「犬の心臓。ブルガーコフ(分載第一回)」

編集部より。
 今回より、翻訳作品の掲載と、評論を同期させる、オンラインマガジンの特徴を活かした新たな試みを始める。「犬の心臓」の新訳および「ブルガーコフ論」の二つの連載をタイミングを測りながら、本文と解説によって作品理解のための補助線を提示していきたい。(大野典宏)

犬の心臓
ミハイル・ブルガーコフ

堀内豪訳

 う、う、う、う、う、う、ぐう、ぐう、ぐうぐう、うう! ああ、俺を見てくれ、俺は死にかけているんだ! 吹雪が門口で、俺に臨終の祈りをがなり立て、俺はそれに合わせて吠える。俺は終わりだ、終わりだ! 汚いコック帽のろくでなし――国民経済中央会議職員用普通食堂のコックが熱湯をかけて、俺の左脇腹に火傷を負わせやがった。何という糞野郎、あれでプロレタリアなんだと! ああ、神様、痛いよ! 熱湯で骨までやられた。俺は今、吠える、吠える、吠えるんだが、吠えるのが何かの役に立つんだろうか。
 俺が何かで、やつの邪魔をしたか? 何をした? 俺がゴミためをちょっと引っかき回したからって、国民経済会議の懐が痛むことになるか? がめついこん畜生め! いずれやつの面を見てみろよ。あいつ、ものすごいでぶなんだぜ! 赤ら顔で、鉄面皮ならぬ銅面皮の盗人だ。ああ、人間、人間ってやつは。コック帽に熱湯をお見舞いされたのが正午、今は暗くなって、プレチーステンカ消防署から玉ねぎの匂いがただよってくることから判断するに、だいたい午後の四時くらいだろう。ご存知のとおり、消防士は晩飯に粥を食すのだ。だが、これはきのこみたいに一番遠慮したいものなんだけどな。ところで、プレチーステンカ通りの知り合いの犬たちが言ってたんだが、ネグリンヌィ通りのレストラン『バー』では定食が食えるらしく、これがきのこのピリ辛ソースで、一人前三ルーブル七十五コペイカだそうな。これは好きな人にはたまらんのだろうな――オーヴァーシューズをなめるみたいなもんなのだろう……。う、う、う、う、う……。
 脇腹が我慢ならんほど痛い。そして俺には、自分の行く末が実にはっきり見える。明日には潰瘍ができるだろう。そしたら何で治せばいい? 夏だったらソコーリニキ公園に行ってくればいい。あそこには特別な、とてもよい草があるし、それにソーセージの端っこを無料でたらふく食って、市民が投げ捨てた、食べ物の油気が残る包み紙を、思う存分なめられる。それにもし、月が出ている時に円形広場で、心が沈むような歌い方で『清きアイーダ』(訳注:ジュゼッペ・ベルディ作曲のオペラ『アイーダ』の中のアリア。エジプト軍指揮官ラダメスの、奴隷(実はエチオピア王女)アイーダへの思いが述べられている)を歌う、どっかの辛気くさい老人なんかがいなければ最高なんだがな。だが、今はどこへ行ける? 長靴で尻を蹴られたことはあるかい? 俺は蹴られた。肋骨に煉瓦をくらったことは? 俺はたっぷりいただいた。すべて経験して、我が運命を甘んじて受け入れ、もし俺が今泣いているとすれば、それは肉体的な痛みと寒さのせいだ。なぜなら俺の魂はまだ燃え尽きていないから……。犬の魂はしぶといのだ。
 だがこのとおり、破壊され叩きのめされた俺の体は、人間からさんざん侮辱を受けた。一番問題なのは、やつが熱湯をかけたから毛皮の下までやられちまって、左の脇腹を守るものが何もなくなったってことだ。俺はいとも簡単に肺炎にかかるだろう。もしかかったら俺はね、みなさん、飢え死にするんですよ。肺炎になったら、玄関口の階段の下に寝ていなけりゃならないが、そしたら誰が、寝ている独り身の犬である俺の代わりに、あちこちのゴミ箱を駆けずりまわって食べ物を探してくれる? 片肺をやられて、俺は這いずり、弱り、その道の専門家の誰かが棒で俺を殴り殺す。そして、バッジをつけた掃除夫たちが俺の足をひっつかみ、荷車の上に放り投げるのだ……。
 掃除夫というのはあらゆるプロレタリアの中でも、最も卑劣なくだらんやつら。人間の屑、最低の部類だ。コックにはいろいろなのがいる。例えば、プレチーステンカの今は亡きヴラスさん。あの人はいくつの命を救ったことか。なぜなら一番肝心なのは、病気の時に食い物を手に入れること。で、年寄りの犬たちが言うことには、ヴラスさんが骨を放り投げると、そこには八分の一フント(訳注:約六十グラム)ほどの肉がついていたもんだったそうだ。ブラスさんに天国での安らぎを与えたまえ。真の人格者でトルストイ伯爵家のお抱え料理人で、普通食堂ソヴィエトの出ではなかったのだから。やつらが普通食でどんな妙ちきりんなことをやっているのか、犬の知性をもってしても理解不能だ! だって人でなしのあいつらは、ひどいにおいのする塩漬け肉を使ってキャベツスープを作り、かわいそうな人々は何も知らんのだ! 走っていって、食らい、すすりこむ!
 あるタイピストは九級職で四・五チェルヴォーネツ(訳注:四十五ルーブル)もらっているんだが、実は愛人は彼女に、光沢のある糸でできたストッキングを贈るのだ。あのきれいな糸のために、彼女はどれだけの侮辱に耐えなければいけないことか。だって、やつは彼女に何か普通のやり方ではなくて、フランス式の愛をやらせているのだ! ここだけの話、フランス人てのは下司だ。いいもんたらふく食って、そのうえいつでも赤ワイン付きだけどな。そうさ……。タイピストちゃんは走ってやってくる。だって四・五チェルヴォーネツじゃ『バー』には行けないし、映画にだって足りない。映画ってのは女にとって、人生における唯一の慰めなのにな。
 震えて顔をしかめながら食うのは……。考えてもみろよ。二皿の料理で四十コペイカだが、ありゃ二つ合わせたって十五コペイカの価値もない。なぜなら残りの二十五コペイカは、経理部長がかっさらったからだ。さて、彼女にああいう食事は適しているんだろうか? あの娘の右肺尖には異状があって、フランス式のせいで婦人病があって、職場では給料から天引きされ、食堂では腐った食い物を食わされる。ほら、あの娘だ、あの娘だ!! 愛人のストッキングをはいて、門口に向かって走ってくる。脚は冷たく、腹にも寒気がする。だって俺のみたいな毛皮は着ているけれど、脚にはレースみたいな薄いのをはいているだけなんだから。愛人のためのくだらんぼろ布。フランネルのをはいたらどうなるんだろうな。男はわめくんだろう。どこまで君はださいんだ! 俺のマトリョーナにはうんざり、フランネルの股引にはげんなり、やっと俺の時代がやってきたのだ。俺も今や議長。どれだけ横領しようと、すべて、すべてを女体とザリガニの肉とアブラウ・デュルソ(訳注:クラスノダール地方アブラウ・デュルソ産の発泡ワイン)に! なぜなら、若い頃さんざん飢えに苦しんだのだからもう結構、そしてあの世なんてないからだ。
 俺はあの娘がかわいそうだ、かわいそうだ。だが、自分のことはもっとかわいそうだ。エゴイズムから言っているんじゃない、もちろん違う。なぜなら、俺たちは実際に、同じ状況にいないからだ。あの娘には暖かい家がある。だが俺には、俺には! どこに行けるっていうんだ! 殴られて、火傷させられて、つばを吐きかけられて、俺は一体どこへ行ったらいいんだ? う、う、う、う、う!……
 「わんちゃん、わんちゃん! シャーリク、ねえ、シャーリク!……どうして悲しそうに鳴いているの、かわいそうな子。え? 誰に意地悪されたの? あっ……」
 魔女――乾いた吹雪が門扉をがたがた鳴らし、ほうきをお嬢さんの耳に叩きつける。スカートを膝までまくり上げ、クリーム色のストッキングと、洗いが不十分なレースの下着の裾をあらわにし、娘の言葉を抑えつけ、犬を雪に埋めた。
 ああ……。何て天気なの……。ふう……。それにおなかが痛い。あの塩漬け肉、あの塩漬け肉だわ! こんなの全部、いつ終わりになるのかしら?
 お嬢さんは頭をかがめると、吹きつける吹雪に向かって駆け出し、門を突破し、通りに出たところでくるくる回転させられ、衣服ははためき髪は乱れ、それからねじのような雪のつむじ風の中で身動きがとれなくなり、それきり姿が見えなくなった。
 一方、犬は門口にとどまり、傷を負った脇腹に苦しみながら、冷たくて頑丈な壁に体を押しつけ、やっとのことで息をつき、そして、もうここからどこへも行かないのだ、この門口で息絶えるのだと固く心に決めた。絶望が犬を襲った。心の中は、あまりにもつらく苦しくて、あまりにもさびしく恐ろしくて、小さいぶつぶつのような小粒な犬の涙が目からにじみ出るのだが、その場ですぐに乾いてしまう。傷を負った脇腹は、毛がところどころもつれて凍ったかたまりになっていて、そのかたまりの間には赤くて気味の悪い火傷の傷が見える。どこまでも考えなしで、愚かで、残酷なコックたち。『シャーリク(訳注:犬のよくある名前。日本で言えば「ポチ」か。意味は小鞠)』とあの娘は犬を呼んだ! 一体、この犬のどこが『シャーリク』だというのか! シャーリクというのは、丸々として栄養がゆきとどいていて、お馬鹿さんで、からす麦のお粥を食い、高貴な両親の息子であるという意味だ。一方この犬は、毛はもじゃもじゃ、ひょろひょろでぼろぼろ、あばら骨の浮き出たさすらい犬、宿なし犬なのである。ところで、優しい言葉をかけてくれたお嬢さんに感謝。
 通りの向こう側にある、こうこうと明かりのついた店の扉がばたんと開き、そこから市民が姿を見せた。まさに市民であって、同志ではない。最も正確に言えば紳士だ。近づいてくるにつれて、ますますはっきりわかる。紳士だと。俺がコートを見てそう判断しているのだと思う? くだらん。今じゃプロレタリアだってコートを着ているのがたくさんいる。確かに、襟はああいうのではないというのは言うまでもないことなんだが、それでも遠くからだと見間違える可能性はある。だが、目を見たら、遠かろうが近かろうが間違えっこない! ああ、目ってのは大事なものだ。バロメーターみたいだ。全部わかってしまう――誰の心の中がからからに乾いているかとか、誰が特に理由もないのに、長靴のつま先であばら骨をけとばすかもしれないとか、あるいは、誰があらゆるものをこわがるかとか。こういうのはまさに卑屈野郎で、こういうやつのくるぶしに噛みつくのは愉快だったりするぜ。こわいというなら、お見舞いしてやる! こわいというのだから、噛みつかれるに値するってことだ……。うーっ……わん、わん……。
 紳士は、柱のような雪嵐の渦の中、しっかりした足取りで道を横切り、門口の方に向かってきた。そうだ、そうだ、この人のことは何でもわかる。あの人はくさい塩漬け肉を食おうとはしないだろうし、もしどこかでそんなものを出されたら、新聞各紙に『私、フィリップ・フィリッポヴィチはひどいものを食べさせられました!』と書いてスキャンダルにするだろう。
 ほら、どんどん近づいてくる。あの人は腹いっぱい食べていて、盗みをはたらいたり、足でこづこうとしたりはしない。それでいてこわいものなし。こわいものなしなのはなぜかというと、いつも腹いっぱいだからだ。あの人は頭脳労働者で、フランスの騎士みたいな、洗練された先のとがったあごひげと、白くてふさふさで張りのある口ひげをたくわえているが、吹雪に乗ってその人から漂ってくるのはいやなにおい――病院と葉巻のにおい。
 何だって中央経済の協同組合の店なんかに来たんだろう? すぐそばに来たぞ……。何を探しているんだろ? う、う、う、う……。あんなちんけな店で何を買えたんだろう、オホートヌィ・リャド(訳注:クレムリンの前にあり、商店や飲食店で賑わっていた場所。一九二〇年代に解体された)では物足りないってか? 何だありゃ?! ソー・セー・ジ! 旦那、もしそのソーセージが何で出来ているかを御覧になったら、あなた、あの店には近寄らないでしょうよ。私にくださいな!
 犬は残る力を振り絞り、門口から歩道へと狂ったように這っていった。頭上では雪嵐が発砲のような音を立てはじめ、横断幕に書かれた『若返りは可能だろうか?』の大きな文字をはためかせた。
 もちろん可能だ。においは俺を若返らせ、腹這いだったのを立ち上がらせ、二日間空っぽだった胃を、焼けつくような波で締め付ける。病院臭を打ち負かしたにおい、にんにくと胡椒入り雌馬ひき肉の、天国のようなにおい。俺は感じるし、知っている――この人の毛皮コートの右ポケットに、ソーセージがあるのを! 俺の上に来た。ああ、私を支配するお方! こっちを見てくれ――俺は死にかけているんだ。何たる俺らの奴隷根性、忌むべき運命!
 犬は涙にまみれながら、蛇のように腹這いのままずるずると進んでいった。コックの所業を見てください。でも、あなたは絶対にくれないんですね。ああ、俺は金持ち連中というのをよく知っているのだ! 本当のところ、なぜあなたに、それが入り用なんですか? 何のために腐った馬肉を? そんな毒物はモスセリプロム(訳注:モスクワ農産加工企業連合)の店でしか入手不可。それにあなた、男性腺のおかげで世界的意義のある大人物であるあなたは、今日朝ごはんを食べたでしょうに……。う、う、う、う……。
 これは一体、この世で何が起こっているんだろう? 死ぬにはまだ早すぎるようだし、絶望は本当に罪なんだろうか。この人の手をなめる、もうそれしかない。
 謎の紳士は犬の方に身をかがめると、眼鏡の金縁をきらりと光らせ、右のポケットから、白くて細長い包みを取り出した。茶色の手袋をはめたまま包み紙を開くと、その包み紙はあっという間に吹雪にさらわれ、紳士は『特製クラクフ・ソーセージ』という名前の物の端を折った。そして、そのかけらを犬へ。ああ、私利私欲のないお方なんだ! う、う、う!
 「ヒュ、ヒュ」紳士は口笛を吹くと、ひどく厳めしい声で言い足した。「食べなさい! シャーリク、シャーリク」
 また『シャーリク』か! そう名付けたんですね! まあ、お好きなように呼んでください……。あなたは特別なことをしてくれましたから……。
 犬は一瞬で皮をはぎとると、むせび泣きながらクラクフ・ソーセージに食らいつき、あっという間にたいらげた。その際、ソーセージと雪がのどに詰まり涙が出たが、それというのもがっついたせいで、ソーセージについていたひもを危うく飲み込みそうになったためである。もっともっと、あなたの手をなめますよ。ズボンに口づけしますよ、私の恩人様!
 「もういいかげんにしなさい」紳士がまるで命令するかのように、ぶっきらぼうに言った。そしてシャーリクの方に身をかがめると、探るようにその目をのぞきこみ、不意に手袋をはめた手で、親しげに優しくシャーリクの腹をなでた。
 「ほう」紳士は意味ありげに言った。「首輪がない、これはいい。私には君が必要なんだ。私のあとについておいで」紳士はぱちんと指を鳴らした。「ヒュ、ヒュ!」
 あなたのあとについていくですって? ええ、地の果てへでも。そのフェルトの靴で私をこづいてくださったら、黙ります。
 プレチーステンカ通りは端から端まで街灯で照らされていた。脇腹は耐えられないほどに痛むのだが、シャーリクは時折そのことを忘れた。毛皮外套をまとった奇跡のような幻を、雑踏の中で見失わないようにしなければ、そしてこの人に何らかの形で愛と献身を表現しなければ、ということだけを考えて、頭が一杯だったからである。そして、プレチーステンカを歩いてオブーホフ横町に着くまでの間に、七回ほどそれを表現した。オーヴァーシューズに口づけをし、ミョールトヴィ横町のところでは荒々しく吠えながら道を空けさせたのだが、その獰猛な鳴き声でどこかのご婦人を歩道の石の腰掛けに座り込ませてしまうほど驚かせ、二回ほど、自分への憐憫の情を持ち続けてもらえるようにちょっと吠えてみた。
 シベリア猫に似た、卑しげな野良猫が、排水管の向こうからひょいと現れ、雪嵐なのにもかかわらず、クラクフ・ソーセージの存在を嗅ぎつけた。門口で傷ついた犬たちを拾ってくれるこのお金持ちの奇人が、もしかしたらこの泥棒も連れ帰ることにするかもしれない、そしたらモスセリプロムの製品を分けてやらなければならない、そう考えると犬のシャーリクは目の前が真っ暗になった。そこで、猫に向かって歯をかちかち言わせると、猫は穴の空いたホースが立てる音に似た、シャーッという声を出しながら、管をよじのぼり二階まで行ってしまった。ふ、る、る、る……わん……行っちまえ! プレチーステンカをうろついている与太者の誰にでもくれてやるほど、モスセリプロムの品の用意はないのだ!
 紳士は犬の献身を評価し、中からフレンチホルンの心地よいうなりが聞こえてくる消防署の窓のところで、先ほどより小さい、五ゾロトニーク(訳注:約二十グラム)くらいの二つめのかけらを褒美に与えた。
 まったく奇妙なお方だ。俺を招き寄せるなんて。ご心配なく! 私はどこかへ逃げたりしませんから。あなたのおっしゃるところ、どこへでもお供します。
「ヒュ、ヒュ、ヒュ、こっちだ!」
 オブーホフですか? かしこまりました。この横町のことは、我々もたいへんよく存じ上げております。
 ヒュ、ヒュ!
 こっちへ? 喜んで……。え、いや! すみません。だめです! そこに玄関番が。あれより悪いもんは世の中にはありません。掃除夫より何倍も危険。まったく憎むべき類。猫よりひどい。モール飾りを着けた残虐者だ。
 「さあ、こわがらないで、おいで!」
 「お疲れ様であります、フィリップ・フィリッポヴィチ」
 「やあ、フョードル」
 すごい人なんだ! なんてこった、俺の犬の運命よ、あんたは一体俺を誰のところに連れてきたのだ? 外の犬を玄関番にお構いなしに、住宅組合のアパート(訳注:国有ではなく、住民が共同で所有しているアパート)に入れることができるなんて、一体全体どんな人なんだ? 見ろよ、あのろくでなしは何も言わない、身動きもしない! 確かに目は憂鬱そうだけれど、金モールで縁取った帽子をかぶったあいつは、基本的には無関心だ。まるで、そうするように決められてでもいるかのように。敬意を払っているのだ、それもものすごく! そうですとも、俺は紳士と一緒で、紳士のあとについていく。ちょっかい出されたら? 噛みつけ。プロレタリアのたこだらけの足にがぶっと。あんたたちが今までやってきたいじめの報いだ。掃除用のブラシで俺の顔をさんざん痛めつけただろ、あ?
 「おいで、おいで」
 わかります、わかります、どうぞご心配なさらずに。あなたの行かれるところへはどこへでも。道を示していただければ、遅れることなくついて参ります。絶望的な私の脇腹など、ものともせずに。
 階段から下に向かって、
 「私あての手紙はなかったかね、フョードル?」
 下から階段に向かって丁重に、
 「ございませんです、フィリップ・フィリッポヴィチ、(それに続いて内緒話のように小声で)三号室に住人が入りました」
 犬の偉大な恩人は階段の踏み板の上でさっと振り向き、手すり越しに身を乗り出すと、恐ろしげに尋ねた。
 「本当かね?」
 その目はまん丸になり、口ひげは逆立った。
 玄関番は頭を上げると、てのひらを唇にあてて断言した。
 「確かにそうなんです。全部で四人です」
 「何てことだ! これから部屋の中がどうなるか、目に浮かぶようだ。それで、その人たちは何を?」
 「特に何も」
 「フョードル・パーヴロヴィチは?」
 「ついたてと、それから煉瓦をお求めに出かけられました。仕切りを作るのだそうで」
 「まったく、何てことだ!」
 「お宅以外のすべての部屋に、住人を追加するそうです、フィリップ・フィリッポヴィチ。たった今集会がありまして、新しい委員会が選ばれたのです。そして前の人たちは御役御免に」
 「何が起こっているのか。まったく。ヒュ、ヒュ……」
 参ります、急いで。ご覧のとおり、脇腹がうずきますが。長靴をなめてもよろしいでしょうか。
 玄関番のモールが下に見えなくなり、大理石の踊り場では温水管から暖かさが漂ってきて、もう一度曲がると、そこは二階だった。

 読み方の勉強は、一ヴェルスター(訳注:一・〇六七キロメートル)向こうから肉のにおいがする時にはまったく必要ない。それでも、もしモスクワで暮らしていて、頭の中に何らかの脳みそがあったら、教室なんかに通わなくても、好むと好まざるとにかかわらず字を覚えてしまう。モスクワにいる四万頭の犬のうち、『ソーセージ』という言葉の綴りがわからないのはしょうもないまったくの馬鹿だけである。
 シャーリクは色を頼りに覚えはじめた。シャーリクがやっと四ヶ月になった頃、モスクワ中のあちこちに、『モスクワ消費組合――食肉店』と書かれた青緑色の看板がかけられた。繰り返しになるが、こんなことはまったく必要ないのである。肉のにおいはするのだから。一度、混乱が起きたことがある。嗅覚を自動車の排気ガスでやられていたシャーリクは、目にしみるような青っぽい色に従って、肉屋の代わりにミャスニツカヤ通りにあるゴルビズネル兄弟の電器店に飛び込んでしまったのだ。兄弟の店で、犬は電気コードの鞭をくらったのだが、これは御者の鞭よりも、もっときついものであろう。この注目に値する瞬間を、シャーリクの学の始まりとするべきである。歩道に出たシャーリクはすぐに、『青』がいつでも『肉屋』を意味するのではないということを理解しはじめ、焼けつくように痛む尻尾を後ろ足の間にはさんでうぉーんと吠えながら、どこの肉屋でも、一番左に金色か赤茶色のがに股がいて、それはそりに似ているのを思い出した――『М』。
 そこから先はもっとうまくいった。『А』はモホヴァーヤ通りの角にある『Главрыба(訳注:グラヴルィーバ、漁業管理局)』で覚え、それからすぐに『Б』(рыбаという言葉の終わりの方から駆けこむのがシャーリクには都合がよかったのだ。というのも、言葉の初めのところには警官が立っていたので)。
 モスクワの角々を覆っている正方形のタイルは、いつも必ず『チーズ』を意味していた。言葉の先頭にあるサモワールの黒い蛇口(訳注:Ч)は、以前の経営者であるチチュキン、赤いオランダチーズの山、犬嫌いの残忍な売り子たち、床の上の削りかす、不快極まりない、悪臭を放つバクシュテインチーズ(訳注:リンバーガーチーズに似た、レンガ型のチーズ)を意味する。
 もし『清きアイーダ』よりはちょっとばかりましなアコーディオン演奏があって、ソーセージのにおいがして、白い看板にかなり読みやすく『暴……』と書き始められていたら、それは『暴言お断り、心付けお断り』という意味である。そういう場所では時折けんかが勃発し、人々はげんこつで面をなぐられ、ごく稀に、犬たちにとってはいつものことなのだが、ナフキンや長靴で叩かれたりする。
 もし窓際にハムになった腿肉の古いのがぶらさがっていて、みかんが置かれていたら……わん、わお……お……お惣菜だ。もし悪い液体の入った黒っぽいびんがあったら……わん、わい、わいん……。かつてのエリセーエフ兄弟の店である……。
 二階にある自分の豪華な住まいの扉のところに犬を連れてきた謎の紳士はベルを鳴らし、犬はというと、すぐに目を上げて、ピンク色の波ガラスがはまった大きな扉の脇にかかっている、金色の文字が書かれた大きな黒い表札を見た。最初の三文字はすぐに読み解けた。『ペー、エル、オー』――『プロ……』。だが、次に続く、左右対称の丸っこいようなの(訳注:キリル文字のФ。ローマ字のFに相当する)が、何を意味するのかがわからない。
 『まさか、プロレタリア?』シャーリクはびっくりしながら思った。『そんなのありえない』。シャーリクは鼻を持ち上げると、もう一度、毛皮コートのにおいをかぎ、確信をもって思った。『いや、ここにはプロレタリアのにおいはしない。難しい言葉だから、何を意味するかは神様だけがご存知なのだ』
 ピンク色のガラスの向こうで、突然、喜びに満ちた明かりがぱっと灯り、黒い表札をよりいっそう黒っぽくした。扉がまったく音もなく開け放たれ、白いエプロンとレースの髪飾りをつけた若く美しい女性が、犬とその主人の前に現れた。犬は妙なる暖かさに包まれ、女性のスカートからはすずらんのようなにおいがした。
 『こりゃいいや。そうこなくちゃ』と犬は思った。
 「どうぞ、シャーリク殿」紳士が悪戯っぽい調子で招き、シャーリクは尻尾を振りながらうやうやしくそれに応じた。
 おびただしい数の物体が、豪華な玄関の間を埋めつくしている。そこですぐ心に残ったのは、床まで届く鏡で、その鏡は、やつれてぼろぼろになった二頭目のシャーリク、上の方にある鹿のおそろしい角、数えきれないほどの毛皮コートとオーヴァーシューズ、天井に下がっている乳白色のチューリップ型電灯を即座に映し出した。
 「どこでこのようなのを見つけましたの、フィリップ・フィリッポヴィチ?」微笑みながら女の人は尋ね、青っぽいきらめきを持つギンギツネの裏地の、重い毛皮コートをぬぐのを手伝う。「あらまあ、ひどい疥癬!」
 「でたらめ言って。どこが疥癬ですか?」紳士が厳しく鋭く尋ねた。
 毛皮コートをぬいだ紳士は、英国製ラシャの黒い背広姿で、腹の上では金の鎖がうれしそうに鈍く光りはじめる。
 「ちょっと待って、動きなさんな、ヒュ……。こら、動くんじゃない、お馬鹿さん。ふむ……。これは疥癬じゃないな……。ほら、じっとしなさい、まったく……。ふむ。なるほど! これは火傷だ。どんな悪党があんたに煮え湯をかけたんだい? ん? こら、おとなしくじっとしなさい!」
 『コックのろくでなしです、コックです!』悲しそうな目で犬は告げ、小さくうぉーんと鳴いた。
 「ジーナ」紳士が命令する。「この子をすぐ診察室へ、私には白衣を」
 女の人が口笛を吹いて指を鳴らし、犬は少しためらってからそのあとについていった。淡く照らされた狭い廊下へ一緒に出て、ニス塗りの扉のそばを通り過ぎ、突き当たりまで行き、それから左に入ると、そこは暗い小さな部屋の中だったが、そこは不吉なにおいがして、犬はすぐに嫌だなと思った。闇はぱちっという音をさせて目もくらむような昼に変わり、おまけにまわりじゅうが光り輝いて白っぽくなった。
 『いや、だめだ』心の中で犬はうぉーんと鳴いた。『すまんが、そうはさせられん! わかったぞ。こいつらもソーセージも鬼にとっつかまってしまえ! 俺を犬の病院に誘いこんだというわけだな。これからひまし油を飲ませて、脇腹全体をナイフで切り刻むというんだな。だがそんな風に腹をさわらせないぞ』
 「えっ、だめよ、どこへ行くの?」ジーナと呼ばれた女性が叫んだ。
 犬は身をかわし、ぐっと体をたわめ、いきなり無傷な方の脇腹を扉にばーんと打ちつけると、その音が住まい全体に響きわたった。それから後ろに飛びのき、ひもで回したコマのようにその場でくるくる回りはじめ、さらに白い容器を床にひっくり返し、そこから綿球が飛び散った。くるくる回っているあいだ、光る器具の入った戸棚の並んでいる壁が犬のまわりを舞い、白いエプロンとひきつった女性の顔が飛び跳ねた。
 「どこへ行くのよ、もじゃもじゃの鬼っ子」ジーナが必死になって叫ぶ。「悪い子!」
 『裏階段はどこだ?』と犬は考える。思いきって体を丸めると、これが二つ目の扉であってくれと願いながら、めくらめっぽうにガラスへ体当たりした。おびただしい数の破片が大音響とともに飛び散り、赤茶色の気持ち悪いものが入った丸っこいびんが飛び出し、その気持ち悪いものは瞬く間に床一面に流れ出し、悪臭を発する。本物の扉が大きく開いた。
 「やめんか! こ、こんちくしょう」白衣に片腕だけ袖を通した紳士が飛び跳ねながら、犬の足をつかんで叫んだ。「ジーナ、このけしからんやつの襟首をつかみなさい」
 「い、いやーん。まったく犬っていうのは!」
 さらに大きく扉が開き、白衣を着たもう一人の男性が飛び込んできた。割れたガラスを踏みつけながらその人物が駆け寄ったのは、犬ではなく戸棚の方であり、彼はそれを開けると、部屋じゅうに甘く吐き気を催すようなにおいを充満させた。それからその人物が犬の上に覆いかぶさってきたので、犬はその人の靴ひものちょっと上あたりに、夢中になって噛みついた。その人はあっと声を上げたが、うろたえなかった。吐き気を催すような気持ち悪いものが、突然犬の息を詰まらせ、頭がくらくらしはじめ、それから足の力が抜けて、犬はどこか脇の方へふらふらと進んでいった。『礼を言うさ、もちろん』犬はとがったガラス片の上に倒れ込みながら、夢うつつで思った。『さよなら、モスクワ! 俺はもう、チチュキンもプロレタリアもクラクフ・ソーセージも目にすることがないのだ! 辛抱強い犬だったから天国に行くんだ。虐待者の諸君、何のために俺をこんな目に?』
 ここで犬はついに横倒しになり、息絶えた。
 
――

 息を吹き返した時、犬は少し頭がくらくらし、腹の中がちょっとばかりむかむかして、脇腹はまるでそこにないかのように、心地よく沈黙していた。けだるい右目を薄く開けると、視界の端に、自分が両脇腹から腹にかけて包帯できっちりぐるぐる巻きにされているのが見えた。『どっちみちやっちまったんだな、くそったれどもめ』ぼんやりとそう思った。『でも、うまくやってくれたんだから、それは評価しないとな』
 「〽セヴィリアからグラナダまで~静かなたそがれの中~」(訳注:『ドン・ファンのセレナーデ』の一節。アレクセイ・トルストイの詩にチャイコフスキーが曲をつけたもの。)頭上で呑気な調子外れの声が歌いはじめた。
 犬がびっくりして両目をぱっちり開けると、すぐそばに、白い腰掛けにのせられた男性の脚が見えた。ズボンとズボン下は引っ張り上げられ、むき出しの黄色いすねは、乾いた血とヨードチンキで汚れている。
 『なんてこった!』と犬は思った。『これはつまり、俺がこの人を噛んだのだ。俺の仕業だ。こりゃあ大変な目にあうぞ!』
 「〽ひーびくはセレナーデ、ひびくは剣の音! 野良犬さんよ、何だって先生を噛んじまったんだ? え? 何だってガラスを割った? え?……」
 「う、う、う」犬はあわれっぽく鳴き始めた。
 「まあ、よろしい。目をさましたね、横になってなさい、お馬鹿さん」
 「こんな神経質な犬をどうやって連れてこられたんですか、フィリップ・フィリッポヴィチ?」感じのよい男性の声がそう尋ね、メリヤスのズボン下が下へおろされた。煙草のにおいがして、戸棚の中ではガラスびんがかちゃかちゃ音を立て始める。
 「優しさですよ。生き物とつきあうのを可能にする唯一の手段です。テロでは動物はどうにもなりません、その動物がどの発達段階にあろうともね。私はこれを断言してきたし、今も、これからも断言する。人はテロが役に立つと徒に思っている。違う、違うんです、それがどんなものであろうと役には立たんのです。白色、赤色、あるいは褐色ですらね! テロは神経系統を完全に麻痺させてしまう。ジーナ! このろくでなしにクラクフ・ソーセージを一ルーブル四十コペイカで買ってやったのだがね。すまないが、この子の吐き気がおさまったら、食べさせてやってくれないかね」
 ガラスの掃き集められる音がしはじめ、女の人の声が甘えるように言った。
「クラクフ! あら、この子には肉屋で二十コペイカの屑肉を買ってやるべきでしたわ。クラクフ・ソーセージはわたしの方がおいしくいただきますもの」
「食べられるもんなら食べてごらんなさい。私は怒りますよ! これは人間の胃には毒なんですぞ。大人の女性なのに、子供みたいに変な物を何でも口に入れたがるとは。絶対にいけません! 言っときますが、私もボルメンターリ先生も、君のおなかが痛くなったって面倒見ませんからね……。〽他の娘が君と大差ないと言うやつら、皆~」
 柔らかく小刻みなベルの音が、その時、家全体に響きわたり、遠くにある玄関から声が絶え間なく聞こえてきた。電話が鳴っている。ジーナが姿を消した。
 フィリップ・フィリッポヴィチは煙草の吸い殻をバケツの中に投げ捨てると、白衣のボタンをはめ、壁にかかった小さな鏡の前でふさふさした口ひげをなでつけ、犬に声をかけた。
 「ヒュ、ヒュ。さあ、大丈夫、大丈夫! 診察しに行こう」
 犬は覚束ない足で立ち上がり、少しふらふらしながら震えていたが、すぐにしゃんとなって、フィリップ・フィリッポヴィチの翻る裾のあとをついていった。再び犬は狭い廊下を通ったが、今回は、花の形の電灯によって上から明るく照らされているのに気づいた。ニス塗りの扉が開くと、フィリップ・フィリッポヴィチと一緒に書斎に入ったのだが、そこの家具調度に犬は目がくらむ思いがした。何よりもまず、書斎全体が光で燃えているようだった。浮き彫りのある天井の下が輝き、机の上が輝き、壁や、戸棚のガラスの中が輝いている。光は無数にある品々を一つ残らず照らしているのだが、その中でも最も興味深いのは、壁にとりつけられた枝にとまっている巨大なふくろうだった。
 「伏せ」フィリップ・フィリッポヴィチが命令した。
 反対側にある彫刻入りの扉が開き、あの噛みつかれた人が入ってきたが、今、明るい光の中で見ると、とてもハンサムで若く、とがった黒いあごひげがあり、その彼が一枚の紙を差し出して言った。
 「以前の患者です……」彼はすぐに音もなく姿を消し、フィリップ・フィリッポヴィチはというと、白衣の裾を広げて巨大な書き物机の前に座り、たちまち尋常でないほどの貫禄と威厳をまとった。
 『いや、ここは病院じゃない、どこか違う所へ俺はやってきたのだ』犬は心をざわつかせながらそう思い、革張りのどっしりしたソファのそばにある、じゅうたんの模様の上に寝そべった。『あのふくろうについては、いずれはっきりさせてやろう……』
 扉がそっと開いて誰かが入ってきたが、その姿に犬はきゃんと声を上げてしまうほどびっくりした。とても遠慮がちにではあったが。
 「黙んなさい! おやおや、まったく見違えましたよ、あなた」
 入室者は、フィリップ・フィリッポヴィチに向かってとても丁重に、そして照れくさそうに頭を下げた。
 「うふふ……。あなたは魔術師、魔法使いですよ、教授」と気恥ずかしそうに言う。
 「ズボンをぬいでくださいね」フィリップ・フィリッポヴィチはそう指示すると立ち上がった。
 『イエス様』と犬は思った。『何だこいつは!』
 こいつの頭にはえている髪はすっかり緑色なのだが、後頭部では赤茶けた煙草色になっている。こいつの顔はしわだらけなのに、顔色は赤ん坊のようなピンクである。左脚は曲がらず、じゅうたんの上をひきずられなければならないのだが、その代わりに右脚が子供用のくるみ割りみたいにはねる。とても豪華な背広の襟には、宝石が目のようにくっついている。
 犬は興味津々で、吐き気も吹き飛んでしまった。
 「きゃんきゃん……」犬は軽く鳴いた。
 「黙りなさい! あなた、眠りはどうですか?」
 「えへへ。ここには他に誰もいませんね、教授? これは言葉では言い表せませんよ」訪問者は恥ずかしそうに話し始めた。「Parole d’honneur(正直言って)、二十五年間、こんなことはありませんでしたよ」患者はズボンのボタンを外しにかかった。「信じられますか、教授。毎晩、裸の娘っ子たちが束になって。まったく夢心地ですよ。あなたは魔法使いだ」
 「ふむ」フィリップ・フィリッポヴィチは客の瞳孔を見つめながら、心配そうに言った。
 ようやくボタンを外し終わって、縞のズボンをぬぐ。ズボンの下にあったのは、いまだかつて目にしたことのないようなズボン下だった。それはクリーム色をしていて、絹糸で黒猫の刺繍が施してあり、香水の匂いがする。
 犬が猫に我慢できなくなって吠えたので、患者が飛び上がった。
 「うわっ!」
 「鞭で打ちますよ! ご心配なく、この子は噛みませんから」
 『俺が噛まない?』犬はびっくりした。
 来訪者のズボンのポケットから小さな封筒がじゅうたんの上に落ちたが、そこには、垂らし髪の美女が描かれていた。患者は飛び上がり、かがんでそれを拾い上げると、顔を真っ赤にした。
 「だが、いいですか」フィリップ・フィリッポヴィチは指で脅すような仕種をしながら、顔をしかめ警告するように言った。「それでもやはりね、やりすぎはいけませんよ!」
 「やりすぎなんて……」患者は脱衣を続けつつ、戸惑いながらつぶやいた。「私はね、教授、ただ実験してみただけで」
 「そう、それで、どういう結果なの?」フィリップ・フィリッポヴィチが厳しく問う。
 患者は恍惚として手を振った。
 「二十五年間、神かけて、教授、こんなことはなかったんです。最後のは一八九九年、パリのリュ・ドゥ・ラ・ペでした」
 「ところで、どうして緑色になりましたか?」
 来訪者の顔が曇った。
 「癪にさわる『ジールコスチ』(訳注…油脂・骨加工企業合同体。石けんや香水などの化粧品も製造していた)ですよ! 想像もつかないでしょう、教授、そこのろくでなしどもに毛染めの代わりにつかませられたんです。ちょっと見てくださいよ」男は鏡を探してきょろきょろしながらつぶやくように言った。「まったくひどいですよ! あいつらの面をなぐってやらなけりゃ!」とかっかしながら付け加える。「わたしゃどうしたらいいですかね、教授?」と泣きそうになりながら尋ねる。
 「ふむ……つるつるに剃りなさいな」
 「教授」客は哀れっぽく声を上げた。「でも、また白髪が生えてくるんですよ! それに、職場に顔を出せません。もう三日も行っていないのに。車が来ても、そのまま帰らせているんです。ああ、教授、教授が髪を若返らせる方法を発見されていたら!」
 「すぐにとはいきませんよ、すぐにとは、あなた」フィリップ・フィリッポヴィチはぼそっと言った。
 彼はかがんで、目を輝かせながら患者のあらわになった腹を診察する。
 「さてさて……素晴らしい、すべてすっかり順調ですよ。本当のことを言うと、こんな結果は予想していませんでした。〽多くの血と多くの歌が~。服を着てください、あなた!」
 「〽私は最も素晴らしい君に~!」割れ鐘のような声で患者は続きを歌い、顔を輝かせながら服を着始めた。支度が整うと、ひょこひょこ歩いて香水のにおいをふりまきながら、白い札束を数えてフィリップ・フィリッポヴィチに渡し、その両手をとって優しく握った。
 「二週間は診察に来なくても結構です」とフィリップ・フィリッポヴィチが言った。「けれどもお願いしますよ、くれぐれも慎重に」
 「教授」扉の向こうから有頂天な大声が聞こえた。「全然ご心配なく」患者は嬉しそうにうふふと笑い、去っていった。
 ベルの音が住居内に響きわたり、ニス塗りの扉が開き、噛まれた人が入ってくると、フィリップ・フィリッポヴィチに紙を手渡して告げた。
 「この年齢は正しくないようです。おそらく五十四、五かと。心音が鈍いです」
 彼が姿を消すと、入れ代わりに、帽子を斜めにかぶり、しなびてしわしわの首に首飾りをかけた婦人が、衣ずれの音をさせながら入ってきた。その目の下には黒くて恐ろしいたるみがぶらさがっているが、頬は人形のように赤い。
 婦人はひどくそわそわしている。
 「ご婦人! あなた何歳なんですか?」フィリップ・フィリッポヴィチが厳しく尋ねた。
 婦人はびっくりして、厚塗りした頬紅の下にある顔を青くした。
 「あたくしは、教授……。誓って言いますが、もし教授があたくしに起こった劇的な出来事をご存知だったら……」
 「歳はいくつなんですか、ご婦人?」さらに厳しく、フィリップ・フィリッポヴィチが繰り返す。
 「本当に……。ええ、四十五歳です……」
 「ご婦人」フィリップ・フィリッポヴィチが大声で言い始めた。「みなが私を待っているのです。ぐずぐずしないでください、お願いですから。あなた一人が患者ではないんですよ!」
 婦人の胸が激しく波打つ。
 「あたくしは科学の権威である教授にだけ、でも誓って言いますが、あれはあんなに恐ろしい……」
 「あなた、何歳なんですか?」激怒し声を荒らげてフィリップ・フィリッポヴィチが問い詰め、その眼鏡がきらりと光った。
 「五十一です!」恐怖にひきつりながら婦人が答えた。
 「ズロースをぬいでください、ご婦人」フィリップ・フィリッポヴィチはほっとした様子でそう言い、隅にある白くて高さのある辱めの台を指した。
 「誓って言いますが、教授」ウエストにある何かのスナップボタンを震える指で外しながら、婦人がつぶやくように言う。「あのモーリッツが……。教授には隠さず申し上げますが……」
 「〽セヴィリアからグラナダまで~」フィリップ・フィリッポヴィチは心ここにあらずといった様子で歌い出し、大理石の手洗いのペダルを踏んだ。ジャーッという水音がし始める。
 「神に誓います!」ご婦人がしゃべると、頬にある作り物のしみの下から、生きたしみが姿を現した。
「あたくしは知っているんです。これがあたくしの最後の情熱だと。だってあんなにどうしようもなくひどいんですもの! ああ、教授! あの人はトランプ詐欺師で、そのことはモスクワ中が知っているんです。あの人は、いやらしい女の仕立て屋一人の前だって素通りできないんです。だって、あの人はあんなに悪魔のように若いのですから」婦人はつぶやき、しゃらしゃらと音を立てるスカートの下から丸めたレースのかたまりを脱ぎ捨てた。
 犬はすっかりぼうっとなって、頭の中味が全部ひっくりかえってしまった。
 『まったくなんてこった』前足の上に頭を乗せ、ぼんやりとそう思い、恥ずかしさで眠気を催してきた。『これが何なのか分かろうとして、がんばったりしないぞ。どっちにしろ分からないんだから』。
 金属のぶつかる音で我に返った犬が目にしたのは、何か光る筒を洗面器に投げ込んでいるフィリップ・フィリッポヴィチの姿だった。
 しみだらけの婦人は両手で胸を押さえ、期待を込めてフィリップ・フィリッポヴィチを見ている。当のフィリップ・フィリッポヴィチはもっともらしく顔をしかめ、机につくと何かを書いた。
 「ご婦人、あなたには猿の卵巣を移植しましょう」フィリップ・フィリッポヴィチはそう告げると厳しい目で見た。
 「ああ、教授、本当に猿のなんですか?」
 「ええ」フィリップ・フィリッポヴィチはきっぱり答えた。
 「手術はいつになりますかしら?」顔を青くし、弱々しい声で婦人が尋ねる。
 「〽セヴィリヤからグラナダまで~。ふむ……。月曜日に。朝から研究病院に入院してください。私の助手が準備をしますから」
 「あら、あたくし病院は嫌ですわ。ここでお願いできないんでしょうか、教授?」
 「あのですね、ここではよほどのことでない限り、手術はしないんです。とても高くつきますよ。五十チェルヴォーネツ(訳注:五百ルーブル)です」
 「承知しましたわ、教授!」
 再びジャーッという水の音が聞こえてきて、羽根付きの帽子が揺れ、それから、皿のようなはげ頭が現れてフィリップ・フィリッポヴィチを抱きしめた。犬はうとうとしている。吐き気はなくなり、犬は痛みのおさまった脇腹の感覚と暖かさを楽しみ、グウといびきまでかき、楽しい夢のかけらも見ることができた。どうやらその夢の中で、犬はふくろうのしっぽから羽根をごっそりむしりとったらしい……。それから、頭上で興奮した声がわーわー言った。
 「私は名の知れた社会活動家なんです、教授。一体どうしたらいいんでしょう?」
 「まったく!」フィリップ・フィリッポヴィチは憤慨して声を上げた。「いけませんな! 自制心を持たないといけません。相手は何歳なんですか」
 「十四歳です、教授……。世間に知れたら、破滅です。近いうちに、私はロンドン出張の命を受けることになっているんです」
 「まあ、私も法律家ではないからね……。では二年待って、その娘と結婚しなさい」
 「私は既婚なんです、教授」
 「ああ、まったく、まったく!」
 扉が開き、顔が入れ替わり、戸棚の中で器具ががちゃがちゃと音を立て、フィリップ・フィリッポヴィチは手を休めることなく働いている。
 『卑猥な家だな』と犬は思った。『でもすごくいいぞ! しかし何だって、教授には俺が必要なんだ? ここに置いてくれるんだろうか? 変人なのか? だってこの人だったら、ちょっと目くばせでもすれば、あっと驚くような犬を手に入れられるだろうに! でも、もしかしたら、俺は美しいのかも。どうやら俺は運がいいらしいぞ! しかし、あのふくろうはくだらないな……。生意気だ』
 犬が完全に目を覚ましたのは、夜も更けてベルの音が鳴らなくなった頃、そして奇妙な訪問者たちが扉から入ってきたちょうどその時だった。一度に四人。みな若い人たちで、とても地味な身なりをしている。
 『この人たち、何の用事だろう?』犬は反感を持ちつつ驚きながら思った。もっと反感を持って客たちに応対したのはフィリップ・フィリッポヴィチだった。机の脇に立ち、敵を見る司令官のような目で見ている。その鷲鼻の穴はふくらんでいる。入室者たちはじゅうたんの上でしばらく足踏みした。
 「あなたに用があって参りました、教授」四人のうちの一人、頭の上でふさふさの巻き毛が四分の一アルシン(訳注:約十八センチ)の高さにそびえている人物が話しはじめる。「用件は……」
 「紳士諸君、こんな天気にオーヴァーシューズなしで出歩くとはいけませんな」フィリップ・フィリッポヴィチが説教口調でさえぎった。「第一に、風邪をひいてしまう。第二に、私のじゅうたんを汚しましたね。うちのは全部ペルシャじゅうたんなんですよ」
 ふさふさ頭は沈黙し、四人とも呆気にとられてフィリップ・フィリッポヴィチを見つめた。沈黙は少しの間続き、フィリップ・フィリッポヴィチが机上にある木製の絵皿を指でたたく音だけが響いた。
 「第一に、我々は紳士諸君ではありません」四人の中で一番若い、桃のような顔をした人物がついに口を切った。
 「第一に」とフィリップ・フィリッポヴィチがさえぎる。「あなたは男性か女性か?」
 四人は再び黙り、口をぽかんと開けた。今度は最初のふさふさ頭が我に返った。
 「何の違いがあるんですか、同志?」と偉そうに問いかける。
 「私は女です」革のジャンパーを着た桃のような若者が白状し、真っ赤になった。それに続いて、入ってきたうちの一人、コザック帽をかぶった金髪男が、なぜかひどく赤くなった。
 「そういうことでしたら、帽子をとらなくても結構ですが、そこのあなた様はかぶり物をとっていただけますか」とフィリップ・フィリッポヴィチがさとすように言った。
 「私はあなた様じゃありません」金髪男が帽子をとりながらきまり悪そうにつぶやいた。
 「我々がここに参りましたのは」再びふさふさの黒髪男が口を切る。
 「そもそも、その『我々』とはどなたなんです?」
 「我々はこの建物の新しい住宅管理委員です」黒髪が怒りを抑えて話しはじめた。「私はシヴォンデル、この女性はヴャーゼムスカヤ、こちらは同志ペストルーヒンとジャロフキンです。それで、我々は……」
 「フョードル・パーヴロヴィチ・サブリンの部屋に入居されてきた方々ですか?」
 「そうです」とシヴォンデルが答える。
 「なんと! カラブーホフの家も終わりなのか!」フィリップ・フィリッポヴィチは絶望しながら大声で言い、両手をぱちんと打ち合わせた。
 「何ですか、教授、ふざけていらっしゃる?」シヴォンデルがむっとした。
 「ふざけることがありますか?! 私はすっかり絶望しているんだ」フィリップ・フィリッポヴィチが大声を上げた。「これから蒸気暖房はどうなるんだろうか!」
 「馬鹿にしているんですか、プレオブラジェンスキー教授?」
 「どういう用事でいらっしゃったのか、できるだけ早く話してもらいたい。私はもう食事の時間なので」
 「我々住宅管理委員会は」シヴォンデルが憎々しげに話しはじめた。「この建物の住民総会のあとでこちらに参りましたが、その総会におきましては住人密度に関して問題となりまして……」
 「誰が誰に?」フィリップ・フィリッポヴィチが大声で言う。「ご自分の考えをもっとわかりやすく話すようにしていただけませんかね」
 「住人密度についての問題です」
 「結構です! わかりました! 今年の八月十二日の決議で、私の部屋については住人密度も新しい入居者も関係ないということになったのはご存知ですかな?」
 「存じ上げております」とシヴォンデルが答える。「しかし総会であなたの問題を検討した結果、一般的に見て、あなたが極端に広すぎる面積を占有されているという結論に達したのです。まったく極端に広すぎます。お一人で七部屋の住居に住んでいらっしゃる」
 「私は一人で七部屋の住居に住み、仕事をしています」とフィリップ・フィリッポヴィチが答える。「八部屋目がほしいくらいです。図書室用に必要ですから」
 四人組は絶句した。
 「八部屋目? ふーむ!」かぶり物を奪われた金髪男が言う。「そりゃまったく素晴らしいですね」
 「言語道断です!」実は女性だった青年が叫んだ。
 「うちには応接室がありますがね、これは図書室でもある。食堂、私の書斎、これで三つ。診察室で四つ、手術室で五つ、私の寝室で六つ、使用人の部屋で七つ。普通に考えても足りないのです……。まあしかし、これは大したことではない。私の住居は例外なんですから、話は終わり。食事に行ってもよいかな?」
 「失礼ですが」と頑丈な甲虫に似た四人目が言った。
 「失礼ですが」とシヴォンデルが彼をさえぎって言う。「まさにその食堂と診察室のことで、我々は話があって来たのです。総会は、あなたが労働規律にのっとって、自発的に食堂をあきらめてくださることを求めます。モスクワで自宅に食堂がある者などいないのですよ」
 「イサドラ・ダンカン(訳注:アメリカの舞踏家。一九二一年、モスクワに舞踏学校を開き、一九二二年から一九二四年まで、ロシアの詩人エセーニンと結婚していた)にだってないのです!」女性が大きな声を響かせて言った。
 フィリップ・フィリッポヴィチに何かが起こり、その結果、顔がわずかに赤くなったが、フィリップ・フィリッポヴィチは事の成り行きを待ちつつ、声は出さずにいた。
 「診察室についても同様です」とシヴォンデルが話を続ける。「診察室と書斎は兼用にしても大丈夫でしょう」
 「うう」フィリップ・フィリッポヴィチが何か奇妙な声を出した。「では、私はどこで食事をとればいいのかな?」
 「寝室です」四人全員が声を揃えて答えた。
 フィリップ・フィリッポヴィチの赤い顔が、少し灰色がかった色合いになった。
 「寝室で食事をとる」やや押し殺したような声で話しはじめる。「診察室で読み、応接室で着替えをし、手術は使用人の部屋で、食堂で診察? イサドラ・ダンカンがそのようにしているという可能性は十分ありますな。もしかしたら書斎で食事をして、風呂場でうさぎを切っているのかもしれない? もしかしたらね……。だが、私はイサドラ・ダンカンではない!」突然怒鳴り声を上げ、赤い顔が黄色くなった。「私はこれからも食事は食堂でするし、手術は手術室でする! このことを総会に伝えてくれたまえ。そしてあなた方には心よりお願いするが、あなた方は自分の用事に戻りなさい、そして私が、あらゆる普通の人々が食事する場所、つまり食堂で食事できるようにしていただきたい。玄関や子供部屋でではなく」
 「そういうことならば、教授、あなたが頑固に抵抗されていることを、上級審に訴え出ます」と興奮したシヴォンデルが言った。
 「なるほど、そうしますか?」フィリップ・フィリッポヴィチが言う。
 その声は疑わしいほどに丁寧な調子になっている。「ちょっと待っていていただけるかな」
 『これこそ男ってもんだ』犬は大喜びしながら思った。『俺とすっかり同じ。ああ、この人はやつらを今すぐやっつけるぞ、やっつけるぞ! どういうやり方かはまだわからないけれど、本当にやっつけるぞ! やっちまえ! あの足長の、長靴のちょっと上あたり、膝のうしろの腱をねらうぞ……。うーっ……』
 フィリップ・フィリッポヴィチは音を立てて電話の受話器を外し、そこに向けてこう言った。
 「お願いします……ええ……ありがとう……。ヴィターリー・アレクサンドロヴィチをお願いします。プレオブラジェンスキーです。ヴィターリー・アレクサンドロヴィチ? あなたと連絡がとれてよかったですよ。ありがとうございます、元気です。ヴィターリー・アレクサンドロヴィチ、あなたの手術は中止です。何ですか? 完全にとりやめです。他の手術も全部同様です。なぜかといいますと、モスクワでの、そもそもロシアでの仕事をやめることにしまして……。今、ここに四人の人がやってきまして、そのうちの一人は男性の格好をした女性、二人は拳銃で武装していまして、私の住居の一部を奪い取ろうと、脅してきたのです」
 「ちょっと待ってください、教授」シヴォンデルが顔色を変えながら言いかけた。
 「申し訳ありません……。その人たちが言ったことを全部繰り返して言うなんてできません。私は馬鹿げたことを好むたちではありませんので。その人たちが私に診察室を明け渡すよう要求してきたと言えば十分でしょう。言い換えますと、今まで私がうさぎを切っていた場所で、あなたを手術しなければならないと。そのような状況では、私は働けないだけではなく、働く資格もありません。ですから、仕事はやめてアパートを引き払い、ソチに行くことにします。鍵はシヴォンデルさんに渡しますかね。この人に手術をしてもらいましょう」
 四人組は固まってしまった。雪が彼らの長靴の上で溶けていく。
 「どうしたらいいか……。私だってとても不愉快なんです……。何ですって? いや、とんでもない、ヴィターリー・アレクサンドロヴィチ! とんでもない。これ以上は同意できかねます。我慢の限界を超えてしまったんです。八月から、これでもう二回目なんです。何ですって? ふうむ……。どうぞお好きなように。結構です。だが一つ条件があります。誰によるものでも、どんなものでも、いつでも結構ですが、その文書はシヴォンデル氏も他の誰も、私の住まいの扉には近寄ることすらできないという内容を記したものにしていただきたい。決定的な文書です。実際の。本物の。確実な書類です。私の名前は出さないでいただきたい。もちろんです。彼らにとって私は死んだも同然なんです。ええ、ええ。お願いします。誰? ははあ……。まあ、それはまた別の話ですよ。ははあ……。わかりました。今、受話器を渡します」フィリップ・フィリッポヴィチは意地悪そうな声でシヴォンデルに向かって言った。「すみませんが、今あなたにお話があるそうです」
 「失礼ですが、教授」シヴォンデルが赤くなったり青くなったりしながら言う。「あなたは我々の言葉を曲解していらっしゃった」
 「そういう表現は使わないでいただきたいですな」
 シヴォンデルは当惑しながら受話器を取り、言った。
 「もしもし。はい……。住宅委員会の議長です……。我々は規約に基づいて行動したのです……。教授のところはまったく特殊な状況でして……。我々は教授の仕事については存じ上げております。全部で五部屋、教授に残すつもりでおりましたが……。ええ、わかりました……。そういうことでしたら……。わかりました」
 顔を真っ赤にしたシヴォンデルは、受話器を掛けると向き直った。
 『顔に泥を塗ったぜ! 男だぜ!』犬はうっとりしながら思った。『何でも思い通りになる魔法の言葉をご存知なんだろうか? さあ、今度は俺を好きなようにぶってくださっても結構です、俺はここから逃げないから!』
 残りの三人はぽかんと口を開けて、顔に泥を塗られたシヴォンデルの方を見ている。
 「これはひどい屈辱だ」当のシヴォンデルはぼそっと口にした。
 「もしここで議論できるのだったら」女性が興奮し顔を赤らめながら口を切る。「私がヴィターリー・アレクサンドロヴィチに論証するのに……」
 「すみませんが、あなたは今すぐにその議論を始めたいのですかな?」フィリップ・フィリッポヴィチが慇懃に尋ねた。
 女性の目が輝きはじめた。
 「皮肉をおっしゃっているのですね、教授。我々はもう帰ります……。ただ、この住宅の文化部部長であるやつがれとしまして……」
 「女性は『やつがれ』とは言わないね」とフィリップ・フィリッポヴィチが訂正した。
 「一つお願いがあるのです」と、その女性はふところから、雪に湿った色鮮やかな雑誌を数冊取り出した。「フランスの子供たちのために何冊か買っていただけませんか。一冊五十コペイカです」
 「いえ、買いません」フィリップ・フィリッポヴィチは雑誌を横目で見ると、短く答えた。
 男性陣は驚愕の表情を顔に浮かべ、女性は真っ赤なツルコケモモのような色合いになった。
 「なぜお断りになる?」
 「ほしくないんです」
 「フランスの子供たちを気の毒に思わないのですか?」
 「いえ、気の毒に思いますよ」
 「五十コペイカが惜しいのですか?」
 「いいえ」
 「では、なぜ?」
 「ほしくないんです」
 沈黙。
 「あのですね、教授」苦しそうにためいきをついてから、若い女性は話しはじめた。「もしあなたがヨーロッパにおける第一人者ではなく、また、最高に腹立たしいやり方であなたを擁護する人たちがいなかったら(金髪男が女のジャンパーの端を引っぱったが、女はそれを振り払った)、この人たちについては我々がさらに糾明していくことになると確信していますが、あなたは逮捕されてしかるべきなんですよ!」
 「何の罪で?」教授が興味深そうに尋ねる。
 「プロレタリアートを憎んでいるからです!」と女性は誇らしげに言った。
 「ええ、私はプロレタリアートが嫌いです」フィリップ・フィリッポヴィチは悲しげに同意すると、ボタンを押した。どこかでベルの音が鳴り響く。廊下に通じる扉が開いた。
 「ジーナ」とフィリップ・フィリッポヴィチが大声で言った。「食事を出しておくれ。よろしいですかね、紳士諸君?」
 四人組は黙ったまま書斎を出ると、黙ったまま応接室を通過し、黙ったまま玄関を通り、そして彼らの背後で玄関扉が重々しく大きな音を立てて閉まるのが聞こえた。
 犬は後ろ足で立ち上がり、フィリップ・フィリッポヴィチの前で、イスラム教徒の祈りのようなしぐさをしてみせた。