「サトシら」飯野文彦

 サトシは夢を見ているのだと思った。なぜなら空を飛んでいたからだ。
 飛行機やヘリコプターに乗っているわけではない。何もつけていない。ふだんのかっこうのまま、道を歩くのと同じ感じで、空を飛んでいる。飛んでいるというと、ウルトラマンみたいに、水平になって両手を伸ばしている風に思うかもしれないが、サトシの場合はそうではない。今も言ったように、道を歩いているのとまったく同じように、空を歩いていた。
 あまりにふつうすぎて、最初は気がつかなかった。あれ、ぼくはどこを歩いてるんだろうと思い、辺りを見廻してはじめて、空を飛んでいることに気づいた。驚かなかったわけではないけれど、それよりも、ああそうか夢を見ているんだと思ったので、怖さはすっと消えた。代わりに好奇心がむくむくとふくらんできた。
 せっかく空を飛んでいるんだから、いろいろ試してみよう。そんな風に考えて、どんどん飛びつづけた。次第に歩いていると言うよりも自転車を漕いでいるのに近いとわかった。見えないペダルがあって、それを踏みつけるように足を交互に前に出すと、進んでいく。足を出すのを早くすると早く進み、ゆっくり出すと、ゆっくり進む。
 それなら……とサトシは足を逆回転させてみた。すると想像していた通り、バックをはじめた。そうか自転車というよりも一輪車だと思い、それを発見したことで、うれしくなった。どうしてこんな夢を見たのか、その理由も分かったからだ。
 サトシは一輪車に凝っている。今年の春、小学校に入学して、体育で一輪車に乗せられた。最初は恐くて、自分には絶対に乗れないと思っていた。事実、転んでばかりで、クラスの友だちのほとんどが乗れるようになっても、サトシは前進どころか、またがって進もうと足を踏み出す前に、バランスを崩して倒れてしまう有り様だった。
 ああいやだ。一輪車さえなければ、小学校はまあまあ楽しいところだ。友だちもできたし、給食もまあ、割とおいしいし、担任の先生も優しい。一輪車さえなければ、どれだけ良いだろう。そう本気で思ったくらいだ。
 ところが思いもかけない出来事が起こった。体育は、佐久間先生という男の先生が教えてくれている。元気で明るくて、たいそうのおにいさんみたいで、皆から人気がある。サトシも佐久間先生が好きだ。けれども少しばかり、好きでなくなっていた。理由はいくら一輪車が乗れないと言っても、
「だいじょうぶ。きっと乗れる。さあ、もう一度試してごらん」
 と言うからだ。その度に失敗しても、笑いながら、
「ドンマイ、ドンマイ。さあもう一度試してごらん」
 としか言わない。
 こんなに厭がっているんだから、君は一輪車は乗らなくてもいいよ、と言ってくれても良いのに……。サトシが思っても、まったく通じなかったからだった。
 そんなサトシががらりと一輪車を大好きになったきっかけは、担任の望月先生のおかげだった。望月先生は、若い女の先生で、やさしい上にきれいなので、佐久間先生以上に人気がある。もちろんサトシも大好きだった。
 その望月先生が、どこかでサトシたちの体育の授業を見ていたらしい。休み時間に望月先生がサトシのところにやって来て、
「山岸君。ちょっとお話があるんだけど」
 と言った。いくら大好きでやさしいからと言っても、そんな風に言われると、サトシは緊張した。
 あれ、何か悪いことしたっけ。怒られるようなことはしていないはずだけど……。だから口を尖らせて、無言で望月先生の後に付いていった。廊下を曲がった人けのない場所で、望月先生は足を止めて振り返った。そしてサトシに言ったのだ。
「サトシ君、一輪車にだいぶ苦戦しているみたいね」
 ガンと耳鳴りがした。佐久間先生が、望月先生に相談したのか。
 ――山岸だけですよ。お宅のクラスで一輪車に乗れないのは。どうして、あいつはあんなに運動神経が悪いんでしょう。それともやる気がないんでしょうか。ふだんからそうなんですか?
 ああ、最悪だ。確かにサトシは運動神経が良いほうではない。それでも走るのは得意だ。幼稚園ではいつもいちばんを取っていた。もうすぐある運動会でも、必ず一位になるとひそかに自分に誓っていたくらいだ。それに勉強だって、まあまあ良い線行っているはずだ。それは望月先生がいちばん良く知っている。だから佐久間先生に訊かれても、
 ――いいえ、山岸君は、勉強もまじめにやる、とっても良い子です。
 と言ってくれたにちがいない。そうだ、さらに、
 ――でも一輪車だけは苦手みたいです。ですから今後は山岸君は、一輪車の授業から外してやってください。
 と言ってくれたかも知れない。そうか、それで呼び出したんだ。
 ――山岸君、よく頑張ったわね。でも人間には向き不向きがあるの。だからもう山岸君は、一輪車に乗らなくても良いのよ。佐久間先生には、わたしから頼んでおいたから、心配はいらないわ。
 そう言うために、わざわざ呼び出したりしたのだ。そんな思いをますますふくらませるように、望月先生は言った。
「実はわたしも、一輪車が大の苦手だったの」
「望月先生も?」
「ええ。だって自転車みたいにつかむハンドルもないし、どっちに転ぶかもわからないんですもの」
 そう、そうなんです、サトシは目を輝かせて、望月先生の次の言葉を待った。
 ――だからもう、良いのよ。無理をしないで、やめても。
「いやでいやでしょうがなかった。一輪車なんて、自転車と違って、ふだんは乗らないんだから、必要ないのに。一輪車なんてなければ良いのにって、何度も思ったものよ」
 その通りです、ぼくもそう思います。だからぼくはもう一輪車に乗らなくても良いんですよね。
「でもね。ある日、それがまったく変わってしまったの」
 えっ……。
「一輪車ほど楽しいものは、ほかにないって、本気で思うようになったのよ」
 そんな……。
「それからは一輪車に乗るのが、楽しくて楽しくて。親にねだって買ってもらって、学校から帰ってからも、家の近くの公園で一輪車に乗って遊んでいたくらい」
 サトシの顔から、明るさは消えていた。なんだ、結局はそういうことか。でもぼくは違う。きっと体質的にあわないんだ。いくらがんばっても人間が空を飛べないように、どうしてもできないことがある。ぼくにとって、それが一輪車なんだ。
 そう言おうと思って、口を開くタイミングを待った。けれども、それより先に望月先生が言った。
「どうして一輪車に乗れるようになったか。それには訳があるの。極意と言ってもいいかしら」
「ごくい?」
 意味がわからず、サトシは口を尖らせながらも訊ねていた。
「つまりコツのこと。ほら、お母さんが料理のときに使うでしょ。『おいしいカレーライスを作るコツは、隠し味に牛乳を入れることよ』なんて風に」
 サトシはしらけた。コツという言葉の意味くらいわかる。それにサトシの母親は、カレーライスを美味しく作るコツは牛乳……、なんて入れなかった。
 ――やっぱり、プロには叶わないわよね。
 そう言ってナニナニホテルとかナニナニレストランの缶詰やレトルト食品を温めてくれるだけだ。それもまだ生きていた頃の話だけれど。
 何も知らないくせに、何がカレーライスをおいしくするコツだよ。大好きな望月先生に、心の中で文句を言っていた。
 蛸みたいに口も尖らせて、不満に思っていることを伝えたのだ。それでやっと思い出したみたいに、あっとつぶやき、
「そうか、山岸君のご両親は。それならますます……。ううん、そんなことを言いたかったんじゃなくて、そう、一輪車の極意の話よ」
 望月先生は、話をやめるどころか、曇らせた顔を崩し、ますます笑顔になって、
「そのコツを覚えれば、サトシ君も一輪車に必ず乗れるようになるわ。それだけじゃない。わたしみたいに、一輪車が大好きになる」
 と話を戻してしまった。
 なりません、ぼくはぼくです。望月先生とはちがいます。きっぱりと言いたかった。けれども言葉は出ずに、悲しくなってきた。何か話すと泣き出しそうで、黙っているしかなかった。
「それをサトシ君にだけ、こっそり教えてあげるね。いい、まずはね……」
 聞くもんか、ぼくは鳥ではありませんから、いくら空を飛ぶコツを教えてくれても飛べないに決まってます。心で反論し、聞かないでいようと思ったのだ。ところが望月先生が言った。
「自分が雀焼きになったと思って」
「スズメって、あのスズメを焼くんですか?」
「そう頭のてっぺんからお尻まで串刺しにして、焼いて食べるの。とっても美味しいんだから。ううんもっと美味しいものが……」
 望月先生は、口元を抑え、ごくっと喉を鳴らした。
「でも、雀の串刺しなんて、ちょっと……」
 気持ち悪いなあとサトシが言う前に、先生は拳で口を隠して、咳払いしてから言った。
「今の焼き鳥って、細かく切った肉をネギと交互に刺してって思ってしまうかも知れないけど、雀焼きのように頭からお尻まで、串に刺されちゃったと思うの」
「串に刺されてる」
「その串は、さらに一輪車の中心を通って、地面にまで突き刺さっているのね。だからサトシ君は、一輪車に乗っていても倒れない。だって真っ直ぐ串に刺さってるんだから、倒れるわけがないでしょ」
 巨大な串に頭から刺されている自分の姿が、頭に生々しく浮かんだ。そんなことをされたら倒れる訳がない。街角に立っている交通標識みたいに突っ立って動けなくなる。
「背筋をぴんと伸ばして、真っ直ぐになっているの。だからそのかっこうでいくら足を動かしても、倒れるわけがない。倒れたら、逆におかしいくらい」
「そうだよ、だってぼくはスズメ焼き……」
 やっぱり気持ち悪い、とサトシが言葉を止めると、すかさず望月先生が言った。
「焼き鳥でいいわ。ほらサトシくんは、串刺しになった焼き鳥よ。ねっ!」
「そうか。串刺しの焼き鳥になったぼくが、勝手に串を離れて、倒れるわけがないんだ
……」
 不満のつもりで思っているうちに、気持ちが揺らぎだした。自分ではなく巨大な焼き鳥が、一輪車に乗っている。串刺しだから倒れない。真っ直ぐ立ったまま一輪車に乗って、大きな焼き鳥が移動していく……。
「そんなあ」
 ついつい笑っていた。それを見た望月先生も、いっそう顔をほころばせる。
「ねっ、面白いでしょ。自分は串刺しの焼き鳥なんだぞって思えば、転ぶはずがないの」
 子供心にばかばかしいと思いながらも、サトシはおかしくて、ますます笑っていた。
「焼き鳥かあ」
「そう、わたしは焼き鳥だったのよ。でもこれはサトシ君と先生だけの秘密だからね」
 笑っているうちに、チャイムが鳴ったので、あわてて教室に向かった。焼き鳥だって、望月先生もおもしろいこと考えるよな、などと思いながらだった。
 ところがこの考えは、サトシが思っていた以上に、印象に残った。串刺しの焼き鳥が一輪車に乗っている姿が浮かび、それが望月先生に変わり、さらに自分にも変わる。望月先生と共通の秘密を持てたうれしさもあって、どんどんリアルに思い浮かぶようになった。
 そうして次の体育の時間。一輪車に乗ることになったとき、それまでのように緊張することもなかった。どうせ焼き鳥なんだから、と馬鹿にしたようなつもりで乗ったのだ。頭の中ではしっかりと串刺しになった焼き鳥のイメージができていた。
 ぼくは焼き鳥、望月先生も焼き鳥、焼き鳥焼き鳥……。そう思いながら乗っていると、佐久間先生の声が聞こえてきた。
「山岸、すごいじゃないか、いつの間に、そんなに上手になったんだ」
「えっ?」
 気がつくとサトシは一輪車に乗って、前進していた。止まって足を逆に回すと、そのままバックしていく。佐久間先生だけでなく、クラスの友だちも、動きを止めて、サトシを見ていた。
 サトシはうれしくなって、またしても前進し、後退し、さらに串刺しの焼き鳥を廻すように身体を回して、向きを変えてもいた。
「すごい」
「山岸君、すごい」
 歓声が起き、サトシはうれしくなった。こうして自分でも信じられないことに、あれほど嫌いだった一輪車が大好きになった。
「焼き鳥だ。ぼくは焼き鳥、少し焦げある焼き鳥だ。おいしいぞ。食べたいなー」
    ◇ ◇
 サトシが空を飛んでいたとき、お兄ちゃんと声がした。振り返ると、一つ年下の妹のサトコだった。サトコも一輪車に乗るようなかっこうで空を飛んでいる。
「サトコ、どうして?」
「お兄ちゃんが教えてくれたんじゃない。焼き鳥になれって」
 確かにとサトシは思った。サトシが楽しそうに一輪車に乗っているのを見て、サトコが言ったのだ。
「あたしもお兄ちゃんみたいに乗れたらなあ」
 そうか、わかるよ。それなら。サトシは妹に、先生に教えてもらった極意を伝えた。するとほどなく。
「おもしろい。あたし、焼き鳥好きだから。やってみる」
 と言って、本当にあっという間に一輪車に乗りこなせるようになった。
「ありがとう、お兄ちゃんのおかげ。あたしこの間まで友だちに馬鹿にされていたのに、今じゃ保育園でいちばん上手なんだから」
 サトシは、ぼくのせいじゃなく先生のおかげなんだけど、と思ったけれど、それは言わず、へへへと照れ笑いをした。
    ◇ ◇
「大将、近々、あれが手に入りそうなの」
「ほう、久しぶりだなあ」
「それも、二匹。しかもどちらも若鶏で」
「この間は、一匹って言ってたのに」
「ええ、一匹でも上出来かと思ったんだけど、その一匹がこの間、言ったわけ。もう一匹、できそうだって」
「足はつかないのか?」
「安心して。親が事故で死んで、誰も親身にならないから。むしろ二匹いっしょに居なくなった方が、面倒見ている人たちも助かるんじゃないかな」
「ひどい先生が居たもんだ」
「あら、お裾分けほしくないわけ?」
「まあ、楽しみにしてるよ」
 大将は苦笑した。
 何よその言い方。先生はコップに残っていたビールを飲み干した。さらにコップにビールを注ぎ、喉を鳴らした。ゲップを押し殺し、
「ぜったい、二匹だから」
 と大将に聞こえない声でつぶやいた。
    ◇ ◇
「ねえ、お兄ちゃん、今日もいっしょに飛ぼうよ」
 妹に言われ、サトシは時計を見た。九時半を過ぎたところだった。二階、二人部屋のカーテンを開けた。外は満天の星明かりだった。
「うん。でも三十分待って」
「いいけど、どうして?」
「ちょっとね」
 サトシは口を手で隠して、笑った。今日の昼、学校で、先生と約束したのだ。先生と二人きりになったとき、先生が、
「妹さんとはいっしょに飛んでいるの?」
「はい」
「すごいわ。先生、見てみたい」
「でも……」
「どうしたの? あー、本当はできないんじゃ」
「そうじゃないです。できます。けど、人に知られない方が良いかと思って」
「そうね。うん、たしかに。それじゃ、今日の午後十時、先生こっそりと見ているから、内緒で見せてくれる?」
 サトシが困っていると、先生はじっとサトシを見つめ、
「絶対に誰にも言わないから。お願い、先生に食べ……」
「えっ?」
「ごめんなさい。感動しちゃって。先生だけに見せて。お願いだから」
 先生に言われると、断れず、それ以上に自慢したくて、サトシは笑顔で首を縦に振ったのだった。
    ◇ ◇
「はい、お待ち。今回の名前は?」
「サトシと……ううん『サトシら』でいいわ」
「サトシら、焼き上がりましたよ」
 串に刺さった二人、否、すでに二羽は顔を見合わせた。互いに焼けただれ、以前の面影は見当たらない。サトシと呼ばれた焼き鳥は、妹だった焼き鳥の、目と言えるか、そこに浮かんでいるのが肉汁ならぬ涙だと知った。しかしそれもすぐに見えなくなった。串を持った先生の口の中、暗い空洞の中で、引きちぎられ、頭から噛み砕かれていく。
「おいしーい」
 笑顔で妹だった焼き鳥を頬張る先生を見て、サトシは思った。
「ぼくと先生は同じじゃなかった。それどころか」
 そんな気持ちが先生にも伝わったらしい。
「あら似た者同士よ。ただ、ごめんね、一つ嘘をついちゃって」
「嘘?」
「前に『わたしは焼き鳥だったのよ』って言ったけど、ほんとうは」
 先生は口に入れた妹をもぐもぐと咀嚼し、ビールで飲み干してから言った。
「わたし、食べる人。あなた、食べられる人、じゃなくて……」

(了)