「<情報街>のメンテおじさん」忍澤勉

 この街が私の仕事場だ。一週間に一度ほど訪れて、家々や施設を回り電気がうまく供給されているか確認していく。住民と会えば不具合があるかどうかも聞く。ほとんどは何の問題もない。しかし一日に二、三人は不調を訴える。多くは配線の老朽化や接触不良といったもので、私は手持ちの道具で直していく。金は受け取らない。簡単なメンテナンスは電気の基本料金に組み込まれている。電球の交換や簡単な修理などの本来の業務と異なる仕事もする。私にとってたやすい作業ほど、なぜか住民から歓迎される。今日も居酒屋の扉から顔を出した女将に呼び止められた。
「メンテおじさん、こっちよ、こっち」。
 店に入っていくと彼女は古い電気タップを差し出した。
「これじゃ、危ないでしょ」。
 タップのネジが壊れていてコードが外れそうになっている。確かに危ない。
「いつか感電するか、火事になりますね。少しコードが短くなりますが構いませんか」。
 彼女が頷くのを確認して、私はベルトに嵌ったドライバーとニッパーでタップを直す。5分も掛からない。
「早いのね。どう、一杯飲んで行かない」。
 女将は私が断ることを知っている。
 この街は<情報街>と呼ばれている。情報の売り買いで成り立っている街だ。生糸や肉や穀物、鉄鉱石が特定の街で売買されるように、ここでは情報が売り買いされている。希少な情報とやらを鞄に詰めた男がうろうろし、情報の信憑性を鑑定する店があり、情報の売り買い人のための食堂や飲み屋、さらには情報の記録や管理をする道具屋などが繁盛している。情報の中には国家機密というものもあれば、どこかの主人の浮気話まで含まれている。人間の損得や快楽、嫉妬など感情にまつわるすべての情報が、価値の有無に関わらずに街に集まってくるという。
 そこを電気や関連事象だけに関心を持って歩き回る私は、極めて特別な存在なのかもしれない。私の風体は中肉中背の40歳代の白人で、髪の色はブラウン。ありていにいえばごく普通の旧北部アメリカ移民といったところで、街では子供たちからもメンテおじさんと呼ばれている。たぶん彼らの親がそう呼ぶからなのだろう。自分には名前があるがメンテおじさんも悪くない。
 私の名前はロバート・マクミラン。通称はボビィでもいいが、そう呼ばれたのは最初に一人の母親と双子の娘が暮らす家庭で働いた時ぐらいだけだ。仕事内容は車の運転や娘たちの学習指導、洗濯や掃除、家の補修や家事一般で、母親の仕事帰りが遅くなる日は、子供たちの遊び相手にもなっていたので、母親がパートナーを見つけて火星へ移住することになると、娘たちは別れを悲しんでくれた。お礼に自分の姿をした小さな人形を作り、「私の代わりだよ」と渡すと、強く抱きしめて大切にするといった。そして宇宙船に乗り込む時、「さよなら、ボビィ」といって振ってくれたのが、ボビィと呼ばれた最後だ。
 今日も何度かメンテおじさんと呼ばれ、いくつかの漏電を補修し、変電設備の点検を終えて、乘ってきたオートバイを置いた場所に戻るために広場を通り掛かった時、私は人だかりの中に彼女を見たのだ。<妖精>を直接見たのは初めてだった。しかし彼女、といっていいのだろうか。人間であれば女性のいで立ちをしていたその<妖精>の立ち振る舞いや周囲の人との問答に、私は彼女の強い意志を感じた。目的のための強い意志が私にはない。<妖精>はすぐに姿を消してしまった。そのせいか、私は彼女のことをもっと知りたいと思った。
 
 <情報街>以外に私にはもう一つの仕事場があった。街からオートバイで40分ほど離れた禿山の地下にある核発電所だ。山の麓には私の小さな家があって、奥の部屋の二重ドアが地下空間と繋がっていた。ここでも仕事の中心はメンテナンス作業だった。私の上司は古い核施設の一部を再稼働させて、地域一帯に電力を供給していた。核発電の仕組みや技術は一通り学んでいるが、役立つことはほとんどない。地下深くにある原子炉の熱で地下水を水蒸気に変え、タービンを回して電力に変換する過程は自動化されていて、私は活動状況を確認すればいい。たまに機器の故障や耐用年の過ぎた部品の交換がある。もちろん僅かな放射能漏れは常時生じているが、だからこそ私がこの仕事に就いているのだ。人間なら一日ともたない仕事を私は18年続けている。
 私は人間社会で仕事の円滑化のために、<情報街>へ出掛ける時は基礎ボディの上に外観が白人の中年男性となる外被を装着している。ただ顔は凡庸なのでアンドロイドのkp823だと気づく人がいるかもしれない。もちろん禿山の地下で働く時は、特殊な防護皮膚を装着することになっている。これは私を保護するというよりも、<情報街>の住民を守るためのものだ。
 私たちkp823は200年ほど前から生産されている。大きさや構造、そして四肢の動きは人間がモデルなので、その意味での機能性に優れた汎用型アンドロイドといえるだろう。身体能力は人間を大きく上回ることはない。筋力は人間の平均値よりも250%ほど大きい。しかし私たちの存在理由はそこにはなく、私の仕事場がそうであるように、過酷な環境での人間労働を代替させることだった。kp823は最終的には10万体以上が生産された。耐用年数が残り少なくなると、多くは核発電所の解体作業に就いた。簡易な防護服をすり抜けた放射線は、kp823の多くの部位を食み、結局、機能を停止した数万のkp823が、放射性廃材とともに地下深く埋められている。一方、残った個体の多くも私のような危険が伴う仕事に就いている。地中に眠る仲間たちの仕事と比べれば遥かにいい環境であることは確かなのだが。
 私たちkp823は各々が習得した知識や記憶を、ネットワークで共有化している。そんな私が<情報街>を仕事場にしているというのも、考えてみれば妙な話だ。私のネットワークを駆使すれば<情報街>が持つ何十倍もの情報が手に入るだろうが、誰からも必要とされない、いわば死んだ情報なのだろう。<情報街>が需要と供給で賑わっているのに対し、私たちの情報はただそこにあるだけだ。私たちの生産時にすでに組み込まれた回路によって、定められた使い道以外に機能を用いることが不可能となっている。生産元はすでに地球に存在せず、統制する行政機構が消滅してから久しい今でもそれは有効なのである。私を管理していた下請け企業の担当者もすでに外惑星に移住している。私たちはこのように作られている。たとえ私が火星での採掘現場での作業手順や気象データの解析能力、そして欧州の小国で未だに活躍するシェフの技量を習得していたとしても、活用する場はないだろう。
 ただ発電所の仕事のノウハウは最初から私に備わっていたものではなく、何体かのkp823を通じて学んだものだ。一昨日に点検を済ませていたので、今日は地下には入らずに部屋のモニターで確認すればいい。電力は順調に供給され、そして消費されている。確認作業が一段落して私の頭に浮かんでいたのは、やはり<情報街>の広場で目撃した<妖精>のことだった。
 彼女は旅行者のようにフラリと街にやって来たのではない。明確な目的があることが彼女の動きからもわかる。平静を装いながらも、彼女の眼差しの強い意志は隠せるものではなかった。こんなことは今までなかったが、私は彼女の瞳の奥にあるものに強い関心を持った。うまく人間に化けたつもりでも、私には彼女が<妖精>であることがすぐにわかった。人間とは筋肉と関節の作りが微妙に違うらしく、身体の動きに表れてしまう。もちろん普通の人間には気づかれないほどの僅かな違いだったのだが。それよりも私が好ましく思ったのは、いびつな形になった帽子とあり得ない背中の線だった。彼女はそのように自分が<妖精>であることを心ならずも表現しているのかもしれない。
 街の情報を私も個人的に蒐集している。他愛のないと思える出来事も私の仕事と何らかの関係性を有しているかもしれないのだ。だから私は仕事の必要もあって街を歩く時は自身のセンサーを作動させ、さらに街にはいくつかの映像や音響、熱などの固定式モニターを設置している。人の声や機械の作動音、騒音や自然の音、さらには人の往来の数量や鳥の群れの行き来、さらに上空を行く飛行物体、住戸の熱の放射量などが膨大な情報となって貯蔵されていく。そんな中に彼女の事柄もあった。セイラという名前の<妖精>が月に行くことを願っている。そのために古い宇宙船を奪取する計画を立てていることがわかった。月は人間が見放した何の魅力もない世界のはずだが、ただ私がそう認識しているに過ぎず、彼らにとってはまったく別の世界なのかもしれない。
 
 私は50年ほど前、その月の裏側で仕事をしていた。そこで<妖精>のものらしい飛行物体を目撃したことがある。人由来の物体とは形状がまったく違うので、そう判断したのだが、いっしょにいた仲間も同意見だった。すでに<妖精>の地球からの移民が始まっていたのだろう。そしてその後、彼らは月の裏側にも拠点を築いていった。まだ表側を開発していた人間と諍いを避けるためなのか、それとも別の理由があったのはわからない。
 私たちが月の裏側にいたことには理由があった。ここは地球を見ることができない代わりに、地球の光や電波などの騒音から逃れることができる。人間はその利点を活かして、一ダースほどの小型の電波望遠鏡と反射望遠鏡をここに設営することにしたのだ。
 しかし私たちの作業現場はもちろん、月の裏側に人間は一人もいない。必要さえない。その日もいつものように、私たちのための太陽電池パネルを備えた格納場所から、私を含めて6体のkp823の仲間と月面移動車2台に分乗して仕事場へと移動していた。その途上、丘の麓に僅かな光を目撃したのである。任務が始まってひと月ほどの頃だった。
 人間の担当者に報告するには、軌道上の中継船を経由して地球上の事務所に繋がなくてはならないが、中継船は反対側に入ったばかりだった。こういった場合は私たちに判断が任されている。光るモノは岩石の表面にあった。月の裏側では地上のkp823とのネットワークも遮断されているので情報を共有化できないが、そういった事例ではなかった。
 私たちは設定された経路を逸れて発光地点に向かったが、近づくにつれて私たちには人間でいう躊躇に該当する意識が浮んできた。私はこれを記憶に留めておこうと思った。生産された年は6体とも違っているが、「思い」はほぼ同一の形態と確認された。身体に装着された計測装置は何の異常も示してはいない。1mほどの高さの崖に、僅かな光が少し砂に埋まりながら水平方向に発せられていたので、上空から発見することは困難である。
 6体の意思はこれが何であるのかを突き止めることで一致した。一番近くに立っていたkp823が、光の出ている場所の砂を除けると堅い土が現れ、さらに周囲の砂を取り除くと最初の光を中心とするようにいくつかの光の点が出現した。何らかの鉱石が太陽の光を反射しているのではなく、自ら発光している。そう判断した瞬間に光は消えてしまい、目前には低く硬い壁があるだけになった。もう光った場所さえ確認できない。
 視界のデータを解析すれば場所の特定は可能だろうが、こういった現象はよくあることだ。強烈な太陽の光は岩石の反射を幻影に変え、砂粒ほどの流星が煙のオブジェを造ることもある。今日の出来事もそういった類なのだろう。ここで6体の認識を確認して、当該事象の調査の中止が決まった。中継船に報告するまでもない。そしてそれぞれが移動車に戻ろうとした時、僅かに振り返るのが遅かった私は、一瞬だけ光が戻ったのを見たのだ。しかし何らかの錯誤なのかもしれない。私たちはそのまま移動車に乗って作業現場へ向かった。
 光学望遠鏡の鏡筒はすでに現場近くの物資発着場に到着していた。地球の担当者はランディングには気を使ったようで、光軸のズレはほとんどない。台座に移動してから追尾装置の複雑な動きを確認した。さらに周囲を簡素なドーム型の屋根で包み、周囲に太陽電池パネルを設置する。地球上の天文台と構造自体はほぼ同じだが、重力が弱い分、軽量化が可能だった。自動でデータが送信され与圧室も必要としない、極めて簡便で合理的な天文台だ。やがて一ダースほどの天文台が月の裏側で稼働を始めた。
 作業は1年ほどで終ったが、私は保守要員として残ることになる。6体のkp823はほとんど同じ性能だったが個体差があり、モニターの結果から選ばれた私は、腰に新たな保守ユニットが装着された。そして月の表側での仕事に向かう5体の仲間たちを乗せた定員オーバーの移動車が丘を越えるまで見送った。彼らは一週間ほどで月の表側の次の仕事場に到着する。そこからは地球が見えるのだ。少しうらやましいが、私は代わりに星々がより明瞭に見る場所に残る。これまでの作業量に比べると仕事は少なくなった。
 私は12ある天文台を残された一台の月面移動車で見て回り、シールドと太陽電池の状態を確認していく。作業が終わって自分のバッテリーを切るまでの時間、私はいつも星空を眺めていた。すると星々の位置と何かが重なるような気がしてきた。私の思考は具体的であることが普通なので、「何か」という感覚は珍しい現象だった。そして長い時間が流れた。耐用年数が10年とされていた天文台は、結局15年ほど稼働して任務を終えた。同時に私のここでの仕事も終了することになる。天文台の機器を軌道船が回収する合間、私はただ星を眺めて過ごした。
 そして私は気づいた。かつて岩の表面に見た不思議な光は、惑星の位置と関連があるのではないのかと。私の中にある当時のデータを探り出して、全員で見た最初の光の位置関係と、数秒後に私だけが見た光の位置を確認した。そしてその関係性と差異を惑星の過去と未来の座標に重ね合わせると、光の位置と惑星の位置が一致するのは、約8億年前と約250万年前、そして約34年後であることがわかった。不思議なのは惑星の軌道と異なる光が一つあることだ。そしてその光は34年後の地球付近と重なっている。
 月の裏側に天文台が設置されていくに準じて、地球の天文台は破棄されていった。ただ月面の天文台も同じ運命を辿ることになる。人間は宇宙の神秘や真実の研究に飽きてしまい、火星や惑星の衛星、さらに外宇宙へと移住していった。ただ僅かだがそうではない人間がいた。地球に残る選択をした人間、彼らのおかげで私は稼働を続けられた。そこではいわゆる進歩がほとんどなく、過去の技術に支えられた暮らしが淡々と続いているのだ。
 天文台の解体作業中に私は自分らしくないことを閃いてしまった。私が見た惑星とは違う光が示していた場所に望遠鏡を向けたくなったのだ。すでに確定している座標を入力すると、視野に薄ぼんやりとした靄のようなものが見えた。既存のデータを重ねるとそれはすでに発見されていた彗星で、画像にはNC20578bという識別番号が表示されている。しかしこの彗星と月面の壁に現れた光の点との関連は不明のままだった。ここで私は判断を停止させた。これ以上データをシャッフルしても何も出て来ない。私はそう思いながら私は望遠鏡から離れた。
 軌道運搬船による資材の回収作業が終わると、月面の表側での任務が与えられた。移動車に一人揺られて、長い時間を掛けて虹の入り江に着くと、そこには廃墟となった広大な月面基地があり、私を出迎えてくれた3体のkp823はここで基地の解体作業に当たっていた。
 私たちは月面基地の廃材を一定の大きさに圧縮し、カタパルトから地球に向けて発射する。そうすれば大気圏が燃やし尽くしてくれるのだ。地球の夜の部分に落ちれば、月でも微かな閃光を見ることができる。地上では大きな流れ星になっているはずだ。打ち出す軌道は正確でなくてはならない。大気圏にバウンドしてしまうと遥かに遠い宇宙まで飛んでいくし、角度が浅ければ燃え残りが地上に落下してしまう。そんな仕事が終わりかけた頃、未確認の小さな飛行体が上空を過ぎていくのを眺めながら、一体のkp823が私に話し掛けた。
「人間たちが月から去った代わりに、<妖精>たちはずいぶんと増えたようだね」
「どうしてなのかな」と私が彼に聞くと。
「なんでも<妖精>と人間の仲が悪くなり始めているようだ。というのも<妖精>が人間に占星術の予言を伝え始めたのだけれど、それは人間にとっていい予言ではなかったのだという。それでも<妖精>は執拗に説いて回った。しかし彼らにも具体的に何が起るかまではわからない。そんな諍いがきっかけになって、今まで人間と<妖精>がいっしょにやってきたことが難しくなった。そんなことから<妖精>たちも月に自分たちの居場所を求め始めたんじゃないのかな」と彼はいった。
「それに人間たちは月に関心を持たなくなったからな」と私が話すと、彼は意外なことをいい出した。
「そういえば、見たかい。一昨日だったかな。大きな船が上空をゆらりと通り過ぎて、月の裏側に回っていったよ」そう話す彼の目が生き生きとしているように見えた。ほんとうはいつもと変わらないはずなのだが。彼をそうさせた船を私はまだ見ていない。
「いや見ていない。どんな船だった」
「とにかく美しい船だ。一度でいいから乗ってみたいな」
 私は地球にあったという巨大な飛行船を想像してみた。<妖精>が乗る船がどんな船体なのかまったく知らないのだが。
 やがて月面での仕事がすべて終わった。ここでも10年以上の歳月が流れていた。カタパルトは月面に残される。わざわざ燃料を使って回収しても使い道がないのだろう。このカタパルトが月に残る人間の最後の痕跡なのかもしれない。私たちを回収するためにやって来たのは、外枠がなく椅子にシートベルトが付いただけの円盤状の乗り物だった。私たちが乗り込むと、下部からガスを噴き出してすぐに浮き上がった。
 上昇中に月面の様子を眺めると、アンドロイドでも絶景であることがわかった。船が周回軌道に入り、月の裏側に回ると遠くに緑の大きな屋根が見える。<妖精>たちの新しいコロニーなのだろう。彼らの宇宙船が付近に何隻も漂っている。確かに美しかった。この世のものとは思えないほど美しかった。
 
 そして私は発電所の仕事に就いた。その後も人間たちは巨大な船団を組み、遠い星を目指して地球を離れていった。お供をするアンドロイドは最新型なので、私たち旧型は幸いにもスクラップとはならず、地上での仕事が与えられた。だが10万体ほど生産された私たちkp823もほとんどが姿を消していた。一部に不具合のあるモノは部品取り用として倉庫に保管される。私のようにまだ仕事を与えられているのは500体ほどに減っていたが、今でもネットワークを通して連絡を取り合っている。しかしいっしょに作業をすることはもう無いだろう。
 今の仕事場、特に<情報街>は刺激的だ。長い間、音も色もない月面にいた私だったが、音声機能はしっかり補修されていて、見た目よりも声だけは若々しいといってくれる人もいる。私が人でないことを知っているのに、みんながやさしく対応してくれるのは嬉しい。一定の感情も組み込まれた要素ではあるのだが。
 私は今日の仕事を終えて、久しぶりに家の近くの丘に登ってみた。沈みゆく太陽の反対側に満月に近い月が昇っている。人間は過去を思い出す時、なぜか高いところから景色や空を眺めることがあるという。私が月面から地球に向けて廃材を投下していた頃を懐かしく思い出すのも、<情報街>で月を目指す<妖精>を見たからなのかもしれない。遠い昔、月面に現われた不思議な光が暗示したと考えられる彗星の尾が、夕刻の空に広がっている。彗星の核は観測史上最大だという。近くに金星が輝いている。彗星や金星に比べれば月はすぐそこにある。近さゆえに人間は月に興味も関心も持たなくなってしまったのだろうか。
 それから私は何度も<情報街>に出掛けて、毎回のように<妖精>のセイラに関する話を耳にした。街角に設置したモニターからの彼女の情報が届く。どうやら最初の思惑通り、彼女は博物館に展示されていた宇宙船を奪取して、ほんとうに月へ向かったようだ。そんな話を聞くのはなぜか楽しい。宇宙船は特別なもので、<妖精>にしか操縦できないのだという。そんな話を月面の仲間から聞いたことがある。彼らだけに備わっている何らかの能力が操縦には不可欠なのだろう。<妖精>たちは月の極地域の永久影で水を見つけたようだ。水は彼らが駆る宇宙船に不可欠なもので、以来<妖精>たちは月の極地域を拠点に月の裏側ばかりを開拓していった。表側には通信用の小さな施設がいくつかあるだけだという。しかしなぜ裏側なのだろうか。
 残念ながら私たちkp823は人間に仕えるように設計されているので、<妖精>についての情報は少ない。ただ彼らと人間の歴史の概要を知ることができる。アンドロイドには相応しくないかもしれないが、双方の幸いを願った。
 仕事から戻ると私はまた山に登った。今日も夕陽が美しい。彗星の尾はさらに大きくなっていて、見かけ上だが上弦から二、三日後の月のあたりにまで到達している。<天文街>で働いているkp823の情報によると、彗星の核が最近二つに分裂したという。分かれたのは本体よりも質量にして10分の1ほどで、本体を追尾するように尾の中を進みつつあるが、ゆっくりと本体の核からは離れているという。その動きは物理法則から僅かに逸脱しているとか、何らか信号を発しているといった情報を伝えるkp823もあった。
 だが観測している人間は少ない。すでに宇宙への興味を失っているからなのだろう。私の知識も仲間の情報を統合したものだ。数週間前のデータでは彗星は地球の公転軌道の前方を1000万キロの距離で通り過ぎると予想されていたが、最近は1200万キロに伸びている。しかし問題は分離した彗星の核の部分だった。今日の情報によると地球と極めて近いところを通過するらしい。ほんとうに通過なのか、それとも別の結果になるのだろうか。
 私たちは既定以外に得た情報によって、何らかの行動を取ることが許されていなかった。造り主はなぜかその機能を恐れていた。もちろん情報を一般に開示することもできないのだ。500体のkp823は雇い主にことの次第を報告したが、反応はまったくない。私たちはただ静かに成り行きを見守るだけだ。あの月で見た光が何らかの存在によって意図的に仕組まれたものであったとしても、である。
 <天文街>にいるkp238の情報によると、分離した彗星の核の大きさや形などを加味して分析すれば、地球に影響を与えることに確かで、月の表面まで及ぶ可能性もあるそうだ。ただ<妖精>たちは生き延びるに違いない。特殊な能力によって、この地に存在し続けるだろう。私たちkp823も同様である。耐用年数は過ぎてはいるが機能は失われていないし、今まで通りどんな環境にも愚鈍なまでに対応していくことになる。
 私はまた空を見た。かつて月面で不思議な光を目撃した時、こんな日が来ることを予想していたのかもしれない。しかし「こんな日」とはそもそも何なのか。私はこれからも<情報街>に出掛けて、家庭や食堂などの電気設備のメンテナンスを行い、核発電施設の管理を遂行していく。私の仕事に変わりはないはずだ。
 彗星の核から分離したもう一つの核は、私に装着された偏光レンズを用いても確認することはできない。ゆっくりと空が暗くなり、彗星の尾の輝きが増していく。すると突然、彗星の先頭部分から光が放射された。分離していた核が爆発、あるいは分解したのかもしれない。光はすぐ消えていった。人間はこの一瞬を目撃したのだろうか。もちろん音はない。彗星の尾はいくぶん小さくなったようだ。私はこの山と<情報街>に設置したモニターから上空のデータを分析した。彗星が光を発する直前に、分離した核に何らかの物体が衝突していたのだ。しかも飛行経路と速度、大きさと形状の解析によると、物体は私たちが月面に残してきたカタパルトから発出されたのだった。<妖精>たちが使いこなせるのは、人間の宇宙船だけではなかったということになる。分離した核は消滅し、彗星は地球の軌道の前方を通り過ぎるだろう。私はしばらく西の空に浮かぶ月とそこまで尾を伸ばした巨大な彗星を眺めてから、山を降りていった。明日は<情報街>北部の送電線をメンテナンスする。その準備をしなくてはいけない。