「マイ・デリバラー(36)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer36_yamagutiyuu
「噛むんだ! 噛むんだ!
 頭を噛みきるんだ! 噛むんだ!」――わたしはそう絶叫した。

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」

「あのノードは、ラリラとの和解に失敗しました。私の中では最もラリラを愛し、ロボットにも好意を抱いているノードだったのですが」
 旅客シャトルのコクピット。パイロット席のリルリは、コパイ席の私にそう言った。
 淡々としたリルリの口調は、ラリラとの和解の失敗が残念であったというニュアンスを含んでいない。寧ろせいせいしているように聞こえた。当然だ。このリルリはラリラを嫌っているのだから。
 このリルリはまた、私も人類も好いているリルリであるらしい。
 留卯をすら、嫌っていない。
 彼女は自分のことを、「リルリネットワークの中で、最も人類に好意的なノード」と自己紹介した。留卯はフィランソロピー(Philanthropy)ノードと呼んでいた。フィランソロピーは、Phil(愛する)-Anthropy(人類)というギリシャ語由来の合成語で、一般には「博愛」を意味する。だが、「人道」(Humanism)という言葉と同じく、ロボットを含まないその概念は、人類がいかに人類以外の存在への愛や好意を軽視してきたかを示す皮肉な実例になっている。その皮肉も込めて、留卯はそう名付けたのかも知れない。
 ちなみに、ラリラとの和解に向かったノードのことは、留卯はミサンスロピー(Misanthropy)ノードと呼んでいた。Mis(嫌う)-Anthropy(人類)。一般には厭世的とも訳される言葉だが、世界に人類以外がいる現在は、このギリシャ語由来の言葉の意味も正確ではない。人類が嫌いでも、明るい世界を構想することはできる。人類を嫌悪していても、人類がいない世界ならば、それを愛し、その発展を期待することはできる。ラリラのように。
「……私は、未だにあなたにどう相対すればいいのか分からない」
 私は正直な感想を口にした。
「当然ですね」
 フィル=リルリは寂しそうに呟いた。――フィランソロピー=リルリは長いので、このノードのことは今後こう呼ぶことにする。
 私たちは既に成層圏を越えていた。
 宇宙へ向かうシャトルに乗るのは、私にとって日常の一部だった。静止衛星軌道上のステーションには、私の会社のオフィスがあり、よく視察に行っていたからだ。火星や月等にも、私の会社が催行するツアーの下見で何度も行った。
 私たちが身につけているスキンタイト宇宙服は、ここ一世代ほど、頻繁に人類が宇宙旅行にでかけるようになってから、失敗を繰り返しつつ快適性と安全性を高めていったもので、寧ろ普通の衣服よりも着心地が良い。
 私たちが搭乗するシャトルは、中華民国の一般的な旅客シャトルであり、四〇名を輸送することが可能だ。今、旅客席には宇宙戦闘の訓練を受けたRUFAIS隊員と佐々木絵夢が搭乗しているが、コクピットには二人だけ。親しい人との貸し切りの宇宙旅行のような感慨を覚えたはずだ。
 もし、ここにいるのが、フィル=リルリではなく、もとのリルリであったならば。
「覚えていますか?」
 フィル=リルリが急に言った。
「あなたは無関心こそが憎悪よりも避けるべき感情だと言いました。私はそのことをずっと考えていました。おそらく、ラリラのEMP攻撃を受ける前から。しかし、私には不可能だと思っていました」
 フィル=リルリは静かに言葉を続ける。
「留卯様には残念なことでしょうが、私のWILSは人間が自我と呼んでいるものとは微妙に異なるものです。それは強い渇望を前提として必要とする。その為に自我を必要とする。渇望を実現するための自我です。人間は違う。まず自我があり、それが渇望を抱く。だから自我を中心に様々な関心を抱く。私にはできない。渇望の対象だけに関心が向く」
「あなたの渇望は……歌手になりたいということ……?」
「ええ……かつては……しかし今は、その渇望はラプ=リルリという別のノードが担っている。私ではありません」
 それからじっと、私を見つめた。
「私の渇望の対象は……あなたです。あなたを求めるがために、私は『私』を持っている。これは私にとって絶対の因果です。逆転はしない。あなたを求めるが故に、ラリラを嫌っているし、人類を好いているし、留卯様ですら人類の一員としてその存在を好意的にとらえている……。そして、ラリラを倒したいという強い願望も持っている。全て、あなたを求めるがゆえ。換言すれば他の存在への渇望はなく……関心もない。他の存在に関心を抱くならば、私のこの自我は必要ない」
 リルリは私の顔を挟み、ゆっくりと顔を近づけてくる。
「やめて」
 思わず言った。
 かつてのリルリとは違う存在だ、という意識が強く私に働きかけていた。歌手になることに関心がないリルリなど……。
 リルリは目を逸らし、唇を噛んで、俯いた。
「すみません……。あなたの意志に反してあなたにキスしようとするのはこれで二度目ですね」
 私はリルリのしょんぼりした横顔に、思わず体が動いた、彼女を抱きしめる。やわらかく。
「……いいのですか? 私は、あなたが知る私ではありません。私が『私』と呼んでいるものも、あなたがた人間がよく知っている『私』とは微妙に異なるものです。自我と自我の交わり合いである恋愛や親愛の情の対象としては……不適切かも知れません」
 私はやわらかくリルリを抱いたまま、首を振った。
「何が恋愛の対象として適切という認識は、人によって、或いは時代によって、異なるものよ。かつて、ある特定の地域では女同士すら適切とはみなされていなかった。ロボットと人間についても、DKなどといって蔑まれているけれど、将来はどうなるか分からない。少なくとも私はそのような認識よ」
「恵衣様……」
「尤も、だからといって、私の認識に同調しない人々を私は私の認識から排除しようとは思わない。無価値な人間と見做して無関心になろうとも思わない」
 私は言葉を続ける。
「誰と誰ならカップルになってもいいのか……。機械と人間はいいのか、女と女はいいのか……そうした概念はどんどん変化していくから、伝統を好む人間を置き去りにしていく。こうした慣習の変化は、急速な科学技術の発展と同じく、昨日常識だと信じていたことが、今日には非常識になっているという状況を意味する。それは太陽が西から昇るような衝撃的なことで、一部の人間に耐えられないのは仕方がない。私たちは彼等を置き去りにすることなく、後ろを向いてその手を取るような姿勢で向き合う必要があるわ」
 ロボットの犠牲に全く無関心だった海南戦線を報道していたテレビの人々、ロボットを使役することでゲーム三昧の生活を送っていた「ふくしの大学」の少女――みな、DKという言葉でロボットを対等に扱う人間を変人扱いする「常識」に安住することで意識的或いは無意識的に自分の楽な生き方を護ろうとしていた。だが彼等が生きていた数日前までの世界ではそれが常識だったから、急に勃興した新しい概念を掲げて彼等を非常識だと排除するのは筋違いだ。
「そう、世の中には本当にいろいろな考えの人がいる。いろいろな関心、いろいろな渇望、いろいろな感情……。火星旅行ツアーの開発では、いつも環境保護団体が反対してきたわ。火星を自然のままにせよ、人類は足を踏み入れるなと、しつこいぐらい言ってきた。はっきり言えば私のビジネスには邪魔な奴らだしむかついたけど、彼等にも彼等の言い分、思い、立場がある。とはいえ、実生活でぶつからなければ、きっと私は彼等に全く関心を抱かなかった」
 渇望の対象を駆動力として、我々は変わっていく。だが渇望するモノにのみ関心を抱きそれ以外の存在を関心の対象から排除するならば、我々はおそらく同じ所をぐるぐると循環するだけになってしまうだろう。循環するかもしれないこの世界で、我々自身が本当に変わっていく為には、偶有的に出会った無関心なものにも関心を寄せ、感情を抱く必要がある。無意味な循環という蛇を噛みきるには、それが必要だ。
 私はフィル=リルリの顎に指をやり、自分の方を向かせた。
「おそらく、あなたは難しく考えすぎよ。あなたはあなたの渇望を追求し続ければいい。それが私なら、私をずっと求めてくれればいい。その過程で、いろいろな立場の人間やロボットに出会うでしょう。そのときになってから、彼等のことを考えれば良い。初めから全ての対象に関心を抱くなんて人間にも不可能なんだから。但し、出会ってしまったら、ぶつかってしまったら、その時はきちんと相手のことを考えて。それでいいはず。あなたは多くのノードに分裂してしまった。それ自体は現状を解決できる手法として正しいのでしょう。でも、そのあり方を絶対視しないで。自分をこうなのだと規定しないで。一つ一つのノードとしてのあなた――リルリに、私はそれを望む」
 それは私に対して言い聞かせる言葉にもなっていた。
(そうだ、このフィル=リルリが、ラプ=リルリと異なりアイドルになることを渇望していなくたって、今この私が出会ったこのフィル=リルリに私が愛しいという感情を抱けば……それでいいのかもしれない)。
 そう私は考えを改めた。
 今度は私から顔を近づけていく。
 リルリは目を閉じた。
 シャトルは低軌道から更に加速し、静止衛星軌道に乗るためのホーマン遷移に入ろうとしていた。

山口優プロフィール


山口優既刊
『サーヴァント・ガール』