(PDFバージョン:senakanokamisama_aokikazu)
──サイッテーだ。
俺は、鼻先にぐりぐりと迫ってくる黒い塊に向かって、口の中で呟いた。
本当はもっと大きな声で言いたいのだが、どうせ伝わりやしない。塊の持ち主は両耳にごついヘッドホンをかけ、スマホの画面に夢中になっている。街中でヘッドホンをしている連中の中には、キャッチセールスやビラ配りよけに無音のヘッドホンをポーズでかけている奴らもいるが、こいつのはガチだ。シャカシャカと音漏れがしているし、スマホの画面はアクションゲームだった。
いや、こんな奴はヘッドホンがなかったところで背後からの声に気づいたりなんかしないだろう。そうでなければ、芋洗いのような満員電車の中で、背中にリュックサックを背負ったままゲームなんかしない。
そいつは俺より少し背の高い、そして少し若い──おそらく学生──の若い男だった。いったい何が入っているのかパンパンに膨れたリュックのせいで、専有面積が体の厚みの倍ほどになっている。
ホームで電車を待っている俺の隣にこいつが並んだときから嫌な予感がしていたが、あいにく的中してしまった。今車両の中でこいつは俺の真ん前に立ち、俺はリュックと抱き合う格好で向かい合っている。
不幸なことに、角度の関係で、俺と奴との間に挟まっているでかいリュックは背後からは見えないらしい。俺と前の男の〝本体〟との間にはほぼ人間一人分の隙間があるわけで、後ろの乗客たちはそこを詰めろとばかりにぐいぐいと押してくる。
そのたびに俺はリュックとキスしそうになり、心の中で悲鳴を上げた。
リュックはグレーのナイロン地で、ごくありふれたものだった。が、よほど使い込んでいると見えて、かなりくたびれている。
擦りきれて破れているのはまだいい。
しかしその、得体の知れない茶色い汚れは何だ?
底がじっとり湿っているのは本当に外の雨のせいか?
ごそごそ動くな。そのたびにストラップが揺れて俺を叩いているのが分からないのか。
電車が揺れるたびに、まるで圧縮されるようにイライラがつのってくる。
この不快な状態から早く解放されたい。だがあいにく快速電車だ。次の停車駅まではまだ十分以上ある。
そもそも今日ははなっからツいていなかった。
会社では後輩がミスをしたせいで予定外の残業になり、それで待ち合わせに遅れて彼女と喧嘩になった。席を蹴って帰ろうとしたら雨が降り出していて、それでも意地になって飛び出したらいつの間にか靴紐が解けて泥まみれになっていた。
それだけでも十分なのに、駅に着いてみると電車が止まっていた。どこかの駅での人身事故だということだったが、詳細はついに分からず、運転再開まで駅で数十分待たされた。
ようやく電車が来て乗り込んだと思ったら、これだ。
忍耐の時間がようやく終わり、電車はホームに滑り込んだ。
ドアが開き乗客が動き出す。その瞬間、爪先に潰されるような痛みを感じた。足を踏まれたのだ。
犯人はリュックの男だった。何故分かったかというと、そいつが動き出した途端に足に載った重みが消えたからだ。
リュック野郎はおそらく人の足を踏んだなどつゆほども思わず、両肘で人混みを掻き分けながらゆうゆうと歩いて行く。その後ろ姿に、俺の忍耐は限界を超えた。
──くそ野郎! 自分の足に蹴つまずいて転べ!
奴の背中に向かって念じる。その途端、
グレーのリュックがすとんと人混みの中に沈んだ。
人混みがさあっと左右に分かれ、そのあたりを避けて通り過ぎる。その輪の中心で、リュック野郎は尻餅をつき、怒り半分驚き半分といった目できょろきょろとまわりを見回していた。
本当に転んだのか。俺は心の中で歓声を上げた。ナイスタイミング。ざまみろ。
もちろん俺の念が通じたわけじゃないだろう。後ろから引っ張られるような転び方だったから、ひょっとしたら俺と同じように奴の行動を腹に据えかねている誰かが実力行使に出たのかもしれない。
溜飲の下がる思いで男の横を通り過ぎようとして、俺は再びぎょっとなった。
男の背中、リュックの上に、肌色をした丸っこいものが乗っかっていたのだ。赤ん坊の頭くらいの大きさで、よく見ると小さな胴体と手足がついている。等身としてはマスコット人形と同じくらいだが、なんだかひどく不気味に見えた。
というのも、胴体部分にはマスコットのような丸っこさがなく、がりがりで、四つん這いでリュックの上端にうずくまっている格好だったからだ。
──どこから現れたんだ?
確かにさっきまで、そんなものはなかったはずだ。ずっとリュックを目の前で睨みつけていたのだ。変なものが乗っかっていればすぐに気がつく。
男が立ち上がろうとすると、その丸いものはリュックの上でずんと跳ね上がって、また元の位置にきれいに落ちた。ただ落ちたのではない。小さな手足できっちりとリュックの生地をつかんでいる。
生きているのだ。
男は引きずられるように尻餅をつき、ひっくり返った亀のように手足をバタつかせた。あれは、かなり重たいもののようだ。
男が転んだのは、おそらく、というかまず間違いなく、あれのせいだろう。だが……。
──なんなんだ、あれは?
思わず凝視していると、そいつがふとこちらを〝振り返った〟。
こけしのような二つの小さな目と、一本線の口があった。そしてそいつはあろうことか俺に向かって、ニコちゃんマークのような顔でにっこり笑いかけたのだ。
俺はそのあと無言で逃げ出し、家に帰ってからしこたま呑んだ。どうせむしゃくしゃしていたし呑むつもりではあったのだが、それだけが理由でなく、つぶれるまで呑んだ。理解できないなら忘れてしまうに限る。
翌朝目が覚めると、ひどい頭痛がした。だがおかげで昨夜の記憶は恐ろしく非現実的になっていた。スマホには彼女からラインで、昨夜はごめんという内容のメッセージが届いており、それを見たらなんだか急にうきうきしてきて、あの不気味なもののことはどうでもよくなった。生きていたのも笑ったのも、気のせいに違いない。
そんなふうにして記憶のどこかへ行ってしまっていた〝あれ〟が再び浮かび上がってきたのは、数日がたってからのことだった。
通勤電車の中で、またリュック男に出会ってしまったのだ。
顔を覚えていないから、同じ男かどうかは分からない。だが似たような背格好で、何よりやっていることが同じだった。
その日は前の時ほどいらだっていたわけではないが、時間をかけて作った資料が無駄になったりして、やはり気分はよくなかった。でかくて汚いリュックでぐいぐいと押され、ふとあいつのことを思い出した。
あいつが何かは知らないが、もう一度現れてくれないものか。
この迷惑な男をすっ転ばせてくれないものか。
──神様仏様、変なスマイル様。
神社の前で願掛けをするような調子で、俺は祈った。もちろん、百パーセント本気だったわけじゃない。半分くらいは冗談で、しゃれのつもりだった。
だが──今度のリュック男も、突然こてんと尻餅をついてしまったのだ。
電車が揺れたわけでもない。人混みが動いたわけでもないのに、だ。まさかと思ってそいつの背中を見ると──あれがいた。
こけしのような丸い頭がくるりと回る。
背筋がぞっと冷えた。奴の目が間違いなく俺を見たのが分かったからだ。
喉の奥で変な声が出た。つい身じろぐと、まわりの客が迷惑そうに振り返った。が、俺やひっくり返った男をちらりと見ただけで、またすぐ関心をなくしたように自分のスマホに目を戻す。
──ま、待て待て。待ってくれ。
俺は焦った。なんで誰も気がつかないんだ。不気味だろう、あれ。せめて一人くらいは二度見してくれ。
なのに誰一人反応しない。
そのとき、まるで見計らったかのようなタイミングで、車内アナウンスが流れた。
〈大きな荷物やリュックサックなどは、他のお客様の迷惑になることがあります……身体の前に抱えるなどしてお互いに気持ちよく……〉
流れるアナウンスを後ろに、それはあきらかに俺に向かって、にっと笑った。
どうだ。おまえの願い、かなえてやったぞ。
いかにもそう言っていそうな顔だった。
それをきっかけに、そいつは頻繁に俺の乗る電車やホームに現れるようになった。
リュック野郎でなくても、荷物で周囲を蹴散らして歩いている輩はその気になればいくらでも見つかった。でかいキャリーを引きずって、人にぶち当てても気づいてさえいない奴。運動部の学生の泥だらけのスポーツバッグ。サラリーマンの持っているブリーフケースも重たいだけにぶつけられると凶器だし、女が肩にかけているトートバッグでさえ、重量はないが人体が一番巾を取る場所を占領する。
不思議なことに、そういう連中が一度気に障り出すと、雪だるま式にどんどん腹が立ってくるのだった。
そうやって俺がいらつくたびに、あの丸いスマイル顔が出現した。
荷物の上にいきなり、どこからともなくどかんと現れる。それまで我が物顔に荷物で周囲を圧倒していた連中は、不意を突かれて小気味いいほど片っ端からころころと転がった。
そして思った通り、あの顔は俺以外の誰にも見えていないようだった。転ばされた当人でさえ、わけが分からないうちにひっくり返っているらしい。
あのスマイルがなぜ俺にしか見えず、俺の願いと連動しているのかはやはり分からない。最初はそのことに戸惑ったが、迷惑な連中がいとも簡単に転がる様子を見ているうちにあまり気にならなくなってきた。
──あれはきっと荷物マナーの神様だな。うん。
──俺の願いが強かったから聞き届けてくれたんだ。
冗談半分に、そう思うことにした。
感情の見えないあの不気味なスマイルにもそのうち慣れた。むしろ頼もしくさえ思えてきたから、勝手と言えば勝手なものだ。
俺は、人混みででかい荷物を持っている奴ら──もちろん、マナーを守って周囲に気をつかっている方々は除外で──を、見かけては次々と〝お願い〟をしていった。
気がつくと、いつの間にか俺の使う路線ではでかい荷物をぶつけまくる連中が激減していた。見えないながら、どこかで噂でも伝わっているのだろうか。
それでも、完全にいなくなったわけじゃない。
短い悲鳴が聞こえたので目を向けると、キャリーバッグを後ろに引きずったサラリーマンふうの中年男が人混みを横切っているところだった。後ろを歩いていた女の子が腰を折って爪先を押さえている。キャリーの車輪で足を轢かれたらしい。
俺は心の中で女の子に、
(見てな、仇は討ってやるぜ)
などと語りかけると、中年男のキャリーバッグに念を飛ばした。瞬く間にあれが現れ、ずどんとキャリーにのしかかる。
中年男は引きずろうとしたキャリーがいきなり重くなったことで、がくんと体勢を崩した。ぎりぎり転ぶのは免れたが、痛そうに肩を抑えながら戸惑った様子でまわりを見回す。
足を轢かれた女の子は、こちらもわけが分からないながら、なんとなく小気味よさそうな顔になって通り過ぎていった。
──また一ついいことした、かな?
俺が笑うと〝神様〟も笑い返す。
鼻歌でも歌いたい心持ちで、俺は人混みをあとにする。心なしか、足取りが飛び跳ねるように軽く感じた。
「最近、感じが変わったね」
彼女に突然そう言われた。久しぶりに二人の休日が合い、ゆっくりご飯を食べたあと店を出てぶらぶらと町中を歩いているときだった。
「変わった? どんなふうに?」
「なんかこう……ふわあ~っとした感じになったよ。前はもっと疲れてるというかとんがってるっていうか」
「そうかな」
「うん。カリカリした感じがなくなった。何かいいことあったの?」
あれはいいこと、と言うのだろうか。まあ、悪くはないだろう。
このところ気分がいいのは確かだった。後輩はまだしょっちゅうミスをするし、満員電車通勤のストレスだって大して変わらない。それでも人混みでのイライラをこの俺が少しでも解消していると思うと、身も心も一回り軽くなった気がする。
「へへ、まあね」
「何があったの?」
「内緒」
「教えてよ」
「だーめ」
「いいじゃない。いじわる」
彼女が俺の肩を拳で叩いた。もちろん本気じゃない。それでなくても女の子の力だし、正面から受け止めたところで痛くも痒くもない。
確かに、痛くはなかった。
が、俺の身体は後ろに一メートルほども吹っ飛んだ。
彼女がぽかんと口を開けたまま、俺を見つめている。俺もきっと阿呆みたいな顔をしていただろう。
「やだ、もう。からかわないでよ」
彼女は俺がふざけていると思ったのか、もう一度ぽすんと拳をぶつけてきた。今度も、本当に軽くだ。
なのに俺はまた、今度は二メートルばかり跳ね飛ばされた。勢い余って尻餅をついてしまう。
わけが分からなかった。俺は何もしていない。ただ突っ立って、彼女の打撃とすら呼べない拳を受け止めただけだ。
「何やってんのよ、もう」彼女の声にかすかに怒りが混じった。「冗談しつこい」
それでも、転んでしまった俺に手をさしのべてくれる。俺はごめんごめん──といささか上の空で謝りながら、差し出された手を取り、彼女の腕にあまり負担をかけないように勢いをつけて立ち上がった。
その瞬間。
今度は俺の身体が前に飛び出した。勢い余って、押し倒すような格好で彼女にぶつかり、二人揃って転倒する。
「バカ! 最低!」
今度こそ彼女は本気で怒り、俺を押しのけると、ぷりぷりしながら去って行った。
──待ってよ。誤解だ。待って──。
呼び止めようとしたが、声にならなかった。彼女の目にはもう入ってはいなかったが、俺は彼女に押しのけられたはずみに、ボールのように軽々と吹っ飛んで転がっていたのだ。
通行人が物見高い視線をこれでもかと降らせてくる。めちゃくちゃに恥ずかしい場面だったが、俺の頭の中はそれどころではなかった。
彼女は、最後に怒って俺を押しのけたときでさえ、ほとんど力なんか入れていなかった。男一人の身体が吹っ飛ばせるはずがない。吹っ飛ぶはずがない。普通なら。
いったい何が起きたのか──。
俺は家に飛んで帰った。文字通り〝飛んで〟すらいたかもしれない。
家に着くと脱衣所に駆け込み、体重計を引っ張り出す。おそるおそる乗ってみて──。
20.5kg
デジタル窓には非情なほど軽い数値が表示されていた。あり得ない。小学生の甥っ子だってもう少し重たい。
体重計の故障を疑ってペットボトル入りの水の重さを量ってみたが、そちらは正しい数値が出た。間違いではなかった。何度乗り降りしてみても、やはり二〇キロ前後の値しか出ない。
鏡を見る。姿形は変わらない。体積はそのままに、俺はいつの間にかすかすかになっているのだった。
──そんなばかな……。
ショックを受けながらも、俺は心のどこかでひどく冷静に、物理の法則なんかを思い出していた。
それにあの神様、手足の生えたニコちゃんマークが俺の願いにだけ応えた理由、俺にしか見えなかった理由にも、気付いてしまった。
──カリカリした感じがなくなったね。
──ふわあ~っとした感じになった。
彼女の言葉を思い出す。つまりあれは神様なんかじゃなくて。
俺の中の何か。俺の一部。
無から有は生じない。重さについても──。
何が起きたところで時は流れるし、日付は変わる。朝になれば出勤の時間がやってくる。
俺は次の朝もいつものように、ホームで電車を待っていた。
十分すぎるほどの乗客を乗せた電車がやってくる。押し合いへし合いしながら乗り込む乗客たちの中に、俺はふと、いつか見た汚いグレーのリュックを見つけた。
そういえば、何もかもあれが始まりだったのだ、と考える。
元はといえばあいつのせいだ。
そう思った途端、理不尽な怒りがむらむらとこみ上げてきた。
駄目だ。これ以上あれを出現させていたら、俺が空っぽになってしまう。
だがそう思ったときにはすでに遅く、グレーのリュックは引き倒されるように人混みに沈んでいた。
そして俺はその瞬間、風船のように空高く舞い上がったのだった。
青木和既刊
『つくもの厄介14
ゆかんば買い』