「鼠の媚薬」太田忠司(画・YOUCHAN)

(PDFバージョン:nezuminobiyaku_ootatadasi

「西東君、“彼”は見つかったかね?」
 鶴間博士に問いかけられたとき、西東時夫は背筋に汗が流れるのを感じた。
「いえ……まだ……」
「そうか。ひょっとしたらもう研究室から逃げてしまったかもしれないね」
 博士は眉間に皺を寄せた。機嫌はよくないようだ。
「もう一度確認しておくが、おかしなウイルスに感染していたとか、そういう危険性はないのだね?」
「はい、それは問題ありません」
「ならば、致し方ないな。サンプルは他にもいるんだし、実験は一からやり直しするしかないだろう」
「すみません……」
「以後、気を付けてくれよ」
 博士が出ていった後、時夫は大きな息をついた。
 とりあえず取り繕うことはできた。しかし、いつまでもこのままにはしておけなかった。
 部屋の隅、薬品棚の後ろを覗き込み、声をかけた。
「おいアル、いるか」
 呼びかけに応じて、白く小さな生き物が顔を出した。
「うまくごまかしてくれたか」
 尖った鼻をひくひくさせながら、そいつは言った。時夫は頷く。
「ああ。だけど、これからどうするんだ?」
「決まってるだろ。逃げるんだよ。ここにいたら頭を開かれて脳味噌に針を刺されて電流を流されるんだ。そんな目には遭いたくない」
「それは困る。君は貴重なサンプルなんだ。君のことはもっと調べなければ――」
「サンプルだと!? オレのことをただの鼠扱いする気か!」
 アルは赤い眼に怒りを滲ませ、吠える。
「オレはおまえたち人間なんかより、ずっと高等な生き物だぞ。知性では遥かに凌駕しているんだ。それをサンプルとは、なんという侮辱だ!」
「わかったわかった。そんなに怒らないでくれ」
 時夫は必死にアルを宥めた。
「でも君がどうして急に、そんな知性を持つようになったのか、どうしても知りたいんだ」
「そんなことはオレは知らんよ。生まれつき、こうだったんだからな。この研究所で飼われている間に人間の言葉を覚え、おまえたちがやろうとしている研究内容についても理解した。“来るべき災厄”というやつに備えているんだろ?」
「ああそうだ。急激な少子化による人類絶滅の危機は目前に迫っている。それを防ぐために鼠――いや、君たち種族の研究は欠かせないんだ」
「ただでさえお粗末な君たち人間の生殖能力が格段に低下し、子供が産まれなくなっている。それに比べて我々は相変わらず旺盛だ。その違いを知りたいのだな」
「そのとおりだよ。もちろん社会学的見地からの研究も進められているし、自然科学の分野でも化学物理学天文学といった学問が総出でこの問題に取り組んでいる。でもやっぱり僕たち生物学を学ぶ者たちこそが一番真剣に研究をしているんだ。このままでは三十年以内に人類という種の絶滅は決定的になってしまう。だから――」
「おまえたちの都合なんか、どうでもいい」
 アルは時夫の言葉を遮った。
「正直なところ、人類が滅びようとどうしようと、オレの知ったことじゃない。霊長類だとか何とか自分たちのことを大層に持ち上げて、他の生物は食料か家畜か愛玩物か敵としか思っていない傲慢な畜生なんぞ、いなくなってくれたほうが清々する。そんな奴らのために自分の命を犠牲にする義理もないしな」
「そんなこと言わないでくれ。人語を解する君は、人類と鼠の相互理解のための重要な掛け橋なんだよ。君が研究に協力してくれたら、もしかしたら人類絶滅を回避するための方策が見つかるかもしれない」
「ほう、おまえはそんな高邁な目的意識をもってこの研究室に来ていたのか」
 アルは茶化すような口振りで、
「そのわりには、おまえの関心は研究ではなく、隣に座っている雌に寄せられていたようだがな」
「そ、それは……」
 時夫はうろたえた。
「それは、君が『オレを逃がしてくれたら、あの雌と仲良くできる方法を教えてやる』って……」
「ああ、約束だ。教えてやるとも。オレはおまえとおなじように、あの雌のことも観察してきた。どうやったらあいつの好意を得ることができるか、誰よりもよく知っているからな」
「本当だろうね? 香苗さんのこと、本当に知ってるんだろうね?」
「あの雌がオレのことをどう扱っているか、見ていただろう。あれは実験動物に接する態度ではない。あきらかにオレに好意を持っている。オレに『アル』なんて名前を付けたところからして、他の鼠とは扱いが違うだろうが」
「そうだな。彼女は君のことをとりわけ大切に扱っている。それが前から不思議だった」
「それだけオレに魅力があるからだよ。その魅力をおまえにも少し分け与えてやろうというんだ。悪い話ではあるまい?」
「……ああ」
 時夫は頷いた。香苗さんに好意を持ってもらえるなら、サンプルの鼠を一匹逃がして怒られるくらい、どうということもない。
「それで、どうしたらいい? どうしたら香苗さんに好いてもらえる?」
「簡単だよ。オレが密かに開発した薬を使えばいいのさ」
「薬?」
「おまえたちが見てない夜中に、こっそりケージを抜け出して薬品を失敬してな、こさえておいたのさ。そいつをあの雌に振りかけたら、たちまちのうちにあいつはオレの虜になったというわけだ」
「それって、つまり媚薬?」
「そう言ってもいいだろう。作ったのは少量だが、かなりの効き目だ。その薬の残りをおまえにやろう。自由に使え」
「本当に、その薬を使えば香苗さんに好かれるのか」
「疑り深い奴だな。信用できないなら勝手にしろ。オレは知らん」
「ご、ごめん。頼むから、その薬をくれないか」
 時夫はアルに頭を下げた。
「よかろう。俺のケージの隅を探してみろ。液体の入ったスポイトが隠してある。それをあの雌の眼に差せ。たちまちのうちにおまえが世界で一番魅力的な雄に見えてくるはずだ」
「それだけで、香苗さんは僕を好いてくれるのか」
「しつこい奴だ。保障してやるよ。おまえは必ず成功する」
 アルは口の端を歪めて笑った。
「その後、あの雌をどうしようと、おまえの勝手だ」

 所長室に呼び出され鶴間博士は、文字どおり苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
「事態の収拾は?」
 所長に問われ、博士は一言、
「終わりました」
「うちの研究室で、こんな破廉恥なことが起きるとは心外ですな」
「仰るとおりです。残念でなりません」
「今一度、経緯を話してください。西東時夫は何をしたのです?」
「同僚の津田香苗研究員に襲いかかったのです」
「突然ですか」
「用事があるからと津田研究員を薬品庫に呼び出し、持っていたスポイトの液体を彼女の顔に掛けました。津田研究員が怯んだところに襲いかかったのです」
「津田君に怪我は?」
「幸い無事でした。彼女が悲鳴をあげたので、近くにいた他の研究員が薬品庫に駆けつけ、西東を取り押さえました」
「西東君は、何と?」
「それが……『彼女は今、僕に惚れているはずなんだ』と意味不明のことを喚き散らしているばかりで、要領を得ないのです
「西東君と津田君の間に、そのような関係があったのですか」
「津田研究員に訊いたところ、一切ないとのことでした。ただ、これまでも執拗な視線で見つめられたり、ふたりきりになろうとしたり、西東時夫が不審な行動をすることが多かったので不安には思っていたそうですが」
「では、今回のことは西東君の一方的な思い込みというわけですね。ところで、彼が津田君にかけた液体というのは?」
「西東は『アルにもらった媚薬だ』と言っているのですが」
「アル?」
「彼が逃がした実験用のラットです。津田君が名前を付けていました」
「液体の中身は?」
「危険がないかどうか確認するため、すぐに分析しました。中身は……ラットの尿でした」
「それは……」
「西東は精神的に変調を来していたとしか思えません。ラットを逃がしたというのも、津田研究員が大切にしていたので嫉妬して逃がしたか、あるいは殺したのではないかと」
「今後の処分は、どうしましょうかね?」
「警察沙汰にはしたくないと津田研究員も言っています。西東には即免職処分を言い渡しました」
「そうですか。惜しい人材でしたがね。これで我々の研究も、一時頓挫してしまうかもしれません」
「いえ、大丈夫です。彼の抜けた穴は残った者で埋め合わせられます」
 博士は断言した。
「我々の研究は全世界が成果を待ち望んでいるものです。停滞はさせません」

「停滞はさせません、か」
 ふたりの会話を部屋の隅で聞いていたアルは、口を歪めて笑った。
「ま、せいぜい頑張りなよ、人類さん」
 ドアを擦り抜け、研究室へと向かう。
 そこには女性がひとりだけ残っていた。
 女性は帰ってきたアルに微笑みかけた。
「俺の言うとおり、うまくいっただろ?」
「おかげで厄介者を放り出せたわ」
「しかし、そんなにあの雄が嫌いだったのかい?」
「ええ、あいつのせいで、わたしの研究が後れをとったの。あいつさえいなければ、主任研究員の地位はわたしのものなのよ」
「出世欲に駆られた人間は、怖いね」
「何とでも言って。わたしとあなたは、一蓮托生よ」
 女性――津田香苗はアルを掌に乗せた。
「それにしても、あなたって素敵。鼠にしておくのがもったいないくらいね」
「そりゃ、あんたがオレに惚れてるからさ」
 アルは鼻をひくひくさせた。
「俺の媚薬は効果満点なんだぜ、俺のフェロモンたっぷりでさ。つまりオレにしか惚れないってわけ」
「何のことだか……でもいいわ」
 香苗はアルに頬ずりした。
「あなたが最高よ、アル」

太田忠司プロフィール
YOUCHANプロフィール


太田忠司既刊(競作)
『ショートショート美術館
名作絵画の光と闇』