかったのだ。
 姉が出かけている隙を見はからって、何度か姉のおもちゃ箱から人形を持ち出したことがある。姉は、おもちゃに限らず留守の間に弟が自分のものに手を触れることを当たり前だがいやがった。ぼくが人形に手を触れられる時間はとても貴重だった。
 とはいえ、多くの女の子がするように、着せ替えごっこに興じていたわけではない。姉のおもちゃ箱に詰まっている、替えのドレスにはまったく関心がなかった。
 ぼくは持ち主の寵愛をまったく得られない人形たちを畳の上に並べ、彼女たちのそれぞれの物語を空想した。ある人形はお金持ちのお嬢さんだがひそかに歌手になりたがっている。また別の人形はスポーツ選手で日夜特訓に励んでいる。あるいはごく普通の家庭の女の子で、姉の持っている数少ない男の子の人形と恋人同士という設定の人形もあった。そして、ぼくが人形に触れる機会があるたび、彼女らの毎日に新しいエピソードがつけ加えられていくのだった。
 今にして思えば、ぼくは人形そのものよりも、物語を作ることが好きだったのだろうと思う。中学か高校の頃には、ノートにへたくそな小説もどきを書きなぐっていた。結局どれもエンドマークすらつけることができずに放り出してしまったが……。
 数々のたあいないストーリーを考えていたぼくだったが、中でも一番のお気に入りだったのは、みずきちゃんという人形の物語だった。
〝みずきちゃん〟は、当時一番人気だった〝エリカちゃん〟という人形の友達として発売された商品だった。最初から、主人公と対照的になるように企画されたのだろう。エリカちゃんの顔が華やかな大きな目に描かれているのに対し、地味な顔立ちに作られていた。エリカちゃんがピンクのフリルのドレスを着て大きなリボンをつけていれば、みずきちゃんは白いストレートラインのワンピースにベルベットのカチューシャ、という具合で、いつも割りを食わされているように思えて、子供心に同情していた。
 それでも――いやだからこそ、ぼくはみずきちゃんが好きだった。
 ぼくのみずきちゃんは、両親を亡くして親戚の家に預けられている女の子という設定だった。みずきちゃんはその家の子供にいつもいじめられて泣いているという、ある意味笑ってしまうようなシンデレラ物語だ。
 ぼくは、ほろ苦い気持ちで幼い頃の自分を思いだした。
 あの頃あれほど熱心だった人形遊びなのに、いつの間に興味を失ってしまったのか。そんな遊びに夢中になっていたことさえ忘れていた。
 あのたくさんの人形たちは、おそらく捨てられてしまったのだろう。リフォームの際に、あるいは一年前姉の一家が両親と同居を始めた時に。納戸に詰め込んであった昔のがらくたを処分する機会はいくらもあった。
 昨夜はそんなことを考えながら眠りについたのだった。夢の原因はこれ以外に考えられない。
「だからって、人形をもらって喜ぶ夢はないだろうよ……」
 誰も見ていないのを幸い声に出して呟きながら、ぼくはベッドから起きあがった。テーブルの上には、昨日姪に買ってきたぬいぐるみの箱が、大きなリボンをかけられて鎮座している。今日はこれをかかえて里帰りだ。おそらく実家に一泊してくることになるだろう。この予定も、夢の原因かもしれない。
 顔を洗おうと洗面所に立ったところで、電話が鳴った。
「もしもし、裕也?」
「ああ、姉さん。もう少ししたら出るよ。二時過ぎの特急で着くから――」
 言いかけたところで、「それがね」と遮られた。
「ごめん。真弥(まや)が熱出しちゃったのよ。悪いけどこっち来るの来週に延期してもらってもいいかな」
 真弥は姪の名前だ。熱と聞いてどきりとした。
「大丈夫なのか?」
「たぶんね。風邪だと思う。幼稚園で流行ってるのよ。これからお医者行ってくるけど」
「そっか。ぼくのほうは全然かまわないから、大事にしろよな」
 小さい子はよく熱だすのよ。心配しないでね。姉はそう言って電話を切った。話の終わり際に電話の後ろで真弥が、ねえねえお母さん──と叫んでいるのが聞こえたから、まあ大したことはないのだろう。そういえば、ぼくも小学生くらいまではしょっちゅう熱を出したと母から聞いている。熱の原因は最後までよく分からなかったが、ちゃんとこうして健康に成長した。
 予定が消えたとなると急に眠気が襲ってきた。せっかくの休日だ。もう少し寝よう――。
 目覚まし時計のスヌーズをオフにすると、もう一度ベッドに潜り込んで目を閉じた。

 西日の射すささくれた畳の上に座り込んで、ぼくはもらった人形を眺めていた。渡されたときには気づかなかったが、それはみずきちゃん人形だったのだ。
 あの男はこれがぼくのものだと言った。ということはもう姉の目を盗んでこっそり人形を持ち出さなくても、いつでもみずきちゃんで遊べるというわけだ。そう考えれば、少しくらい汚れていても捨てる気にはなれない。
 汚れた部分を軽くこすってみると、泥のようなものが指についてきた。が、みずきちゃんは逆にきれいになったようだ。さらにごしごしとこすり続けると、服のほうは汚れが繊維にしみついてしまっているらしく取れなかったが、顔や手足は新品同様になった。
 ぼくは満足してみずきちゃんを眺めた。そして、いったいメーカーの人はどういうつもりでみずきちゃんの顔をこんなデザインにしたのだろうと考えた。
 地味なだけなく、癖のある顔つきだった。目は小さくてつり上がり気味、口はちんまりしているがちょっと突き出していて、おまけに唇の色があまりよくない。表情も悪かった。白目が大きく、黒目が上に寄っているせいで、まるで上目づかいで相手の顔色をうかがっているような卑屈な感じがする。子供が喜ぶようなかわいらしさがない。
 可哀想だよな。そう思いながら、ぼくはまるで人間の女の子にやるように、みずきちゃんの茶色の髪をそっとかき上げて整えてやった。指先が彼女の頬に触れる。
 その瞬間、ぎょっとした。みずきちゃんの頬が柔らかかったのだ。
 この手の人形の、特に頭部は目鼻を印刷する都合上けっこう固いのが普通で、指で押してもくぼんだりはしないはずだ。何かの勘違いだろうと、もう一度おそるおそる頬をつまんでみる。みずきちゃんの頬は求肥(ぎゅうひ)のようなしっとりした手触りで、ぼくの指先の皮膚に絡みついてきた。
 急に胸がどくどくと早く打ち始めるのが分かった。いったい何だろう、この生々しさは。
 ただの印刷だったみずきちゃんの顔が急にリアルさを帯び始める。ああこの子はセクシーだ、とその時初めて気がついた。けっして美人ではないが、内側から香り立つような色気がある。
 そうか、だからぼくはみずきちゃんがあんなに好きだったんだ。
 そう気がつくと、みずきちゃんの少し突き出した不格好な唇さえ、今にも何かを語りだしそうにみずみずしく見えてきた。
「なんだい。何か言いたいの?」
 ぼくは半分冗談で、みずきちゃんに耳を近づける。
(……ぇて)
 かすかな声が聞こえた気がして――

 目が覚めた。
 今度は寝ぼけることもなく、はっきりと一度で覚醒した。そして同時に不気味さを感じた。何に対してでもない、自分にだ。一体どんな欲求不満なんだ。
 ぼくは今度こそ本当に布団をはねのけて起きあがると、乱暴にパジャマを剥ぎ取り、洗面所に持っていった。洗濯機に着ている物を全部ぶち込んで、スイッチを入れる。
 ごんごんと音を立てて回る水を見つめながら、何とか夢のことを忘れようと努めた。

(「おいで、みずきちゃん(下)」に続く)