「弥生の供養」太田忠司(画・YOUCHAN)

(PDFバージョン:yayoinokuyou_ootatadasi

「宮司殿、荷が届きました」
 錬燕(れんえん)に声をかけられ、周桑(しゅうそう)はゆるゆると眼を開いた。どうやら座ったままうたた寝をしていたらしい。
「ん……ああ」
 返事とも欠伸ともとれない声を洩らし、かすかに伸びをする。そしてあらためて目の前にある祭壇に眼をやった。柴を編んで祭壇としている粗末なものだ。しかしこれが、この地域ではもっとも神聖なものだった。
 彼が宮司を務める幾仁(いくに)社は近辺でも最も古い神社だった。先祖がこの惑星に辿り着き、最初にこの地に立ったとき土地の神が現れて、自身を祀ることを条件に住むことを許したという。その神がどのような姿をしていたのか、実際に見た者はもうこの世にはいない。神の姿を象ったとされる像は神体として祭壇奥の神棚に納められ、宮司でさえそれを見ることは叶わなかった。初代宮司である周桑の曾祖父が固く禁じたのだ。
 ふっ、と侮蔑まじりの息をつき、周桑は立ち上がる。が、足が痺れて歩きだすこともできない。
「どこに置いた?」
 足の感覚が戻るまでの時間稼ぎに尋ねる。
「奥座敷に。衛辰(えいたつ)様が直々にご持参なさいました」
 衛辰という名を聞いて、周桑の眉間の皺がまた少し深くなる。物心付いた頃からの付き合いだが、一度として彼と対等になれたことはなかった。近隣の住民たちの信仰を一手に引き受ける宮司の家に生まれた周桑であっても、土地一番の分限者であり、この幾仁社の最大の後ろ楯でもある大立者には代々頭が上がらなかったのだ。
 やっと足の痺れが退いてきた。周桑はゆっくりと歩きだす。その後ろを錬燕が腰を低くしながらついてきた。
 奥座敷は祭事の際に宴の場として使われることもある、この社ではもっとも広い部屋だった。その中央に木箱が置かれている。大の男がふたりはすっぽり収まろうかという立派なものだった。
「これはまた、ずいぶんとでかいな」
 周桑が思わず言葉を洩らすと、
「ひと揃えございますから」
 錬燕が応じる。
「出してみい」
 宮司の指示で錬燕は木箱の蓋を開ける。それさえもひと苦労のようだった。
 最初に取り出されたのは白い和紙に包まれた両掌に乗るほどの大きさだった。和紙を丁寧に剥ぐと、中から現れたのは十二単を身に纏った女雛だ。
 錬燕から人形を手渡され、周桑は顔を近寄せてまじまじと見つめる。白い面(おもて)に細く引いた眉と形の良い目。鼻筋は通り唇は小さく赤い。大垂髪(おすべらかし)に結った髪は艶やかに黒く、着物も手入れが行き届いていたのか塵ひとつ付いてはいない。
「これが……」
 言葉を呑み込む。これが、菓南(かなん)の雛か。
 菓南という名前を脳裏に浮かべるときの甘い感触と喪失感は、今でも変わらなかった。近隣の子供たちの中でも一際目立つ器量だった少女は、長じるにしたがって艶やかさと気品を備え、誰もが認める麗人となった。周囲の男たちで彼女に魅せられなかった者はほとんどいなかっただろう。周桑ももちろん、彼女を賛美する者のひとりだった。といっても内気な彼は自分の思いを打ち明けることなど到底できず、学校などで顔を合わせることがあっても眼を逸らして逃げ出すばかりだった。
 幸いなことに菓南の父親は氏子総代を務めるほどの熱心な信者だった。まだ幼い頃、彼が神社に参った際に「娘は周桑君に嫁がせようかの」と冗談めかして言ったことを、周桑はずっと忘れなかった。自分が菓南を娶る。そんな想像をするたび、陶然となった。
 しかし、その妄想は十年後、あっさりと瓦解した。衛辰と菓南の縁組が決まったと聞かされたのだ。文字どおり、奈落の底へと落とされたような気持ちだった。たしかに衛辰の家と菓南の家なら釣り合いも取れる。しかし自分だって宮司の息子だ。引けを取るものではないはずだった。だとすれば、やはり金か。噂に聞いたところでは菓南の家は外見はいいものの台所は火の車だったという。今回の婚姻も欲得ずくの政略結婚というわけだ。その話を聞いたとき、周桑は衣の袖を噛んで口惜しがった。金か。金さえあれば菓南を汚らわしい結婚から救い出せるのか。しかしながら幾仁社は由緒こそ正しいものの現金の蓄えはほとんどなかった。すでに父を亡くし宮司を継いではいたが、なけなしの金をはたいても衛辰に対抗できるはずもない。いっそ神器を売り払って、などと考えたが、そんなことをすれば自身の地位を失い、ここにはいられなくなる。周桑にできるのは内心歯噛みをしながら衛辰と菓南ふたりの婚礼を宮司として執り行うことだけだった。あの日のことを思い出すと、血を吐きそうなほどの苦しみが甦ってくる。
 菓南の婚礼道具の中に雛人形があることは、前から聞いていた。初節句に両親が贅を尽くして作らせたものだと。その人形が今、目の前にある。
 人形はそもそも、その子の厄を引き受け、肩代わりするものだ。だから一代限り。新しい雛人形を招き入れたら、古いものは処分しなければならない。今年、菓南は生まれたばかりの娘のために新しい人形を飾るのだろう。
 だからこの人形は周桑に手渡された。供養して、処分するために。
「人形供養、すぐにもなさいますか」
 錬燕に声をかけられ、周桑は追想から引き戻された。
「……いや、明日にしよう。今日はここに全部、飾ってくれ」
「全部、でございますか」
「ああ、きちんと全部な。最後の飾りつけだ」
 それから小一時間ほどかけて、錬燕は雛壇を設え緋毛氈を敷き、そして人形たちを並べた。鮮やかな七飾りだった。周桑はそれを前にして、無言で佇んでいた。
「宮司殿……?」
「……しばらく、ひとりにしてくれ」
 そう言って錬燕を下がらせると、彼は雛壇の前に正座した。
 思えば、この神社で雛人形が飾られたことはなかった。亡くなった母は人形を持っていなかったし、周桑には女の姉妹もなく妻もいない。こんなに間近で雛人形を見ることは、今までなかった。
 もしも菓南が自分に嫁いできていたら、この雛壇はずっとここに飾られ続けていたかもしれない。そう思わずにいられなかった。
「……間違っている」
 ふと、呟いた。立ち上がり、一番上の段に置かれた女雛を手に取った。その面差しがどこか菓南に似ているような気がする。周桑は人形を抱きしめた。
 ――苦しゅうございますわ。
 はっ、として人形を見つめる。
 ――そのような眼をされて見つめられては、恥ずかしゅうございます。
 その声は、まぎれもなく菓南のそれだった。
「どういう、ことだ?」
 ――わたくしは人形(ひとがた)。主(あるじ)の心を映します。
「主とは……菓南殿のことか」
 ――幼き頃よりあの方の心を映し、厄を引き受けてまいりました。周桑様のことも、周桑様の主への想いも、よく存じております。
「それは……」
 周桑はうろたえながら、
「では、菓南殿は私の想いをご存じであったか」
 ――もちろんですわ。
「そうか……想いは伝わっておったのか」
 安堵するような恥ずかしいような複雑な思いが周桑の胸を過る。そんな彼の所懐をよそに、人形は言葉を継いだ。
 ――周桑様だけではございません。他の男衆の主への恋い慕う気持ちも、よくよく存じております。主はいつも笑っていらっしゃいました。
「笑う? 何を?」
 ――下衆なあなたがたの劣情を、でございます。あなたがたは日毎主に好奇と欲望の眼差しを向け、淫らで下劣な妄想の具とされておられましたわね。
「そんな、そんなことは――」
 ――否定なさらずとも結構です。主にはよおくわかっておりました。だからこそ、あなたがたの眼に怯えるのではなく、嗤っていたのです。あなたがたの汚らわしさと野蛮な有り様を。妄想の中で弄ぶことしかできない愚か者を。
「やめ……やめてくれ。私はそんな……そんなことは思ってない!」
 周桑は女雛を放り出した。人形は畳の上を転がり、しかし正しい姿勢で止まった。その視線に抗するように、周桑は言葉を絞り出す。
「私だけではないのであろう? 他の男たちも同じように……そうだ、衛辰だって同じだ。あいつも菓南に邪な思いを――」
 ――はい、衛辰様も同じでございます。でもひとつだけ、あなたとは違っておられました。衛辰様は正直に主への思いを告白された上で、自分が主に何をしたいのか、その代わり主に何をしてあげられるのかを打ち明けました。主はその正直さに打たれたのです。そして心から衛辰様の妻になりたいと願われました。
「嘘だ。衛辰は金に飽かして菓南を買ったのだ!」
 ――そう思いたいのでしょうね。まあ、ご自由してくださいませ。ただひとつ、確かなことがございます。主は、菓南様は愛しい夫と愛しい我が子と共に幸せに暮らしております。そこに周桑様が入り込む余地はございません。
「黙れ! それなら、おまえだってそうだろうが。おまえも新しい雛人形に居場所を奪われてここに捨てられた、惨めながらくたではないか」
 ――そのとおりでございます。我等は用済みのもの。
 ざわ、と動く気配がした。見ると雛壇に並ぶ人形たちが一斉に周桑を見つめている。
 ――人形は主の厄を引き受け、この身を滅することが定め。我等の中には主の幼き頃からの怒りが、憎しみが、悲しみが宿っております。さあ、御祓いなさい。あなた様の祝詞で我等を鎮め、滅しなさい。消し去りなさい。
 いくつもの人形の眼に見据えられ、周桑はその場にへたり込んだ。
 ――さあ、やってごらんなさい!
 迫り来る人形たちの声に、周桑は思わず悲鳴をあげた。
「……この、この化け物どもがあっ!」

 幾仁社から上がった火の手は、瞬く間に社を全焼させ、神体を含め、すべてを灰と化した。
 幸いだったのは社にいた周桑と錬燕が、火傷を負ったものの無事に救出されたことだった。
 炎は奥座敷からあがったものと推測されたが、何が原因だったのか宮司である周桑からは一言も説明がなかったため、特定はできなかった。
 焼失した神社は数年後に再建され、錬燕がが宮司として仕えることとなった。
 周桑はいつの間にか姿を消した。その消息は誰も知らなかった。

太田忠司プロフィール
YOUCHANプロフィール


太田忠司既刊
『やっぱりミステリなふたり』