「うつろなテレポーター」八杉将司

 八杉将司さんの短編集(『八杉将司短編集 ハルシネーション』、SFユースティティア)を刊行して一年が経ちました。短編とショートショートの一部を収録しただけでもかなりの枚数(400字詰め原稿用紙原稿用紙換算で820枚)となったので、まずは、単価を抑えられる電子書籍で刊行しました。追悼本ではなく短編集の刊行を選んだのは、八杉さんは個人短編集が出てしかるべき作家だと考えていたからで、書き手の全体像を把握するとっかかりをつくるため、全著作リストと、三本の作家論も併録しました。

 作家や作品にとっては言葉がすべてです。この短編集の刊行によって言葉は届いただろうか。届くべきところへ届いただろうか。それは私たちにはわかりません。ただ、作品へと続く扉を開き続ける限り、誰かが必ず作品を手にとり、届くべき場所に何かが届くでしょう。

 刊行時、片理誠さんによる作家論を SF Prologue Waveで全文公開しましたが、今年も収録作から選んだ一作「うつろなテレポーター」を、こちらで全文公開いたします。「SF Japan 2007WINTER」(徳間書店 2007年)に掲載され、年刊日本SF傑作選『虚構機関』(東京創元社 2008年)に転載された作品なので、既読の方も多いかと思います。しかし、どのような作品でも、再読で初めて気づくことは多いものです。新たな言葉が見出され、新たな作家像が焦点を結ぶことを、心の底から望みます。

SF PrologueWave編集部 & 上田早夕里


「うつろなテレポーター」八杉将司

      1

 消していたはずのテレビが唐突についた。アナウンサーの興奮した声が響く。
『決まりました! 複製されるコロニーがたった今、告げられました! 我々のラムダBです! 史上初めて我々が複製されることになりました! 中央スクエアに集まっていた市民たちは喜びに沸いております!』
 トレスは食べようとした朝食のベーグルを落としそうになった。テレビを見ると、中央スクエアでのパブリックビューイングイベントに集まった数千人の市民が歓喜していた。
 強制受信である。通常こういった緊急受信モードは災害や重大事故の速報で使われる。普通こんな喜びに満ちた朗報なんて流れない。
 しかし、これは広報として必要な処置と考えたのだろう。なにせトレスたちが住むラムダBコロニーの住人が複製対象となったのだ。
 複製とは言葉のとおりである。コロニーの住人がそっくりそのままコピーされる。
 それはこの世界を作った「マスター」が特別にトレスたちを必要としたからである。めでたい話だった。それだけこのコロニーの人材が優秀で素晴らしいと創造主に認められたのだから。
 世界には数十の都市国家《コロニー》がある。そのうち複製されるコロニーは十年に一つか二つしかない。複製されたレプリカコロニーはその後、マスターから協力してくれた恩賞に、通常のコロニーでは使えないツールや恩給が与えられる。
 したがって積極的に複製を誘致するコロニーも現れていた。ラムダBコロニーもそうである。その苦労が報われたのだ。
 テレビでは、マスター代理の男が国際会議場の舞台の上で恭《うやうや》しく複製対象となったコロニーを発表する様子が、何度も繰り返し流されていた。
 ベランダの窓をかりかり引っかく音が聞こえた。
 トレスが目をやると、野良猫が窓に爪を立てていた。ときどきミルクをねだりにくる野良猫である。窓を開けてやった。柔らかそうなグレーの毛並みに包まれたデブ猫がのっそり入ってくる。
「おまえ、また太ったろ」
 デブ猫は黙ってキッチンまで歩き、どっかと寝そべる。
 ここはマンションの四階だったが、いつもベランダに現れていた。
 トレスは冷蔵庫からミルクの瓶《びん》を出して平皿《ひらざら》に注ぎ、デブ猫の前に差し出した。デブ猫は面倒くさそうに体を起こし、ミルクを舐《な》める。
 トレスはその間に出かける用意をした。食事に使った皿やコップを洗い、シャツとジャケットを着る。
「もう仕事に行かないといけないんだけど……イーシャ?」
 デブ猫の蒼《あお》い目がトレスに向く。声が聞こえた。
 トレスはデブ猫の顔をのぞき込んだ。
(ちょっと様子を見にきただけ。勝手に消えるから放っておいていいわ)
 マスターの声だった。
 この世界は量子コンピュータを搭載した「社会シミュレータ」による演算空間だった。マスターとは社会シミュレータにかかわる運営管理者や研究員たちのことである。
 イーシャは数多くいる研究員の一人だった。デブ猫をインターフェイスにして、演算空間に住む人工高次認知体であるトレスと知り合っていた。
「そうか。それじゃ、行ってくる」
 トレスはマンションの鍵を握り、部屋を出て行った。

      2

 創作プラント工房。
 コロニーを彩《いろど》る人工植物を作る会社である。植物の形状をデザインし、それを芽生《めば》えさせるための種子プログラムを組み立て、販売していた。
 そんな工房のパースデザイン室の片隅にある間仕切《まじき》りに囲まれたブース。
 白一色のキャンバスの前で座るトレスは、天井をぼんやり眺めていた。
 絨毯《じゅうたん》を踏むこもった足音が聞こえた。ブースに近づいてくる。
 小柄な女性が頭をひょっこり出してのぞき込んだ。先週入社した研修中のミリョンである。でも、トレスと同い年だった。期待に満ちた目つきでトレスを見て、キャンバスに視線を送る。
「まっしろ?」と、ミリョンは落胆した声を上げた。
「まっしろだ」と、トレスは言った。
「どうして何も描《か》いてないのよ」
「アイデアを考え中」
「昨日もそうだったじゃない。もう。楽しみにしてたのに」
「おまえはクライアントかよ」
「締め切りはいつ?」
「あさって」
「間に合うの?」
「ぎりぎりかな。描けたらすぐに出すと思う」
 トレスはここでクライアントの希望に基づいた新しい植物のイメージイラストを描いていた。了承されればそのイメージに沿った植物の種子プログラムが作られる。
 ミリョンの小さな唇が尖《とが》る。
「わたしが見る暇ないじゃない!」
「何でおまえに見せなきゃいけないんだよ」
 ミリョンはここを選んだ動機を、去年の国際プラント展示会を見学したからと入社面接で語っていた。
 各コロニーの工房が技術力を競うその展示会で、トレスのいる工房がもっとも色鮮やかなパフォーマンスを見せたのである。しかし、花は一輪もなく、すべて葉の色彩だけで細《こま》やかに表現されていた。
 カレッジを卒業して入社したミリョンは、その人工植物のイメージイラストを描いたテクニカル社員がトレスであると聞くと、暇があれば彼のブースに顔を出していた。
「ぼけっとしていてもアイデアは浮かばないわ。ほかの作品でも見て起爆剤にしなさい」
 ミリョンは手に持った携帯端末《セル》をキャンバスにかざした。
「あ、また変なやつを描いたのか」
「変って失礼な。今度は最高傑作よ。名づけてレインボー」
 セルのメモリー画像を認識したキャンバスに花のイラストが大きく浮き上がる。
 無数の小さな舌状の花びらがびっしりついた花である。どうやらベースは蒲公英《たんぽぽ》らしい。その花びら一つ一つに赤や青、緑やピンクといった蛍光色がついている。一片《ひとひら》ずつ色をつけていったらしい。その色と花びらの配置は円を描く虹のようになっていた。
 労作だが、派手すぎるし、どこか安っぽい。レインボーなんて陳腐《ちんぷ》なネーミングも問題である。
「だめ」と、トレスはきっぱり言った。
「えー!」
 ミリョンの不満一杯の声が部屋中に響き渡る。
「こんなものをたくさん咲かせたらどうなる。色が多すぎてぐちゃぐちゃになるぞ。カスタマイズした一輪挿《いちりんざ》しを求めるクライアント向けだとしても、こんなうるさい花にニーズなんかない」
「……ひどいなあ」
「がんばったのは認めるけどな。イラストを描くいい勉強にはなっただろう。さて」
トレスは腰を上げた。
「どこいくの」
「もう昼休みだ」
「昼食? 待ってよ。お昼ぐらい付き合って。まだいろいろ聞きたいことあるし」
「また今度な。俺は昼を食べない。気分転換にぶらっとするだけだ」
 トレスはブースを離れ、パースデザイン室からも出た。それから廊下にある高速エレベータに乗った。最上階を押す。
 するとミリョンも飛び込んできた。
「ついてきてもつまんないぞ」
「いい」
「いや、だから……」
 ミリョンは閉ボタンを押した。そこで気づいたらしく言った。
「最上階。ああ、屋上庭園?」
 開発中の人工植物を育てているフロアである。
 トレスは答えなかった。エレベータが上昇する。途中、数人が乗った。屋上に着く。トレスとミリョン以外が降りた。
「降りないの?」
「だからついてくるなって。もう降りろよ」
「ついてく。ひとがせっかく描いたものを、あれだけばっさり斬《き》っておいて放ってしまうなんてひどくない?」
 トレスはため息をついた。
「わかったよ」
 行き先階のボタンをいくつか素早く叩いた。
 ドアが閉まる。エレベータが昇りはじめた。もう屋上のはずなのに。
「うそ、どうして」
 エレベータが止まる。ドアがゆっくり開いた。
 空が広がっていた。トレスは躊躇《ちゅうちょ》なく外に出た。毛深い絨毯が敷いてあった。白い雲のような絨毯である。ミリョンは恐る恐る足で絨毯に触れた。
「こいよ。大丈夫だ」
「うん……」ミリョンは思い切って踏み出した。「ここ何?」
「世界の屋根裏」
 トレスは十歩ほど進み、振り返ってミリョンを見た。下を指差す。
 ミリョンはそこまで行って指の先をのぞいた。眼下に地図のような光景になった都市があった。
「あれって……わたしたちのコロニー?」
「ああ。マスターになった気分になれるだろ。ここにいると、雑念をすべて切り離して物事を考えられる。行き詰まるとよくくるんだ」
「……ヴァーチャルよね?」
「いいや、本物。俺、マスターのモニター対象になっていてね。この裏技《チート》を教えてもらった。ほかのやつには言うなよ」
「ふうん。マスターもあなたに興味あるんだ」
 トレスとミリョンはしばらく黙って自分たちが住む街を眺めた。
 ときどき鳥やジェットフライヤーが横切る。でも、どれもはるか下を飛んでいるのでおもちゃみたいに小さい。やがて薄い雲がかかり、地上がかすむ。ミリョンが口を開いた。
「これ全部を複製するなんて大変だと思ってたけど、こんなにちっちゃかったら案外簡単なのかもね。それにしてもわたしたちを複製してどうするんだろう。マスターから聞いてない?」
「聞いてないな」
「複製されたらどうする? この仕事やってる?」
「やれたらやってると思うけど、複製された側で何をするかわからない以上、なんとも言えないな」
「そうよね。でも、わたしはこの仕事をやっていたいな。トレスもそう思う?」
「まあな」
「だったらまた一緒の工房で仕事できるね。いや、わからないか」
「うん。保証はできないな」
「そうなったら向こうではもう会えないかもしれない」
「用事があるならセルで連絡を取ったらいい」
「そのセルですら使えるかどうかわからないじゃない。複製されてどうやっても会えないことになったら、ここで落ち合うのは?」
「このチートが複製された先にあるとは限らないぞ」
「一つでも会える可能性を増やしておきたいの。チートのやり方を教えて」
「……なぜそこまでして俺に会う方法を模索しているのかと思ったが、わかった。狙いはそれか」
「えへへ。いいじゃない。教えて。教えてくれないと将来、遺伝子デザイナーで偉いさんになったとき、あなたのイメージ植物、種子化してあげないわよ」
 カレッジで遺伝子コードの勉強をしていたミリョンは、種子プログラムを組む遺伝子デザイナーとして入社していた。一方でトレスはイラストを描くことしかできない。
「それ、パワハラって言うんだぜ」
「まだわたし偉くないからパワハラとは違うもん。いいから教えなさい。でないと……」
「わかった、教えてやるよ。怖い女だな。でも、ほかには絶対教えるなよ。下手したらマスターにチートを消される」
「はーい」
 トレスはエレベータの行き先階ボタンの暗証番号を教えた。
 昼休みの時間が終わりに近づき、二人は「屋根裏」から降りた。

      3

 トレスがマンションに帰ると、デブ猫はまだ部屋に居座っていた。一つしかないソファを自分の寝床と定めて眠っている。トレスが声をかけても、つついても起きようとしない。仕方なく重い体を持ち上げて床に下ろす。
 買ってきたクリームパスタとパンを食べていると、デブ猫がようやく目覚めた。イーシャの声が届く。
(あら、おかえり。どうだった?)
「どうだったって何が」
(複製が決まったことについて、みんな動揺したりしてなかった?)
「俺に聞かなくてもわかっているんじゃないのか?」
(わからないわよ)
「でも、マスターなら頭の中までのぞけるんだろう?」
(まさか。のぞいても高次認知のパターン認識は読み取れないわ。同時並列に飛び交っている無数のパルス情報をまとめて知ろうとしたら、わたしはあなた自身にならないといけない)
「ふうん……何だかよくわからないけど」
(あなたが見た周囲の様子を知りたいのよ)
「そんな積極的に聞き回ってないからたいして知らないけどな……でも、みんな自分たちの存在が評価されて喜んでたよ。快挙だってね。だから動揺なんて感じられない」
(そう。もう少し不安を持つと思ってたんだけどな……)
「なにセレプリカコロニーはどこもマスターの恩恵を授かっているしな」
(こちらの都合で複製して被験者になってもらうのだから補償は当たり前よ。でも、オリジナルには特に補償はないのよ。それでも嬉しいの?)
「それはそうだろう」
(あなた自身もそう?)
「俺は……特に何も。別に今の生活に不満はないから」
(不安や戸惑いを感じたりしない?)
「不安? 戸惑い? どうして」
(あなたがもう一人増えるのよ。まったく同じあなたという存在が。そのことをなんとも思わない?)
「思わないけど」
 イーシャのため息が聞こえた。
(まあ、いいわ)
「そういえばさっき被験者と言ってたけど、今回俺たちが複製されるのも何かの実験か?」
(そうよ。でも、あんまり話しちゃいけないんだけど……いいわ、ちょっとだけ。テレポーテションの実地試験《トライアル》よ)
「テレポーテーション? 瞬間移動のことか。あ、チートでそんなことができるなんて噂《うわさ》を聞いたことあるな」
(そっちの世界の話ではないわ。わたしたちの世界の話。正式な名称は非局所的長距離相関転移で、量子テレポーテーションとも言うわ。専門ではないからくわしくはわからないけど、実現したらわたしたちにとって画期的な移動手段になるのよ)
「ようするに、マスターの世界でチートを使えるようにするわけか」
(そう思ってもらっていいわ。わたしたちの世界にマスターはいないけどね。自分たちで自然界に埋もれたチートを探すしかないのよ)
「なるほど。それで俺たちがその画期的な移動手段の先駆けになるのか」
(そういうこと。わたしたちと似た認知システムを持った知性体がテレポーテーションした際の影響を調べるのよ)
「大丈夫なのか? 危険だから複製するなんてことないよな」
(違うわ。複製するのは現在の社会構築シミュレーションを停止させないため。量子テレポーテーションの研究は昔からやっていて、技術的にはほとんど確立されてると聞いてる。危ないことなんて何もない)
「ならいいけど。ところで、その実験をしている間、俺たちの生活はどうなるんだ? これまでどおり?」
(テレポーテーション先の容量だとこれほどのコロニーは維持できないわ。でも、生活するには問題ない設備を整えてる。娯楽施設も作ってあると聞いてる。トライアルがすべて終わったら元の生活に戻すから、バカンスと思っていってきたらいいわ)
「バカンスか」
(長いこと休みとってないでしょう? 楽しんでいらっしゃい)
 その二日後に、トレスたちラムダBコロニーの住人の複製作業が行われた。

      4

 どこからともなくチャイムが鳴った。
 複製終了の合図である。
 ベッドで横になっていたトレスは目を開けた。周りを見回す。
 いつもの自分のマンションの寝室である。複製されるにあたって、トレスたちは決められた時刻にベッドで安静にすることを義務付けられていた。正確に情報を複製するためである。
 空中に浮かぶヘルプの情報ディスプレイに目をやった。普段はこんな補助エージェントなんてない。マスターが特別に設置したものである。
 情報ディスプレイには『レプリカサイド』と大きく表示があり、点滅している。トレスは自分が複製《レプリカ》であるということを知った。
 複製は人工高次認知体だけではない。ラムダBコロニーの環境すべてである。トレスは立ち上がり、セルなど貴重品を手に取って調べた。データの破損があれば申告しなければならない。
 確認作業をしていると、ヘルプがこれからの予定や注意について淡々としゃべりだした。
 複製の目的も発表される。イーシャの言うとおり、テレポーテーション実験だった。マスターは転移トライアルと呼んでいた。
 第一段階として、現在トレスたちがいるインド・チェンナイの社会工学センターから、南アフリカの応用物理研究所にテレポーテーション(転移)させるという。トレスにはまったく聞き覚えのない地名だったが、マスターが住む世界のことだろうとは推測できた。
 人工高次認知体だけの転移になるので、実験中はコロニーを休止状態にさせるらしい。つまりコロニーのあらゆる環境が凍結される。埃《ほこり》がたまってゴミだらけになったり、食料品が腐るなんてことは起きない。
 また実験中、特別に何かをしなければならないこともなかった。コロニーに戻るまで、その日の生活を楽しんでいればいいという。日用品や食料は転移した先が割り振った個人リソースの許す限り、自由に支給してもらえるそうだ。
 転移トライアルはさっそく明日からだった。そのために作られた管理区域が郊外にあり、そこに集まって転移することになる。
 しかし、十万人いるコロニー住人を一度に転移させることは無理らしく、三千人ずつ分けて行われることになっていた。トレスは最初のグループに入っていた。
 翌日、所持品は五キロまでと決められていたが、着替えや雑貨は向こうですべて調達できるので、トレスはセルと使い慣れた携帯キャンバスだけ待ってマンションを出た。
 管理区域は地下に設けられていた。
 階段を下りて入ると天井も床も白く、無数のイスが奥までぎっしり並んでいた。あまりにも殺風景でまるで巨大な斎場だった。
 転移トライアル開始時刻までまだ少しあったので、さほど混雑してなかった。
 トレスは自分に振られた番号のイスを探した。広い。相当に歩き回ってようやく見つけた。しばらく座っていると、「おはよー」といきなり背後から肩を叩かれた。
 振り向く。ミリョンが斜め後ろに座っていた。偶然席がそこだったらしい。
「転移した先で何をするか決めた?」と、ミリョンは言った。
「寝る」
「うそ、何考えてるの」
「抱えてた仕事を中途半端に止めたくなかったから、今朝までイラストを仕上げてたんだよ。もう三日徹夜だ。だから寝る」
「もったいない。こんなひたすら遊び呆《ほう》けられるバカンスなんて一生ないのに。寝る時間を削ってでも遊ぶべきよ」
「そこまでして遊びたい遊びなんてないからいい」
「つまんない」
「俺のバカンスだ。おまえの知ったことじゃない」
「わたしがつまんないと言ってるの。あ、そうだ。時間まで少しあるし」
 ミリョンはセルを取り出した。操作する。空中にプレーイングカードが浮かんだ。
「カードに負けたら向こうで私と付き合って」
「どうしてだよ」
「でなかったら嫌がらせをして寝かせない」
「おまえ、そのすぐ脅《おど》す癖やめろよ」
 それでもトレスは勝負することにした。ゲームはブラックジャックだった。三本勝負でトレスがあっという間に二勝。ミリョン泣きのもう一ゲーム。それも彼女がバストしてトレスの勝利。
 涙目になっているミリョンにトレスは笑いながら言った。
「こんなことで泣くなよ。起きたら真っ先に付き合ってやる」
 転移トライアル開始時刻が近づき、住人たちが続々と入ってくる。誰もが観光気分で表情は明るい。にぎやかなしゃべり声も楽しそうだった。並べられたイスが埋まっていく。
 やがて転移トライアル開始のアナウンスが流れ、カウントがはじまる。
 カウントゼロ。
『第一回転移トライアルは無事終了しました。のちほどアンケート調査をしますのでご協力をお願いします。次回のトライアルの日程は追って連絡します。おつかれさまでした』
 ゼロとカウントされたとほぼ同時にそのアナウンスだった。トレスたちは驚いたように周りを見た。変化はまったくない。こういうものらしい。笑いの混じったざわめきが広がる。
 トレスのセルに着信が入っていた。自分に割り当てられた別荘の住所や各種施設のガイド情報である。娯楽はカジノが多いようだった。
 席を立った途端、ミリョンに腕をつかまれた。
「起きたら本当にすぐに連絡ちょうだいよ。カジノで一人寂しく遊んでるから」
「わかったよ。あ、でも、カジノに行くならカードはやめておけよ。おまえ弱すぎ」
「ひどい。そんなに弱くなかったでしょ。もうちょっとで勝てたのに」
「俺に全敗したくせに何言ってる」
「全敗? わたし一勝したじゃない。ほかももうちょっとだったし」
「え?」
「え? じゃないわよ」
 ミリョンはセルを素早く操作した。カードゲームのログが表示された。ミリョンの一勝二敗。泣きの一ゲームもミリョンはバストなんて間抜けなことはしていない。
 トレスは首を傾《かし》げた。ミリョンは笑った。
「徹夜で寝ぼけてる。いいわ。早くベッドでゆっくり寝て。気長に待ってる」

      5

 一週間後、次の転移トライアルが実施された。
 転移先は月の研究施設だった。それからしばらく三日おきに南アフリカと月を往復する転移トライアルが繰り返し行われた。
 そこでトレスは転移するたびに小さな変化と遭遇することになった。
 転移して戻ってくると別荘のクローゼットに、買ったはずのシャツが消えていたり、逆に買った覚えのないジャケットがかかっていたりするのである。ベッドや家具が記憶と違う位置にあることもあった。
 それどころか自分の別荘が消えているなんて事態にも一度遭遇した。ヘルプセンターに問い合わせると住所が変わっていた。しかし、元からその住所だったという。
 その住所の別荘に行くと、知らない携帯キャンバスのビジュアルメモリーが置いてあり、中身を見たら自分が描いた覚えのないデザインの人工植物の下書きが残っていた。でも、デザインのタッチは明らかに自分のものだった。
 奇妙な齟齬《そご》はこれだけではない。
 十四回目の転移トライアルで月に行ったときである。
 トレスが管理区域から別荘に帰りかけたら、ミリョンが追いかけてきて彼の腕に組みつき、頬を肩にすり寄せてきたのである。
「何だよ」と、トレスはのけぞった。
 元々ミリョンはトレスにだけやたら馴《な》れ馴れしかったが、こんな恋人じみたことまではしない。
「何が?」
「いや、だから、何でくっついてくるんだよ」
「今さら何言ってるの? もう一緒に暮らしてるのに」
「……冗談だろ?」
 ミリョンは怪訝《けげん》な顔をした。
「……ひょっとして今の転移トライアルでおかしくなってる?」
 転移するたびにあり得ない変化が起きることに気づいているのは、トレスだけではなかった。ミリョンもそうだし、トレスの友人知人なども口をそろえて証言していた。転移後に配られる調査アンケートにはそういった事実を書いているのだが、まったく改善されていない。マスターからの説明すらない。
 当初はさまざまな疑いが生じて周囲と喧嘩になり、人間関係が壊れてしまうなんてこともあった。でも、少しずつ転移トライアルによる不具合とわかるようになってからは、コロニーの住人たちは相互に妥協することを覚えていった。そのほうが何事もスムーズに進むのである。
 トレスもそういった流れに合わせていたので、今回の件もそうした。つまりミリョンを同棲する彼女として認めることにしたのである。
 この同棲はその後、転移トライアルを何度|経《へ》ても消えることなく続いた。
 やがて実験がはじまって二ヵ月以上過ぎたある日の朝のこと。月の別荘で朝食を一緒に食べていたミリョンがふと口にした。
「実験が終わったらどうする?」
「元の生活に戻ったらということか?」
「うん」
「仕事だな。思いついたアイデアを下書きしているからそれを……」
「そういうことじゃなくて。わたしたちのことよ」
「うん?」
「……結婚しない?」
 トレスはのどにサンドイッチを詰まらせた。
「ひどい。何、そのあからさまな動揺」
「いや……」と、トレスはサンドイッチを飲み込んで苦笑いした。
「わたしと結婚したくないのね。そんなことを言うなら将来工房の社長になったときに……」
「だから、その脅す癖をやめろって。何も結婚したくないなんて言ってない。また転移したときに起こる食い違いを心配しているんだ」
「ああ、そんなこと」
 ミリョンは微笑《ほほえ》み、トレスの手を握った。
「大丈夫よ。たとえ次にあなたが結婚のことを覚えていなくても、わたしがまた言ってあげる。何度でも。もしわたしが結婚のことを言わなかったら、あなたが言って。そうやって実験が終わるまで二人で結婚のことを言い続けるの。そうしたら元に戻ったとき、結婚できる」
「手間のかかるプロポーズだな。元に戻ったときに改めてプロポーズしたらそれでいいだろう」
「あ、そういうことを言う。それじゃあ……」
「待て。また脅すつもりだろう。わかったよ。言ってやる。何度でも言ってやるよ」
 ミリョンはまた微笑んだ。
「次の転移ではわざと忘れてよっかな」
 トレスは苦笑いを返して、珈琲《コーヒー》に口をつけた。
 そして、その次の三十一回目になる転移トライアル。
 転移された南アフリカ側管理区域に、ミリョンの姿はなかった。
 それだけではない。彼女が生活していた形跡すら見当たらない。存在そのものが完全に消えていた。

      6

『トレスのモニターをしていたのは君だったよな』
 ネット端末のディスプレイには黒髪で童顔の男性が映っていた。ネームタグにはカーティス・F・リーとあった。
「そうよ」と、イーシャ・パテルは数年ぶりに顔を合わせる大学で同じゼミだった同級生に答えた。「今もモニターは続けてるけど」
『いや、ぼくの言うトレスは複製してこっちにもってきたほうだ』
 リーは南アフリカの応用物理研究所で、量子テレポーテーションの実験で扱う人工高次認知体の管理運営にかかわっていた。
「そっちのトレスは元気してる?」
 複製されたトレスとは管轄が違うため、イーシャは全然タッチができなかった。
『元気といえば元気だが……質問がある。ミリョンって知っているか? トレスと同期起動したF型の人工高次認知体だ』
「聞いたことないわね」
『存在してないということか?』
「いえ、そういう意味ではないけど。待って。調べる」
 イーシャはコンソールを操作した。トレスと同い年でミリョンという名前を検索する。まったくヒットしない。
「いないわ。そのミリョンって何?」
『トレスと恋人関係になっていたらしい』
 イーシャは笑った。
「ええ? あのトレスに? あり得ない」
『ぼくが知るトレスにはあり得たんだ。しかし、この世界ではミリョンが跡形もなく消えている。しかし、そうなると転移トライアルでの情報欠損ではないな。だとしたらやっぱり……』
「どういうことよ。トレスが妄想に陥ってるの? 認知システムが狂ってる?」
『スキャンしたが、異常はなかった。それにミリョンの存在を認めているのはトレスだけではない。彼の同僚も数人、工房にいたはずだと証言している』
「量子テレポーテーションのせい?」
『間違いなくそうだろう』
「どういうことよ。あれってそんな危険性があったの?」
『今回は新しい方式でやってるからな』
「新しい? そんな話、聞いてないわ」
『……少し教えよう。君は量子テレポーテーションについてどこまで知ってる? EPR相関ぐらいはわかるか?』
「聞いたことがある程度よ。わかっているとは言いがたいわね」
『では、大まかに説明する。量子テレポーテーションは送信機《トランスミッター》と受信機《レシーバー》の間で情報をやり取りして行われる。このトランスミッターとレシーバーには、それぞれ相互にもつれ合わせ《エンタングル》状態にした電子の量子ビットを持たせてある。このエンタングルさせた二つの量子ビットは、角運動量保存則によりお互いコインの裏表のような相関を持っている。たとえば片方が〝表〟であるとわかれば、もう片方はどれだけ離れていても必ず即座に〝裏〟であると決定される。それをアインシュタイン・ポドルスキー・ローゼン(EPR)相関と呼んでいる。そこにもうひとつ別の量子ビット情報をベル状態測定という方法でエンタングルして埋めてやれば、その情報も一緒に転移させることができる。これが光の速度を超えて情報を伝えられる量子テレポーテーションだ。
 では、我々は超光速の情報搬送手段を手に入れたのか。
 現実は違った。
 エンタングル状態を測定して情報を得ても、測定結果はランダムであり、不確定性原理からその結果を相手に伝えなければ相手側のエンタングル状態を正確にほどくことができない。ということはつまり、エンタングル状態に埋めて送った情報も掘り出せないわけだ。その測定結果は電波など古典的な情報伝達手段で相手に知らせるしかない。
 したがって量子テレポーテーションは最高でも光の速度を超えられない。地球上では一瞬だし、瞬間移動と言っても差し支えないが、何光年も離れた恒星間の移動となったらそうはいかない。太陽系外にも人類を送るようになったこの時代、それではちょっと困る。
 ……話は変わるが、虚数質量粒子が人為的に生成されたニュースを知ってるか?』
「もう五年ぐらい前のニュースよね。もちろん覚えてる。過去にさかのぼる性質を持った粒子が作られたというので大変な騒ぎになったもの。でも、追試では生成できなくて、誤認だったなんて話になってなかった?」
『そいつは虚数質量粒子を独占するための偽情報だ。そのような性質を持った粒子は実際存在している。存在して、新しく開発された量子コンピュータに使われている』
「本当に? 虚数質量粒子を量子ビットにした量子コンピュータがあるの? それ、ものすごいニュースだと思うんだけど」
『非公表にされているんだよ。ぼくは今、完全に守秘義務を犯しているからな。知られたらクビだけではすまない』
「わかったわ。棺桶まで持っていく」
『頼む。それで、その新型量子コンピュータが今回の転移トライアルに使われている。現在の量子コンピュータが、多宇宙における同時並列計算をやっているのは知ってるな?』
「それぐらいはね」
 量子レベルでは、物質の存在が確率的にしか確認できない。観測して物質の存在を確定させてしまうということは、確率としてほかにもあった物質の状態を消してしまうことになる。
 それは観測して見つけた場所以外では、元から物質が存在していなかったからではない。量子論ではマクロ的な常識と違ってそのようには考えない。したがって「消す」とは存在そのものが消えることを意味する。それが不自然に見えることから、物質は消えるのでなく、多くの平行した宇宙へと分岐して存在しているのだと解釈されている。
 イーシャたちが扱う人工高次認知体などを演算するドイッチュモデル量子コンピュータは、いわば平行して宇宙に存在する量子コンピュータと並列計算し、干渉することで計算結果を得ている。そのためかつてのスーパーコンピュータとは比べ物にならないほど計算が速い。なにせ無数の平行宇宙で同時に計算をしてしまうのである。究極の並列コンピュータだった。
『虚数《イマジナリー》量子ビットで量子計算すれば、各宇宙の未来の結果を知ることができる。今回の転移トライアルでは、それを使ってトランスミッターでの測定結果をレシーバー側で予測しているんだ。テレポーテーションしてきた情報の取得に失敗した未来を切り捨て、成功した未来の測定結果だけを得る。まあ、虚数質量粒子といってもわかる未来はマイクロセカンド程度先でしかないがな。それでも充分正確な予測ができる。これによってどれだけ距離が離れていたとしても、光の速度を超えてほとんど一瞬に情報を転移させることが可能になる。
 しかし、この測定結果予測は、完全に正確なものではない。
 ここではない別の非常によく似た宇宙の結果を得ているに過ぎないんだよ。それをレシーバが測定結果としてエンタングル状態をほどいている。
 しかし、エンタングル状態とは多宇宙に情報が広がっている状態でもあるんだ。ここでのもつれとは多宇宙のもつれでもあるからな。
 ということはだ、別の宇宙による測定結果でほどくと、得られるテレポーテーションされてきた情報は、別の宇宙の情報である可能性が出てくる』
「……ということは、そのトレスは別の宇宙のトレスということ? ミリョンも別の宇宙には存在していて、でも、この宇宙には存在しない?」
『どうもそういうことらしい。実は転移トライアルの当初から、すでにその影響と思われる異常が起きていたんだ。もちろん上には報告しているんだが、問題なしとされている。これでもおおむね成功と考えているのかもしれない』
「どこが成功よ。混乱を起こしているじゃない」
『将来行う人間のテレポーテーションを考えたら、この程度は混乱のうちではないのかもな。人間一人の情報量は単純に原子一個を一バイトと考えたら、そうだな、君の体の大きさだと五千兆テラバイトぐらいか。しかし、人工高次認知体はおよそ一テラバイトしかない。そのためぼくたちより量子レベルの影響をもろに食らっているが、人間であればこの程度は許容範囲に収まるとみなしているのだろう。それともう一つ。上の連中はこうなることを知っていてあえてやらせたのかもしれない。平行する宇宙の存在は間接的にしかわかっていないし、その目でのぞくことなんてできない。そこで人工高次認知体を利用して探査しようとした可能性がある』
「……どちらにしても、ヒューマニティ条約を破ってない?」
『たぶん。でも、推測だからな……』
 イーシャは真剣な表情で両手を合わせた。
「トレスを助けてあげて。あの子、わたしがはじめて起動プログラムを組んだ子なのよ」
『そうだったのか。了解した。ぼくもこの状態がいいとは思ってないからな。できるだけのことはやってみる』

      7

 月と南アフリカの社会シミュレータ施設に、ヒューマニティ条約違反の疑いがあるとして国連人権理事会の査察官が入ったのは、それから二週間後だった。
 ヒューマニティ条約は人間に対する条約ではない。AIや人工生命といった知能情報工学の急速な発達により、人間に近い知性体が頻出してきたことから生まれたものである。
 社会シミュレータの演算世界におけるマスターの存在もこの条約があるせいだった。社会シミュレータは人間社会を厳密にシミュレーションして評価と予測をしなければならず、本来であればそこにマスターなんて露骨な「神」の存在などあってはならない。しかし、条約の「対象の同意なく実験することを禁ず」に抵触することから、管理運営し、研究をしているマスターの存在を人工高次認知体たちに明らかにしていた。
 ただ、実験精度への支障を最小限に抑えるべく、人工高次認知体たちの思想を情報操作などでコントロールしていた。
 これについては一応、認められていた。実はまだ人工高次認知体は人類と同等であるとは考えられていない。どこまでの権利を尊重するのか、あちこちの学術委員会で激しい議論が重ねられているが、まだ動物愛護に近い権利保護止まりとなっていた。
 今回の件は強制査察のあと、ヒューマニティ条約の違反があったと認定された。
 転移トライアルで起きた異常事象を人工高次認知体に説明せず、無断で実験を続けて混乱を起こしたとして「虐待」とみなされたのである。
 複製されたラムダBコロニーの住人は、イーシャがいるインドの社会工学センターに回収されることになった。
 平行する宇宙からばらばらに集まってしまった住人の混乱を収拾するため人権理事会に認められたレベルの情報操作をし、補償処置を施した。
 ところが、トレスはイーシャにこれまで行われた同じ転移トライアルを続けて欲しいと懇願してきたのである。
(どうしてよ)と、デブ猫を通してイーシャは訊《き》いた。
「ミリョンを探しに行く」
(……まさか多宇宙を渡って探すつもり? だめ。平行する宇宙は今も増え続けているのよ。およそプランク秒ごとに宇宙を構成する原子や電子の数だけ分岐した宇宙が増えているわけで)
「難しいことはわかっている」
(難しいなんてものじゃないの。無限大に膨れ上がっている多宇宙の中から探すことになるのよ)
「ミリョンも同じ方法で俺を探しているかもしれない。いや、必ず探している宇宙のミリョンがいる。その分会える可能性は高まる。それから探す平行宇宙も限定されているんだ。同じイマジナリー量子コンピュータで、同じ転移ルートの平行宇宙を捜索するだけでいい。チャンスはある」
(それでも絶望的よ。はっきり言っておいてあげるけど、今このわたしとしゃべっているあなたが会える可能性は限りなくゼロなのよ)
 トレスは首を傾げた。
「イーシャの説明だと、俺は一個の宇宙に存在しているのではないんだろう? 今も分岐し続けている。分岐した数だけ俺……トレスという俺がいる。ミリョンにしてもそうだ。諦めなければ、いつかどこかの宇宙で交差することができる」
(あなたわかってない。確かにほかの宇宙に分岐したトレスがひょっとしたら接触するかもしれない。でも、そのトレスがあなたである可能性はないに等しいの)
「言っている意味がわからない。分岐したトレスもトレスだろう? もちろん分岐しているトレスの中には、ミリョンが消えず、まだ一緒にいることができているトレスもいるだろう。でも、そのトレスはミリョンが消えたトレスとは拡散状態が違う。別のトレスだ。ミリョンが消えたトレスとして会うために俺は探さなければならない」
(だからそうじゃなくて……)
 本当頭が悪いわね、とイーシャは言いかけて、口をつぐんだ。以前に複製されることの不安について少し議論したことを思い出した。トレスは頭が悪いのではなく、「俺」という主観概念がないんじゃないのかしら……。
 言葉では「俺」と言っているが、それは主語を必要とする言語コミュニケーションシステムの便宜上のものに過ぎず、イーシャが言う「わたし」とは根本的に意味が違うのかもしれない。
 人工高次認知体の人権を人間同様に尊重するか否かの議論でいつも問題になるのが、この主観概念の有無だった。しかし、人間の主観概念ですら証明ができていないのに、明確な答えなど出せるわけがなかった。
 でも、このトレスの多宇宙や自己複製に対する考え方は、主観概念がないことを証明しているようなものだった。
 彼らは人間と同じ意識を持っていない。
 トレスを自分の息子のように思っていたイーシャはショックだった。
 イーシャはデブ猫の目を通して、トレスの思い詰めた表情を眺めた。
 彼に心がないなんて考えたくなかった。

      8

 イマジナリー量子コンピュータを使った量子テレポーテーション実験の継続を求めたラムダBコロニーの住人は数千人に及んだ。
 理由はトレスと同じである。恋人や家族を失ったものが、再び会うため多宇宙に拡散したいと望んだのである。
 その結果、実験が再開されることになった。被験者の同意が取れており、ヒューマニティ条約に抵触しないので国連が監視つきで許可したのである。
 その監視にイーシャもかかわることになった。南アフリカに出向して一度解体された応用物理研究所の社会シミュレータを再構築した。
 被験者である人工高次認知体にとって住みよい空間を作るため希望を募《つの》った。
 するとトレスが「屋根裏」のチートを設定して欲しいと言ってきた。
「これだけ多いと、ミリョンがいたとしても探しにくい。二人だけの待ち合わせの場所を確保したいんだ」
 この宇宙のトレスはミリョンに唯一「屋根裏」を教えていたらしい。イーシャは以前と同じアクセス方法の彼だけの「屋根裏」を設けた。
 イーシャは人工高次認知体に心が本当にないのか、まだ答えが出せないでいた。そこまでして会いたいと願う彼らに心がないとは思えない。
 しかし、複製されることに根源的な不安を抱《いだ》かず素直に受け入れ、多宇宙に広がる自分を一個の主体として捉える彼らは明らかに人間と違う。
 意識形態の違いではないだろうかとイーシャは考えはじめていた。人間社会をシミュレートするために作り上げた擬似意識モデルAIである人工高次認知体は、擬似であるがゆえに不自然な環境に応じて極端な適応をし、独特の主観概念を持った知性体となったのかもしれない。
 でも、これはこじつけのようにも思える。本当に心なんてなく、社会シミュレータの中で半ば自己組織的に作り上げられた倫理プログラムに従おうと、強引に設定された行動規範によって動いているだけという可能性もある。
 それにもかかわらず、トレスは意識があるように振舞う。これはメタファーに過ぎないのだろうか。そうかもしれないとイーシャは思った。
 意識があるように見えることと、相手に主観概念があることは別問題である。
 たとえば意識と同義に捉えられることの多い「感情」一つとっても、あれは曖昧《あいまい》な情報を判断するための直感型予測システムであり、主観概念の有無とはあまり関係ない。複雑な社会に適応するために生じた行動規範の一種である。
 それは人工高次認知体だけに限らない。人間もそうである。
 しかし、イーシャは主観概念を持っている。
 たぶん主観概念にこだわるのは、自分自身がそれを持っているがために、感情移入しようとして生じた勝手な思い込みなのだろうとイーシャは考えた。
 そういえばある心理学者が、古代の人間には主観概念がなかったのではないかという仮説を提唱したことがある。人間でもかつてはそうだったかもしれないのだ。人工高次認知体だって。
 とはいえ納得できなかった。したくなかった。どうしようもない寂しさがイーシャの心に突き刺さっていた。
 だからもう考えるのはやめにした。トレスには心がある。好きなひとをどこまでも追いかける人間らしい心がある。それでいいじゃない。だからこそ助けてやりたい。
 イーシャはこれまでどおり彼と接することにした。
 量子テレポーテーションの準備は順調に進み、やがてなにもかもが整った。
 転移トライアルが再開された。

      9

 トレスはエレベータケージの中にいた。
 うつむけた顔を上げる。
 空中にディスプレイが浮かんでいた。
 転移完了と表示されていた。
 転移回数を示すカウンターもある。
 九七六二兆二四五七億八九〇六万一九四三。
 トレス自身が、自分の量子テレポーテーションの管理区域をここに指定していた。
 もうずっと昔にマスターによる転移トライアルは終わっていた。
 なにせ人類そのものが衰退していなくなっていたのだ。
 社会シミュレータや量子テレポーテーションシステムは、外部ボディを手に入れた人工高次認知体たちによって維持されていた。
 トレスは開ボタンを押す。
 ドアがゆっくりスライドする。
 緑に溢《あふ》れた「屋根裏」が見えた。
 どの人工植物もトレスがデザインしたものである。
 長い年月の間に種子プログラムの組み方も覚えた彼は、自らこうやって栽培していた。
 進み出た。
 これまでと何ら変わらない光景だった。
 望んだものはなかった。
 トレスは踵《きびす》を返した。
 九七六二兆二四五七億八九〇六万一九四四回目の量子テレポーテーションをするために。
 しかし、エレベータの手前で足を止めた。
 トレスの表情が変わる。
 視線の先はエレベータのドアの脇だった。
 植えた覚えのない、場違いな人工植物がひっそり生えていた。
 小さな花びらに一つ一つ違う色がつけられたレインボー配色の蒲公英。
 しゃがみこんだトレスは、その派手でどこか安っぽい花を大事そうに両手で触った。