(PDFバージョン:mukaenikitayo_yasugimasayosi)
何事もない日曜の朝のはずだった。
大学の男子寮のベッドで目を覚ましたぼくは、隣のベッドを見た。いつもなら同級生であるルームメイトが寝ているのだが、空っぽだった。日曜なのに珍しく早起きしたらしい。先に食堂にでも行って朝食を食べているのだろう。
パジャマを着替え、洗面用具を持って部屋を出た。
共有の洗面所には寮生の先輩がいた。
「おはようございます」
ところが、先輩は首をひねって眉をひそめた。
「どうかしましたか」
ぼくがそう訊いても、不審そうにぼくを見つめながら後ずさりしながら去っていった。
意味がわからない。
とにかく顔を洗い、髪をセットして、朝食を食べに奥の食堂に向かった。
テーブルでルームメイトが隣の部屋の先輩と朝定食を食べていた。ぼくもすでに並べられた定食のプレートを一つ取って、「おはようございます」と挨拶しながらそのテーブルについた。
すると、さっきの先輩のように、隣の部屋の先輩とルームメイトの同級生も変な顔をしてぼくを見つめた。
「何ですか。どうかしたんですか。さっきも洗面所でほかの先輩にそんな顔をされましたけど……」
先輩が言った。
「おまえ、何を言っているんだ」
「何をって何ですか」
ルームメイトが驚いた口調で言った。
「おまえ、日本語しゃべれよ。さっきから意味のわからない言葉を使ってるぞ」
「は? 意味がわかんねえよ。日本語をしゃべってるだろう」
先輩とルームメイトは怪訝な表情を変えない。
そこからぼくが何をしゃべってもまともな答えは返ってこなかった。それどころかますます気味悪がられた。隣のテーブルに座る寮生に話しかけてもそうだった。
何をどう説明しても、しゃべっても、まったく理解されない。
ぼくの言葉がまったく通じない。
誰もがぼくのしゃべる普通の言葉を未知の言語扱いした。戸惑った表情をしてぼくから遠ざかる。
昨日までなんともなかったのに。
今もぼくは何も変わっていないのに。
そう思うのはぼくだけなのか。
ぼくがおかしくなってしまったのか。
怖くなったぼくは寮を飛び出した。
でも、行くあてはなかった。
こないだ大学に入学したばかりだったし、実家までは遠い。寮生以外の友だちはまだいなかった。日曜なので大学も開いていない。
あてどもなく歩いていたら腹が減った。
ある日いきなり自分の言葉が通じなくなるという状況で、朝食が食べられるわけもなかった。まったく口にせずここにいた。
コンビニエンスストアを見つけたぼくは店に入った。弁当を持ってレジに行った。
若い女性の店員は弁当を手にして言った。
「温めますか」
「はい、お願いします」
「わかりました」
店員は電子レンジに弁当を入れた。その間に清算する。
そこで気づいた。
今、ぼくの言葉が通じなかったか。
電子レンジがチンと鳴った。店員が温まった弁当を袋に納める。
ぼくは店員を凝視しながら勢い込んで訊いた。
「ぼくの言葉がわかるんですかっ」
店員はのけぞった。
「何をおっしゃっているんですか」
ぼくは袋をつかむと店を逃げ出した。
やっぱり通じてないんだ。
かすかな希望を打ち砕かれたぼくは、呆然としながら近くの公園のベンチに座った。
割り箸を割って、弁当のから揚げをつまむ。
だけど、口に入れられない。腹は減っているのに、食べる気がしない。
ぼくはどうなってしまうんだろう。そんな答えのない疑問が頭の中で繰り返された。
白い猫が視界に入った。ベンチの後ろからきたらしい。顔だけベンチの脇からのぞかせていた。首輪がないので野良猫だろう。
ぼくをじっと見つめている。弁当の匂いにつられたようだった。
「おいで、ほら」と、ぼくは手を伸ばした。
野良猫は恐る恐る歩み寄り、ぼくの手に顔をこすりつけた。ノドをなでてやる。気持ちよさそうに目を細めた。
何でもいいから話を聞いてもらいたくなっていたぼくは言った。
「なあ、聞いてくれ。言葉が誰にも通じないんだよ。何を言ってもぼくの言葉が理解されない。まったくわかってもらえない。最悪だよ。このままだともうこの社会じゃ生きていけそうにない」
にゃあ、と野良猫は鳴いて、目を開いて茶色い瞳でぼくを見た。
「どうすればいい?」
にゃあ、また鳴いて首をひねる。一緒に考えてくれてるようだった。ぼくは笑った。
「なんだか言葉が通じてるみたいだな」
野良猫は、にゃあにゃあとまるでしゃべるかのようにぼくに向かって鳴いた。
ふと自分と重なった。
もし猫が人間の言葉を理解していて、人間が猫の言葉を知らないだけだとしたら、それは今のぼくの境遇と同じことにならないか。
でも、猫には仲間がいる。この公園だけでも結構な数の野良猫を見かけたことがあった。
頭をなでながら言った。
「おまえたちの仲間になりたいよ。猫の言葉はわからないけどさ。だけど、通じないよりいい」
野良猫は大きくにゃあと言うと、身を翻して走り去ってしまった。
ぼくは苦笑いした。やっぱり言葉が通じているわけがない。そんなバカみたいな現実逃避をしても仕方がない。
弁当を食べ終え、ぼくは寮に戻った。
玄関先に隣の部屋の先輩とルームメイトがいた。
ルームメイトがぼくを見つけて安心したような口調で言った。
「おー、いたいた。おまえどこに行っていたんだよ」
ぼくはどうせ通じないと思いながらふてくされたように言った。
「散歩だよ」
「そうか、散歩か」と、ルームメイトはにやにやして言った。
「……え? 言葉がわかる?」
ルームメイトは声を出して笑った。
先輩が口を開いた。
「すまん、すまん。心理実験だったんだよ」
「は? 実験って何ですか」
「突然コミュニケーションが一方通行になったら、人間どんな行動を起こすのかという実験でな。ゼミのレポートにするつもりで、こいつや寮生に頼んで、ちょっとしたドッキリをおまえに仕掛けたんだよ」
先輩は大学で心理学を専攻していた。レポートはその講義にいるものだったのだろう。
ぼくは全身の力が抜けそうになった。安堵と怒りがごちゃ混ぜになった表情をしながら叫んだ。
「やめてくださいよ!」
「すまん、悪かった」
先輩は手を合わせて謝った。笑いながらだったけど。
今晩の夕飯はおごってくれると言ってくれたので、ぼくはとりあえず機嫌を直して自分の部屋に戻った。
ベッドに寝転がりながらさっきまでの自分を振り返り、コンビニで言葉が通じなかったことを思い出した。でも、よく考えたらいきなり客から「ぼくの言葉がわかるんですか」と言われたら普通はあんな反応になるだろう。
かりかりかり。
窓を引っかく音が聞こえた。
ここは一階で、窓のすぐ外は中庭だった。誰か窓際にいるのだろうかと思って、ぼくは起き上がって窓に目をやった。
磨りガラス越しに白い小さな物体が見えた。
両手を伸ばして窓をこすっている。
猫のようだった。体の大きさや白さからして公園で出会った野良猫らしい。ここを開けてくれと言わんばかりに窓をひっかいていた。
どうしてここがわかったのだろうと思った。偶然かもしれない。公園からこの寮までは目と鼻の先だった。
ベッドから起き上がろうと思って腰を上げかけると、引っかく音が増えた。
白い猫とは別に、茶色い毛並みらしい猫も窓に張り付いていた。
さらに一匹、二匹。
猫が増えていく。
黒い猫、グレーの猫、ぶちの猫。
何匹もの猫が窓に押し寄せてきていた。
そして、引っかく。
かりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかり。
(了)
八杉将司既刊
『光を忘れた星で』