「不穏の谷の黒い小屋」(下)片理誠

 それから更に一時間ほど坂を登ると、周囲の風景にはっきりとした変化があった。黒っぽい岩や石の間に、かなりの量の何やら赤茶けた欠片のようなものが落ちているのだ。まるで吹きだまりのよう。かなりもろい。靴のかかとで踏むと簡単に砕けた。かがみ込んで調べてみると、どれも乾燥していて、とても軽い。
「これは……骨、か」
 表面はザラザラしているが、これは劣化が進んだためだろう。それにしてもなぜ、これほど大量の骨が?
「瘴気にやられた獣の骨か? だが、即死するほどの毒じゃねぇはずなんだが」
 それとも、たまには強烈な毒ガスが発生することもあるのだろうか。この谷にはあまり長居したくねぇな、と思った時、突然、バイルが歓声を上げた。
「や、やった! 金だッ!」
 まるで獲物を見つけた獣のような勢いで奴が足下に飛びかかる。
 見ると硬貨が何枚か辺りに散らばっていた。少し離れたところには革袋も落ちていて、その口から更に何枚かの硬貨がこぼれかけている。
 ひったくるようにしてバイルがそれらを拾って回る。その浅ましさたるや、腐肉を食らって生きる獣の姿そのものだ。
「お、おお、俺の金だ、お前ぇには、や、やらねぇぞ」と逆さにした革袋をいかにもせっかちそうな動作で激しく上下に振りながら、奴が怯えた子犬のような目で吠える。
「ここ、これは全部、お、俺のもんだ! 俺が先に見つけたんだからなッ!」
 やれやれ、と俺は肩をすくめた。
 要るかよ、そんな小銭。金貨や銀貨ならともかく、銅貨や鉛貨ばかりじゃねぇか。それっぽっちじゃ何の足しにもならねぇし、どっちにしろお前の銭は俺の銭だ。もうしばらくは持たせておいてやるさ。
 それより投げ捨てられた革袋の方が、俺は気になった。ひどくくたびれた財布で、全体的に腐ったようにすり切れている。ぱっと見た時は革ではなくて紙かと思ったほどだ。
 だがつい今し方バイルが拾い上げたコインはどれも、まるで鋳造したてかのようにピカピカに輝いていた。
 俺は周囲を改めて見回してみる。どの骨もかなり古びた赤茶色になっている。よく見ると衣服の残骸のようなものもあった。恐らく元は野良着だったのだろうが、腐ってボロボロになっている。よほどの期間、ここで風雪にさらされたか。
 岩の陰には縄の結び目だけが落ちていた。こちらもやはり相当ひどく痛んでいたが、固く結ばれた部分だけは腐敗を免れたようだ。それにしても随分な力で結わえたものだ。これでは二度とほどけないだろうに。
 ふむ、と俺は考え込む。
 銭だの財布だの、服だの縄だのは、獣どもにとっては無用だろう。つまりここに散乱しているこれらの骨は、全て人間のもの、人骨というわけだ。
 だが頭蓋骨は一つも見つからない。大腿骨のような大きなものもない。どれも粉々に砕けている。これはどういうことだ?
 分からないことはもう一つある。
 ここにある全ては、骨も革も布も縄も、相当に劣化している。どれももろくなっていて、ボロボロだ。古くなったせいだと考えれば不思議はない。
 だがなぜか、硬貨だけはピカピカなのだ。どうして錆びていない? なぜ銭だけは新品同然なんだ?
 しばらく考え込む。
 やがて「なるほどな」と俺はゆっくり肯いた。
 酸、だ。間違いない。ここでくたばることになったこれらの哀れな連中は、全身に強烈な酸を浴びたのだ。だから自身も身につけていた物も、ボロボロに劣化してしまった。ただし、金属だけは表面が溶けたことによって、まるで新品のようになった、というわけだ。
 酸の罠か。
 俺は顎に手を当てて考え込む。
 どうやら魔法使いの隠し倉庫は、来訪者を単に音で脅すだけの安っぽいシロモノではないようだ。こうして大勢の人間を殺せるだけの罠が仕掛けられているわけなのだから。こいつはかなり厄介だ。
 しかし、考えようによっては良い知らせでもある。まず第一に、その宝物庫は本当に存在するのだ。そして第二に、その中にはよほど価値のある何かが隠されている。そうでなければ、これ程の罠を仕掛ける理由がないではないか。
 くくく、と俺は喉を鳴らす。
 久しぶりに血が騒ぐ。全身がゾクゾクしてきたぜ。お宝のあるところに泥棒あり、だ。盗みこそ我が天職。手に入れるのが難しければ難しい程、俺のやる気は刺激される。こればっかりは性分としか言いようがねぇ。
 俺は上を見上げる。
 それはすぐに見つかった。斜面のずっと上、谷に突き出た大きな岩の上に、ちょこんと乗っかるようにして建っている。むしろ目立っているくらいだった。
 影のように真っ黒な、小さめの家、あるいは大きめの小屋、といったところか。
 なぜこの辺りには頭蓋骨のような大きな骨がないのか? 一つには酸にやられて強度が極端に低下しているからだ。そしてもう一つ、大きな力が加えられたせいでもある。あの高いところから落とされた時の衝撃で、陶器か軽石のように、全部砕けてしまったのだ。
 にやり、と俺は口の端を歪める。
 見つけてしまえば手に入れたも同然だ。俺はここいらに散らばっている二流や三流の哀れな奴らとは違う。どんなピンチも切り抜けてきた一流の盗人様だ。ちゃんと策だって用意してある。
 せこいことを言うなよバイル、と俺は怪訝顔(けげんがお)をしてこちらを眺めている大男に笑いかけた。
「お前ぇの前に立っているこの俺は誰だ? 大泥棒のシャッグ様さ。そうだろ。もっとガッポリ儲けようじゃねぇか。さぁ、行こうぜ兄弟。お宝はあそこだ」
 と上を指さす。
 バイルの奴が「え? あ! あれか。ほ、本当にあった!」と間抜けな声を上げた。
 二人でえっちらおっちらと斜面をよじ登る。ほとんど崖と言ってもいいような急勾配で、両手を使わなければ上がれない。
 俺たちは全身汗だくになったが、それでもどうにか小一時間ほどでその大岩の上に立った。
 バイルは俄然やる気になっており、今では俺の随分前を進むようになっている。奴の理屈では全ての富は最初に見つけた人間のものになるわけなので、それも当然ではあった。そしてそれは俺にとっても好都合だった。けしかける手間が省けるというものだ。バイルが先に引っかかってくれれば、俺はその罠にかからずにすむ上に、その罠は俺の邪魔なお荷物の息の根まで止めてくれるのだ。まさに一石二鳥。我ながら惚れ惚れするような策ではないか。
 なんか、宝があるようには見えねぇな、と奴。
「まるで炭焼き小屋みてぇだ」
 煙突はねぇがな、と俺。
「確かに炭みてぇに真っ黒だな」
 それは近くで見ても黒かった。やや紫がかった、深みのある黒だ。
 小屋の幅は、五メートルくらいだろうか。奥行きは十メートル以上はありそうだ。壁の高さは二メートル程だが、その上に半円筒形をしたアーチ型のどっしりとした屋根が乗っているので、小屋としてはかなり背が高い。
 正面に金属製の枠で補強された扉があるが、山側から確認できるのはそれだけで、窓の類は一切見当たらなかった。
 ところでこの扉やこの小屋の全体の印象、何となくどこかで見たような気がするのだ。だが考えてみても思い出すことができない。
 もう少し詳しく調べてみようと一歩近づくと、ドアの奥から、まるで地鳴りのような音が轟(とどろ)いた。
 ヒ、ヒィィィ、と驚いたバイルが尻餅をつく。
「ビビるな」と俺。「こんなのはただのこけおどしだ」
「け、けどよぅ」
 俺たちは羊飼いの小僧とは違うんだぜ、と言い放つ。
「面白ぇじゃねぇか。こりゃ、是が非でも中を拝まなくちゃな、ククク」
 近寄って壁に触れてみる。
 表面はざらざらしており、心なしか、少し温かい気がした。
 目の詰まった角材を分厚い板金でひっくくって極太の鋲(びょう)で留めている。恐ろしく頑丈な造りだ。過剰と思えるほどだった。こんな小屋や家は見たことがない。
 色については、どうやら瘴気のせいで自然とこうなったわけではなく、最初からわざとこの黒一色に塗っているようだ。全体的にむらがない。恐らく、タールか何かを使ったのだろう。
 ちょっと調べてくると言い残して、谷の側に回り込んでみる。
 反対側にも窓などはなく、やはり頑丈そうな壁があるだけだった。
 ふぅむ、と考え込む。
 してみると、この小屋の入り口は一つしかないわけだ。結局のところ、やはりこれは住むためではなく、何かを保管するためのものなのだろう。まぁ、それはいい。期待通りだ。
 だがしかし、誰がいったいどうやってこれを建てたのか?
 俺はそっと崖の下をのぞき込む。
 これほどの建材を、どうやってここまで上げたのだろう? 斜面のどこにも道らしきものは見当たらない。それとも、俺たちには分からない別の道がこの谷にはあるのだろうか。あるいは、そういう便利な魔法があるとかか。
 それに何だか妙に新しい気がするのだ。どこもすり減っておらず、特に汚れてもいない。金具だってまったく錆びてない。まるで建てられたばかりのようだ。こいつはいつからここにあるんだ?
 俺がこいつの噂を聞いたのはもう何年も前のことになる。だがそれほどの年月に耐えてきたようにはまるで見えない。つい最近建て替えられたばかりなのだろうか。
 分からない、分からないが、何かが不自然だ。どうにも嫌な予感がする。俺の中のもう一人の俺が、さっきからずっと「逃げろ! 走れ! 一刻も早く遠ざかれ!」と叫んでいる。
 だがそうもいかない。高飛びのための資金が要るのだ。ここで金が手に入らなかったら、どっちにしろ俺は破滅だ。俺はもう、引き返せないのだ。
 一か八か、やるしかねぇ。そう腹をくくって小屋の正面に戻ると、バイルの野郎の姿が消えていた。左右を見回してみたが、どこにも見当たらない。
 ん?
 よく見ると、扉がうっすらとあいている。
 馬鹿な。鍵がかかっていない! バイルのような頓馬(とんま)野郎に錠前破りのスキルなんてあるはずはねぇから、これは最初っから開いていたのだ!
 しまった! あいつ、宝を持ち逃げして、独り占めする気だ!
 そうはさせるか、と慌てて扉の取っ手をつかんだその時、その瞬間だった。俺は三つのことに気がついた。
 まず第一は、そもそも大切な宝をしまっておく場所に鍵をかけないはずがない、ということ。そして第二は、この扉や小屋の全体的な印象についてだ。思い出した。木と金属を組み合わせた、このがっしりとした頑丈な造り。これは宝箱の構造と同じだ。豪商どもの倉庫の中で散々見たが、色が全然違うのと、図体がでかすぎるせいで気づけなかった!
 そして第三はこのドアノブの感触について。微かだが温かくて、湿っぽくて、脈打っている。こいつは小屋でも家でも、ましてや宝物庫でもない。こいつは生きてるッ!
 すかさず飛び下がったが、俺よりも相手の方が速かった。扉が勢いよく開き、奥から真っ赤な触手のようなものが噴き出てきて俺に絡みついた。
 まるでビロードのような肌触りだと思ったのは一瞬だけ。すぐにつかまれた箇所が鋭く痛み出した。腐った果実のような、すえたひどい臭い。俺の皮膚が、焼けたようにただれてゆく。この触手からは何か粘りけのある唾液のようなものが分泌されており、それが俺の肌や肉を溶かすのだ。これは、胃酸か?
 凄まじい力で引っ張られる。
 俺は食われまいと必死に足を突っ張って抗(あらが)ったが、あまりに図体が違いすぎた。為す術もなくずるずると引き寄せられてゆく。
 小屋の入り口の向こう、闇の中で、馬車の車輪ほどもある巨大な目玉が一つ、瞬きもせずにじっと俺を見つめていた。
 その周囲でうごめく、ぎっしりと詰め込まれたような幾つもの肉の塊も、一瞬だけだが、見た。全体が細かなひだに覆われていた。俺は今、モンスターの胃袋の中を覗いたのだ!
 生まれてきたことを後悔するような、死。そう思った瞬間、俺は全てを理解した。
 あの固く結ばれた縄! あれは組織の邪魔者を縛り上げた時の結び目だったのではないか。シャルアードが見せしめのために、殺すと決めた相手を生きたままモンスターに食わせているのだとしたら? そんな光景を見せつけられた部下たちは、もう誰も彼に逆らおうなどとは考えないだろう。大金持ちのシャルにとっては、こいつを殺して得られる利益よりも、このモンスターを生かしておくことで得られる利益の方が大きいのだ。恐怖。そうだ。奴はこの二文字で全てを支配している。そしてこの化け物こそが、シャルの恐怖の象徴なのだ。
「ぐぁあああッ!」
 何とかして敵の束縛から逃れようとするが、握りつぶされそうなほどの力で締め上げられ、俺の抵抗はよろよろとした酔っ払いの千鳥足程度のものにしかならなかった。かつての、まだ冒険者だった頃の華麗なステップからはほど遠い。
 こちらを凝視するモンスターの無表情な視線を見て、俺は更に悟った。
 こいつはただ、シャルから餌を恵んでもらっているだけではない。自分でもそれを引き寄せているのだ。
 羊飼いの小僧が助かったのは偶然なんかじゃない。こいつがわざと威嚇(いかく)して逃がしたのだ。臆病者は自身の体験を周囲に言いふらす。「近づくとうなり声を上げる、いかにも恐ろしげな小屋を、谷で見た」という子供の体験談はすぐに尾ひれがついた上で一人歩きを始め、やがて「魔法使いの財宝が、谷のどこかに隠されている。その宝は、トラップによって厳重に守られている」というまことしやかな噂となって広まる。そして近づくなと言われると行きたくなってしまうのが人間の性(さが)だ。こいつはそういう人間の習性を熟知している。ダンジョンの奥で、こいつなりに人について学習したに違いない。奴のあの淡々とした冷酷な眼差しには、そう思わせるだけの陰鬱な知性が備わっているように思えた。
 噂を餌にこうやって一人ずつ人間をおびき寄せては食らい、消化できなかったものを谷底に吐き出していたんだ。あの大量の骨やその他の諸々は全部こいつのゲロだ、あるいはクソだ。クソったれめ!
「お、俺は、大泥棒なんだ! こ、こんなところでくたばって――」
 歯を食いしばって耐えようとするが、もう手や足に力が入らなかった。ここ数日まともなものを食ってないし、考えてみればもうずっと酒浸りの自堕落な日々を送っている。
 冒険者だった頃のスピードも、パワーも、勘の鋭さや頭の回転の速さも、今の俺にはもうなかった。

 ――俺はいったい何を間違えた? 俺の人生はいつ、どこで、引き返せなくなってしまったんだ?

 様々な疑問が脳裏をよぎったが、答えはどこからも返ってはこず、ただ風が空しく俺の思考の中を吹き抜けてゆく。
 俺は闇の中に引きずり込まれる。
 背後でバタン、と扉の閉まる音がした。