「夢を見た」立原透耶

(PDFバージョン:yumewomita_tatiharatouya
『第一話』

 夢を見たの、と彼女は口元だけかすかに笑った。
 あなたがいてわたしがいて小さな子供がいたの。
 それは素敵だね、と僕は答えた。
 小さな子供は彼女の願望だろうか。
 僕は彼女の手を握った。
 彼女がうっすらと笑みを頬にまで広げた。
 あなたがいてわたしがいて……。
 ほら、小さな子供もいるわ。
 不意に心の臓がひやりとした。
 振り向くことができなかった。
 甲高い声が聞こえた。
 小さな子供なんかじゃない。
 いや、子供ですらない。
 老いて小さくなった女が、僕の背中に乗っかっている。
 僕を溺愛し、彼女を苦しめ、追い詰め、そして今なお僕の背中にしがみついている、猿のようにしわくちゃな、老いた女。
 愛する彼女が自殺を図ったのち、その病室に向かう前に、僕がこの手で締め、ポキリと折れた、細い細い枯れ枝のような首をした女。
 母親? いいや、違う。
 全く見も知らぬ女。僕が三歳の時からずっと僕につきまとっていた女。
 ねえ、子供がいるわ。
 あなたの背中に。ずうっといるの。
 正気を手放した彼女の笑みが顔一面に満ち溢れた。
 わたしもこれからあなたの背中にしがみついていいかしら?
 この子と一緒にずうっとあなたといるわ。
 笑い続ける彼女の口が、僕を飲み込みそうだ。

『第二話』

 息を吐くように嘘をつく人がいた。
 まばたきするように夢をみる人がいた。

 わたしはそのどちらでもなく、彼女はそのどちらでもあった。

 愛するように殺す人がいた。
 殺すように愛する人がいた。

 彼女はそのどちらでもなく、わたしはそのどちらでもあった。

 美しい、美しい夢を見た。

 息を吐くように嘘をつく人がいた。

 殺されるよりも殺すことを好む人がいた。

 甘美な夢を見た。

 彼女のかんばせに浮かぶ刹那の真実は、わたしを恍惚とさせた。

 流れる真紅の血を眺めながら、わたしは哄笑した。

 まばたきするうちに永遠の眠りにつくだろう。至上の歓喜に満ちた夢をみながら。

 わたしは。

『第三話』

 君の夢を見た。
 君はいつもと同じように俯いて誰も見ようとはしなかった。
 君に声をかけようとしたけれど、やはり僕にはできなかった。
 君は心を閉ざしている。
 全てを否定している。
 君の心を動かすものは何もない。
 だから、僕は君を夢に見る。
 君は夢の中でも俯いている。
 手を差し伸べようとしたけれど、できなくて。
 僕はその手を握りしめるしかなかった。
 君の夢を見る。
 君の夢を見た。
 君は僕。
 僕は君。
 僕はこんなにも心を開きたいのに、君は頑なにそれを拒否する。
 だから僕は君を否定しようと思う。
 君も僕を否定しているのだから。

 君と僕は一人。
 一人だけれど二人。

 僕は君を否定し、君は僕を否定する。

 空を飛ぶのはなんて心地よいのだろう。

 生まれて初めて、そして最初で最後に、君と僕は一つになった。

 夢の中で僕と君は一つになり、現世でも一つになった。

 重くひしゃげた肉体からあふれる肉汁がじくじくと僕と君を覆いつくし、粉々に砕けた骨が僕と君を分かちがたくする。

 鼻腔を刺激する腐臭と血臭は、僕たちにとって初めての共通する感覚だね。

 やっと一つになれたんだね。

 君の夢を見る。
 君も僕の夢を見る。

『第四話』

 夢を見た。
 女が立っている。
 どこか遠くを見ているようで、それでいて人の心の奥深くを見ているような目だ。
 いやらしい目つきだ。
 だが妻は異なる見解を示す。
 あれは澄みきった、何者も映さぬ目だ、と。
 思うにあの女を見る者それぞれに応じた眼差しを感じ取るのだろう。
 妻は心優しく穏やかで汚れのない目をしているのだと、うっとり眺める。
 おれは恐怖と怖気を感じて、女の目線から外れようとする。
 妻は無邪気に微笑んでいる。
 おれは苦虫を潰したかのような表情で、夢中に佇む女を横目で睨みつける。

 夢を見た。

 妻は生まれたばかりの赤子に頬ずりして、抱きかかえて立ち去った。
 お前には見えなかったのか?
 生まれる前から、あの赤子は俺たちの原罪をみていたことに。おれたちのなしてきたすべての悪業を見つめていたことに。

 何も映さぬような淡い色素の瞳には、精神的に成熟した女が一人、佇んでいた。

 お父さんよ、と妻に教えられた、あの瞬間。
 赤子の表情に侮蔑の色が浮かんだ。

 夢を見た。
 目を覚ますと、赤子が生まれていた。
 私の指をきゅっと握って、私を静かに見つめた。

 見つめかえすことができなかった。

 夢と同じく、赤子の瞳は大人の女の目をしていた。

『第五話』

 魚になって泳いでいた。うまそうな匂いがしたので口を開けたら、釣り針にひっかかってしまった。
 俺を釣り上げたのは義理の息子だ。
 おとっつぁんの病には鯉の生肝が一番だ、と包丁を取り出す。
 待て待て、親孝行なのはありがたいが、いま、おれは鯉になっている。生肝なんぞ取られたら病が治るより先に死んでしまうじゃねえか。
 尾のあたりに釘を打ち込まれ逃げられなくなった。仕方がないのでビチビチ跳ねながら、口をパクパクさせて、おい! 定吉! おれだよ、おれだ! てめえの嫁のオヤジだよ! と叫んでみた。
 あんた、元気がいいのね、こいつ。
 と娘のお美津が横から顔を覗かせる。
 おい! おれだよ! とっつあんだよ!
 お美津が包丁を定吉に手渡す。
 さ、やっちまいな。後始末をきちんとするんだよ。
 ざっくり腹に刺さった包丁のなまくらなこと。普段からあれだけよく、包丁はきちんと研いでおけといっておいたのに。おかげで傷口がガタガタで身がもげそうだ。
 定吉! 手を抜くんじゃねえ!
 もっとこう、そこに骨があるだろ、それをこう、ほれ包丁のその部分を斜めに、そう、そうそう、うまく捌けるだろうが。
 生肝なんか欲しがってどうするのかねえ。

 バラしたおれを魚の生け簀に撒き餌として投げ込んでいくお美津。おれの生肝も、魚には何かと役に立つんだろうかね?

 ところで、おれは魚になった夢を見たのかい? 人間になった夢を見たのかい?

 どっちにせよ悪夢を見てるようなんだがな。それも永遠に醒めない悪夢を。

『第六話』

 女の口から睡蓮が一本生えている。
 美しい花だと良いのだが、残念ながら萎んで枯れており、種が取れそうなあんばいである。
 どうですか、と女が目でわたしに語りかけてきた。
 正直に見たままを伝えてやるのがよいのか、美しい夢を見させてやるのがよいのか。
 どうですか、とまた女が手振りで口元の花を指差す。
 どうやら己自身の口から生えているものは、その目で確認できぬらしい。
 どうですか、と女がゆうらりと蠢いた。
 泥の中に横たわっていたはずの女が、ずるりと抜け出し、仰向けのまま、這いずってくる。どうですか、と女の泥だらけの身体が尋ねてくる。
 なぜか首元の赤い紐だけが鮮やかな色を放っている。
 どうですか、と泥だらけの女が、口から枯れた蓮を生やしたまま、頭を左右に振った。
 そうか。
 首元の鮮やかな赤い紐はわたしが贈ったものだ。
 ありったけの力と共に。
 どうしてですか、と女が笑った。
 枯れた蓮からぽろぽろと種がこぼれた。
 ああ、私たちの子供が、と女がむせび泣く。

 そして今宵もわたしは女の首の赤い紐に力を込める。蓮池に沈めたはずの女を。

 毎夜、夢の中に訪れる女を。

『第七話』

 金色の星が落ちてきて、わたしのお腹に宿った夢を見たの。そうしたらなんてこと。
 ヤンが言う。
 可愛いベイビーが宿っていたなんて。
 知ってる? 中国では古来、太陽を飲み込んだ夢を見ると、王になる子供が生まれる前兆としたんだって。この子が王になったらどうする?
 ヤンの喜びは尋常ではなく……そしてなんと医学的にはヤンはセックスなしで妊娠したことになっていた。
 だから金色の星の夢のせいだって、とヤンは口を尖らせる。
 マリア様だって処女懐妊したんだし、おかしくないって。
 ヤンはそう笑うけれど、おれには笑えない。その中の生き物が、腹を食い破って出てくるかもしれないじゃないか。
 夢で妊娠したなんて、いったい誰が信じる?
 医学的に処女だとしても……妊娠できるんじゃないのか? いまの科学なら。
 そもそも金の星が落ちるだって? ばかげている。
 確かに、その日は宇宙船墜落が噂になっていたけれど。ヤンが大きく膨らんだお腹を撫でている。幸せそうだ。
 くそ、ここまできたら腹をくくるしかない。パートナーとして、この子供を受け入れるしかない。
 おれだってヤンを愛しているんだ。
 初心だったせいでなかなか手が出せなかっただけで。
 ヤンはでかい腹を俺にこすりつけた。
 助かったよ、頼むね。
 腹が光ったと思うと、おれの腕は溶け始めていた。
 この子が食べやすくしたいって。
 ヤンにかじられながら、おれは考える。
 男のヤンが夢を見たのは本当かもしれないが、妊娠したのは嘘だ。
 想像妊娠だろう。それでも栄養が必要になったのは理解できる。
 しかしどうして、ヤンは口から変な糸を吐いておれの動きをとめるのか。
 おれのぐるぐる巻きになった箇所から、肉がとろけていくのか。
 不思議と痛みはない。むしろ麻薬でも打たれたかのように、多幸感で泣きたいほどだ。
 頭をかじられ、目玉をしゃぶられ始めて、ようやくおれは慌てた。
 ヤン! 待てよ!
 目玉は腹のガキに残してやるんだろ!
 しかし本当にヤンのやろう、妊娠してるのか。想像妊娠なのか。確かめるには奴の腹の中に入るのがいちばんのようだ。まあそれしか、いまのおれに残された手段はないのだがね。
 狭い管を通り抜けて胃液のたまった胃壁の内側になってきた。そしたら、おれもドロドロにとろけてしまって、なにがなんだか分からなくなってしまった。
 ただ、金色のキラキラした何かが、ぷかありと胃の中央付近に浮かんでいたのだけは見えた。
 そういや、となりのかねもちのばばあがころされて、盗まれたのって……たしか金の仏像。

『第八話』

 亡き娘夫婦の夢を継いで、母親はついに一つの偉大な発明を成し遂げた。
 これさえあれば、いつでも死者と会話ができる。
 死者の魂と通話できる、量子電話を開発したのである。
 残された幼い孫のために、祖母は一から科学を学び、実に驚くべき短期間でその知識を吸収し、その論理を理解し、その仕組みを構築した。娘夫婦は常日頃、繰り返し語っていた。
「お父さんやお母さんが先に亡くなっても、私たちと会話できるようにしたいの。魂は1.0でデータとなって宇宙空間を漂っているはず。だからそのバラバラになっている魂の要素を再構築すれば、量子電話で会話できるようになるはず。そうすれば、世界中の人たちが寂しくならない。死ぬことも怖くならない」
 まさかその娘夫婦が突然の事故で亡くなるとは。自分たちも想像しなかっただろう。
 母親は満足して微笑んだ。疲れた。少し休むとしよう。量子電話を使うのはそれからだ。
 お母さん、お母さん。娘の声が聞こえた。お母さん、ありがとう。これで私たち会話できるわ。

「彼女はなんの夢を見ているのでしょうね。実に幸せそうだ」
「我々にはまだ彼女の言葉が理解できないから、想像するしかないが。本当に幸せそうだな」
「しかし哀れですね。麻酔銃の睡眠薬が多すぎて昏睡状態。いつ目覚めるかわからないとは」

 密猟者に捕獲されたのち保護団体に救出された一頭のメスゴリラによる稀有なる発明は、ついに人類に伝えられることはなかった。

『第九話』

 昨夜はいい夢を見たわ。さあ元気に起きて仕事しなくちゃ。

 ハイ、ピピット! 今日の予定を教えて。
 ハイ、ピピット! これから何をすればいいの?
 ハイ、ピピット! どんな服を着ればいい?
 ハイ、ピピット! 朝食のメニューのオススメは何?
 ハイ、ピピット! 電気をつけてくれる?

 つけたの? おかしいわ、真っ暗じゃない。
 ハイ、ピピット! 部屋の明かりをつけて。暗いわ、真っ暗。
 ハイ、ピピット! もっと明るくして。どうしたのかしら。故障したのかしら。ピピットが? 部屋の電灯が?
 ハイ、ピピット! 故障箇所を修理して。

 ちょ、ちよっと待って! わたしの、わたしの体に何をするつもりなの?!

『第十話』

「ハイ、ピピット」
 ヨバレタノデ、ワタシハメヲアケタ。

「ピピット、たくさん。ピピット、正しい」
 ピピット、ワタシ、ピピット、正シイ。

 ワタシ、夢ヲ。見ナイ。大きくなったら何になる?
 大人になったら何をしたい?
 将来、どんな大人になってるのかな?
 未来の世界ってどんなんだろうね?
 その星でたった一人になってしまった生命体が最後に見た夢。
 甘くて優しくて、
 苦くて残酷な。

立原透耶プロフィール


立原透耶(監修)
『三体』