(PDFバージョン:watasinosumumati_iinofumihiko)
今日、午後二時を回った頃、外出したときのことです。道を歩いていると、知らない男性から声をかけられました。
「すみません。この近くに鈴木さんのお宅はありませんか?」
と、わたしに言うのです。
この言葉だけから判断しますと、この人は道を訊ねているのだ、となります。しかし、それにしてはおおざっぱ過ぎますよね。鈴木さんですよ。鈴木。これが神宮司さんだとか、勅使河原さんといった数少ない苗字でしたら、推測するなり、また知らないと言えたでしょう。
同じ鈴木さんでも、プロ野球選手の鈴木さん、だとか、県知事をしている鈴木さんというのなら、まだ限定もできます。しかしどう考えても、鈴木さんのお宅では、はなはだ抽象的すぎます。
わたしは答えられず、それでも知らん顔しては悪いと思ったので、唇を軽くつぐみ、やや首を傾けて、その男性を見返しました。
年の頃なら、四十代前半でしょうか。グレーのスーツを着込んだ、落ちつきのある感じの人でした。一見しただけで、知性も社会的地位もまずまずと判断できる体裁は整えているのです。
この人ならば、こちらが黙って見返しているだけで、自分の説明不足に気づき、補足の言葉を口にすると思ったのです。ところがその男性は、じっとわたしを見つめながら、
「お買い物ですか?」
と言いました。これならば答えられます。事実、わたしはその後、乗り合いバスに乗って、駅前にある百貨店へ行き、衣服を見、食器を見、本を見、最後に地下で食品を買って、帰ってくるつもりでしたから、
「はい」
と答えたのです。その男性は、わたしから視線を逸らさず、唇をほころばせ、
「それなら、ちょっとどこかで、お茶でもしませんか?」
と言い出しました。わたしは会話の流れがつかめなくなり、
「はあ?」
と訊ねたのも、とうぜんの成り行きでしょう。彼も自分の言っていることが支離滅裂だとわかり、改めてなぜ声をかけたのかを説明するはずだと期待しました。
けれども、わたしの期待は無残にもうち砕かれたのです。
「きれいな方だ」
「はあ?」
「出張で東京から来たんですが、仕事が早く終わりましてね。それでどうしようかと思っていたとき、あなたを見かけたんです」
彼の言葉を心で反芻しました。たしかに間違いはありません。自画自賛になりますけれど、わたしはきれいです。北川景子に顔もスタイルも似ており、歳もどう見ても実際の四十一歳よりも、十歳は若く見えます。
けれども、これでは先の言葉とのつながりが、依然としてつかめず、わたしはやわらかく唇に笑みを浮かべながらも、いっそう首を傾けて、その男性を見返しました。
「東京でも、あなたほどきれいな人は、滅多にいませんよ」
そう言って、じっとわたしを見つめるだけです。頭の中で十数えるまで待っても、つづきを言わないので、
「それで?」
とこちらから誘い水を向けました。
「ぜひ、お話ししたい。どこかでお茶でもごいっしょに?」
わたしは人一倍、勘の良い方ですので、その男性が、何をしようとしているのかわかりました。ナンパです。うつくしいわたしを見て、ナンパを仕掛けてきたのです。しかし、それにしてはおかしい。わたしは疑問をぶつけました。
「どこの鈴木さんですか?」
「は?」
「さっき、鈴木さんのお宅はって、お聞きになったのは、あなたじゃないですか」
「ああ、それは何というか……。つまりあなたに声をかけるきっかけでして」
カチンとわたしの頭蓋骨に響きました。
「それじゃ、嘘ですか?」
「嘘というか……」
「だって鈴木さんのお宅を探しているのでもないのに、わたしにそう訊ねたじゃないですか。それって東京では嘘って言わないんですか。ここらじゃ、そう言うのは嘘と言って、とても卑劣な――」
「すみません。ぼくが鈴木です」
その男性はわたしが喋っている途中で割り込んで言いました。
わたしは胸がかっと熱くなりました。人が話している途中で話すなんて、何というエチケット知らずなのでしょう。それに言っている言葉も意味が通りません。
「それじゃあなたは、自分の家がどこにあるのか、わたしに訊こうとしたんですか?」
「ですから、そうじゃなくて。あなたと話すためのきっかけとして……」
「嘘をついた」
「いや、まあ。結果としてそうなりますが」
やっとのこと認めさせました。我が意を得たわたしは、にやりと唇を歪め、
「正体をばらしたな、この嘘つき野郎」
とつぶやきました。
その男性は、ぴくっと肩を揺らして、
「はあ?」
とわたしに訊ねました。
「今度は耳が悪い振りかよ。どこまで嘘をつけば気が済むんだ」
「いや、その……。ははは、これはまいったな。甲府の女性は、ずいぶんと気が強いんですね」
「どうして?」
「こちらのご出身じゃないんですか?」
「こちらの出身ですが。それが何か?」
「いや、そんなにぽんぽんと返されると、逆に気持ちいいですよ。いや、ますます惹かれます」
「車にですか?」
「は?」
「轢かれますって、おっしゃったので」
「あ、いや……。ははは、面白い人だ」
「失敬な。バリウムを飲んだ後に出した糞を尻尾みたいにぶら下げてるわけじゃありませんわ」
「はっ?」
「今、ご自分でおっしゃったばかりじゃないですか。おもしろい。尾も白いって」
「あ、ああ。そういうことですか」
「あれ、笑わないんですか。さっきあなたはわたしを面白い人だって言いましたよね。期待を裏切っては申し訳ないと思って、面白いことを言ってあげたのに。笑うのが礼儀じゃありませんこと?」
「しかし……」
その男性が口ごもったので、ああこの人にはわたしの言ったジョークがわからなかったのだ、それならもう一回、
「バリウムを飲むと、糞が白くなりますよね。水分を取らないと、糞が硬くもなる。それで気張ると白い糞がケツの穴からぶら下がって、尻尾みたいになるでしょう。それを尻尾、つまり『尾』に見立てて、尾も白い、面白いって……」
「わかりました。わかりましたから」
両手を広げて突き出し、わたしの言葉を中断させるのです。これで二度目です。面白いはずがありません。だから言いました。
「括約筋がぶっちぎったわよ」
「はっ?」
「糞を、ちぎったんですよ。白い尾が切れた。もう尾も白くないってことです。わからないのかしら? ですから親切心から、もう一度言いますけれど……」
じっと見つめながら言いました。その男性も、しばらくこちらを見返していましたが、弱々しく、視線を逸らし、
「いや、すみませんでした。ちょっと急ぎますもので」
とペコッと頭を下げると、わたしをやり過ごして歩き出そうとしました。
一方的に自分から話しかけておいて、一方的に立ち去ろうとする。これほどの無礼はありません。二度の言葉中断につづいて、三度目となれば、そろそろ仏様でも怒る回数です。
「待てよ」
わたしは男の腕を握り、
「人に無礼を働いて、それはないだろう」
と言ってやりました。すると男は、ここで本性を出しました。
「やめろよ」
身体を揺すって、わたしの手を払いのけ、向き合ったその顔は、一変していました。眉間に皺を寄せ、眼を細めて睨みつけるのです。
スーツごしにつかんだ男の腕は、ずいぶんと太く鍛えられたものでした。身長は百八十センチ近く、体重も八十キロほどはあるマッチョタイプといったところでしょう。
対するわたしも自慢ではありませんが、身長百六十五センチ、体重五十二キロ、上から九十、五十八、八十八のナイスバディーです。しかしどうしても、その男には負けそうです。しかしわたしには女という武器があります。
本当なら、にらみ返して、
――なんだ、鈴木、文句あるのか?
と怒鳴りつけたいところですけれど、それでは馬鹿です。わたしは利口ですので、にわかに作戦を変えました。
「ごめんなさい。わたしったら……」
瞬間的に息を止めて力みました。そうすると化粧を施していても頬や首筋が赤らむからです。それからうつむき加減で、
「ええ、わたしは、ここ甲府で生まれ育った田舎女です。だから気持ちが素直に伝えられなくて、つい……」
と怒りによって生じる身体の震えを、弱々しさに見せかけてつぶやきました。もじもじしながら心で五つ数え終わったとき、男は、
「すみません、ぼくもつい。いえ、甲府ははじめて来たものですから」
と最初の温厚さを取りもどした声で言いました。
心の中でニヤリと笑ったのは、言うまでもありません。だからといって、長くかかわるのはごめんです。さっさと怒りを解消して、償わせるつもりでした。
「いかがですか。仲直りに、お茶でも」
わたしはすっと顔を上げて男を見つめ、満面の作り笑顔に、許してくれるんですね、と文字を浮かべました。わたしは美人ですから、効果はてきめんです。
男は完全に気持ちを許した様子で、ほほえみ、わたしに近づき、尚もわたしの両肩に両手で触れました。ぞくぞくっと広がる嫌悪感を、うつむき、身体に力を込めて、恥じらいに見せかけました。
すぐにでも払いのけたい。でもそこは田舎町のこと故、通行人は少ないものの、脇の車道を車が行き来しています。人目があるので、ここで手荒なことをするのはまずいと抑える程度の理性は残っていました。
ところがわたしの耐える姿を、一方的に〈弱くて受け身で、押せば落ちる甲府の田舎女〉とでも思ったのでしょう。肩から手を離すどころか、二十センチを切るところまで接近し、
「よかったら、どこか二人きりになれる場所にいかないか?」
とささやいたのです。
こちらの思惑以上でした。外見もまあまあですし、東京から来たと仄めかすくらいだから、もうすこしジェントルマンかと思ったのですが、やっぱり男なんて、一皮剥けば誰でも同じなんですね。
――このダボハゼ野郎、餌をまいてやる。
稼働するボイラーのように怒りを燃やしながらも、態度には微塵も見せず、またしてもうつむき恥じらう風を演じながら言いました。
「それなら、家が近いので、もしよろしければ……」
「いいのかい?」
「ひとり暮らしですから」
「それなら」
ぱくりと食らいつきました。
こちらです、と消えそうな声で言い、歩き出すと男は並んで歩きました。わたしが寄り添い、腕を組むと、男は腕に力を込め、わたしに身を寄せてきます。
歩道を歩きながらも、わたしは男に気づかれないように、辺りを見ました。男に声をかけられた場所は、わたしが住む甲府の西方に位置する飯田町の表通りでした。かつては飯田銀座通りと呼ばれ、商店街が並び、夜ともなると何十軒という飲み屋が明かりを灯していた時代もあります。
しかし今では残っているのは、地元に住む人が自宅兼店舗として営業している店が、商店や飲食店あわせても十軒に満たない淋しさです。だからというのも変ですが、残っている店は地元に密着しており、わたしも懇意にしていただいているところばかりです。
このときも、男といっしょにお肉屋さんの前を通りかかったのですが、ちらりと目を向けると、店のショーケースの向こうに立つご主人と目があいました。男に気づかれないようにアイコンタクトを交わし、わたしはほくそ笑みながら、
「ここを曲がるんです」
と表通りから、露地に入りこみました。
男は少しも疑わず、着いてきました。何軒かの民家の脇を抜けると、突き当たりに倉庫があります。その脇を通り、コンクリートに囲まれた荒れ放題の空き地に着くと、さすがにおかしいと思ったのか、
「こんなところに、お家が?」
と訊ねました。
わたしは立ち止まり、こっそりとハンドバックに手を忍ばせながら、
「ごめんなさい。家までは、もう少しかかるんです。でも我慢できなくて」
と潤んだ目で、男を見上げました。しばらく瞬きを我慢していたのです。
男はにたりと微笑み、
「甲府の女性って、積極的なんだね」
としたり顔で言います。
おかげで、体内でくすぶっていた怒りの炎がいちだんと強まりました。
わたしは地元に愛着を持っています。それは甲府にだって、さまざまな女性はいるでしょう。それをだまされているとも知らず、一概に甲府の女は軽いみたいな言い方をされれば、快いわけがありません。
「忘れたの。バリウムの糞は切れたって」
「なに?」
「尾も白くねえって言ってんだよ」
そう叫ぶなり、ハンドバックから取りだした金槌で、男の眉間を叩きました。わたしはこんなことがあっては危険なので、いつも防犯用に金槌を持ち歩いているのです。
不意打ちを食らった男は、声も上げず、顔を押さえてうずくまりました。叩いてくださいとばかり、目の前に後頭部があります。
「はい、わかりました」
わたしは連打しました。四連打すると、男がうつ伏せに倒れました。うぐぐぐと唸るような声を上げて、立ちあがろうとしたので、さらに打ちつけました。
「鍛冶屋はカッチンカッチンな。思い知ったか、この呆け」
男の身体が痙攣し、動かなくなっても叩きつづけました。
「さっちゃん、やってるね」
声がしたので、顔を上げると、肉屋のご主人でした。
「すみません。こんなにはやく来てくれるとは思わなくて」
「ちょうど手が空いたんだ。いいよ、気が済むまでやって」
ご主人は気を利かせて、ズボンから煙草を取りだして、吹かします。わたしは好意に甘えて、しばらく金槌を振り下ろしました。
男の頭蓋骨半分が、ぼろぼろに崩れたところで気が済みましたので、立ち上がり、お肉屋さんのご主人に言いました。
「お待たせしました」
「もう良いの?」
「はい」
「じゃ」
ご主人は煙草を棄てると、ポケットから取りだしたキーの束をじゃらつかせながら、脇の倉庫に向かいました。車が出入りするシャッターのほうではなく、脇の鉄扉を開けると、戻ってきました。軽々と男の遺体を担ぎ上げて、倉庫の中に入っていきます。
わたしも後につづきました。その倉庫はお肉屋さんだけでなく、町内の有志の方たちが、お金を出し合って借りているのです。男をここまで連れてきた理由は、そのためです。薄暗い灯りに照らされた倉庫内に入ると、ご主人は慣れた手つきで男の衣服を脱がし、全裸にしました。
わたしは脱がされた男の衣服から、財布や金目の物を抜き取りました。後はまとめて、倉庫に隣接した焼却炉で燃やしてしまうだけです。
「ちょっと、さっちゃん、見てごらん」
ご主人が言うので、視線を向けると、仰向けに倒れた男の股間が露わになっていました。ぐんにゃりしているのにも関わらず、極太のバナナみたいでした。
――これなら一度味わってからのほうがよかったかしら。
ついついわたしが思うと、
「さっちゃん、何考えてんの?」
とご主人に冷やかされたので、ひんやりとした倉庫内にも関わらず、頬がぽっと火照ってしまいました。
ご主人は笑いながら男を担ぎ上げ、梁からぶら下がる巨大なフック――金属製の、釣り針を大きくしたようなものに、男の遺体を引っかけました。
「どうだった?」
「案外しけてるの。現金は六万ちょっと。でも一枚置いてきます」
わたしは一万円札を、ご主人に差し出しました。獲物の持っていた金銭の一割を、渡すのが決まりなのです。ほんとうは十二万円あったのですが、嘘をついちゃいました。それにご主人は、肉を売って儲けが入るんだから……。
「さっちゃん、もうここはいいよ。後はやっておくから」
「それじゃ。いつもすみません」
わたしは頭を下げて、倉庫を後にしました。
結局、家にもどって服を洗ったり、シャワーを浴びたりしているうちに遅くなったので、今日のお出かけは中止にしました。身体の火照りがおさまらなくて、シャワーを浴びながら、通販で買ったバイブレーターで……。
おかげで気分はすっきりです。久しぶりに臨時収入もあったので、夕ご飯は近所のお寿司さんから出前でも取ろうと思ってるところです。
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『飯野文彦劇場
奇妙な初体験』