(PDFバージョン:kisaraginokomonn_ootatadasi)
二月、晴れた日が数日続いた朝、頼乎(よりこ)の母は箪笥から畳紙(たとうがみ)に包まれた着物を取り出す。衣桁に掛けて虫干しをするためだった。
頼乎は、この日が好きだった。滅多に見られない着物を眼にすることができるからだ。虫干しは換気のために窓を開け放つのでとても寒いのだが、彼女は気にすることなく部屋に居座り、着物の前で長い時間を過ごす。
楝色(おうちいろ)の江戸小紋、と聞かされている。それがどういう意味なのか、頼乎は知らない。少し青みがかった紫色の布地は一見すると無地なのだが、眼を近付けてみると細かな波のような模様が描かれている。
「こんなに立派な着物があるのは、うちだけよ。これはあなたのお祖母さんのお祖母さんが遺してくれたものなの」
母はこの着物を衣桁に掛けながら由来を話してくれる。
「わたしたちが地球から離れなければならなくなったとき、お祖母さんのお祖母さんは制限された手荷物の中にこの着物を入れたの。そのまたお祖母さんから渡された大切なものだったから。遠い遠い旅をして、この星に辿り着いて、それから死ぬほど苦労をしてこの町を作った。代々わたしたちの家の女は、この着物を拠り所にして生き抜いてきたのよ。強い光に当たらないよう、湿気で弱ってしまわないよう、丁寧にお世話をしながらね。今こうして静かな暮らしができるようになったのも、みんなご先祖さまのおかげ。そして、この着物のおかげなの」
母は広げた着物の裾を頼乎に触らせる。さらさらとした手触りが心地いい。
「ねえ、キモノってどうやって着るの?」
頼乎が尋ねると、母は押入れの奥から古文書を取り出して見せた。そこには「この春の流行和装」と書かれている。
「本当は、この着物だけで着るのではないの。その下に肌着を着て襦袢を着て、そしてこの着物を着て帯を締めるの。でも、他のものはもうなくなってしまったのよ。だから母さんも着物は着たことがないわ」
古文書に載っている女性は、艶やかな藤色の着物を身に着けていた。頼乎の家の小紋とは違う、もっと大きくて派手な柄の着物だ。胸の下に更に派手な布を巻いている。
「わたし、キモノ、着てみたい」
頼乎は心の底から、そう言った。母は微笑むだけだった。
母が出ていった後も、頼乎は寒い部屋で着物を見つめていた。広がった裾、羽ばたくような袖、そして何よりも心に染み入るような色。どれだけ見ていても、見飽きなかった。
やがて、陽が傾きはじめる。部屋に西日が差し込んで、壁に歪な光の形を描いた。
その光が着物の裾にも届く。
「強い光に当たらないよう」という母の言葉を思い出した。光に当ててはいけない。頼乎は裾を陰に寄せた。
――いい子だね。
不意に声が聞こえた、ような気がした。頼乎はあたりを見回す。誰もいない。いるのは自分と、着物だけだ。
頼乎は着物を見上げた。彼女が動かしたせいで、布地に描かれた波模様が揺らいでいる。まるで本物の小波のようだった。
頼乎はその動きを見つめていた。寄せては返す波に、かすかに潮の匂いが感じられた。潮騒の音さえ聞こえてくるような気がする。
そっと、着物に頬を寄せた。眼を閉じると、誰かの背に寄り添っているような感覚に囚われる。
波音は消えない。静かに満ちてくる潮の響きが、ゆったりと体の芯まで染み込んでくる。
頼乎は小さく息を吐いた。
その背中を、とん、と叩かれる。
顔を上げると、見たこともない女のひとが立っていた。衣桁に掛けてあったはずの着物をきっちりと身に着けている。髪はまとめて結い上げ、唇には紅を差していた。品のいい、とてもきれいなひとだ。
「あなたは、どなた?」
尋ねかける頼乎に、女のひとは笑みを返した。
――頼乎ちゃんは、着物が好き?
「ええ、だいすき」
――着てみたい?
「着たい。着てもいいの?」
――これは大きすぎて無理ね。でも、あなたに合う着物もあるわ。ほら。
不意に体を包んでいる服の感触が変わった。見ると青い色の着物を身に纏っている。
「これは、何?」
――わたしと同じ小紋よ。
「この色、青?」
――薄縹(うすはなだ)。
「うすはなだ……この色も、好き」
――そう、よかった。じゃあ、行きましょうか。
女のひとが頼乎の手を取った。母と同じように温かい手だった。
西日が差すほうへ、彼女は歩きだす。
「だめよ。強い光に当てたらだめなの」
――大丈夫よ。この光は優しいの。
「ほんと?」
――ええ。だから、行きましょう。
女のひとの言葉に押されるように、頼乎も光に向かって踏み出した。
一瞬、眩さに視力を奪われる。が、すぐに世界が開けた。
一面が白かった。なだらかな勾配を持つ斜面が白く輝いている。
「これ、雪?」
――そうよ。この向こうに、あなたに見せたいものがあるの。
空は、何かを失ってしまったかのような青さを湛えていた。雪はそれほど深くもなく、頼乎がいつの間にか履いていた雪駄――そう呼ぶものだと、女のひとが教えてくれた――でもなんとか歩くことができた。
小高い丘を越えると、その向こうに枯木立が見えてきた。真っ直ぐに伸びた幹が空に突き刺さる棘のようだった。
「どこまで行くの?」
――あの木があるところまで。そこに、あなたに見せたいものがあるの。
少し怖かった。何を見せられるにせよ、それが自分にとって意味のあるものだとわかっていたからだ。見てしまったら、もう引き返せないような気がする。でも、だからこそ、恐怖以上に好奇心が募った。見てみたい。
先程まであんなに遠くにあった木立が、たちまちのうちに目の前に迫ってきた。葉をすべて落とした木々は、もう生きていないように見えた。
――みんな、生きているわ。
頼乎の心を読み取ったかのように、女のひとはいった。
――あなたを、待っているの。
踏み入れた木立の中は、先程より寒々しく思えた。木は一定の間隔で生えている。まるでそうするように教えられたかのようだった。
その木立が、不意に途絶えた。
ぽっかりと何もない雪原に出た。木々に丸く囲まれ、まるで劇場のようだった。雪は降り積もったまま、誰の足跡も付いていない。
――着いたわ。
「ここは、なに?」
――わたしたちが、最初に到着した場所。
「わたしたち?」
――長い長い旅をして、この星に辿り着いた。途中で多くの同胞が命を落としたの。わたしたちには使命があった。なんとしても生き延びて、再び大地を踏みしめ、生き抜くこと。それができたのは、ごくわずかの人間だけだった。
女のひとは言った。とても悲しそうな顔をしていた。
――この下に、わたしたちが乗ってきた船が埋まっているの。
「船? 海を渡ったの?」
――ええ、星の海を。ここに到着したわたしたちは、幸運だった。その幸運を力に変えて、星の大地を切り開いていった。何年も何十年も何百年もかけてね。そうしてやっと、日本にいた頃と同じような暮らしができるようになった。この星の、ごく限られた場所で。
頼乎には女のひとが言っていることは、あまりよくわからなかった。でも聞いておかなければならないということも理解できた。
――あなたは、知らなければならないわ。この先もこの星で人が生きていくために。これまでの歴史を。
「学校で教えてくれる?」
――言葉や文字で伝えられるものだけを信じては駄目。本当に大切なことは、自分で体験しなければ。ご覧なさい。
女のひとが、手を差し出した。と、それに応じるように木立が揺れ、騒めいた。まるで鳴いているように。
頼乎は怖くなって女のひとに縋った。
――大丈夫。しっかりと見て。
円い雪原の雪が、木立の声に共鳴して泡立った。白い波がいくつも生まれ、押し寄せてくる。
頼乎は雪の波に手をかざす。細かな振動が指に伝わってきた。
小紋の波と同じだ。
そう思った瞬間、体のバランスが崩れた。頼乎は雪に向かって前のめりに落ちていった。
「頼乎……起きて……」
声がした。
頼乎は眼を開ける。母の顔が目の前にあった。
「お母さん……」
体を起こそうとして、自分の体に何かが纏わりついているのに気付いた。
「このキモノ……」
小紋を羽織っていた。
「もう、これはいいわね」
母は優しく着物を脱がせる。
「……わたし、どうしてキモノを着てるの?」
「気にしなくてもいいわ」
母は言った。
「あなたにも、わかった?」
「……うん、わかった。このキモノはガイブキオクソウチなのね」
その言葉の意味を知らないまま、頼乎は口にした。
「おばあさんのおばあさんに教えてもらったの。キモノにはそのまたお祖母さんの頃からのキオクが、ずっと詰まってるのね」
「そうよ。わたしの、そしてあなたの記憶も、ここに留められるの」
母も着物を身に纏ってみせる。
「このキモノを着たことないって、お母さん嘘ついた」
「本当よ。あなたと同じように軽く羽織っただけ。それで充分だから。こうしてわたしたちの一年の記録が、刻まれていくの」
小紋の柄が、小さく波を打った。
「わたし、このキモノ、着たい」
頼乎は言った。
「おばあさんのおばあさんみたいに、ちゃんと着てみたい」
「いいわよ。でもそのためには、肌着や襦袢を用意しないと」
「わたし、作る。勉強して作る」
娘の強い言葉に、母は少し当惑の表情を見せ、やがて笑んだ。
「あなたの仕事が、決まったわね」
母は再び着物を衣桁に掛け直す。
「わたしの、仕事……」
頼乎は広げられた着物に眼を向けた。
小波が、その表を走りすぎていった。
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