
週末にアルバイトがない日は、新宿二丁目で飲むことが多い。日本屈指の、いやアジアきってのゲイタウンは人間の欲で満ちている。ひとりじゃ寂しいから。恋人が欲しいから。一夜の相手を求めているから。から騒ぎをしたいから。出会いを求めてゲイやらレズビアンやらバイやらトランスやらドラァグクイーンやらパンセクシュアルやらよく分からない人間たちが我が物顔でのさばっている。そしてそんな「珍獣」見たさにおどおどと歩く異性愛者すらいる。何かで自分を満たしたい。そんな欲望でギラついた街が私は大好きだ。
海野と私はそんな「狩り場」でエンカウントした。
バーでワンナイトスタンドの相手を探していた。このバーは年齢が同じくらいの女が多い。そして席料を取られないショットバーなので、金がない私のような貧乏大学生には優しい。
別に何かがうまく行かなくて、女を抱きたいわけじゃない。大学もきちんと単位が取れているし、アルバイトはもう少しでチーフに昇格しそうだ。もちろん友達ともうまくやっている。両親は遊びほうけている私に困り顔を見せるけれど、放っておいてくれている。大抵のことは思い通りだ。
陽気な女と楽しくて気持ちのいい一夜を過ごしたかった。認めたくはないけれど、少し寂しい思いをしていたのだと思う。自分には埋めがたい何かがある。そんなものから目をそらしたかった。
何杯目かのテキーラのショットで決めた酔いに任せ、可愛い女の子と話していた。私の口説き文句に彼女は悪い気はしていないようだ。相手を見極めて服や趣味のセンスを褒めて、なぜ自分の魅力に自信がないの? と誠実なまなざしで見つめる。もちろん私が本気でないことは少しだけ匂わせて、それでも一夜だけはいい気持ちをしようと暗に伝える。お酒を飲めるようになって三年。必死になって身につけたその場限りの相手の口説き方。
「宮川」
名前を呼ばれて、肩に力が入った。あと一押しのところだったのに、口説いていた女の子の顔色が変わった。会話の流れが変わってしまった。名前を知らない女の子の気持ちが手からすり抜けていくのが分かった。
いいところで邪魔が入ってしまった。いら立ちを抱えて振り返ると、そこには海野がいた。けれど、私が知っている海野ではなかった。大学で見る彼女とはまったく違っていた。
海野は長い黒髪を丁寧に巻き、趣味の良いパールのネックレスとピアスを身につけて黒のAラインのワンピースを着ていた。マドラーが刺さっているグラスを楽しげに揺らしていた。研究室で見る彼女とは全く違う。
海野は一体何者なんだろうか? 私はひるんだ。
海野は可愛い女の子がいなくなってできた空間にすっぽりと収まった。動揺している私を尻目に、最初から隣にいたように自然に振る舞っていた。
「海野ってレズだったの?」
聞きたいことは沢山あったのに、口から出た愚かな質問だった。
しかも彼女は私の質問には答えず、ほほ笑んでみせた。何なの? 海野は私を困らせて楽しんでいるの?
「宮川は今日の相手を探してる?」
危うい質問をされて、バツが悪くなった。動揺を見透かされないようにグラスに口をつける。知り合いに無理やり心の内をこじ開けられた。認めがたい屈辱でめまいがした。その恥ずかしさをテキーラのせいにしたかった。
「悪い?」
開き直る以外何もできない。グラスに残った酒をあおった。
「じゃあ、私と寝てよ」
海野は迷わず私の手をとった。
「ついて来て」
とにかく情報量が多すぎて処理が追い付かなかった。なんで二丁目にいるの? なんであのバーにいたの? セクシュアルマイノリティなの? なんでそんな素振りすら大学では見せないの? なぜ大学では全然目立たない格好しているの? なんで私のことを知っているの? 女漁りをしている私のこと研究室の人間にふれ回ったりしない? 私と寝るってどういう意味か分かってる? とぐるぐる考えているとラブホテルの前に立っていた。海野は何ひとつ無理をしていない、自然な振る舞いだった。
「ちょっと待って」
目の前にいる海野は私の知っている海野じゃない。混乱していると彼女は笑った。
「怖いの?」
挑発されて顔に血が上った。海野は私の心中を見透かしている。そして怖気づいている私をあざ笑っているようにも見えた。別に怖くなんてない。今まで色んな女と寝てきた。そこに海野ひとり加わったところで数字がひとつ増えるだけ。たったひとり。それ以上の意味なんてない。
ムキになって逆に海野の手を引っ張ってホテルに入った。自分の手が震えているのはわかっている。
「シャワー先にどうぞ」
荷物をソファに放って、投げやりに言った。
「ありがとう」
海野は手際よく浴室に向かい、私は持て余すようにベッドに腰かけた。このままバックレてもいいのかもしれない。ごめん、どうかしていた、と正直に海野に言って謝ればいい。
怖かったわけではない。けれど、本当にこのまま寝てしまっていいのだろうか。そんな疑問が頭をもたげた。
海野は私を責めるような子じゃないと思いたい。けれど、確信できることは一つもなかった。酒を飲んで早まったことをした。安い挑発に乗るなんて確実に早まったことをした。今日誰かと寝たいなんて思わなければよかった。二丁目になんて来なければよかった。曖昧な考えと後悔が入り乱れてテキーラが逆流しそうだ。
「どうしたの? 酔った?」
背後から腕が伸びてきて、背中に海野の柔らかい胸の感覚が伝わった。
ああ、とため息が出た。こんな時ですら自分の欲望をしっかりと感じ取った。私は俗物なんだ。すごく下品でつまらない人間なんだ。自覚すると欲望は純度を増した。伸びていた海野の手首を引っ張り、彼女をベッドに押し倒した。何もかもテキーラのせいにしよう。早まったことでもいい。間違っていたっていい。確信なんてできなくてもいい。何も考えないで海野の体を貪りたい。それ以上のことを考える意味はない。
絶頂を迎えた体をベッドに横たえた。ひんやりとした白いシーツが、熱をはらんだ体に触れる。
枕に頭を預けて、海野の顔を見た。彼女は笑っている。ちゃんと海野を満足させられたことに安堵した。頬にかかった黒い髪を指でそっと撫でた。
体が快楽で満ちるこの瞬間が好きだ。もうお腹がいっぱい。これ以上何も入らないと体に言わせる。そんな時間が私には大切だ
シーツに無秩序に流れている海野の黒い髪は掛け値なしに綺麗と思う。壊れ物のような肩に触れると、汗ばんだ肌は手のひらに吸い付いた。言葉はいらない。確かめることは十分すぎるほど体で語った。
「シャワー浴びてくる」
名残り惜しかったけれど、勢いよく出てくる湯を頭から浴びるために浴室に向かった。
好きな女性がいた。年上の綺麗なひとだった。彼女ともバーで知り合った。酒を上品に飲み、陽気なひとだった。けれどときどき影を感じさせた。陰影は彼女を飾っていっそう色っぽくした。
彼女は私の前で心を動かすことはなかった。動揺も欲望も何ひとつ私には見せなかった。何ひとつ与えてくれなかった。
それでもそばにいたくて、手のかかる妹のような立場に甘んじた。決して振り向かない、手に入らない人間を追いたくなるのは私の性だ。そんな欲望すら見透かしていたのかもしれない。彼女はただ笑っていた。
先週末、可愛がってもらおうと彼女がいるバーに行った。彼女の隣に同じくらい綺麗なひとが座っていた。
目を輝かせている彼女を見てすべてを悟った。そして私はドアを閉じた。
失恋と呼べるものではないと知っている。自分はただの憧れと曖昧な、名付け難いあわい好意を抱いていただけだと分かっていた。
彼女を抱きたかった。抱かれたかった。優しくして、優しくされたかった。けれど、彼女とどんな関係を築けるか想像できなかった。だから自分の思いは終わるべくして終わっただけだ。
それがとても悲しかった。悲しかったと認めることが難しかった。シャワーの音で声はかき消される。少しだけ泣いた。
長いシャワーを浴びて出ると、部屋に海野はいなかった。確かめたけれど書き置きもない。一気に疲れを感じて、ため息をついた。あの女は一体なんなんだ。
「宮川が書類提出してないって教授が怒っていたよ」
「やばい。忘れてた」
面倒だったので土曜日はそのままホテルに泊まり、翌日バイトに行った。週が明ければいつも通りの日々が待っている。お祭り騒ぎの二丁目とは違う、暖かい陽の当たる穏やかな日常が目の前に広がっている。私は大学院生として、下品な自分を隠している。
「海野ってどんな人だっけ?」
友人はなぜそんなことを聞くのか不思議そうに頭をかしげた。
「隣の研究室の海野?」
「うん」
海野の論文は着眼点が面白いことで知られていた。修士課程が終わったら博士に行くだろうと誰もが思っている。人づき合いに興味はなさそうで、コミュニケーションも最低限で済ましている。ひとりが好きなのか研究室には寄り付かず、図書館でPCと本を交互に見つめている。身なりにも気を遣わず、野暮ったく髪をひとつにまとめ、特徴のない眼鏡をかけていた。同じ研究室の人間から疎んじられることはなく、静かに、けれど、確かにいた。
海野について知っていることは、それくらいだ。
「大人しい子だよね。飲み会にもあんま来ないって言ってた」
彼女は人畜無害な人間だった。あの夜の海野は本当に海野だったのか、私は夢を見ていたのではないか。適切に空調が管理された部屋で、週末のことを思い出した。したたかに酔った私は喧噪に浮かれていただけなのかもしれない。あの女は海野なのか。海野であって欲しくないという願いがあった。
図書館から取り寄せていた論文の複写が届いたとメールが届いた。ついでに書架から本を借りようと閉館間近の図書館に駆け込んだ。
目当ての本を検索したけれど、本棚にはなく書庫に行く必要があった。地下室に行って間隔の狭い本棚に体を滑り込ませた。
「宮川」
「びっ……くりした」
本を読むことに夢中になっていたのか、海野の気配に気づかなかった。
「すごい声出たね」
海野は愉快そうに笑った。
「つかぬ事をお聞きしますが……」
「何?」
「この前寝ました、よね?」
私はかしこまるしかない。海野であって欲しくない。彼女は隣の研究室にいる同期だ。そんな人間と関係を持つなんて、どう考えても面倒なことにしかならない。海野は夜遊びをするような人間ではない。私が寝たのは海野じゃない。自分勝手な願望を彼女に押しつけた。
海野はかけていた眼鏡を床に投げ捨てて、結わいていた髪を解いた。
彼女のその姿を見て思い知った。あの夜寝たのは間違いなく海野だ。痛む頭に手を当てて、大きく息を吐いた。
海野はそんな私の腕を素早く本棚に押しつけた。何をされているのか分からず呆けていると、私のくちびるに海野は自分のそれを重ねた。生々しいくちびるの感覚で、あの夜のことがフラッシュバックする。思い出したくもないのに皮膚の下にある肉の柔らかさが、指先に伝わる生ぬるい体温が、体液の味がよみがえる。今触れている海野は、あの夜の女と同じだと思い知る。静かな図書館で私の耳に水音が響き、恥ずかしさで足が震えた。目を強く閉じて耐えた。海野はいつまでたってもやめてくれない。逃げようと体をよじると、より強い腕力で私を本棚に張り付けた。
及び腰になって崩れ落ちそうになると、海野はようやく手首を離した。そしてかがんで床に放った眼鏡を拾った。
「もう閉まるよ」
閉館時間は知っている。知りたかったことは、そんなことじゃない。視界の先から海野が消えると、私は床に尻をついた。あの女は何をしたいんだ。私をどうしたいんだ。切実な問いは、不穏な雨雲のように浮かんでいる。
週末、バーに行った。金曜日の二丁目は騒がしい。喧噪をかき分けて扉を開けると狭い店内は人であふれていた。
海野に真意を問いたい。私をなぜ翻弄するのか。単に彼女は人を振り回して楽しんでいるだけかもしれない。ただの自意識過剰なのかもしれない。深く考えない方がいいのかもしれない。こんなことを考えることに意味がない。真意を知りたいなら海野に問いただせばいいだけだ。
大学で海野を呼び出して、なぜ私をもてあそぶの? なぜ私と寝たいの? 聞きたかった。けれど、陽の高い内に話すべき事じゃない。
グラスを持って壁にもたれていると、知り合いが声をかけてきた。彼女は私の隣に来て話し始めた。私も話を聞いているふりをして海野を待っていた。
視線が海野を捉えると知り合いに断りを入れて、私は人波をかき分けた。けれど、すぐに足を止めた。
海野の隣には少年のように愛らしい女がいた。海野は親し気に彼女と話している。きっとふたりは親密な仲なのだろう。ふたりの間にある距離が物語っている。頭に血が上ると、大股で店の中を歩いた。
「海野」
海野は驚くこともなく、堂々と私を見つめた。彼女の隣にいた女はまたね、と声をかけて、海野は小さく手を振った。
心のうちを言いたい。海野を責め立てたい。けれど今ここでは何もできない。寝たただの知り合いにすぎないのに、いらだった。
自分の肩に他人の体がぶつかると、仕方なく海野の隣に収まった。手持ち無沙汰になって、疑問のひとつを彼女にぶつける。
「よく来るの?」
「週末にたまに」
海野は私を見ることなく店の中を見ていた。なぜ私にちょっかいを出すのか聞けばいい。その前に聞きたいことがあった。子どもじみた意地悪をしたかった。
「さっきの女の子は彼女?」
海野はようやく私を見つめた。そして言葉の代わりに人差し指をくちびるにあてた。
秘密。そう言いたいのだろう。頭に血が上って海野をにらみつけた。
「このビッチ」
誉め言葉だと言いたげに海野は笑っていた。彼女は私をもてあそぶことを楽しんでいる。そこにきっと意味はない。
海野を屈服させたい。許してと声を上げさせたい。悲鳴が聞きたい。残酷な欲望が沸き上がった。
海野の手首を掴んで店を出た。相手を支配するために、性行為は有効な手段だと私は知っている。
手ひどく抱いた自覚はあった。けれど、海野は決して嫌だとは言わなかった。私は他人を簡単に犯す卑怯な人間であると逆に思い知らされた。私が望んだとはいえ自己嫌悪で吐きそうになっていた。
海野は意気消沈している私の背中を撫でた。泣きたくなったけれど、そんな素振りを見せたくない。翻弄するくせに、海野は私に優しい。思考がひどく乱れて頭を抱えた。
観念して一番大事だと思った問いを投げつけた。
「私が好きなの?」
「好きじゃない」
つぶやくように海野は言った。
「じゃあ、なんでこんなことを許すの?」
「復讐だから。宮川は残酷な人間だって思い知らせたかった」
「海野と話したことはほとんどない」
何ひとつ理解できない。なぜこんな目にあっているのだろう。海野に恨まれることはしていない。ため息をつく以外できることはない。
背中に海野の重みを感じた。触れている彼女の肌が振動している。彼女はきっと笑っている。
「次は私の番」
背後から手が伸びてきた。
海野は私をとことん優しく抱いた。指先から慈しみすら感じた。やわらかで弾力のある肌を私に惜しみなく晒した。海野が与える快楽は私が知らないものだった。自分が海野にしたことが浮かび上って怖くなった。レイプみたいに抱いた私をとことん甘やかす。彼女の体にすがるしかない。ごめんなさい。お願い、やめて。こんなことしないで。助けて。海野に言わせたかった言葉をうわ言のように繰り返した。海野は背筋が凍るほど優しかった。すべてが終わると、私は犯されたのだとぼんやりと思った。
海野が大学を辞めると聞いたのは翌週のことだった。
「修士号取れる目前なのに」
研究室の同期が言うと、もう驚く気力すら湧かない。海野は故郷の酒屋を継ぐらしい。離れられると安堵はできなかった。海野はひどい。自分が遊ばれるだけ遊ばれて、興味を持たれなくなったら捨てられるおもちゃになった気がした。
海野に振り回されて、打ちひしがれていた。行き詰まりを感じたので二丁目に足を運んだ。そこでは見返りを求められるけれど、誰かが甘やかしてくれる。
いつもと違うバーに行くと、先日まで恋をしていた年上の彼女がいた。
カジュアルな挨拶をして、隣に座った。
「元気ないね」
「少しだけ」
彼女は愉快そうな顔をした。
「女?」
答えに迷って何も言わなかった。確かに海野は女だ。けれど、お互い想い合っているわけじゃない。割り切った関係でもない。海野は私を侵食する人間だ。私にとってはエイリアンのような未知の存在になっている。
上品な笑い声が隣から聞こえた。
「好きなんだねえ」
のん気につぶやく彼女に、そんなんじゃないとすぐに否定した。
「さっきから表情が何度も変わっているの、自覚してない? 最近まで私に恋していたくせに」
彼女にかすかな恋心を抱いていたことを知られたくなかった。けれど、いま動揺すらしていない。取り繕うことを諦めていた。
頭の中にある女は海野だけだった。海野の意図はわからない。ただ体が触れただけなのに、海野は私を奪った。私を奪った、私をめちゃくちゃにする海野が好きだ。認めるのが難しい。けれど、その通りだ。他にできることもないので受け入れるしかない。
「おねえさんが慰めてあげよう」
私は彼女の肩に頭を預けた。小さな手で撫でられる。本物の妹になった気分で、されるがままに彼女の手を受け入れた。
海野がいつ新幹線に乗るかは知っていた。隣の研究室の知り合いから聞いた。ただ会えるかどうかは分からない。ストーカーのようなことをしている自覚はあった。
返してもらおう。海野が楽しんで遊んだ私を返してもらおうと、その一心で駅に向かった。
キャリーバッグを運ぶ人達を何人も見送った。無謀なことだったと思い知って、改札に戻ろうとした時、海野を見つけた。
「宮川」
海野は初めて私の存在に驚いた。その表情に私も驚いた。
「なんでここにいるの?」
初めて動揺している海野を見た。私は下を向いて、言いたかったことを言う。
「私を、返して」
ようやっとで出てきた私の言葉に、海野は満足げに無邪気な笑顔を浮かべた。
「できない」
海野は腕を掴んで、肩口に私の頭を置いた。
「会った瞬間から私のすべてを奪った罰だよ。好きなんかじゃない。宮川を愛している」
海野は囁いた。抱擁を解くと彼女は美しく笑った。そして滑り込むように新幹線に乗り込んだ。
何が起こったか分からなかった。新幹線が出て、海野の言葉の意味を知ってホームにへたり込んだ。
海野は私を知るためにどのくらいの時間、私を見つめていたのだろう。どんな犠牲を払ったのだろう。たった二晩一緒に過ごすために、どんな自分を、どれだけ手放したのだろう。
彼女の狂気を感じ取っておののいた。海野の指先は何ひとつ嘘をついていなかった。そして私は大きな愛情を注がれるほど上等な人間でないことも知っている。彼女は多くを求めなかった。もっと何かできたのに。ひどい後悔が荒波のように私を襲う。
愚かなことをしなくても、きっと海野を好きになった。けれど、彼女が私に求めていたものは恋人としての好意ではない。もっと大きな、愛と呼ぶには歪んでいる欲望を彼女は私で満たしたかったのだろう。
海野のしたことがおかしくて笑った。バカな海野に好き勝手された自分を心の底から哀れんで嗚咽した。
私は海野を忘れない。忘れられない。彼女の復讐は完遂された。
〈了〉
謝辞 長い間なにも書けなかった私を見守り、支え、導き、誰よりも信じてくれた友人の大野典宏さんに心からの感謝を。
