(PDFバージョン:sekainosokono_hennrimakoto)
横殴りの雨が古びたアクリル板の上に不規則な波紋を描く。流れ落ちてゆく水がそこにいびつな波を立て、遠くに見える繁華街の明かりをゆらゆらと歪めた。時々刻々と姿を変えてゆくその光の環は、まるで踊っているかのようだった。時刻は午前二時。寒い。俺はコートの襟を立てる。
「……こんなところに電話ボックスがあるなんてな。近頃じゃ携帯電話に押されてすっかり姿を見なくなってたが。まだ、あったんだな」
この辺りは街灯もなく、周囲はインク壺に浸かったかのような暗闇だ。遠くに輝くネオン街と、時折通る車のライト、それと申し訳程度に灯るボックス内の照明だけが光源だった。
突然降り出した強い雨の中、雨宿りできそうなところを探して走り回り、偶然見つけた避難場所だった。こんなひなびた海辺の街道にぽつんと立っているなんて。最初は幽霊かと思ったほどだ。
だが雨をしのぐには丁度良い。ドアの下の隙間から冷たい海風が容赦なく吹き込んでくるのだけは閉口だったが、この際贅沢を言ってはいられない。雨に打たれずにすむことだけでも感謝しなくては。
「運が良かったな……」
海鳴りが聞こえる。篠突く雨の音がそこに被さる。
俺は天井の小さな明かりを見つめ、ため息を漏らす。
「……運が良かった、か」
だが本当にそうだろうか。むしろあのまま雨に打たれて凍死でもしていた方がマシだったのかもしれない。
突然、職を失い、恋人を失い、俺にはもう未来なんて残っちゃいなかった。家族も友人もいない。世界とのリンクを一遍に切断されて、俺は途方に暮れている。残されたのはポケットの底にあったわずかばかりの小銭だけ。なけなしの金で安酒をあおる。お定まりのパターンという奴だが、実際、それ以外に俺にいったい何ができただろう。
だがせっかく手に入れた酩酊も突然の雨によってキャンセルされた。俺にはもう何もない。
雨粒が透明なアクリル板を激しく打ちつける。まるで俺を責めているかのよう。
様々な運命に翻弄されて、結局俺には何も残らなかった。電話ボックスの中にいても、電話をかけるべき相手すら思い浮かべられない。
俺は寄りかかって外を眺める。
ふと、一切の音が途切れたような気がした。
こうして佇んでいると、海の底に沈んだガラス瓶の中にいるような心持ちになってくる。遠くで瞬く街の明かりは夜光虫の輝き、時折尾を引きながら通り過ぎてゆく車のヘッドライトやテールランプは深海魚の放つ光。世界中が海に沈んで、俺一人だけが生き残った。そんな妄想に駆られてしまう。たまらなく人恋しいが、切なくなればなるほど思い知らされ、打ちのめされる。孤独という奴に。
このままここで俺が野垂れ死んだとしても、泣いてくれる者などいない。それがたまらなく寂しい。闇に引きずり込まれてしまいそうだ。それは板一枚を隔てた、すぐそこにある。
「惨めなもんだ、敗残者の最期なんて……」
ボックスの中に座り込む。雨はまだ止みそうにもない。
明日からどうすればいい? この疑問だけがずっと頭の中を駆け巡っている。
「どうもこうもないよな……このままズルズルと落ちてゆくだけだ。いっそこんな人生には、けりをつけた方が楽かもな……」
まどろもうとするが寒くて眠ることもできず、そのまま膝を抱えて震える。
それからどれくらいの時間が経っただろう。たぶん、一時間かそこいらだ。
突然、ボックス内に甲高いベルの音が鳴り響いた。
俺は心底ビックリして跳び上がった。心臓が止まるかと思ったほどだ。
立ち上がる。
最初は不審者対策のセンサーか何かがとりつけられていて、それが反応したのかと思った。だがそうではなかった。電話が鳴っているのだ。
目の前の公衆電話が鳴っている。小さなインジケーターがオレンジ色に点滅していた。
俺はその明かりから逃げるように後ずさる。
まるであの世からかかってきたような気がしたのだ。
狭い電話ボックスの中、俺は背中を角に押しつける。
電話のベルはきっかり十回鳴って切れた。
俺はしばらくはそのままの姿勢で固まっていたが、やがて、ふぅ、と息を吐き出した。
電話も、今は沈黙している。もうかかってはこないようだ。やれやれ。脅かしやがる。
しかしそれにしてもいったい誰が、と思わずにはいられない。公衆電話なんかコールしてどうする気だったのだろうか。
冷静になってみれば、俺にかかってくるはずなどなかった。ここには偶然入ったのだし、そもそも俺に用事のある奴なんていない。
誰かの悪ふざけという可能性も低いだろう。何しろこの辺りに人のいる気配は皆無だ。
一番考えられそうなのは間違い電話だったが、この時間にかけるということは、相手は恋人か友人か。いずれにせよ、とても親密な間柄の人間であるに違いない。普通、親しい相手の電話番号ぐらいは電話機に登録しておくのではないだろうか。
振り込め詐欺なら、なおさら電話ボックスへ、しかもこんな夜中にかけたりはしないだろうし、となると、悪戯電話、という可能性だけが残ることになる。
俺は取れなかった受話器を見つめた。
「……昨今じゃナンバーディスプレイで電話番号が分かっちまうからな、かといって非通知設定にしておくと誰も出てくれない。悪戯電話も、やりづらい世の中になったってわけか」
俺はふと想像した。
世界中が海の底に沈んだかのような激しい雨の降る夜。孤独に耐えられなくなった誰かが、話し相手欲しさに、それこそ死に物狂いの必死さで次々に適当な電話番号を試みる。だがこの時間、しかも非通知設定になっている電話番号からのコールに応える者などいるはずがない。ますます孤立感を強めたその人物は、ますます必死になって電話をかけまくってゆく──
なんとなく、その人物の姿が見えたような気がした。
もちろんこれは俺の勝手な想像で、もしかしたら真実は全然違うのかもしれない。証拠なんてどこにもないのだ。
でも突然一方的に驚かされたことに対する、俺なりの元は取れたような気がする、そんな想像だった。この解釈に俺は十分な満足を覚えた。
「そうか……寂しいのは俺だけじゃないんだな」
そう納得する。その時だった。
突然、俺の心に一筋の光が差した。
そうとも。孤独なのは俺だけじゃない。突然の不幸で視野狭窄に陥ってしまっていたが、何も不運な奴は世界に俺一人きりというわけじゃない。アンラッキーは、誰にだって訪れうるのだ。
アクリル板に息を吹きかけ、ふと思いついた四文字を書いてみる。
──色即是空
その文字は不規則に踊る遠い街明かりを背景に、黒く染め抜かているかのように見えた。
そうだ。仏教にはこの言葉があるではないか。この世の全てに固定的実体などないのだとすれば、あらゆる満足、あらゆる安心は、実はかりそめの幻にすぎず、この空しさ、この不安こそが、この世の真の姿なのかもしれない。
本当は皆、寂しいのだ。恐いのだ。それを恋人や友人、仕事、金などを持つことで誤魔化し、安心安全を思いこもうとしている。だがこの世の真実が“空っぽ”であることなのなら、そんな思い込みはまやかしに過ぎず、いつだって雲散霧消しかねない儚い蜃気楼、一夜の夢のようなものだ。現に俺はそれを味わったではないか。信じていたもの、拠り所としていたもの、それらは一瞬で消え去った。本当に呆気ないものだった。
だが今、俺はもうすでに、さっきまでの敗残者ではない。
俺はこの世の真実に到達したのだ。それは悲しみの果てにある。それは絶望の底にある。そこまで行けた者だけが会得することができる、言葉や知識では決して手に入れることのできない境地。
どうせ全てはゼロなのだ。それ以上失うものはない。ならば何を恐れる? 不安なのは俺だけじゃない。寂しいのは俺だけじゃない。みんな同じだ。俺はそのことを知っている。体験している。
俺は虚空を見上げる。
そもそも無一文だったのだ。ただ元に戻っただけだ。今からでは取り戻せないものもあるが、幾つかはまだ何とかなるかもしれない。その気にさえなれば。
この雨がやんだら新しい一歩を踏み出そう。そう決心する。
激しい雨が世界を叩く。
ぼんやりと、全てが滲んでくる。
この雨がやんだら、新しい人生を始める。
でも今はもう少しだけ、この電話ボックスの中にいたかった。無慈悲に降り注ぐ雨の中、世界の底に沈んでいたい。
俺はもう一度寄りかかると、両手をポケットの中に突っ込み、襟の内側に顎をうずめる。アクリル板に指で書いた四文字はすでにかなり薄くなっている。俺は少し微笑んだ。一切は空、虚無にすぎない。まさしく。
少し眠くなってきた。俺は目を閉じる。
雨はまだ降っている。
片理誠既刊
『エンドレス・ガーデン
ロジカル・ミステリー・ツアーへ君と』