
何度でも、いつでも繰り返される勘違い 「声の物語」大野典宏
クリスティーナ・ダルチャー著
市田泉訳
早川書房
本書のあらすじは簡単である。
ある男尊女卑主義に凝り固まった牧師に操られた大統領が、アメリカ合衆国全土に済む女性が発語できる言葉をわずが百語に制限してしまう。その結果として起こることは……。
この先はすべてがネタバレになるので書かない。
我々人類が持ちうる最も原始的で最も効果的な情報通信手段は言語に他ならない。時にはモールス信号にされたとしても、通訳を介したとしても、そして手話が必要であったとしても。
では、何故に女性の声だけを封じるのだろうか? これは古くからある悪しき習慣であり、以前紹介した「舌を抜かれる女たち」でも、ギリシアの時代から女性が前に出て発言することは許されていなかったと指摘されている。
では、なぜにこんなディストピアが生まれるのだろうか?
人は無条件に手に入る特権には目が無い。たとえ他の誰かが犠牲になるのだとしても、である。時には住んでいる国、肌の色、信仰する宗教、そして性別など、条件はなんでも良いのだ。
いつの時代にも「われわれ」が結束するためには、敵対する「あいつら」が必要なのだ。
現在、日本もアメリカも揃って家父長制度の復活に向けて動いているように見える。
では、果たして現在まで詰み重ねられてきた議論(自由論、不平等解消論、正義論)とは何だったのかが問われることになる。しかし、権力を簡単に手に入れたい連中にそんな教養など求める方が間違っている。
ここで一つの法に関する言葉がある。少し考えて欲しい。
「法は人を守るためのもので責めるものではない」
--アダマ司令官「バトルスター・ギャラクティカ」
この場合、守られるべきものは人権であり、法を盾に人を責めることは間違っているのである。
ここで、日本憲法研究では知らない人はいないと思われる芦部信善先生の「憲法」から引用してみよう。
表現の自由の規制立法は、①検閲・事前抑制、②漠然不明瞭または角に広汎な規制、③表現内容規制、という四つの態様に大別される。
(略)
表現の内容規制とは、ある表現をそれが伝達するメッセージを理由に制限する規制を言う。性表現・名誉毀損表現の規制もこれに属するが、これはアメリカでは通常、営利的言論や憎悪的表現とともに、低い価値の表現と考えられ、政治的表現と区別される。
では、昨今、世間を騒がせている「表現の自由」とは何か?
一般的な常識に照らし合わせて公共の場所に掲示されるべきでは無いと判断される絵を巡る騒動だろう。
とあるポスターを巡って、女性たちは声を上げた。その矛先は、そのポスターを掲示した側に対してのみであった。
しかし、このポスターを擁護する人たちは、文句を付ける女性たちを「表現の自由」を封殺する行為であると女性たちを非難した。
ここで、あることに気がつかないだろうか?
女性たちが非難したのは不愉快なポスターを掲示した側である。
そして男性が非難したのは、最初に声を上げた女性たちである。
ではさて、法を持ち出して人を責めているのは誰なのか?
答は明らかである。
ここで法の目的を勘違いしているのは女性を責めている側である。不快な表現から女性を守るべきなのが本来の筋なのではないだろうか?
全ての人間には人権が与えられること、そして幸福の追究が憲法には書かれている。
そういう誤読が起こりつつあるとき、異議を唱えないと大変なことになる。
そんな寓話として、本書に向き合って欲しい。”
(初出:シミルボン「大野典宏」ページ2020年3月15日号)
本作はSF prologue wave掲載作品です。
