「甲府三景」飯野文彦

 そうですね。死んでしまった親しい人に対して僕らができるのは、ただ彼らを記憶しつづけることだけです。
「少年カフカ」Replay to184 村上春樹

[葡萄娘]

 Hさんから直々に電話をいただき、お会いしたのは、今から十年以上、昔の話である。Hさんのお名前は、かねがね耳にしていた。戦後すぐに、誰でも知っている大出版社に就職し、多くの名作を世に送り出した伝説の編集者である。
「新しく出版社を起こしましてね。ぜひ何か書いていただけたらと思いまして」
 丁重にそう言われて、感謝とともに緊張にも襲われながら、一度お会いすることとなった。怖いかも、威嚇されるんじゃ……。ところがいざ上京し、文京区音羽にあった、新会社の応接間で、お会いしたHさんは、おだやかな笑みを浮かべた、まさに好好爺という言葉がぴったりと当てはまる人物だった。
 出された緑茶で喉の渇きを潤しながら話すうち、大正十三年のお生まれだと知った。わたしの父は大正十四年生まれだったから、一つ年上だが、同世代か。その頃、まだ父は生きていたけれど、ずいぶんと衰えて、デイサービスと病院に通う日々、そうそう、思い出した、Hさんの電話を受けたのは、診察を終えた父を車で待たせ、調剤薬局に薬を取りに行ったときだった。
 甲府に住んでいることを話すと、Hさんは昔、某有名作家が長野に別荘を持っており、そこを訪ねる途中、甲府やその周辺を観光した話をしてくれた。月日が経ったのと、緊張していたのとで、ほとんどの部分は失念したけれど、二つ想い出せることがある。葡萄娘と昇仙峡の話である。
 葡萄娘、勝沼の辺りか、一面葡萄畑に囲まれた道の両脇に、葡萄を売る若い女性たちがいたという。彼女たちが葡萄娘で、
「すこぶる愛想は良いんですが、なかなかに強引で。通せんぼうして、買うまで車を発進させないんですよ」
 ちょっと前のことを思い出すみたいに苦笑するHさんの顔が、ちょっと前のことのように、わたしの脳裏に浮かぶ。地元でありながら、葡萄娘という言葉は、そのときはじめて耳にした。地元の人、親戚や親からも聞いたことがなかった。
 長いあいだ、忘れていたのだが、ふと先日、地元のテレビ放送、若い女性が〈甲州市フルーツ娘〉として葡萄やワインのPRするとのニュースを見て〈葡萄娘〉という言葉が、記憶の奥から浮かび上がってきた。と、同時にもう一つ記憶に残っていた昇仙峡の話も思い浮かんでくる。
「昇仙峡観光したとき、ちょっと歩くと、道ばたに水晶の塊が落ちていたもんです」
 Hさんは言ったが、正直、わたしは眉唾物で聞いていた。いくら昔のこととはいえ、ほんとうだったら、すぐに持ちかえられてしまっていると思ったからだ。昇仙峡から水晶が取れたのは知っているけれど、もっともっと昔の話だと思いこんでいた。
 しかしHさんが話していたのは、戦前だったのではないか。それだったら、あり得るかもなどと、酒毒に犯された頭で思った。そうか戦前だったら、葡萄娘も居たかもしれない。などと思いがふくらみ、勝手な妄想をする。
 ネットで〈戦前 葡萄娘〉〈昇仙峡 水晶発掘〉などと思いつくまま検索するうちに、甲州市の広報誌で葡萄娘を特集した記事を見つけた。しかし、それは戦前ではなかった。
〈かすりの着物姿でぶどう郷をPR 昭和29年8月に「ぶどう娘」が誕生しました。〉
 とあった。戦前ではなかった、と、戦前とは酔ったわたしの一方的な思いこみ、Hさんも有名作家の別荘へ行く途中、つまり戦後、就職してからの話だったと気づく。
 そうなると、やっぱり昇仙峡の水晶の塊は、勘違い、はたまたリップサービスだったか。それでも、とネットで検索するうちに〈彩石の蔵〉というのを見つけた。石和にある展示場らしいが、ホームページにも昇仙峡での水晶の歴史が詳しく書かれている。これによるとHさんの言ったように、戦後まもない頃には、昇仙峡の道ばたに水晶の塊が落ちていた可能性は高いと知った。
「Hさん、すみません」
 思い込みで、眉唾だと判断した浅学ぶり、今さらながら、Hさんに詫びた。さらにだらだら検索していると、おもしろい画像を見つけた。某フリマのページだったが、かすりの着物姿、手に葡萄の入った籠を持った、水晶で作ったこけしの写真が載っていたのだ。編み笠をかぶった頭部は木製だが、身体は水晶でできているらしい。
 こけしなどまったく興味がなかったけれど、見ているうちに、すでにほろ酔いだったこともある。Hさんとの約束、何か一作長編を、は結局果たせず、不義理をしたまま、すでに鬼籍に入られて何年かが経つ。Hさんとの会話で、脳裏に残っている二つが、合わさり、重なりあい、すると、なぜかそのこけしが妙に愛おしく思え、値段も二千円ほど、それならと購入したのである。
 支払いを済ませ、一週間ほどで届いた。十センチちょっとの小柄なものだった。ずいぶんと古びており、水晶の部分も汚れている、これで二千円か、と、正直思い、それでも後悔はしない、Hさんがなくなって何もしていないままだったのだから、せめてもの供養と、わたしはそれに向かって両手を合わせた。
 実はもう一つ、わたしが自分を大酒飲みだと告白したとき、不完全ながらHさんが言った言葉を覚えている。
 ――酒を呑んで、気がおおきくなって、天下を取ったような気になって……。
 この後、Hさんがどうつづけたか、覚えていない、想い出せない。隠しているのではなく、まさに自分自身のことを言われたようで赤面し、うつむき、いつしか記憶から閉め出したか。それともどこか記憶の襞に引っかかっていて、なにかの拍子に、ひょいと浮かび上がってくるか、葡萄娘や昇仙峡のように。
「ありがとう」
 はっとして、辺りを見た。リビングのテーブルに向かって坐り、一人、ハイボールを飲んでいた。オープンキッチンのカウンターの向こうに、家人が立っている。IHを使って、何か料理をしている。
「なにか、言った?」
「なにも。なんで?」
「ありがとうって……」
「なにかしてくれたの?」
「いや、そうじゃないけど」
「それじゃ、ますます言うわけないでしょ」
 確かに、それじゃ……。
 改めて、小柄なこけしを見た。よく見たわけではない、気のせいだろう、それでも、表情がやわらかくなっている気がする。温厚な表情が、あのときのHさんとだぶる。その途端、曖昧だった、ありがとうという声が、脳裏で反芻され、じわじわと記憶と重なって、炙り出されてくる。声はHさんのものだったのである。

[一年、経ったら]

 甲府駅の改札を出て、北口方面へ歩きかけたが、すぐに足を止めた、その前に……。南口の階段を下り、その足を左側に向けた。
 ヨドバシカメラ、あの頃はまだ山交百貨店だった、の脇を抜けると、右前方に石垣が見える。舗装された坂道を登り、天守閣近くの広場まで上がった。柵に両手を置き、眼前に広がる盆地の風景を見た。心地よい風が吹きつける。あのときも、そうだった、あのときも、ここだった、と思ったとき、
「ここだと思った」
 と、背後から声がした。
 振り向くと瑞穂が立っている。瑞穂はわたしの隣りに立ち、盆地を眺めた。さわやかな風が、彼女の黒髪を靡(なび)かせる。あのときのように。
「来るって、わかってた」
「ばればれか」
「でも……、ばか」
 瑞穂は涙声で言った。わたしは、それには答えず、彼女の手に手を重ねた。
「ご両親に、ご挨拶に行こう」
「もう話しちゃった。もしかしたら、来てくれるかもって。二人とも、苦笑してたけど」
 わたしたちは手を取り合い、舞鶴城公園をあとにした。駅の北口に出て、北西に進み、朝日小学校の近くにある、彼女の今の住まいまで足を運ぶ。
 わたしは、あのとき、彼女の兄さんにしたように、深々と頭を下げた。あのときの兄さんのように、ご両親ともに、わたしを受け入れてくれた。
    ◇ ◇
 夕方近い時刻、Tのスマホに妻から電話が入った。
「どうした? 配達の途中だ」
「Sくんの写真、あなたが飾ったの?」
「なんのことだ?」
「お仏壇に、瑞穂ちゃんの写真と並べて」
「ばかな……。わかった、すぐ帰る」
 ライトバンを止めて、会社に電話を入れた。
「配達は終わりました。すみません、娘が熱を出しまして……はい、直帰します」
 スマホを切り、そこに浮かんだ日付を見た。瑞穂の命日。三回忌の法要は、十日前に済ませてある。しかし、まさか本当に。
 Sは大学時代所属していたサークルの、二期後輩だった。気があい、よくつるんで、飲みに行ったものだ。夏休み、甲府の実家にも遊びに来た。両親もまだ健在で、そのとき、高校生だった瑞穂と顔を合わせて……。
 遠距離交際をつづけていたらしい。瑞穂は高校を卒業すると、地元の信用金庫に就職した。ほどなく旅行に行っていた両親が、事故で亡くなった。両親の一周忌が済んで、しばらく経ったとき、Sが来た。Tに頭を下げて、
「瑞穂さんと結婚させてください」
 と言った。Tは苦笑した。
「おいおい、確かに家を継いではいるが、おれに言われても」
「ご両親には、先ほどご挨拶を。しかし……」
「二人とも、あの世で喜んでるよ」
「じゃあ、許して……」
「当たり前だろう。むしろ、お前でほっとしてる。さあ、前祝いだ。飲もう」
 ところが、それから半年ほど後。仕事の都合でSが来られず、式の打ち合わせに一人、軽自動車で出向いた瑞穂は、酔っ払い運転のトラックに衝突されて。

 家に帰るなり、Tは仏間へ行った。妻の言うとおりだった。
「誰がやったのかしら?」
「来たんだよ、あいつ。いや、いる。あいつのことだ、先に寺へ行って、親父とおふくろに挨拶して、許しを得てから、ここに」
「そんな……」
「今日は瑞穂の二度目の命日。そしてこいつの一周忌だ」
「思い出すわね。二人そろってやって来て、Sくん、すごく緊張してて。親代わりだからって、あなたに深々と頭を下げて『瑞穂さんと結婚させてください』って。でも……」
 Tは台所から、湯飲み茶碗と一升瓶に入ったワインを持ってきた。湯飲みに注ぐと、仏壇の前であぐらをかき、二人の写真を見上げながら飲んだ。
 瑞穂の通夜の晩、Sは同じ台詞を口にした。
 ――からかってるのか?
 しかしSは、真顔のままだった。本気だと伝わり、Tは首を横に振った。
 ――いや、ゆるさん。馬鹿なこと言ってないで、忘れてくれ。
 ――いいえ。決心は、かわりません。
「一年、か」
 一年というのが、Sのあだ名だった。
 ――昔の人は、石の上にも三年なんて言いましたけど、現代、三年は長い。それでもせめて一年。何ごとも一年は待ったり、つづけたりしなければって思うんです。
 いっしょに飲んだとき、Sの口から何度となく耳にしたものだ。一年前、彼が好きだったミレー〈種をまく人〉の絵はがきが届いた。狭いスペースには〈一年、経ったら〉とだけ書かれており、それを読んだ次の瞬間、大学時代の仲間から電話が来て。
「だからって、自分で……」
 Tは湯飲みをもう一つ持ってくると、葡萄酒を注ぎ、Sの写真の前に置いた。
「おれが悪かった。どうか、瑞穂を幸せにしてやってくれ」
 あぐらをかいて飲んでいると、もうすぐ五歳になる娘が、保育園から帰ってきた。
「あ、パパ、いる。お仕事は?」
「お前が熱を出したんで、早引けした」
「えーっ、それって、ずる休みじゃん。しかも、こんな時間から、お酒飲んでる。ママに言いつけてやる。ママー、パパったら……」
 娘は台所に駆けていった。しかし、妻は何も言いに来ない。そうだ線香、と思い、仏壇に近づいた。湯飲み茶碗が、空になっていた。気のせいか、Sだけでなく、瑞穂の頬もほんのり桜色。

[もじずり]

 二階の自室に籠もっていても、原稿は一行どころか、一字として進まない。
「飲みてえ」
 しかしまだ陽も高く、夕方には保育園へ孫を迎えに行かなくてはならない。アイスコーヒーでも飲むか、階下に降りると、知らない男が、リビングにいた。食卓に向かって、腰を下ろしている。仕事に出た家人が、玄関の鍵を掛け忘れた、いつものことだ、そこから侵入してきたか。
 男は、わたしを見るなり、言った。
「もじずりを持ってきましたよ」
 まじまじと相手を見た。わたしよりも年配の、どこかで見た記憶がある。
「F……先生ですか?」
 わたしが言うと、彼は頷いた。
「あんた、もじずりを食いたいって、言ってたから。食べやすく切って、茹でてきた」
 そうか。陽も高く、まだ飲んでいないというのに、酒毒(しゅどく)、骨の髄まで染み入って、飲まなくとも〈視る〉ようになったか。
    ◇ ◇
 甲府・桜座の年末は、毎年、三上寛ライブで締めくくられる。年に一度、郷里に残っていた深沢七郎のギターに、何と言うのか、書物なら虫干し、家なら風通し、さしずめギターは音鳴らしとでも言うのか。寛さんが、そのギターでライブを行う。
 わたしが通うようになった当初は、ゲストがあった。詩人の白石かずこさんだったり、地元のラッパーBBさんが、深沢七郎ゆかりの唄を歌ったりしていた。しかしここ数年は、寛さんが一人でライブを行っている。
 寛さんのライブは、川を流れる一艘の舟のようだ。いったんギターを鳴らした瞬間から、流れ出し、MCと演奏の区別なく、近況を話していたかと思うと、嫁いびりの民謡『弥三郎節』を唄っていたり、深沢七郎の思い出を語っていたと思うと『夢は夜ひらく』がはじまり、独特の演歌ならぬ怨歌が、からみついてくる。それらすべてにギターの音色が重なり、常に飲みながら聴いているわたしは、酩酊の中でとろりとろり、笛吹川を小舟で下っている。
 石和辺り、深沢七郎の故郷の辺り。面識はないけれど、写真は幾度となく目にしている。その写真を見て、ある種の親近感と同時に、嫌悪をも感じる。近親憎悪というやつか。目から頬骨の辺り、口元を見るに付け、似ている、特徴のある顔、ああ山梨の人だと思ってしまう。
 十年以上前、昔から父と知り合いだった人に、父とそっくりになってきた、と言われた。ちがうと思ったが、還暦を過ぎて、ふと鏡に向かったとき、たしかに、と思うようになった。娘の友だちが遊びに来て、出身が父と同じ地区だと聞き、顔を見て、たしかに、と思った。特徴があるのだ。その特徴を深沢七郎にも感じる。

 深沢七郎の良い読者ではない。『楢山節考』『笛吹川』『甲州子守唄』その他のもろもろを読んでいるとも言えぬ、目を通した程度で、その面白さ、どこかぴんと来ない節がある。なに、かまうものか、寛さんは深沢七郎とお付き合いこそあれ、ほとんど読んでいないと言っていた。どこでからまるかというと、生前の交際、印象が、深沢七郎のギターの音色に乗って、桜座を満たし、流れていく。
「寛さん、体力ありますね」
「筋トレやってるからね」
「還暦、過ぎました。好きな作家のほとんどが、わたしより、はやく死んでて」
「深沢さんは、もっと生きただろう」
 そんな会話から、深沢七郎とわたしの距離がわかってしまう。桜座にいたお客さんが、スマホで調べ、七十三歳まで生きていた、理髪店へ行って、付き人が小用に立ち、戻ってきたら死んでいた、と教えてくれた。
 こうなると足掻くのは悪い癖。酔いながらも何か一言、気の利いたことを言わなければ、と、気がついたらわたしは言っていた。
「もじずりを食べてみたい」
 深沢七郎の作品の中では、何度となく読み返している『みちのくの人形たち』に出てきたのを、頭のどこかで憶えていたらしい。
 ――なにそれ?
 ――植物で、毒はないみたいですが、苦くて、とても食べられないみたいですよ。
「いや、だからこそ食べてみたい」
 何を意地になったか、ここを押し通さなくては、と気張っているわたしがおり、場は静まり、誰かが話題を変えた。
    ◇ ◇
 テーブルの前を見ると、あいかわらずF先生は坐っており、テーブルには、F先生曰く〈もじずり〉が小皿に載せて、置いてある。
 毒でないのなら、せっかく持って来てくださったのだ、食べなければ、失礼にあたる。そうだ、冷蔵庫に宝缶酎ハイが入っている、それで流し込んでしまえばいい。保育園の迎え、頭をよぎったが、なに一杯だけだ、自分のために飲むのではない、郷土の作家、大先輩、歓迎するため。
 すみません、と席を外した。冷蔵庫から宝缶酎ハイ五百ミリリットル、コップを二つ、テーブルに置いた。F先生は飲まないと記憶にあったが、プルトップを外し、二つのコップに注いだ。
「飲むよ。いくら飲んでも、悪酔いしない。気分が良くなるだけだ」
「そうなんですか?」
 F先生は、ごくごくッと飲み干した。うまそうな飲み方、こんなにうまそうに飲めるなら、無理して、こっちにいなくても――。勝手に、テレビのスイッチが入った。ユーチューブか、桜座のステージ、寛さんが『弥三郎節』熱唱している。

 九つァエー ここの親達ァ皆鬼だ
 ここさ来る嫁 皆馬鹿だ
 十ァエー 隣知らずの牡丹の餅コ
 嫁さ喰せねで 皆かくす

 食べよう、すぐに酎ハイで流し込もう。いただきます、と箸を忘れた、なに、手でつまみ、口に入れる。それでも、ふとした好奇心、一噛み二噛み、あれ、コリッとした硬さ、植物とは思えない。
「これ、砂肝じゃないですか」
 F先生は、微笑み、消えた。(了)