『3・11の未来 日本・SF・創造力』笠井潔 巽孝之監修 海老原豊 藤田直哉編


「3・11の未来 日本・SF・創造力」

監修 笠井潔 巽孝之
編集 海老原豊 藤田直哉
作品社
2011/8/26発売 定価(税込):1,890円
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4861823471

【内容目次】(作品社ホームページ近刊案内より)
■はじめに
小松左京「序文――3.11以降の未来へ」
目次/趣旨文・編集一同

■第一部 SFから3.11への応答責任
笠井潔「3.11とゴジラ/大和/原子力」
【鼎談】笠井潔・巽孝之・山田正紀「3.11とSF的想像力」
豊田有恒「原発災害と宇宙戦艦ヤマト」
スーザン・ネイピア「津波の時代のポニョ――宮崎駿監督に問う」

■第二部 科学のことば、SFのことば
瀬名秀明「SFの無責任さについて――『311とSF』論に思う」
【座談会】谷甲州・森下一仁・小谷真理・石和義之「小松左京の射程――『日本沈没 第二部』をめぐって」
八代嘉美「『血も涙もない』ことの優しさ」
長谷敏司「3.11後の科学とことばとSF」
田中秀臣「物語というメビウスの環」
仲正昌樹「SFは冷酷である」
海老原豊「一九七三年/二〇一一年のSF的想像力」

■第三部 SFが体験した3.11
新井素子「東日本大震災について」
押井守「あえて、十字架を背負う」
野尻抱介「原発事故、ネットの混沌とロバストな文明」
大原まり子「3.11以降の未来への手紙」
クリストファー・ボルトン「流れ込む、分裂する言葉――3.11以降の安部公房」

■第四部 3.11以降の未来へ
桜坂洋「フロム・ゼロ・トゥ・201X」
新城カズマ「3.11の裡に(おいて)SFを読むということ」
鼎元亨「3.11後の来るべき日本」
藤田直哉「無意味という事」

■結語――またはゼロ年代の終わりに
巽孝之

■資料
ブックガイド40作

編者(藤田直哉)コメント:
『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)という本を、編集させていただくことになりました。この本が成立した過程には色々とあるのですが、編者の一人として、僕がどういうことを考えてこの本を作ったのか、紹介させていただけたら幸いです。

 この本は、SFファンの方にはもちろん手にとっていただきたいのですが、一般の方にも読んで頂き、日本SFというこの国の偉大な知的リソースの価値を提示するということを目指して編集を行いました。世界でも少ない、SFが文化として根付いた国である日本におけるSFの意義について、歴史的な視点を取り込み、大災害やその後に向けた展望を発信してます。
 多分日本は、世界でも類を見ないSF大国で、イギリス、アメリカ、フランス、に次いでいて、多分オーストラリアやロシア、ドイツぐらいかそれ以上にSFが根付いている。そういう国は少ない。それはなぜか? この文学形式が何故必要とされたのかを追求することが、災害と文学、精神の関係上重要でそれが戦後の高度成長や、その後のバブル、情報社会と複雑な形で――夢を作り、警告し、高度成長の精神的原動力となり、それへの反発を生み、精神的な支柱となり、娯楽として楽しまれ――そんな複雑な「SF」と「日本」の歴史を踏まえるために、SF第一世代から第六世代(?)まで、全世代の声を集めて多様な声を響かせる空間を作ることを目指しました。そして、それは成功したと思います。

「SFにとって311とは何か」「311にとってSFとは何か」を考えると、自然に、「SFにとって巨大災害とは何か」という話になってしまい、それは最終的に、「日本にとってSFとは何か」あるいは「SFにとって日本とは何か」という話にならざるを得ない。関東大震災、敗戦、阪神大震災などなど……
 特に、敗戦の焼け野原から立ち上がる際に、日本人の何人かが「SF」を必要としたこと。たとえば小松左京の『日本アパッチ族』に典型的なように、戦後の「廃墟」から、テクノロジーと一体化したサイボーグのように発展していく情念や、その敗戦や戦後社会の「意味」を問う、哲学や宗教の側面も、日本社会に重要な影響を及ぼしました。日本SFはサブカルチャーとして、そして文学として、今も昔も、日本人の精神的な水脈に流れ続ける「何か」を表現する有用な形式であり、今回の言葉を失うような未曾有の災害においても、その形式には何かができる筈です。
 SFという文学形式に、己の一生を賭けた様々な人の理念などが、世代ごとにも違って浮かび上がり、さらに、その全世代が、今回の東日本大震災の津波や原子力事故に対して――責任を感じて応答したり、後悔を述べたり、あるいは楽観的な意見を述べたり、未来を真剣に考えたりしてます。
 例えば、『宇宙戦艦ヤマト』などの脚本を書いた豊田有恒は、2010年の12月に『日本の原発技術が世界を変える』という本を刊行し、一般的には原発推進派と思われています。しかし、彼は1980年に、当時の日本の原発と予定地の全てに足を運んで書いた『原発の挑戦』の中で、警告も多く発しているのです。日本のサブカルチャーが原子力や科学に対する夢を「作った」としたら――その「責任」に対し、豊田は率直に上記の本を書いたときの「夢」を語り、その上で、『宇宙戦艦ヤマト』において、どうして放射線汚染された地球を舞台にしたのかを語ります。
 そして、かつて東芝の原子力PR誌から高額の原稿料をもらって書いていたことを突然HPで発表し、長い開店休業から復活した大原まり子の、率直なエッセイも収録されています。原発に賛成か、反対か、そのような単純な色分けで、旗色を見せることを迫る風潮に対し、大原もまた、違う角度からの意見を出しております。(ネットでも話題になった大原の文章はこちらhttp://park6.wakwak.com/~ohara.mariko/genpatsu.html
 大原の文章に限らず、新井素子や、スーザン・ネイピア、小谷真理などの、女性作家・評論家の感性・知性による多様な意見が収録できたことも、本書の特徴だと思います。天下国家を語ったり抽象的なことを語りがちな、圧倒的に「男性」の多い言説空間とは違う「言葉」を収録できたことは、本書の編者としての喜びの一つです。
 新井素子の瑞々しい文章によるエッセイでは、原発事故と「あるもの」を比較して例えることで、非常に共感しやすい、生活感覚に溢れる文章が書かれております。その上で、作家として彼女がSFを通して何をしていくかの、ほとんど信仰告白に近い内容が書かれていく過程には、その率直さ故に、読者の一部の方は感動すら覚えるかもしれません。
 第三部の「SFの体験した311」では、大原、新井の文章のほかに、押井守の『パトレイバー2』と今回の震災における帰宅難民に巻き込まれた経験の比較や、その上でこれから何を作るべきかについての意識の変容を率直に語っていただいたインタビューを掲載させていただきました。これもまた、非常に挑発的で、問題提起的な内容になっております。
 また、野尻抱介の、ガイガーカウンターを震災以前から所有しており、放射性物質すら買ってしまう「放射線オタク」であった自分が、震災後に福島に行った過程を描くエッセイ「原発事故、ネットの混沌とロバストな文明」も、読みどころの一つです。福島において彼が描写する、ステレオタイプではない、「非当事者」であるが故に逆に身勝手に「悲惨」と表象してしまいがちな我々の想像力を裏切るような事態は、311に対する様々な言説のどれとも違う、突き抜けた何かがある。そしてそれが、結語における彼のビジョンに繋がっていく――

 ゼロ年代批評やサブカルチャー批評への批判として「歴史がない」というのがあったけど、確かに、同時代に祭りのように盛り上がってるコンテンツを論評し、そしてネットを肯定すれば、ネット上で話題になって連鎖する。しかし、それは非常に閉じた世界にしか繋がらないのではないかと思います。
 先人が突き当たって散々議論された問題を今更議論してたり、過去にいくつもあったものを「新しい」と錯覚していたり、そういう間抜けなことを、ゼロ年代批評をやっていた僕たちは、やりがちだった。それは外から見れば、とても滑稽なことだった。そして滑稽だと指摘されるのがいやで、内に閉じこもりがちでした。
 現代におけるアニメやニコニコ動画などのサブカルチャーを論じるときに、歴史的軸を導入するために、スーザン・J・ネイピアが『現代日本のアニメ』で述べている、日本アニメの特徴である「終末モード」「祝祭モード」「挽歌モード」が原爆による敗戦と高度成長と複雑に絡んでいるという観点、あるいは、巽孝之が『フルメタル・アパッチ』で、『日本アパッチ族』や『鉄男』を例に出して語った「クリエイティヴ・マゾヒズム」(被虐的創造力)という概念は非常に有効だと思われます。
「SF」という軸は、現在の、一過性で消費されてしまいそうなサブカルチャー評論やオタク評論・ネット評論が、歴史や政治・経済などと繋がって強度を持つために非常に有効な観点だということは、強く主張したいと思います。
『3・11の未来 日本・SF・創造力』の編集にあたって、歴史性と同時に意識したのは「国外」の意見、外側からの意見です(それにプラスして、女性の意見も重視したのは、前記の通りです)。
 前記『現代日本のアニメ』で、敗戦、原爆などと日本のアニメの発展を論じた日本サブカル研究の第一人者スーザン・ネイピアさんが、その著書で宮崎を論じた延長で「津波時代のポニョ」を問うています。
 さらに、安部公房研究者のクリストファー・ボルトンが、ちょうど日本にいて3・11を体験し、その体験と安部公房論が混濁し、ポスト構造主義の理論自体に問題があるのではないかと自己の安部公房論を修正し、『箱男』と避難所などを結びつけるスリリングな論考です。そこで提示される「ポストモダン的崇高」は、ちょうど震災の直後に情報の「津波」に晒されていた僕たちならばよく分かる、新しい概念なのではないかと思います。本論は増田まもるが訳しましたが、「崇高」という、カントやバーク由来の、日本ではあまり美学的に大きくは扱われることのないタームの新しい使い方を、安部公房と当時の日本社会に触発されながら考察していく複雑な内容を、見事に解りやすく訳してくださっております。
 その一方で、「国内」の中でもより「被災地」に近い仙台で被災し、津波のあった地区に赴いて様々な活動をされた瀬名秀明の、圧巻の140枚の原稿があります。仙台にいて、東京のメディアに何を感じたのか、東北の中の被災の差異や、そこで起きた時間の問題、それから「思いやり」や「責任」の問題…… 瀬名秀明の論考は、他の依頼を断って、『3・11の未来 日本・SF・創造力』にだけ寄稿してくださった、渾身の文章です。無神経な電話が来たり、自分たちを忘れたようにtwitterやマスコミに情報が流れていくのに傷つきながら、それでも「被災者」が「東京」を思いやるという、凄いものです。
 被災地、被災地以外の日本、海外などの視点、多様に織り込み、故小松左京から二〇代の書き手まで、それぞれの世代の視点も多様に盛り込んで、そしてイデオロギー的・倫理的な統一を「敢えて」しなかったが故に、非常に豊饒で多角的な本になっています。
 様々な場所の、様々な「被災」の濃淡、そして「当事者性」の濃淡の中で特筆すべきなのは、かつて原爆を投下されたもう一つの被災地である長崎に在住し、原爆の問題とSFの問題を密接に結びつけて思考する新進評論家・鼎元亨の存在でしょう。彼の思考実験は、怒りが生み出した評論なのかフィクションなのかほとんどわからない畸形なのですが、それ自体が、彼のデビュー評論である「ナガサキ生まれのミュータント」として、もう一つの被災地からもう一つの被災地への強いメッセージとなっています。

 上記日本SF第一世代の豊田有恒の論考がある一方で、ゼロ年代のSFの代表的書き手の一人である桜坂洋の論考「フロム・ゼロ・トゥ・201X」は、ゼロ年代批評の文脈を踏まえ、竹熊健太郎のtwitterでの呟き「終わりなき日常の終わり」や、アーキテクチャ論を再解釈し、ゼロ年代批評やそこを覆っていた閉塞感自体を全面的にひっくり返そうとする野心的・かつ挑発的な論考です。
 さらに、ゼロ年代SFの代表的な書き手の一人である新城カズマもまた、「読む」ということを軸に、311以降のSF論をスリリングに構想しています。華麗なる論理のアクロバットの中で、「読む」こと「読まれる」ことの本質に迫る新城論文は、震災以後、我々が今までの本を、同じように読めなくなったことと、自分たちの振る舞いをも意識し、「敢えて」とエクスキューズをつけなければいけなくなった状況を的確に捉え、分析しています。タイトル「3.11の裡に(おいて)SFを読むということ」の(おいて)というカッコ内の言葉の意味が解った瞬間には、軽いセンス・オブ・ワンダーの眩暈すらあるかもしれません。
『iPS細胞』などの著作で大変注目を集めている八代嘉美の論文「『血も涙もない』ことの優しさ」は、今回の震災と原発事故の後に不信を招いた「科学」や「知識人」の問題に、鋭く切り込んだ大変な力作となっております。八代論文は、今回の震災後の「科学者」や「科学のことば」に不信感を抱いた人たち皆に読んで欲しいと思います。
 さらに、経済学者田中秀臣が経済の観点から、非常に独自な小松左京論「物語というメビウスの環」を寄稿してくださいました。田中論文はタイラー・コーエンやシェリングなどを用い、小松の物語論とtwitterなどを結びつける新鮮な角度の論考です。
 また、政治学者の仲正昌樹もSF論を寄稿してくださいました。仲正論文は、政治性に注目して、ウェルズやヴェルヌの時代にまで遡り、SFとは一体どういう性質のジャンルで、社会的有効性に対してどのような態度を持つべきなのかについて、考察と提案をしてくださっております。
 まだ二〇代の新進評論家であり、共同編者の海老原豊は、彼が最近問題にし続けている「学校」「教室」問題と『日本沈没』を結びつけ、『日本沈没』を批判的に読解しながら、その同時代の作品である『漂流教室』を分析しています。『日本沈没』のワーキング・タイトルが『日本漂流』であったことを踏まえて――
 そして第二部の中心の一つとなる座談会『日本沈没 第二部』を小松左京と共同執筆した谷甲州と、『SFへの遺言』で中心的な聞き手となり、『日本沈没 第二部』執筆にも深く関わった森下一仁、そして小谷真理と石和義之が参加した座談会「小松左京の射程」では、多くの人が今回の震災で想起したであろう小松左京作品の意義や、それらがどのように書かれたのかについてディスカッションされています。阪神大震災に遭遇して小松左京が『小松左京の大震災‘95』を書いたときにどのように取材したのか、『日本沈没』はどのようにして書かれたのか――そして、小松左京が今元気だったら何をするか、この未曾有の災害を書くために何をするのか、これから生きていこうとする我々に強い示唆を与えるメッセージが発せられています。また、ナショナリズムを巡る議論が起こっているのも、この座談会の特徴です。
 本書の第二部は、瀬名論考、八代論考なども含め、小松左京論という側面が非常に強いです。それは、示し合わせたわけではなく、今回の震災について何かを考えようとすると、自然と小松左京という偉大な先人の知恵を参照するということになった――ということだと、僕は考えています。今回の震災で、小松作品を少しでも思い出した方々は、是非この第二部をお読みいただけたらと思います。「科学のことば」と「SFのことば」をめぐる、『あなたのための物語』で一躍SFファンから注目されている長谷敏司氏のエッセイも、身体と情報を巡る彼の問題系が、今回の震災に対して文体レベルで応答しており、大変興味深いものです。

 そして全体を貫く巨大なテーマを提示した、二人の監修者の論考や鼎談も紹介しなければなりません。通時的に『ゴジラ』や『鉄腕アトム』、そして戦艦大和などを扱い、「戦後日本精神史」の観点からSFを論じ、「“ニッポン”イデオロギー」を摘出して歴史的に「日本」と「SF」の関係を抉り批判する笠井潔の論考「3.11とゴジラ/大和/原子力」。笠井の考えと真っ向から対立し、本気の議論を行う監修者巽孝之と、山田正紀の鼎談。一歩も引かない監修者二人の思想や考えが衝突し、同時に本書全体の企てが浮き彫りになる鼎談の「3・11とSF的想像力」はぜひ読んでいただきたいです。特に、山田正紀は、日本SFの持っている情緒性や宗教性を強く主張し、「ムラ的」な心情を肯定しつつも「原子力ムラ」的なものを否定する道は探れないだろうかと、強く主張しており、三者三様の角度からの鼎談はとてもスリリングなものです。
 巽孝之の「結語――またはゼロ年代の終わりに」は、震災後にオスロに滞在した経験から、911と311の狭間にある時代としてのゼロ年代の総括(とその不可能性)を、地球的想像力を駆使しながら論述されています。一筋縄ではいかない、多様で、そして単線的な時間認識では見つけることの出来ない「未来」の種子は、過去・現在・未来に散らばっており、21世紀の『未来の思想』を構築するべきとする巽の立場は、とても力強く、小松左京を継ぎながら、我々が未来を探るために何をすればよいのか、示唆してくれています。

 最後に、期せずして小松左京さんの絶筆となってしまった序文「3・11以降の未来へ」の末尾から引用させていただいて、この文章を閉じたいと思う。様々な依頼を断っていらっしゃった小松さんがこの文章を書いてくださったのは、前掲の座談会や論考などをお送りした後であった。書き手も、監修者も、編者も、本気であることが伝わってくれたからだと、僕は勝手に信じています。そのメッセージは、SF作家だけではなく、きっと全ての人間に向けて開かれた言葉だと思います。
 そのメッセージは「若きSF作家たちにも、事実の検証と想像力をフル稼働させて、次の世代の文明に新たなメッセージを与えるような創造力を発揮してもらいたい、と期待している」というものでした。
 僕たちの本は、間違いなくその「創造力」を発揮する、第一歩となっています。
 そして、多くの人たちに、その日本SFという知のリレーの中に参加して、「次の世代の文明に新たなメッセージを与える創造力」を発揮していただけたらと、心から思っております。


『3・11の未来
日本・SF・創造力』