「椿」飯野文彦

(PDFバージョン:tubaki_iinofumihiko
「まア、いやだわ、真ッ紅なのね……」
「そんなこと知らないわ。赤いんだって白いんだって、散る時が来れア散るでしょうさ。真ッ紅ならどうだって言うのよ」

里見弴「椿」より

 柱時計が、ボンと鳴った。ボリュームを絞って流していたラジオが、放送の終わりを告げる。ふだんは明け方までつづく放送も、日曜の深夜はもうない。
 スイッチを切った。辺りの家々はすでに寝しずまったか、澄ました耳に靴音ひとつ響いてこない。

 六畳の和室に並べて敷いた布団の片方で、うつ伏せになりながら、奈緒美は手にしたポラロイド写真を見つめた。左側に敷いた、もう一つの布団は、無人のままだ。
 叔母が帰ってこない一人の家で、じっとしていられず、厭な胸騒ぎを感じながら、家捜しした。結果、新たに鏡台の引き出しの奥に隠してあるのを見つけた、一枚のポラロイド写真だった。
 十月になったとはいえ、夢中で探しまわったため、汗を掻き、一時間ちょっと前、ガス風呂を沸かし直したほどである。

 新し物好きの叔母は、発売されたばかりのポラロイドカメラを買って、子供のようにはしゃいでいた。
 ――エスエックス70って言って、オートフォーカスもついてるのよ。これで奈緒美ちゃんの成人式、いっぱい、撮ってあげるから。短大の卒業式だって。それに……。
 それに? 何を撮ってくれるの?
 奈緒美の問いに、叔母は曖昧に笑っていたものだ。それなのに。
「汚らわしい」
 力任せにポラロイド写真を破る。細かな紙片となっても止めない。

 ふいに玄関の鍵が開く音がした。
 足音を忍ばせて、歩いてきたのだ。そうでなければ、辺りの静けさの中、もっと早く気づいていたはずだ。玄関を開ける音だって、これほど神経が張りつめていなければ気づかないほど、遠慮がちである。
 奈緒美は掛け布団をはねのけて、玄関へ走った。奈緒美を見て、一瞬、表情を固くした叔母だったが、すぐに唇をほころばせる。
「まだ起きてたの」
「寝られるはずないでしょ。こんなに遅くなるなんて、何も言わなかったし、電話ひとつくれないんだから」
 奈緒美は裸足のまま三和土に飛び降り、叔母に抱きついた。
「どうしたの?」
「いじわる」
「汗臭いわよ。お湯は残ってる?」
 叔母の胸もとから、汗臭いどころか、石鹸の匂いがした。
「残ってるけど」
 やっぱり、あの男と……。
 叔母はAという男と付き合っている。叔母の勤める理髪店に客としてやってきて、知り合ったという。
 奈緒美も、何度か、会ったことがある。

 叔母を追って、奈緒美も浴室へ向かった。脱衣場で、寝間着と下着を荒々しく脱ぎ捨てて、浴室の扉を開ける。
 全裸の叔母は、流し場のタイルに片膝をつくかっこうで、洗面器にすくったお湯を、肩からかけている。奈緒美は背後から抱きつき、叔母の背中に頬をすり寄せた。自然と啜り泣きがこぼれる。
「見たんでしょ?」
 叔母がつぶやいた。
「何を?」
「写真」

 奈緒美のこころに、一枚のポラロイド写真が思い浮かぶ。
 先ほど破ったものではない。数日前、叔母の留守中に叔母の部屋を掃除をしたとき、床に一枚のポラロイド写真が落ちていた。裸で抱き合う男女が写っていた。男の顔は写っていなかったけれど、女は間違いなく叔母だった。
 その後、奈緒美は掃除もそこそこ、家捜しをはじめた。
 叔母が使っている戸棚の奥に、ポラロイド写真の束が隠してあった。男の顔が写っているものもあった。まちがいなくAだった。
 すべての写真を、奈緒美は破き、捨ててしまった。

「あんな汚らわしい」
「戸棚にしまっておいたのまで、捨てなくてもいいじゃない」
「いやいやいや。あんなもの、ここに置いてあるだけで、汚らわしいもの」
 奈緒美は叔母の前に回り、抱きつき、口づけした。舌をむさぼり、タイルの上で転げ回り、奈緒美の手が、叔母の股間に触れた。
「剃らせて」
 奈緒美は上半身を起こした。
「だめよ、もう」
「いいえ、剃るわ」
 前みたいに、二人だけの秘密をもちたい。そうすればAとは、少しの間かもしれないけれども、それでもしばらくは、叔母を取り戻せる。
 奈緒美は、洗面器にお湯を入れ、石鹸と剃刀に手を伸ばす。家庭用ではなく、叔母が職場で使っている理容師用の、大型の剃刀だった。
「それなら、先に、あなたのを剃らせて」
 叔母は、奈緒美の手から、剃刀を奪った。
「そんな」
「いやなの?」
「いや、じゃないけど」
「高校の、二つ先輩だったんですって」
「日記を見たのね。ひどい、プライバシーの侵害よ」
「あなただって、勝手に人の部屋をさぐるくせに」
「それ、と、これ、とは……」
 叔母は、言葉を止めた奈緒美を、あざ笑うに似た口ぶりで、
「わからなかった? わざと落としておいた写真に写っている男が、誰だか」
「まさか――」
 てっきりAとばかり思っていた。しかし、言われてみれば、肌に張りがあった。
 Aよりずっと若く、締まった胸と腹の筋肉が、奈緒美のなかで、微妙にからみあう。
「大学を卒業したら、あなたと結婚するつもりだって。そのくせ、ちょっと誘惑したら、あの始末」
「ひどい」
「それでも結婚するつもり?」
「そんな気、はじめからなかったわ」
「うそ。こうするのだって、久しぶり」
 叔母は、奈緒美の股間に石鹸を泡立て、剃刀を動かす。硬い音が浴室の中に響いた。

「あたし、一生結婚なんてしません。ずっとおば様と」
「わたしだって、あなたのことは好き。でも、わたしはAさんといっしょになる。今日、プロポーズされたの」
 やっぱり。
「あたしより、Aさんのほうがいいの?」
 叔母は答えない。
「それなら、あたしもいっしょに住みます」
「彼も、同じことを言った。『あの子もいっしょに暮らせばいい』って」
「それならいっしょに……」
「だめよ」叔母は、語調を鋭く、尖らせる。「あなた、若いし、きれいだから」
「あたし、あの人、嫌いです。あんないいかげんな……」
「やっぱり」
 しまった。日記にはぼかして書いておいたが、勘づかれたのか。まさかAが、言うはずもないだろうが。
「いっしょにいたら、またくりかえすに決まってる。だから――」
 痛みより、違和感?
 奈緒美は自分の股間を見た。タイルに赤く流れるものが。生理は、まだなはずだ。
「叔母さん!」
 叔母は身体を起こし、奈緒美の首へ剃刀を当てた。その顔は般若の面をつけているのか。

 唸りとも悲鳴ともつかない。喉を鳴らしながら、叔母は剃刀を深く深く、何度も何度も動かす。両眼から、大粒の涙がこぼれている。
「好きだったのよ。ずっと……ずっと……」
 切り取った肉片を口に運び、愛おしさと憎しみを渦巻かせながら咀嚼する。
「でも――」
 瞳に剃刀に負けない光が宿る。さらに手を動かしつづけ、やがて。
 バサッ。
 椿の大輪が一つ、ぽっくりと散った。

(了)

飯野文彦プロフィール


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『飯野文彦劇場
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