「後継者たち」伊野隆之

(PDFバージョン:koukeishatati_inotakayuki
 朝、目が覚めると、久しぶりに自分の体を実感する。今回は三ヶ月近くになる。僕のようなシェアボディの数は限られているから、どうしても退屈な待機期間は長くなる。ベッドの中で寝ている間にこわばった体をほぐしている今の僕は、自分の体をアップロードたちに貸し出している傍観者ではなかった。
 ベッドから起きるとシャワールームに向かって歩き始める。歩行の際の平衡感覚は、体が覚えている。久しぶりでも戸惑うことはない。フローリングの床の感触を足の裏で感じながら、今日こそは上手くいくだろうかと考えている。
 まだ朝七時だ。冷たいシャワーを浴びると頭がはっきりする。アップロードたちは、僕の体を丁寧に使っているから、体調はいい。アップロードたちに貸し出された僕の体は、いつもいいものを食べ、適度な運動をしている。一日の摂取カロリーとカロリー消費のバランスの維持が僕の体を使う際の条件になっているから、おいしいものを食べる経験をするためには、ちゃんと運動をさせるよりない。もちろん、無理をさせることも禁止しているから、疲れが残るようなこともない。適度な食事に適度な運動、必要なケアを欠かすこともないから、僕の体は至って健康なのだった。
 髪を乾かしていると、僕が起きたことに気がついたのか、シェリーがすり寄ってくる。茶色の短毛で、ミックス。放棄された市街地で拾ってきたやせっぽちの子猫は、この家に住んでいる八年の間にでっぷりと太った立派な雌猫になっていた。
「そろそろダイエットだよな」
 アップロードに体のコントロールを明け渡し、傍観者でいるときは、自分の体が発する声が遠くで聞こえていたものだ。久しぶりに自分で発した声は、骨伝導のせいか、耳元で怒鳴っているようにも聞こえる。ただ、これも慣れの問題で、しばらくすると気にならなくなる。今までに何度となく経験したことだった。
「さあ、今日はどうかな」
 ずっしりと重いシェリーを抱き上げた僕は、そのままモニターゾーンに行く。
「シェリーと一緒。シェリーは何キロ?」
 そう、声を掛けるとホームセクレタリーが答えた。
「シェリーは今、九.二キロです」
 思った通り、また重くなっている。アップロードたちに甘やかされ、シェリーは食べたい放題だった。シェリーに気に入られようと、僕の体を使うアップロードは、シェリーにねだられるとすぐに餌をあげる。猫に触る経験は、おいしい食事と同様に、アップロードたちには貴重な経験なのだそうだ。ただ、食べさせすぎはよくないから、そろそろシェリーの健康のために新しいルールを作った方がいいのかもしれない。
「今日は、ご飯は止すか?」
 さすがに九キロを越えるとなると抱っこは疲れる。床に降ろされたからか、それとも僕が言ったことがわかったのか、足下のシェリーは不満そうに一声鳴いた。
「ちょっと待ってて。今、用意するから」
 ホームセクレタリーに指示すれば、大抵のものは手に入る。僕の朝食だけではなく、シェリーのための低カロリーのフードだって簡単に準備できる。アップロードたちが準備したサンクチュアリにある家は、僕の体だけではなく、飼い猫のシェリーにとっても快適な場所だった。
 ホームサービターが朝食を準備しているダイニングキッチンに向かう僕の後を、おなかを空かせたシェリーがついてくる。中に誰がいようと関係なく、シェリーはご飯をくれる人には忠実だ。
 朝食は豆のスープにふわふわのチーズオムレツ、焼きたてのクロワッサンとフルーツサラダに、香りの高いコーヒーが添えられていた。たっぷりとバターを使ったクロワッサンはサクサクで、甘いジャムを乗せると完全にカロリーオーバーだったが、僕の体を貸し出すときのルールに僕自身は縛られない。僕自身にとって、食後の運動は必ずしも必須ではなかったし、たった一日で大きな違いが出るものでもない。僕の体の健康は、僕の体を使うアップロードたちに任せておけばいい。
 シェリーはテーブルの下で培養肉のフードを食べていた。今日はローファットのチキンミートだったが、不満そうなそぶりはない。まともな食事を食べられるのはサンクチュアリの中にいる猫だけで、外の猫はいつだって飢えているのだから当然のことだ。
「ドライフードを準備して。それから、外に出かける準備を」
 朝食を食べ終えた僕は、そうホームセクレタリーに指示した。サンクチュアリから出るのは予定通り。サンクチュアリの外は、十分監視の目が行き届いておらず、必ずしも安全ではない。だから、僕の体を使うアップロードたちには外に出る事を認めていなかったが、僕は違う。ほとんどの時間をアップロードたちに貸し出してはいても、僕は僕の体の所有者なのだ。
「ガーディアンは九時にスタンバイ完了とのことです」
 ホームセクレタリーの言葉に、僕は少しげんなりする。アップロードたちにとって僕の体は貴重だ。だから、サンクチュアリの外に出ることは許しても、危険にさらされることは看過しない。ガーディアンはお節介なお目付け役だった。
 シェリーは空になった皿を名残惜しそうに舐めていた。僕はシェリーの背中をそっと撫でる。柔らかな手触り。この感触は、現実でしか味わえないものらしい。それが、アップロードたちが僕の体を使いたがる理由の一つになっている。

 九月戦争のきっかけは、太陽フレアだった。どこかの破綻国家の独裁者が先制攻撃と勘違いし、報復と称して核ミサイルを発射した。
 事態は、想定されていたほど深刻なことにはならなかったという。発射されたミサイルのエンジンの信頼性に問題があり、半数はまともに飛ばなかったし、フレアによって誘導装置に問題を生じたため、発射されたミサイルもほとんどが海に落ちた。結果的に犠牲者の数は少なかった。電撃的に投入された地上部隊が短時間で事態を掌握し、もともと精鋭部隊とはとてもいえない軍隊は、簡単に無力化され、九月戦争は三日とたたずに終結した。
 それだけなら世界が少しだけ平和になっておしまいだったろう。けれど、後に続いた大量の難民流出は、気象災害の頻発で疲弊しきった世界経済に致命的なダメージを与えた。
 直後の世界恐慌による自殺者は九月戦争の死者より遙かに多かった。ただ、自殺者の多くは、単に死を選んだのではなく、同時にアップロードを選んでいた。
 アップロードは、体を捨てて意識だけの存在になると思えばいい。体を失う替わりに、肉体的苦痛や病気、死からも解放され、情報空間での自由を手に入れることができる。言ってみれば第二の生のようなものだった。
 九月戦争以前のアップロード数は、死を間近にした老人や難病に苦しんできた人を中心に年間数千人規模だった。それが、九月戦争を契機に急増し、一気に月に数万人の規模になったという。
 それ以降もアップロードの数は雪だるま式に増え続ける一方だった。現実の世界では、紛争や災害が頻発し、優秀な人材をアップロードによって失った人類社会は、恐慌から立ち直る力を失っていた。
 サンクチュアリに来て、僕が聞いたのはそんな話だった。今ではアップロードの数は地球の全人口よりも遙かに多くなっている。

 僕が住んでいるサンクチュアリは、もっとも高いところで八百メートルに達するつぶれた半球状のドームに覆われていた。中の気温は快適に保たれ、汚染された外の空気も入ってこないそこは、言ってみればアップロードたちが現実の世界に確保した領土のようなものだった。
 仮想現実によるシミュレートは現実の劣化コピーのようなものだと、僕の体をよく使うアップロードの一人から聞いたことがある。多分、体を貸し出し、傍観者になっているときの感覚に近いのだろう。一方で、仮想現実の世界には目を見張るような広大な自然環境があり、重力を無視した巨大な階層都市があり、世界的な歴史遺産やドラゴンが飛ぶ世界もあるという。アップロードたちは、情報処理能力を共通基盤とした経済圏を作り上げ、その中で多様な世界を満喫しているらしい。でも、彼らの現実の解像度は、現実の解像度には及ばない。だからこそ、僕のようなサービスに需要があると言うのだ。
 シェアボディである僕の意識は、僕の脳に縛られている。後頭部にアップロードを収納するためのインプラントが埋め込んであっても僕は自分の体を離れられない。だから、彼らの世界の様子をリアルに体感する事はできないのだった。
 シェリーはお気に入りのベッドの中で丸くなっていた。アップロードの世界には、本物の猫は存在しない。シミュレートされた猫はいても、個性に乏しく、微妙な意志疎通も感じられない。だからアップロードたちは僕の体を使い、シェリーに会いにやってくる。ご飯をあげ、背中を撫で、ごろごろと喉を鳴らす音を聞く。しっとりした肉球に触れ、体を足にこすり付ける様子にうっとりする。それはアップロードの世界では経験できないと彼らは言う。
 僕は、ホームサービターが準備したドライフードの半分をシェリーの皿に入れ、残りの入った袋を紙の皿と一緒にザックに放り込んだ。大食漢のシェリーは、僕が戻る前に、きっと自分の皿を空にしているだろう。
 僕の家からサンクチュアリを囲むドームの基部までは、およそ五キロの距離があった。サンクチュアリの内側は広大な公園のようなところで、外では滅多に見られない手入れの行き届いた木々がある。こぎれいな家が点在し、稼動しているサービターが見えることもあったが、人の姿はまず見かけない。そもそも人の数自体が少ないのだ。
 サンクチュアリ内部の移動手段は自転車だった。サンクチュアリはさほど広くなく、アップダウンもほとんどない。移動手段として自転車は最適だった。
 ドームの基部は高さ十メートルの壁になっており、その上を透明なドームが覆っている。僕が自転車を乗り付けたのは北ゲートで、サンクチュアリを管理するサービターが待っていた。身長は一.五メートルほど。可動性の四角い台座の上に、プラスチックの白いボディが乗っている。
「お待ちしておりました。車とガーディアンの準備はできております」
 時刻は九時前だった。僕は、ゲートの中でスタンバイしている防弾仕様の車に乗り込む。
 車はフル充電だった。ゲートを出るのと同時に、リアビューにガーディアンが飛び立つのが見える。本当は邪魔だけど仕方がない。それだけ僕の体は貴重なのだ。
 放棄された市街地まではサンクチュアリから三十キロほど。途中の道路の整備は行き届いていなかった。ひび割れた路面から生えた木は大きく枝を広げ、蔓植物が道路を覆っている。僕の乗る車は、そこここにあいている大きな穴をオートドライブで器用に避けながら市街地に向かっていた。その上空を、低空で飛行するガーディアンがついてくる。
 四車線の道で、すれ違う車はなかった。人を乗せる車で、まともに動くものはサンクチュアリに残っているものだけだろう。アップロードが増え、その一方で現実の世界は荒廃の度を深めている。インフラの劣化は放置され、災害被害の復旧は手つかずだ。水や電力は供給されていないし、感染症が蔓延し、医療も提供されていないから、死亡率も高い。流通網も崩壊し、食料生産は激減しているから、数少ない生き残りの人々はいつも飢えている。アップロードが管理する自動化農場からの支援はあったが、社会を立て直すには至らない。それがサンクチュアリの外の世界だった。
 僕が目指しているのはシェリーを拾った場所だった。市街地に入り、目的のビルが見えたところで、僕は車を止める。
「最大高度で待機」
 そう、ガーディアンに指示した。差し迫った危険がない限り、僕の命令をガーディアンは無視できない。四つのローターの回転数を上げ、ガーディアンはゆっくりと上昇していく。飛行高度は百メートルといったところだろう。そこまで行くとローターの回転音もほとんど聞こえなかった。
 これだけ距離があれば大丈夫だろうと思う。前回は、あと少しのところで、ガーディアンが近づいてきた。そのせいで失敗したのだ。僕が自分自身の体を使える機会は限られているから、そんな失敗を二度と繰り返したくない。
 シェリーを拾ったのは市街地のはずれにある打ち捨てられたビルで、ネズミでも出るのだろう、何匹もの野良猫が住み着いていた。
 今日、ここに来たのは子猫を探すためだった。シェリーはサンクチュアリにきてから八年になる。先にサンクチュアリに拾われてきたエリザが死んでから三年、シェリーはずっと一匹だった。
 僕はむき出しのコンクリートの床にドライフードを入れた皿を置き、近くに腰を下ろす。警戒心の強い猫や、臆病な猫は姿を見せないだろう。僕が欲しいのは、いつかシェリーの代わりになるような、人なつこい子猫だった。

 朝、目が覚めると、久しぶりに自分の体に帰っていることを実感する。ベッドの中で寝ている間にこわばった体をほぐし、今日一日の活動に備える。
 ベッドから起きるとシャワールームに向かう。気配を感じたのか、それとも時間だからなのか、シェリーが足下に近づいてきた。そのシェリーの後からついてくるのは、ジャスパーだ。銀色の毛艶も良く、捕獲したときの薄汚れた様子はいっさいなかった。僕が捕まえた直後に、獣医の経験があるアップロードがジャスパーの健康診断をしている。皮膚の感染症の治療もしていて、今のジャスパーは、健康そのものだった。
 思った通りに人なつこく育ったジャスパーを持ち上げてみると、しっかりとした筋肉が付いている。体を放棄する前に飼っていた猫を忘れられないアップロードたちが、手作りのおもちゃを使って遊ばせていたからだ。子猫は遊びながら大人になる。猫好きのアップロードの言うとおりだった。
 捕獲してから半年、やせ細って、ほとんど重さを感じなかった子猫は、すっかり元気になっていた。
 半年ぶりに自分の体を使えるようになった僕は、猫たちとの朝食の後に、アップロードたちの関心をジャスパーに奪われて、すね気味だったシェリーの喉をかいてやる。シェリーは、しばらくすると寝入ってしまうから、次の計画に取り組む時間は十分にある。
「ドーナツにクッキー、ジュースとアイスクリームを準備して。それから、外に出かける準備も」
 今は十時を過ぎたところだ。十一時にはガーディアンも準備ができるだろう。
「ガーディアンは十一時にスタンバイ完了とのことです」
 予想通りのホームセクレタリーの言葉に、僕は苦々しい満足を感じる。もしかすると、今回はガーディアンが介入してくるかもしれない。何せ相手は人間なのだ。
 狙いはお腹を空かせた小さな子供だ。甘いもので引きつけ、仲間から引き離す。単純な計画だったが、僕は上手くいくことを知っている。サンクチュアリの外では、ろくな食べものが手に入らないから、お菓子で釣るのは有効で、現に僕もそうやってサンクチュアリに連れてこられたのだ。
 問題は僕自身だった。僕の体を使うアップロードたちが気を付けているから、健康状態に問題はないものの、筋力は年相応に落ちているし、反射神経も心許ない。抵抗されたり走って逃げられたりすると面倒なことになるのはわかっていた。なにせ、皿にかじりついている飢えた子猫ではないのだ。うまくなだめすかして、車に乗せなければならない。一度サンクチュアリの生活に慣れてしまえば、外に戻りたいとは思わないだろう。
 そろそろ僕の体は百歳を越える。メンテナンスをしっかりしていても、いつか生物学的な限界がくるのははっきりしていた。
 僕自身をいつアップロードするか決めていなかったが、遠い将来のこととは思えない。その日のために、僕も後継者を用意しておかなければならない。

伊野隆之プロフィール


伊野隆之既刊
『蒼い月の眠り猫』