(PDFバージョン:miminisitahanasi_aokikazu)
一、 宴会
知人から聞いた、とある旅館での話である。
その知人は秘湯巡りを趣味にしていた。その話も、山奥にあるひなびた温泉旅館でのことだそうだ。
そこは、温泉としての歴史はかなり古いらしいが、辺鄙な場所でとにかく交通の便が悪いため訪れる客は少ない。知人が泊まったときも、ほかに客の姿はまったく見なかった。そのことを尋ねると、オフシーズンでございますのでねえ、と女将は答えた。
「お泊まりのお客様がゼロなんていう日もありますんですよ」
そのくせ、奥の方では従業員が何やらばたばたしている気配が感じられる。
訝しく思いながらも深く考えることもなく、知人は温泉と食事を堪能した。茸と山菜をふんだんに使った料理は名物らしく、質素ながらすてきに旨かった。
知人は食事の後もちびちびと飲み続けていたが、夜中にもう一度温泉に浸かるべく部屋を出た。が、つい酒が過ぎたのか、旅館の中で迷ってしまった。
確かに浴場へはこの廊下だったと思うところを行くのだが、いっこうにたどり着けない。
とうとう戻る道も分からなくなって、当てずっぽうに歩いているうちに、廊下の先に大広間と思える部屋が見えてきた。辺り一帯がほの暗い中で、その部屋だけ煌々と灯りが点っているのが見える。
近づくにつれて、わいわいと賑やかな声が伝わってきた。
やれやれ、と知人は胸を撫で下ろした。あそこで道を聞こう。これでようやく部屋に戻れる。
近づいていくと、宴席の客の姿がシルエットになって障子に浮かんでいた。
どういうわけかみんな体のわりに頭だけが異様に大きく、おかっぱのような髪型をしている。そして、溢れ漏れてくる言葉はさっぱり分からない。
障子の隙間からのぞいてみると、中で騒いでいるのはみんな茸だった。椎茸のようなの、タマゴタケのようなの、シメジのようなの、赤い斑のあるのはベニテングタケか。
すでに大勢が飲み過ぎてつぶれてしまったかのように、畳のあちこちに転がっている。
知人はそのまま広間を離れ、長い時間をかけて部屋に戻った。
翌日、部屋に現れた女将に宴席のことを尋ねたが、宴会の客などなかったという返事だった。
夢でもご覧になったんでしょう、という。
朝食には昨夜と同じ、たっぷりの茸が出ていた。
箸はつけなかったそうだ。
二、 移動する下駄
もう一つ、旅館の話。
その旅館は、土地の名所である滝のすぐそばにある。旅館の敷地からはほんの目と鼻の先で、宿泊客は旅館の下駄を借りて散歩がてら滝を見に行くのが常になっている。
下駄の数はもちろん旅館側で管理しているのだが、時おり、客がみんな戻ってきているにもかかわらず、貸し出した数と戻ってきた数が合わないことがあるらしい。
そんな時は滝を見に行く。滝壺のそばに、足りなかった分の下駄がきっちりと揃って並んでいるのだそうだ。
裸足で帰ってくる客はいないから、まるで下駄がひとりでに出て行ったかのように見える。
そしてそんなことがあった後は、必ず、滝壺に落ちる人が出るそうだ。
三、 インコを拾った
知人の話である。
知人の家は結構街中にあるのだが、すぐ近くに清流が流れている。コンクリートで護岸された、いかにも都会の川なのだが、生活排水が流れ込まないので水質が抜群によく、天然のアユまでいるらしい。なので、野鳥がたくさん集まる。
知人が川へ行くのはもっぱら釣り目的で、鳥には特に興味はなかった。しかしある日、川面に糸を垂らしあたりを待つ間に地面で何かをついばんでいる小鳥たちを見ていると、中に見慣れない鳥が混ざっているのに気がついた。
スズメだかムクドリだか、茶色や灰色の地味な鳥たちの中で、その一羽だけが蛍光色のような水色をしている。
大きさは二十センチほどで、セキセイインコだろうと思われた。おそらく迷子だろう。何かのはずみやふとした油断で、部屋の中で放していたペットの小鳥を逃がしてしまう話は、知人もよく耳にしていた。
そのつもりで見てみると、水色の鳥はほかの野鳥たちに比べてあきらかに動きが鈍い。それでなくてもあの色では目立つのに、このままでは小動物に捕食されるのは時間の問題だろう。
知人はその時、たまたまタモを持参していた。ダメ元で振るってみると、ほかの鳥はいっせいに逃げたのに水色の鳥はあっさりと捕まった。
鳥は網の中で、羽をすくめたままじっとしていた。人間を怖がる様子もなく、きょとんと知人を見返している。
今まで大切に飼われてきたのか、かなり人馴れしている。おそらく飼い主は心配して探していることだろう。
そう思った知人はインコを自宅へ連れ帰り、飼い主を探すことにした。
まず警察へ拾得物の届け出をする。それからインコの写真を撮ってチラシを作る。近所の動物病院やペットショップにそれを持ち込み、情報を待つ。
知人はすぐに飼い主が名乗り出るだろうと思っていたようだが、案に相違してなかなか見つからなかった。
保護してすぐは弱っていた鳥も、やがて元気を取り戻した。知人にも馴れてきて、指や肩に止まるようになった。
あまり懐かれてしまうと別れの時につらくなるね、と言うと、
「それもそうなんだけど」知人は顔を曇らせて溜息をついた。
「インコって人の言葉を覚えるだろ。自分の名前くらい言えるかもって、喋らせてみたんだよ。そしたら」
「そしたら?」
「タスケテ」
「え?」
「タスケテ、って言うんだ。タスケテ、タスケテ。なんだか必死な感じで」
友人はもう一度溜息をついた。
「鳥は言葉の意味は分かってない。たぶん誰かが何度も何度も、こいつのそばでそう言ってたんだろう。それを自然に覚えちゃったんだと思う」
こいつどんなところにいたんだろうな。知人はそう言って、眉をひそめた。
飼い主からの連絡は、まだないらしい。
四、 蝶の夢を見る
友人に奇妙な夢を見る奴がいる。
なんでも、夢の中で猫になるそうだ。自分の体のことなので毛色や柄は分からないが、四本足で身軽に走ったりジャンプしたりでき、何より自分が猫だという自覚があるらしい。
猫になって何をしているかというと、決まって蝶を追いかけている。
蝶を捕まえたことはない。ただ野原のような所をどんどん追いかけていくと、やがて大きな川に突きあたる。蝶はそのまま川を越えて飛び去っていき、猫の友人はそれを見送る。
だいたいそんな内容だが、子供の頃から何度も、この同じ夢を見ているらしい。
「偶然かもしれないけれど」と友人は言う。
「その夢を見た後は必ずまわりで誰か死ぬんだ。予兆もなしに突然に」
そんなの偶然だろう、と笑うと、
「最初はそう思ってたんだけどね。たまたま二匹追いかけてたときがあって。その後すぐ、学校の同級生が自転車で二人乗りをしていて、車にぶつかって死んだ」
友人の目は笑っていなかった。
「信じられないと思うけど。この前は五匹追いかける夢だったよ」
二つ隣の駅近くで、通り魔事件があったばかりだ。死者の数はたしか五人。
「あのなあ。冗談でもそんなこと言うなよ。不謹慎だぞ」
さすがに腹に据えかねて怒ると、友人は何か言いたそうにしたが、結局そのまま口をつぐんだ。
あれきり夢の話はしていない。
それから随分たったつい最近、その友人とたまたま二人でテレビを見る機会があった。科学番組で、オオカバマダラの生態を取り上げた内容だった。オオカバマダラは北米大陸などに生息する蝶で、鳥のように長距離の〝渡り〟をするらしい。
広大な森から何億という数の蝶がいっせいに舞い上がり、見渡す限りの空を埋め尽くす。その光景が8Kの高解像度で画面いっぱいに映し出された。圧巻を通り越して、背筋が寒くなる光景だった。
「すごいな。夢に見そうだ……」
隣で友人が呟くのが聞こえた。それで、すっかり忘れていた蝶の夢の話を思い出した。
何億もの蝶──何億もの人。
頼むからやめてくれ……。
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