「ハック」山口優

(PDFバージョン:hakku_yamagutiyuu
「ただいま」
 そう言って、彼は、彼女の体を抱きしめた。彼の穏やかで優しい声、包み込むように背中に回された温かい腕の感触が、彼女の神経系を通じて直接私に伝わってくる。
 M大統領。軍隊あがりの残忍な独裁者であり、支配下の民衆を虐殺した疑惑がある。
 我が情報部は、数ヶ月前、大統領夫妻の外遊先で彼の夫人の脳内に神経細胞型通信ナノマシンを送り込むことに成功し、以来、私が専任の担当官として、夫人の感覚神経から流れ込んでくる大量の情報を直接私の感覚神経で受け取り、M大統領の監視を続けている。情報部の長官からの指令があれば、ただちに夫人の運動神経系をもハックし、速やかに妥当な手段で彼を『除去』することも、私の任務には含まれている。我が国に比べ、M大統領の国はナノマシン技術が遅れているので、その場合、夫人が大統領を殺したということになるはずだ。我が情報部の関与を示すものは何も残らない。
「おかえり、あなた」
 夫人はM大統領の首筋に腕を回し、抱きついて言う。それから、二人はキスを交わす。 大統領の唇の、しめった感触まで、私は生々しく感じる。
 夫婦はとても愛し合っていた。M大統領が権力を掌握したのは、まだ彼が青年将校だったころ。今でも彼は四〇代前半で、青年将校の頃のりりしい面影が残っている。夫人も、彼女が鏡を見るときに観察したところによれば、充分に若々しく、美しい女性に見える。
 M大統領は、少なくとも家庭内では、理想的な夫であった。妻にはいつも優しく、夫婦の記念日には花束とケーキを持って帰ってくる。酒もタバコも嫌いで、音楽と絵画を愛し、ウィットの効いたユーモアもある。一緒に暮らしていて、これほど楽しい男性はいない。
 夫妻の一人息子は軍の士官学校の寄宿舎にいて、家庭には夫婦二人のみ。昼間は数人のメイドと護衛兵士も邸宅を出入りしているが、夜には基本的に邸宅の外部を護衛兵士が巡回しているだけなので、家の中は二人だけになる。
「今日は何もなかったかい?」
 M大統領は尋ねた。
「ふふ。お庭の薔薇が咲いたのよ」
 答えながら、夫人は大統領の黒いカバンを受け取り、カバンを持って先に立ってリビングに歩み出す。
「そうか……。もう暗いから見に行けないが、明日の朝には見れるだろう」
 そう応じ、夫人についてリビングに歩み出す大統領。
「真紅の薔薇よ。とても綺麗」
 カバンをリビングのテーブルに置き、ソファに座る夫人。
「お前が毎日きちんと世話をしたお陰だな」
 大統領も、夫人の隣に座った。
「あなたが毎週音楽を聴かせているから、きっと美しく咲いたんだわ」
 夫妻はそんな会話を交わしながら、リビングでくつろぐ。
「お茶を淹れてくるわね」
 しばらくして、夫人はソファから立ち上がり、台所に行った。
 そのとき。
――こちら情報部長官。K001を発令。繰り返す。K001を発令――
 不意に脳内に飛び込んできた指令。その意味は明白だ。
――可及的速やかに大統領を除去せよ――。
 私は即座に、夫人の運動神経系をハックした。
 夫人が混乱しているのが、彼女の感覚神経を通じてよく分かる。当然だろう。急に体が言うことを聞かなくなったのだから。だが私は、即座にナイフを数本手に取り、リビングにとって返した。
 リビングで、私に指令が発せられた理由が分かった。M大統領がカバンを開き、ミサイル発射ボタンに手をかけようとしていた。私とは別の監視員か――或いは透視衛星で、その状況が本部に把握され、私にそれを止めさせようというのだ。
「お前……いったい何を……!」
 私は問答無用で果物ナイフを大統領に向けて投げつけた。
 ナイフは、大統領の頭を僅かに逸れ、ソファの背もたれに突き刺さる。
 おかしい。訓練では百発百中なのに。やはり操り慣れていない体だからか。だが、この体を乗っ取って動かすことに関しては、いつも、神経系シミュレータで訓練していたのだ。
「やめろ! 何をしているのか分かっているのか」
 大統領は、青ざめた顔で言う。その顔色は、愛する妻に裏切られた絶望と悲しみに歪んでいた。
 だが、所詮は極悪非道の独裁者。殺してしまうしかない。
 私はもう一度ナイフを手に持った。投げようとする。
 だが、投げられない。
「あ……」
 私は自分が、私自身が、涙を流していることに気付いた。
 私は、ナイフを取り落とす……。
 大統領は、冷静に発射ボタンを押し込んだ後、立ち上がり、私を抱きしめた。
「ストレスが溜まっていたのかな……。最近、かまってやれなくてすまない。いろいろと、忙しいことがあってね……」
 私は、彼の腕の中で、優しく私を抱きしめる、彼の体温の温かさに涙が出そうになる。
 いったいなぜ……。
 私の理性はなぜと問い続けていたが、感情は私の反応をぼんやりと理解していた。
 たぶん、私は夫人と感覚を共有し続け、そして感情をも共有するようになってしまったのだ。感情は人の行動の基盤だ。いくら理性がそれを命じても、感情が反対すれば、それはできない。
 私は、ゆっくりと運動神経系のハックを解除していき、ただ、夫人の感覚を通じて彼の体温に浸り続けた。

山口優プロフィール


山口優既刊
『シンギュラリティ・コンクェスト
女神の誓約(ちかひ)』