「不穏の谷の黒い小屋」(上)片理誠

「あん?」と振り返った俺の視線が、しょぼくれた大男の姿を捉えた。背中をややすぼめて、怯えた目で不安そうに辺りを見回している。
「何だ、気に入らねぇのか?」
 いや、別にそうじゃねぇけど、とバイルの野郎が薄っぺらい愛想笑いを浮かべた。
「本当にここまでする必要があったのかと思ってよ。いつものように役人どもにちょいと鼻薬を嗅がせりゃぁ、それですんだんじゃねぇのか」
 ちッ、と思わず俺は舌打ち。
 俺の三歩後ろをのそのそと歩くこのデカブツが、怪力だけが取り柄の荒くれ者だってことは、この俺自身が一番よく分かっている。普段ならおだてて乗せて、いい気分のままにしておく方が得策だ。
 だが今は残念ながら「普段」からはほど遠い。全然違う状況なのだ。俺の気分もこれまでの生涯で最低の最悪。そりゃ舌打ちだって出る。
 そもそも、こんな奴と組んだのが間違いだったのだ。
「今回ばかりはそうはいかねぇだろ。俺たちは今、ファミリーに追われてんだぞ。役所の能無しどもとはわけが違う、泣く子も黙るシャルアード・ファミリーだ」
「だからってよ、なにも着の身着のままで、こんな山奥まで来なくても」
 と奴が両手を広げてアピール。
 周囲には黒くすすけた木々が密に立ち並んでいる。かつてはさぞ鬱蒼(うっそう)とした森だったに違いない。だが今は全てが立ち枯れていた。
 木だけではない。辺りにある全て、岩も土も枯れ草も、念入りに燻(いぶ)したような色になっている。ここは死の谷なのだ。
 俺たちは今、涸れた沢の跡を歩いている。上り坂だ。岩やら石やらが雑多に敷き詰められたようになっていて、歩きにくいったらなかった。
 なぜこんなところを歩いているのかと言えば、他に歩ける場所がないからだ。この辺りは町の連中はもちろん、木こりや猟師、それどころか獣や鳥ですら滅多なことでは寄りつかない。道なんてどこにもない。移動したかったら、こうして水の流れた跡をたどるしかないのだ。
「もしあのままあの酒場にあと数分でもいたら、俺たちゃ今頃、血も凍るようなやり方で殺されてた。まだ生きていられるだけでも運が良かったんだ」
「だがよ、シャッグ」と奴も譲らない。「犯人が俺たちだってことは誰も知らねぇはずだ。とぼけりゃ、どうとでもなっただろう」
「俺たち、じゃねぇ。奴を殺したのはお前だ、バイル。勝手に俺を巻き込むな」
「そりゃねぇだろ! 殺れと言ったのはお前じゃねぇか、シャッグ!」
「殺れなんて言ってねぇ! どういう目に遭うか分からせてやれ、と言ったんだ!」
「同じこったろうが! お前がしろと言ったことを俺がやって、その結果あいつが死んだんだ! 一人だけ逃げようったって、そうはいかねぇぞ!」
「分かってるよ、んなこたぁ! “氷刃のシャル”に言い訳が通用するなら俺だってこんなとこにいるかってんだッ!
 真実なんかどうだっていい! ファミリーが今求めているのは生け贄(にえ)だ! 見せしめのためのなッ!
 噂じゃ、つい最近も若い衆が一人、処分されたって話だ。シャルの女に手を出したとかでな。けど、理由なんかどうだっていい。問題はその方法だ。とにかく、生まれてきたことを後悔するようなやり方で殺されるんだそうだ、シャルの機嫌を損ねた奴は全員な」
「こ、後悔って、どんな」と途端にバイルの顔が曇る。さすがのこいつもシャルアード・ファミリーの恐ろしさは分かっているらしい。
 さぁな、と俺。
「それを知ってるのは組織の中でも幹部だけって話だ。だがとにかく、身の毛もよだつような恐ろしい殺され方だってことだけは間違いねぇ。その証拠に、それを見た者は誰も絶対にシャルには逆らわない。シャルへの恐怖こそがファミリーの結束を揺るぎないものにしているんだ。
 分かるか? シャルの顔に泥を塗ったらどういう目に遭うか、奴らは組織の内外に証明しなくちゃならねぇ。そのためなら連中は何だってやる。
 情報屋どもに大金をばらまきもするだろうし、少しでも怪しい奴がいれば片ッ端からとっ捕まえて拷問にもかけるだろう。
 奴らの手が俺たちの襟首まで伸びるのなんて、あっという間だ。直接の目撃者がいなかったとしても、あの辺りが俺たちの縄張りだったってことは、多くのゴロツキどもが知ってる。死体の頭部はぐしゃぐしゃに潰れてるんだ。そしてお前は棍棒使い。俺はその相棒ってわけだ」
 バイルの奴は数秒間黙り込んだ後、肩を落として「くそう」と呟いた。
「もう町には戻れねぇ。死にたくなかったら、どこかファミリーの手が届かねぇ遠くへ逃げるしかねぇんだ」
 それは分かったがよぅ、と奴。情けない声だ。
「どうしてこの谷なんだ? もっとマシな逃げ道があったんじゃねぇか。俺たち、もう二日も飲まず食わずで歩いてるんだぜ。そろそろ限界だ。このままならどっちにしろ野垂れ死にするだけじゃねぇか」
 黙って歩け、と俺。
「高飛びには金がいるんだ、大金がよ」
 そうだ。歩いてたんじゃそう遠くまでは逃げられない。すぐに捕まってしまう。馬にしろ船にしろ飛翔艇にしろ、乗るためには費用がかかるんだ。それに高飛びした先での生活もある。余所者な上に貧乏人では、どこにも受け入れてはもらえない。
「金? 盗んだ宝石でも隠してあるのか?」
 まさか。そんなモンがあるんなら、そもそもお前なんぞを連れてきちゃいない。
「昔、酒場で聞いたことがあるんだ。この谷のどこかに魔法使いの宝物庫があるってよ」

 この谷をずっと登ってゆくと、とある洞窟にたどり着く。奥はちょっとした鍾乳洞になっていて、昔は水晶なんかが取れたそうだ。
 だが今から五十年ばかり前、洞窟の最深部に魔族が現れ、そこに魔界とのリンクをこさえた。平たく言ゃぁ、穴の底が地獄と繋がったってわけだ。
 さぁ、そうなると大騒ぎ。大陸中から勇者という名の“モンスター専門の追い剥ぎ”どもがここに集まってきた。化け物の血や内蔵からは特殊な薬や毒を抽出することができるし、連中の骨や牙、爪や鱗、角や目玉なんかは様々なアイテムの素材になる。特に魔力を帯びた武器や防具、アクセサリーなどを作るためには、こういった特殊な材料が欠かせない。当然、高値で売れる。大物を倒せば英雄の称号も手に入る。一生、安泰だ。
 物欲や権力欲に取り付かれている者にとってモンスターは歩く宝の山なのだ。欲望に目がくらんでいるから多少のリスクなんて、連中は屁とも思わない。次々にダンジョンと化した洞窟に突撃していっては死体となって戻ってきた。だが一攫千金、立身出世を夢見る馬鹿は後を絶たず、死んでも死んでもどこかから無限に湧いてくる。
 とうとう化け物の方が先に音をあげた。十年くらい前に最後の魔族が倒され、魔界とのリンクが切断されたのだ。
 今でもたまに瘴気が噴き出てくることはあるが、もうその洞窟からモンスターが姿を現すことはない。
 そしてこの谷の存在は忘れ去られた。少なくとも、ほとんどの人間の頭の中からは――

「洞窟からの臭ぇガスのせいで、ここには誰も寄りつかねぇ。ってぇことはよ、何かを隠すにゃぁ、うってつけってわけだ」
 ザック、ザックと石を踏みしめながら、俺は坂を登る。
 本当かよ、と後ろから声がした。
「いかにも酒の席でありそうな噂話じゃねぇか。そんなもんを真に受けるかね」
「道に迷った羊飼いの小僧が偶然、見つけたって話だ」
「もしそれが本当だったとしても、中のお宝はもう誰かに盗まれちまってるんじゃねぇのか」
 大丈夫。そこいらの素人が迂闊に手を出せるようなシロモノじゃぁねぇのさ、と俺。
「俺が聞いた話じゃ、近づくと奥から恐ろしい音がするんだそうだ。ま、さもありなん、て感じだな。
 もし本当に魔法使いが隠したんなら、そこにはきっとたちの悪いトラップがごまんと仕掛けられてるに違ぇねぇぜ。何しろ偏屈の二文字にローブを着せたような連中だからな、魔法使いってのはよ。あいつらは誰のことも信じちゃいねぇんだ」
「そういやシャッグは昔、冒険者だったんだっけな」
 ああ、と俺。
「まだガキだった頃な。すぐに足を洗ったがね。あんなのは真っ当な泥棒の仕事じゃぁねぇ」
 そうだ。路上強盗なんぞに落ちぶれる前、俺は盗賊だった。それも、立派な。
 モンスターの死体から何を剥ぎ取ったとしても、結局、最終的に一番儲けるのは商人どもだ。連中は互いに裏で共謀して相場を自由に操ったり、何度も何度も仲間内で転売を繰り返すことで管理費やら手数料やらの名目で中抜きを好きなだけ繰り返し、望むがままに値をつり上げて巨万の富を得る。権力だって金で買えるこのご時世。あいつらは社会の闇の中で何だろうがやりたい放題だ。
 血の一滴どころか汗の一粒だって流してはいない、いいやそれどころか、小さな悲鳴すらあげたことのない奴ら、死と隣り合わせのダンジョンではなく、安全で快適な豪邸の中で涼しい顔をしながらただ銭勘定だけをしている奴ら、そんな意気地のねぇ、ずる賢いだけが取り柄のクズどもが、俺たちの手柄のほとんどをかすめ取っていってしまうのだ。
 モンスターから奪うより、商人から奪う方がよっぽど実入りがいい。そう気づいた俺はこれっぽっちも躊躇(ちゅうちょ)することなくそれを実行に移した。あの憎ッたらしい銭の亡者どもが坂道を転がり落ちるようにして破滅してゆく様を眺めるのは、俺にとっては何よりの悦楽だった。
 だが少しばかりやりすぎた。洞窟からのモンスターの供給が途絶えた後も俺は盗みに盗みまくって、その金を全部、博打やら酒やら女やらに費やした。
 おかげで町から豪商どもが綺麗さっぱり消えた時、俺は文無しだった。
 町からも活気が消えていた。俺はそこいらの貧乏人どもの家に忍び込むようなちんけな仕事はしたくなかった。エリート泥棒としてのプライドがあったからだ。大盗賊ってのは、でかいヤマしか相手にしないもんなんだ。
 とは言え、生きてくためには金が要る。そこで俺はしかたなく知り合いの大男と一緒に、介抱してやった酔っ払いから財布の中身を頂戴するという新しいビジネスを始めた。手頃な飲んだくれが見つからない時は、そこいらの人間を適当に捕まえて少々強引に資金カンパを募ったりもした。
 もちろん、こんな下らない仕事では稼ぎだって微々たるものだ。
 こんなしけた土地にいつまでもいたんでは駄目だ、俺は大都会でこそ輝く存在なんだ、早くこんな生活から抜け出さなくてはと考えていた矢先、あの事件が起きた。
 やせっぽっちで俯(うつむ)きがちな若造をバイルが棍棒で撫でて、物の道理って奴を分からせてやろうとした。が、馬鹿が力の加減を間違えた結果、そいつは路地の反対側に吹っ飛んだっきり、二度と起き上がらなかった。
 あの若造が実はシャルの隠し子だった、というのを知ったのはその翌日のことだ。誓って言うが、俺たちは本当に知らなかったんだ。そりゃそうだろ。さすがの俺だって、ファミリーと事を構えるほどの命知らずじゃねぇ。商人どもが残らず破産して、シャルが町に残った唯一の大金持ちになった後でさえ、俺は奴からだけは小麦の一粒だって盗みはしなかった。
 今でこそ町の顔役の一人に収まっちゃいるが、シャルアードの奴がかつて“氷刃”と呼ばれた冷酷非情の暗殺者だってことは、裏社会の人間なら誰だって知ってる。ましてや今は巨大ファミリーの首領。逆らうなんてとんでもない。あれは本当に単なる事故だったんだ。
 俺はかつてこの大陸で一番の大泥棒だった。少なくとも自分ではそう思って生きてきた。それが今じゃこの体たらく。空きっ腹を抱えた惨めな逃亡者にまで落ちぶれている。
 それもこれも全ては、俺にくっついてきているこの薄ら馬鹿のせいなのだ。
 俺はちら、と後ろを見やった。
 バイルの野郎がそこいらで拾った石を頭上に高々と掲げて今まさに俺の脳天を砕こうと……してたりはしなかった。泣きそうな顔で、ただゼェゼェと呼吸を荒げていただけだ。そう。今はまだ。
 このままなら、こいつだって助からない。今のバイルにとっては俺だけが頼みの綱なのだ。俺に利用価値が残っている間は、こいつだって事は起こせない。共倒れになるだけだからな。
 魔法使いには詳しいんだ、と俺はバイルを睨み付けながら、噛んで含めるようにして言った。
「以前、短い間だったが、組んでいたことがあるからな。連中の考えはだいたい分かる。どんな罠だろうが、俺なら難なく解除できる」
 俺は己の胸を軽く叩く。上着の内ポケットの中に収めてある仕事道具一式がカチャリと鳴った。俺が選りすぐり、様々な工夫を凝らした自慢の逸品たちだ。いついかなる時であろうと、こいつらだけは手放さない。こいつたちだけが俺の本当の相棒であり、俺の泥棒としてのプライドの象徴なのだ。
「た、頼むぜ、シャッグ。お前ぇだけが頼りだ」
「任せろよ」
 そう。俺は魔法使いどもの罠に詳しい。だからこそ、まだこうしてバイルを殺らないでいるのだ。
 こいつは少し酒が入っただけで周囲にあることないことを吹聴して回る、口の軽い馬鹿だ。本当なら一刻も早く何も喋れねぇようにしておく必要がある。
 だが魔法使いってのは想像もつかない罠を仕掛けてくる。俺一人では歯が立たないかもしれない。バイルは腕力だけならなかなかのものだし、最悪の場合でも囮くらいの役には立ってくれるだろう。殺るのはいつでもできる。こいつの口を封じるのは、お宝を手に入れた後でいい。
 出来の悪い水墨画のような陰鬱な景色がただ延々と続くだけの谷だ。瘴気(しょうき)のせいで何もかもが黒ずんでいる。木々が全て枯れているおかげで葉が茂っていないのはしかし、こっちにとっては幸いだった。おかげで見晴らしはいい。
「お前も探せ」陰鬱な周囲の風景を見回しながら俺は言った。「この谷のどこかにあるはずだ」
「魔法で守られた宝物庫がか」とかりそめの相棒。「そもそも俺たちに見つけられるものなのかね」
「何の変哲もねぇ羊飼いのガキが見つけられたんだ。俺たちの目に映らねぇわけがねぇぜ」
 立ち枯れの森の中、岩と石でできた坂道を俺たちは登り続ける。辺りをキョロキョロと見回しながら。
「お宝の倉庫も結構だが、できればまだ生きてる奴を倒してぇもんだな、ぴっちぴちのモンスターをよ。新鮮な方が高く売れるだろうし、何より、そうなりゃ俺たちゃ魔物殺しの英雄だ。どこの国だろうが諸手を挙げて歓迎してくれるだろうぜ」
 夢みてぇな話だな、と歩きながら俺は背後のバイルに言葉を返す。
「最後の魔族が倒されてから、もう随分経つ。化け物どもの残党も残らず狩られて、今じゃ勇者だの冒険者だのは全員、よその国のダンジョンへ行っちまったんだぜ」
 その後、しばらくの間は静かだったが、やがてバイルの野郎が呟くような小さな声で言った。
「……いや、一匹だけ残ってるって噂なんだ」
 ん、と俺。振り返る。
 神妙な面持ちの大男と目が合った。
「俺だって伊達に酒場通いをしてたわけじゃねぇ。酔ったふりをしながら、色々な情報を集めてたんだ。
 最後の魔族の中に一匹だけ、逃げた奴がいるんだとよ。もちろん大勢の人間がそいつを探し回ったが、結局誰も見つけられなかったって話だ」
「嘘だろ。それこそ信じられねぇな」と俺は肩をすくめる。
 あのろくでもねぇ強突く張りな町の連中から、まんまと逃げおおせる? そんな魔物の話は聞いたこともない。
「ミミックって言ってよ、生物以外の物なら何にでも化けられる特殊なスキルを持ってやがるんだそうだ。普通は宝箱に化けて、人が近づいてくるのを待ってる」
「んで、誰かが近寄ったところをガブリ、か。おっかねぇな」と俺は笑った。「だが確かにそれなら見つけられなかったとしても不思議はねぇかもしれねぇな。石か何かに化けられでもしたら、かなり厄介そうだ」
「俺ぁてっきり、シャッグもこの噂を知ってて、それでここへ来たのかと思ってたぜ」
「まさかだろ。生きている魔物がいつまでもこんなところをウロチョロしているはずがねぇ。さすがにもう、どっか遠くへトンズラしてるさ」
 ミミックは生き物には化けられねぇんだ、と奴も譲らない。
「この谷を見てみろよ、シャッグ。岩に石に枯れ木ばかり。その魔物にとっちゃ、まさにおあつらえ向きの場所じゃねぇか。俺ならこの谷を離れたりはしねぇな。ここなら安全なんだからよ」
 そうかい、と俺はこの雲をつかむような話題を切り上げる。魔物の生き残り? ハッ! 馬鹿馬鹿しい。そんなのが本当にいたら、町の貧乏人どもが放っておくもんか。だいたいソレ、十年も前の話なんだろ? 魔物だって成長はする。もしそれが本当なら今頃は相当なデカブツになっててもおかしくはねぇ。いくら物に化けられるからって、そんなのがそういつまでも隠れていられるわけがない。
「ま、とにかく金になるんなら何だっていいさ、死んでる奴だろうが、生きてる奴だろうがな。とにかく探せ。お喋りしてるだけじゃ何も解決しねぇんだぜ」