
一九八〇年に、わたしは十二歳だった。
そのころには、親戚の家に子供が泊まりに行くのは一般的とは言えなくなっていたが、珍しいわけでもなかった。そんな時代の話だ。
「こんにちは」と小さな声で言いながらガラス戸を開けると、コンクリート打ちっぱなしの床には燕の糞が散っていた。頭上の太い梁には、空っぽの燕の巣がくっついている。遠くでお囃子の音が鳴っていた。しばらくそのまま突っ立って、もう一度、声をかけるべきか迷っていると、座敷の障子戸から、おばあちゃんのお姉さん、わたしには大伯母にあたる人が顔を出した。おばあちゃんが姉さ、姉さと呼ぶその人を、他の人たちは、おキミさ、と呼んでいた。
「ちいちゃ、よう来てちょうたね」
おキミさは紺の地に白い水玉の散った半袖のワンピースを着て、座敷の畳に正座していた。まるで、わたしが大人の賓客であるかのように、日に焼けて染みのある両手を膝にのせて頭を下げる。お母さんから「ちゃんと、お世話になりますって挨拶するんだよ」と言われてきたのに、うまく言葉が出てこなくて、わたしはペンギンのように両腕を斜め下に伸ばし、首だけ前に倒して会釈した。
「そんな、格式ばらんでもいいに。ここはちいちゃの家も同然だで」
おキミさは顔じゅうを皺だらけにして微笑みかけてくれた。
皺に埋まった細い目のなかの瞳はきらきらと輝き、口の中では左の前歯を囲んだ金が光っている。社交辞令でつくられる笑みとはまったく違う、わたしのことを心底、好きでいてくれて、会えて本当に嬉しいと思ってくれている笑顔だった。
「暑かったで大変だったねえ。まあ、あがってあがって」
テレビのある居間へ通され、おキミさのお嫁さん、この家の主婦である克子さんがガラスの茶器で氷入りの麦茶を出してくれた。扇風機も近づけてくれる。
木製の大型テレビの画面では、アナウンサーがニュースを読み上げていた。テレビの上の棚には、鮭をくわえた木彫りの熊や、色のあせたフランス人形が飾られ、天井近くには飛騨高山のペナントが貼られている。部屋の隅の大きな本棚には革張りの辞書や百科事典、それに洋書がぎっしり詰まっていた。
おととしや去年と何も変わりないようだった。
テレビの前のソファには、泰久さんが足を組んで腰掛けていた。眼鏡をかけて新聞を広げている。役場に勤めている偉い人だ。今度こそ、ちゃんと挨拶しなくちゃ、と思っただけで緊張してしまう。
「おフキさは来れんで残念だったな。まあ、骨が折れんかったのは不幸中の幸いだけど」
眼鏡を鼻まで下ろして、わたしをのぞき込む。真っ黒に日焼けした顔と迫力のあるダミ声は怖いけど、その目はおキミさによく似て、いたずらっ子のような愛嬌があった。
「おばあちゃんが、皆さんによろしくって言ってました」
ようやく、言わなければと思って用意してきた言葉を口に出せた。
おキミさの住む町では、夏の終わりに地蔵盆という祭りがあった。小さい頃から、年に一度、その祭りの日に、おばあちゃんに連れられておキミさの家に泊まるのが、わたしの習慣だった。
今年は、お母さんから「六年生にもなって、小さい子みたいに、おばあちゃんにくっついてお泊まりなんて、どうなの?」と言われた。そう言われてみれば恥ずかしいことのような気もして、今年はやめておこうかと思っていたら、昨日になって、おばあちゃんが捻挫した。「行けなくなった」と電話したおばあちゃんに、おキミさが「ちいちゃは来年、中学生でしょう。今年が最後になるんだろうで、ちいちゃだけでも泊まりに来てよ」と、熱烈にわたしを誘ってくれたのだった。
テーブルの菓子入れには、海苔煎餅とあられが入っていた。おキミさが相変わらずの笑顔で「どうぞ、遠慮せんで」と勧めてくれる。
「こんな年寄りくさい菓子、ちいちゃの口には合わんだら。なんで、チョコレートか何か、子供が好きそうなもん、買っとかんかっただや。気がきかんな」
泰久さんのきつい口調に、克子さんの顔が曇る。
「わたし、おせんべいも好きです」
そこまで好きではない煎餅をおいしそうな音が出るように噛み砕いてみせると「若い子は歯が強いで、ええねえ。わしなん、まあ、せんべえなんか食べようと思っても食べられやせんに」おキミさがつくづくと感じ入ったような声で言った。おばあちゃんも、針に糸を通してあげると「目がよう見えて、ええなあ」と大げさに感心する。目とか歯とかを、そんなに褒められても、あまり嬉しくないんだけど。
「ほだけど、もうすぐ、ごっそうを食べるんだで、せんべえは一枚だけにしときゃあね」
ご馳走はお刺身に手羽先、ちくわとこんにゃく、しいたけの煮しめ、お吸い物に香の物と白いご飯だった。泰久さんは、わたしとおキミさにオレンジジュースを注いでくれた。克子さんのコップにはビールだった。
「そんなに飲ませたら、洗いもんができんくなるよ」
「いいがや、祭りの日ぐらい酔っ払っても」
泰久さんと克子さんは笑いながら、互いにビールを注ぎ合った。別に仲が悪いわけでも喧嘩しているわけでもないのだと知って気が楽になり、わたしは手羽先の骨の間から肉を挟み出す厄介な作業に集中することができた。
「ほんで、ちいちゃ、学校はどうだ? いじめっ子とかはおらへんか?」
「いません。もし、いたら、蹴飛ばしてやるから平気」
「そりゃ、たのもしいなあ」
泰久さんは笑った。
「ちいちゃは賢い子だで、学校の勉強もようできるでしょう」
克子さんに言われて、照れくさくなった。まあ、できないほうではないと思うけど、よくできるかと言われると、ちょっと自信ない。
「おフキさが、よう自慢しとらっせるよ。千鶴はほんとに優しくて賢い、いい子だって」
おばあちゃんには、いつも「ほんとに気がきかんな。ぼうっとしとらんで、よう気を回せ」と怒られているから、そんなふうに自慢されているとはびっくりだった。
「総司は遅いな。何をしとるだやあ」
おキミさの孫は二人とも男で、上のお兄ちゃんはもう独立して働いていた。わたしと何度か遊んでくれた下の総司さんも大学にあがって下宿していたが、三日前から帰省しているとのことだった。
「高校の友達と久しぶりに会うって出かけたで、遅くなるでしょ」
「何もお地蔵さんの日に出ていかんでもいいようなもんだが。せっかく、ちいちゃが来てくれとるのに」
「十八にもなって、親のいうことなんか聞きませんよ」
「そいじゃあ、総司なん待っとってもしょうがないで、遅なる前に、お地蔵さんを参ってくるか」
生け垣から車道へ出ると、アスファルトから熱気がのぼってきて蒸し暑かった。西の空はまだ白く明るかったが、車道はすでに暗かった。わたしたちと同じように祭りへ行く人の提灯がぼうっと近づいてくる。泰久さんが大きな声で挨拶すると質問された。
「そちらはお孫さんでしたかね」
「うちの孫は男ばっかですわ。もう大きなりましたで家も出ましたが、今日は親戚の子が遊びに来てくれたもんで、一緒にお参りに行くとこですがね」
おキクさが嬉しそうに答えるのに合わせて、わたしは相手の顔も見ないで頭を下げた。
大通りでは警備員さんが赤く光る棒で人々を誘導していた。すっかり人通りが増えて、車のほうが参拝客に遠慮して徐行している。
おキミさがわたしの手を掴んだ。
「ちいちゃ、手を放さんようにしてよ。ここではぐれたら、悪い人にさらわれて、もう一生、会えんようになるかもしれんでね」
さすがは姉妹だ。去年もおととしも、おばあちゃんからまったく同じ言葉で脅されたものだ。おばあちゃんが言うときは、もっと怖い顔だったけど。
お寺の参道は、オレンジ色のライトを点した屋台が並んで昼のように明るかった。
焼きそばが鉄板で混ぜられ、焼きトウモロコシが匂っている。赤や緑のりんご飴が並ぶ横では、かき氷屋さんから氷の削られるシュルシュルという音が響いている。屋台の前にはたくさんの人が並び、壁のようになった背中の間を、寺へ行く人、寺から戻ってくる人が行き来する。わたしは肩からさげた白いポシェットを押さえた。
大丈夫、お財布の感触はちゃんとある。おばあちゃんから特別にもらったお小遣いは掏られてない。
人の波に押されながら進むうち、前方に大きな瓦屋根が見えてきた。
それが寺の表門だった。たくさんの幟(のぼり)がたてられた門前に、お地蔵さんが全部で二十体、並んでいた。つるつる頭に赤いよだれかけ、丸い顔には穏やかな笑みを浮かべ、右手に錫(しゃく)をもって立っている。
「子供が困ってたら助けてくれる仏さんだよ。よく拝んでおきなさいよ」
おキミさがお賽銭を渡してくれた。
泰久さんは「無病息災、家内安全」と大きな声で言って一礼した。
おキミさは「みんな元気で安気で暮らせますように」と呟いて、手をすり合わせた。
わたしは声に出すのが恥ずかしかったので、心のなかで「みんなが元気でありますように。おばあちゃんの足が早く治りますように」とお祈りして、それから、もっと何かお祈りしたほうがいいのかと思ったが、とくに思いつかなかったので、頭だけ下げた。
「さあて、ちいちゃ、お待ちかね。ちいちゃは何が欲しいやあ。おじさんに何でも言ってみやあ。買ってあげるに」
屋台の並ぶ参道に戻ってきたところで、泰久さんが言った。
「何だ、黙っとらんで。ほれ、遠慮せんで」
「おばあちゃんから、お小遣いもらってるんです。お母さんには寺田さんにおねだりしちゃ駄目だよって言われたし」
「まあ、そう言わんと。お小遣いはお小遣いで使ったらいいがね。わたしらね、ちいちゃの喜ぶ顔が見たいんだで、子供は遠慮なん、するもんじゃないよ」
そこまで言われて断り通すのもどうかと思った。あとで叱られそうになったら、泰久さんとおキミさに、どうしてもって言われたんだって言い訳しよう。
心が決まったら、どきどきしてきた。
この、たくさんの屋台の、たくさんの食べ物、たくさんの玩具のなかから一つだけ、何でも、わたしの欲しいものを買ってもらえる。
欲しいもの。本当に欲しいもの。
わたしが欲しいものって何だろう。
周りをぐるりと見回すと、本当にさまざまなものが、オレンジ色のライトを浴びていた。
竹竿に張った針金には、たくさんの仮面が吊されていた。男の子には仮面ライダーや巨大ロボット、女の子には黄色い髪の魔法使い。向かいでは、甚平を着た男の子がお父さんらしい男の人と金魚釣りをしていた。ヨーヨー釣りのビニールプールもあった。たこ焼き、五平餅、みたらしだんごにミニカステラ。姉妹らしい浴衣の女の子二人が、それぞれ綿菓子の白い大きなビニール袋をぶらさげて通っていった。射的の店では詰め襟のホックを外した学生服の中学生が笑い合っていた。くじびきの店には水鉄砲や魔法のステッキ、人生ゲームやリカちゃん人形がところ狭しと飾られていた。
わたしは、泰久さんとおキミさを引き連れて、屋台の前を移動した。
うっかり触れたら壊れてしまいそうな、ガラス細工のペンギンやシロクマがあった。銀杏細工の小鳥も可愛らしい。朱の毛氈(もうせん)には大小のだるまがずらりと並び、ペルシャ猫のぬいぐるみにみつめられた。スノーボールもあったし、水中花も綺麗だった。
他のお祭りにはこれからだって来るだろうけど、このお地蔵さんの屋台を見るのは、きっとこれが最後だ。今晩の記念になるようなものを探さなきゃ。
あまり子供っぽくない、ありきたりでないものがいい。
その屋台では、金属の輪を連ねたバネをあつかっていた。輪の大きさは親指と人差し指でつくる丸より一回り大きい。脇に積み重ねられていた正方形の箱には「マジックスプリング」と記されていた。ターバンを巻いて、黒縁めがねを掛け、あごひげを生やしたお店の人は生真面目な表情で、その金属のバネを操っていた。くるくる巻いた金属の輪が伸びて、右手から左手へ、左手から右手へ移る。
何人かのお客さんが集まったところで、ターバンのおじさんはお店の前に置かれていた階段状の台の横に立った。
その台のいちばん上にバネをのせると、バネは芋虫のように伸び縮みしながら階段を下り始めた。バネの前方が下の段へ落ちると、さらさらと音をたてながら金属の輪が続けざまに落ちる。自身の重みに耐えかねてバネがひっくりかえると、今度はさっきまでの後部が前へ落ち、金属の輪の一つ一つがライトの明かりで虹色に光りながら、同じことが繰り返される。下まで落ちたバネを階段の最上段へのせ直して、ターバンのおじさんは見物客を見回し「電池は要らないよ」と言った。
わたしは、ふたたび階段を下り始めた金属の芋虫から目が離せなかった。
「これが気に入ったかね」
おキミさがお店の人に一つ包んでくれるようにと頼んでいる間に、わたしは包装箱に記された値段を見た。八百円。千円に近い。こんなに高いものをおねだりしたって、お母さんに知られたら、どんなに言い訳したって雷が落ちてくるのは防げない。
やっぱりやめますと言おうとしたわたしに、おキミさは「ほら、なくさんようにね」と正方形の箱が入った袋を渡してくれた。
ああ、もう手遅れだ。今さら返しますなんて言えない。
一瞬は冷や汗が出るほど焦ったけど、買ってもらっちゃったものは仕方ない。一個だけ、今晩だけの特別な思い出なんだし、お母さんだって、面白いのを買ったねって言ってくれるかもしれない。そう思ったら、早くおキミさの家に戻って、マジックスプリングを動かしてみたくてたまらなくなった。
寺田家の縁側では、白いシャツにジーンズ姿の総司さんが長い足を開いて、ぷっぷと種を飛ばしながら西瓜を食べていた。
「ちいちゃもどうぞ」
克子さんが、わたしにも西瓜に塩を振って渡してくれた。
よく冷えていて甘い。
「ちびすけ、何を買ってもらったんだ。おもちゃか」
総司さんが西瓜から顔を上げて訊いてきた。
「ちびすけじゃないし、おもちゃじゃないよ」
わたしは顎をあげて言い返した。
親戚じゅうで、いちばん頭がいいのは総司さんのお兄さんだと言われていた。その人は京都の大学を出て、大きな会社で凄い研究をしているらしい。二番目が総司さんだ。三年のとき、「一にゼロをかけても、二にゼロをかけてもゼロなのはどうして?」と質問したら、担任の先生が「とりあえず、ゼロをかけたらゼロになるって覚えときなさい」ってごまかしたところを、総司さんは「ゼロは無いってことだから、ゼロをかけるってことは、一に何もかけない、二に何もかけないって意味。かけてないから、何もないのは当たり前」と即答してきた。へええと思いながら、「だけど、もともとあった一や二はどこにいっちゃったの?」と訊き返したら、その答えは「インドの山奥」だった。
世界中で誰かがゼロのかけ算をするたびに、かけられたほうの数字がインドの山奥まで吹き飛んでいっちゃうってこと?
「どれ、見せてみろよ」
「手を拭いて。西瓜の汁で汚れちゃう」
「はいはい」
わたしがマジックスプリングを渡すと、総司さんは慣れた手つきで屋台でおじさんがやったように、右手から左手へバネを移し替えてみせた。シャラシャラと、いい音がする。「なんだ、やっぱりおもちゃじゃないか」
「ただのおもちゃじゃないの。ひとりでに階段を下りていくんだよ」
居間から台所へ渡る廊下の暗がりには、総司さんの部屋のある二階へあがる階段があった。手すりもない急勾配の木の階段で、去年まではそこへ近づくのも怖かったのだけど、この時は総司さんが照明をつけてくれるのを待つのももどかしく、マジックスプリングを握りしめて、てっぺんまで駆け上がった。
「よく見ててよ」
最上段へ、マジックスプリングを置く。
廊下の白熱灯に照らされて、バネの一巻き一巻きが輝いていた。
わくわくしながら待ったけど、いつまでたっても動かない。
もう少し、段の端に置くべきだろうか。
バネの輪が、段からはみ出すように置いてみた。
何も起きない。
もう少し、位置をずらしてみよう。
とたんに、マジックスプリングは段から落ちた。金属の輪が連なって伸びることなく、そのまま、すとんと塊ごと下の段に落ちてしまった。
もう一度、試してみたが、同じだった。
今度は階段の途中まで転がっていった。
総司さんは「バッタ屋に騙されたんじゃないか」と笑った。
バッタ屋の意味が分からなかったけれど、馬鹿にされたのは分かった。
「違う。階段の段が高すぎるから、うまくいかないんだよ」
わたしの説明を聞いて、総司さんは自室の扉を開けて蛍光灯をつけた。
いきなり、ものすごい量の本が目に飛び込んできた。重量感のある本棚に、ぎっしり本が詰まっている。そのタイトルは宇宙とか物理とかに関係した、わたしにはちんぷんかんぷんの難しいものばかりだった。二つ並んだ勉強机にはうっすらと埃が積もっている。左の机の上には零戦のプラモデルがのっていた。その部屋で、おもちゃと言えるのはそれだけだった。
総司さんは辞書や大学の教科書、雑誌を床に積んで、段をつくってくれた。
最上段に置いたバネの前方にそっと触れたとたん、金属の芋虫は動き出し、もう一段下へと体を伸ばした。次の段の着地に失敗して、床へ転がってしまったけど、たしかに、一度は屋台でみたのと同じ動きで段を下りた。
「もう一度、やってみて」
総司さんはもったいをつけて、ふたたび最上段にマジックスプリングを置いた。今度は自然に動き出した。トンタントンタン、体をひっくり返しながらリズミカルに階段を下りていく。
「やった。やったああ」
わたしが手を叩くと、総司さんも笑った。
わたしは床に下りたマジックスプリングを両手で持ち上げ、横に伸ばして、右から左へ、左から右へと放り投げて、バネの伸び縮みとシャラシャラ鳴る音を楽しんだ。
あ、と思った時にはもう遅く、金属の輪同士がおかしな具合に噛み合って捻れてしまった。輪をひっぱってみたが、元に戻らない。総司さんに渡したが、総司さんは手にとったきり、難しい顔をしていた。
「これはもう駄目だな」
「どうして? まだ一回しか遊んでないよ」
「しょせんは安物だからな」
安物なんかじゃない。八百円もしたのに。
「お店にもっていったら、直してもらえるかな」
「屋台なんか、もう店じまいしてるさ」
総司さんは包装箱を確認してくれたが、メーカーの連絡先は書いてなかった。
「諦めろ。宇宙のエントロピーは増大する一方だ。どんなものでも、いつかは壊れる。この玩具の寿命は今晩だったってことだ」
「えんとろぴいって?」
総司さんは、秩序は常に失われ続け、壊れるほうへ悪いほうへと向かっていくという意味だと教えてくれた。
「そんなの困るよ。なんとか、よくすることはできないの?」
「ダメなんだ。なにしろ、それが宇宙の法則だから。物は壊れる。人間は年をとる」
総司さんは笑っていたけれど、わたしには笑いごとではなかった。
悪い方へ進んでいくのが宇宙だなんて、そんなこと、初めて聞いた。
この世界には、良いこともあれば悪いこともあるけれど、真面目に一生懸命やっていれば悪いことは避けられるし、もし運悪く、悪いことが起きてしまったとしても乗り越えられる。言葉にしてあらたまって考えたことはなかったけれど、わたしはずっと、そんなふうに信じていた。それなのに。
総司さんはわたしの顔を覗き込んで言った。
「せっかく買ってもらったのに、残念だったな」
わたしの布団は座敷に敷かれた。去年まではおばあちゃんの布団と二つ並んでいたのに、今年は一つだ。だだっ広い十畳の座敷のまんなかの布団は、大海に浮かぶ筏みたいだった。蚊取り線香の煙が渦を巻くなか、わたしが布団に潜り込むと、克子さんが「消すよ」と言って電灯の紐を引いてくれた。シーツは糊がききすぎて、ごわごわしていたけれど冷たくて、お寺まで歩いてほてったふくらはぎには気持ちよかった。
しばらくは居間から、テレビの音声と泰久さんと克子さんの会話する声が聞こえてきたが、そのうち、テレビが消され、ガラス戸越しに漏れてくる明かりが豆電球のオレンジ色に変わった。
座敷の隅に黒々とした影が浮かんだ。
髪の長い女の幽霊みたいでぞくっとするけど、すぐに、そうじゃない、あれは千羽鶴だったと思い返す。それにしても、なんだって千羽鶴が座敷に掛けてあるんだろう。理由が分からない千羽鶴って、ちょっと怖い。
わたしも同級生から千羽鶴をもらったことがある。小学校二年生のときだ。家の前の道路に飛び出して車にはねられて入院した。痛くて苦しくて、時間がたつのが異常に長かった。点滴がガラスの瓶のなかで一滴ずつ落ちる、昼も夜もそれをじっと眺めていたっけ。それを思い出したら、居間にある柱時計の秒針の音が耳につくようになった。
一、二、三、四。五、六、七、八、九、十。
こうして、一秒ずつ、夏休みが過ぎていってしまうんだ。始まる前は小学校最後の夏休みだから、いろんなことをやってみようと思っていたのに、いつもの年と同じく、今年もたいしたことはできなかった。お地蔵さんも終わってしまったし、あと一週間で学校が始まる。宿題は、まだ自由研究が残っていた。総司さんに何をやったらいいか訊いてみればよかったな。「そんなこと、自分で考えろよ」って笑われそうだけど。
総司さんの言うことだから、宇宙がどんどん悪いほうへ向かっているっていうのは本当のことなんだろう。担任の先生も、みんなが使い捨てするせいで、ゴミ捨て場からゴミがあふれてるって言ってたし。
目を閉じると、真っ暗な宇宙空間が頭のなかに広がった。ぽつぽつと白く光っているのは星ではなくて白物家電だ。扉の開いた冷蔵庫がぐるぐると回転している。洗濯機もホースを振り回しながら浮いていた。テレビには白黒の砂嵐が映っていた。
飛び立つ雁のように同じ方向へ飛んでいくのは、たくさんの空き瓶、空き缶だった。
地球は海も陸もゴミで埋まっていた。そのゴミのなかには、あのマジックスプリングも混じっていた。まだ金色に輝いているのに、もう二度と動かない。
何でも壊れちゃうんだ。みんな、ゴミになってしまう。
何を買っても何をつくっても無駄なんだ。一生懸命、勉強したって何にもならない。
生暖かい敷き布団が気持ち悪くなった。
自分の体温でぬくもっていない、冷たい場所を求めて、わたしは寝返りを打った。
さっきよりも柱時計の音が大きくなったようだ。ぜんぜん寝つける気がしなかった。このまま朝まで、誰もいない真っ暗な部屋で、何もかもが悪くなっていくのを一人で感じていなくちゃいけないなんて、つらすぎる。
絶望的な気分をどうすることもできずに縮こまっているうちに、おしっこがしたくなってきた。勧められるまま、西瓜を三切れも食べてしまったからだ。暗がりのなかを起き上がってトイレまで行くのはすごく億劫だったけど、六年生にもなって、よそのおうちでおねしょなんかしちゃったら恥ずかしすぎる。
思い切って布団から出て、居間を通り抜け、暗い廊下を小走りに過ぎてトイレをすませた。来た道を急いで戻ろうとして、廊下右側のふすまが開いているのに気がついた。
蚊帳のなか、女の人が上半身を起こして、こちらを見ていた。
白地に紺の朝顔模様が入った寝間着の両肩に、長い髪が垂れている。
こんなに髪の長い女の人が、この家にいたっけ?
さっきの黒い影は千羽鶴なんかじゃなくて、ほんとうは。
「ちいちゃ、寝れんのか」
おキミさの声だった。
いつもは後ろでひっつめている髪を、寝る時には下ろすのだろう。そのせいで、ずっと若い女の人に見えたのだった。
「一人で寝られんようなら、ここで一緒に寝るかね」
心臓はまだばくばくしていたが、わたしは頭を横に振った。
「ほうか。ちいちゃも、もう六年生だでねえ。今時の子は大人びとるし、座敷に一人で寝とっても、お化けが怖い、なんちゅうことはないわねえ」
おキミさを幽霊と間違えそうになったことは黙っておこう。
「お化けは怖くないんだけど」
「ほかに何か怖いもんがあるかね」
「総司さんが言ってたんだけど、宇宙はどんどん壊れてしまって直せないんだって。それが宇宙の法則なんだって」
「総司がそんなこと言ったのかね。ちいちゃをそんなふうに怖がらせるなんて、いかんねえ」
優しく言われたら、なぜか涙が出てきた。
「ちいちゃ、ちいちゃはいい子だでね。どんなことがあっても、お地蔵さんが守ってちょうだあす。だで、何も心配せんでいいよ。安心して寝なさいや」
今日、お寺で見たお地蔵さんが思い浮かんだ。確かに優しそうな顔だったけど、お地蔵さんだって宇宙のなかにいるには違いないんだから、宇宙の法則にはかなわないんじゃないだろうか。それとも、お地蔵さんになら、宇宙の法則も変えられるんだろうか。
小さな頃に読んだ笠地蔵の昔話を思い出した。
笠をかぶったお地蔵さんが、何体も列をなして黙々と歩いている。
背中には大袋を背負っていた。
あの袋のなかには、何が入っているんだろう。
宝物か。それとも、ゴミだろうか。
お地蔵さんには宇宙の法則は変えられないけど、ゴミになってしまった、みんなの宝物を大事に運んでくれるのかもしれない。
左手でしばらく顎をなぜていたおキミさが、口をひらいた。
「わしは総司みたいに学がないでね、宇宙がどうたらってことは分からんけど、この年まで生きて分かったっちゅうこともある」
「なに」
「どんどん壊れていくかどうかは知らんけどね、何でもかんでも、どんどん変わっていってしまうのは本当のことだよ。わしだって、今はこんな皺くちゃの婆さだけど、昔はちいちゃと同じくらいの年で、ちいちゃのおばあちゃんと一緒に遊んでおったんだでね」
「どんな遊び?」
「お手玉とかね、あやとりとか」
おばあちゃんは時々、若かった頃の話をしてくれた。朝早く起きて遠い市まで野菜を売りに行った話とか、戦争の時には町の人が高価な着物と野菜を取り替えてくれとやってきたこととか。そんな話を聞きながら、わたしが想像するおばあちゃんは、目尻に皺がたくさんあって、手に血管の浮き出た今のおばあちゃんだった。
わたしと同い年くらいのおばあちゃんやおキミさなんて想像できない。おばあちゃんはおばあちゃんだし、おキミさはおキミさだ。
「ちいちゃだって、これからどんどん大きくなっていくでしょう。来年は中学生だし、中学生になったら高校生だ。総司みたいな大学生になるのだって、あっというまだよ」
そんなこと言われても、中学生になることくらいは思い浮かべられるけど、高校生なんて、まだずっと先の先、ぜんぜん実感が湧かない。まして、大学生なんて、宇宙の果てと同じくらい遠い話だ。
「だけどねえ、そうやって、どんどん変わっていっちゃったとしても、今晩、一緒にお地蔵さんにお参りしたことは変わらんよ。ちいちゃが大きくなったら、今晩のことは忘れちゃうだろうけど、もし忘れたとしても、ちいちゃが泊まりに来てくれたことは変わらんのだよ。そいで、ちいちゃが忘れたとしても、おばさんは忘れんでね。ちいちゃが泊まりに来てくれて、ほんとに嬉しかったでね、これからもずうっと覚えとるよ」
闇のなかでも、おキミさが、いつも見せてくれる、あの笑顔をしていることは分かった。
かわいいね、かわいいねえ。ちいちゃはほんとに、かわいいね。
皺のなかに埋もれてしまいそうな細い目が、そう語りかけながら、こちらをみつめてくれていることを、わたしはちゃんと知っていた。
わたしが起きた時、泰久さんはすでに出勤した後で、克子さんは泰久さんと一緒に朝食をすませていた。総司さんは昼まで寝ているつもりらしい。
だから、朝ご飯はわたしとおキミさの二人で食べた。
白いご飯とお味噌汁、目玉焼きと鮭の切り身、白菜のつけものだった。
「お母さん、九時頃に迎えに来らっせるって」
おキミさに言われて、どう返事をしたらいいか分からなかった。名残惜しいような気もするし、遊ぶものも何もないここで、九時までの一時間をどうやって過ごしたらいいのか困るような気もする。
「ほんとに、よう来てちょうたね」
あらたまって言われて、くすぐったかった。
「これ、お土産。何がいいか、いろいろ悩んだけど、ちいちゃは本が好きだでね」
差し出されたのは、児童文学シリーズの『赤毛のアン』だった。
「もうずっと前に読んだことあるよ」とは言わず、わたしはその本を胸に抱いた。壊れてしまったマジックスプリングも鞄に入れた。
母の車に乗り込んだわたしに向かって、あの笑みを浮かべながら、おキミさは窓越しに唇を動かした。急いでハンドルを回して窓を開けると、おキミさは繰り返し「また来てね」「また、おいでよ」「きっとだよ」と言っていた。
わたしがおキミさの家へ泊まりに行ったのは、それが最後だった。
おキミさも、祖母も亡くなって、すでに久しい。
今のわたしは、あの晩の泰久さんや克子さんの年齢を越えている。
祖母やおキミさの年齢を越す日もあるだろう。
だけど、わたしはあの晩のことを覚えている。
きっと、ずっと覚えているだろう。
