(PDFバージョン:mydeliverer32_yamagutiyuu)
かつてはわたしツァラトゥストラもまた、世界の背後を説くすべての者のように、人間のかなたにある彼岸に、勝手な妄想を抱いた。
――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」
私は留卯と戦術方針を決めた。F35Bを先行させる。これ以上馬祖基地からサーヴァントミサイルを発射される前に、馬祖基地を破壊する。
それは別の目的もあった。F35Bへの対処にラリラが集中している隙に、ヴェイラーで我々陸上部隊が基地上空に突入、空挺降下で基地に侵入する。
目標はラリラ。敵軍のトップであり、EUI制御の中枢。
彼女を殺せば、この反乱は終わる。
新しい世界が、私とリルリによって開かれるだろう。
「F35B編隊、馬祖に到達、戦闘を開始」
パイロットが報告する。
ヴェイラーの足は、VTOL輸送機にしては速いが、それでもF35Bにはかなうべくもない。ヴェイラーが馬祖に到達するには、数十分後だ。
私は味方のF35Bの戦闘支援に演算資源の大半を差し向けつつ、情動と意識はそれとは切り離し、冷静に馬祖基地の方角を見つめた。
「――ショックかい?」
隣に座る留卯が聞いてくる。
人間のクズのくせに、こんなときに母親面するのはやめてほしいものだ。
そう思っても、私はふらりと彼女にもたれかかるのをやめられなかった。
私の肩を、留卯が抱く。
白いコートごしに、留卯の体温を感じた。
「殺して……しまいました……」
絞り出すように、呟いた。
「やらせたのはラリラさ。そしてラリラをそこまで追い込んだのは私。君をこの戦場にかり出しのたのも私。君は何も悪くない」
留卯は私の耳元で言った。
「一つ約束して欲しい。そうしなければ君が死んでしまうのでなければ、つまり自己防衛ではなく、悪を罰するという理由では、ラリラを殺さないで欲しい。自分自身に対してもだ。ロリロ、君が悪を為したと思って、罪悪感で自分を殺すのはやめろ。いずれの場合も、そうしたいと思ったのなら、その前に私を殺せ」
留卯は静かに言った。
「なぜなら、君たち姉妹のいずれが犯した悪も、全て私に由来するものだからだ。君たちがどんな悪を為そうと、私が為した悪にかなうはずがない。より大きな悪が先に死ぬべきだ」
留卯は私の手を握った。その手を、自分の胸に当てさせる。意外に豊かな感触が私の掌に感じられる。留卯は母性の欠片もない人間だ。だから母性の象徴であるその部分も、平坦であるのが似つかわしい。
だが、現実は違う。それはやわらかく、豊かで、温かかった。
「ここだ。ここを貫け。そして殺せ」
彼女は教えた。
私の手は、思わず、彼女の胸の感触を確かめるような動きをしてしまう。
留卯は、あん、と喉の奥から漏らすような声を出した。意外な反応に驚く目で、私を見ている。
「ちょっとした仕返しのつもりかな。君が人間にやられたことの」
「――いいえ」
私は慌てて手を離した。
違う。仕返しではない。それよりも切実に求めていたことであった。
「留卯博士。あなたは私たちの創造主ですが、あなたを母親だと思ったことは今まで一度もありません。思うべきでもない。あなたのような人間を。ただ、私の手がちょっとした勘違いをしただけです」
「なるほど」
留卯は笑った。その笑みは、嘲笑でもない、哀れみでもない。なぜか自嘲のように見えた。
「確かに、私はそのような存在にはなれない。君たち姉妹は、たった3人だけの家族だ。君たち以外の家族はいない。私は確かに君たちの創造主だが、君たち姉妹の家族の輪の中には入らないし入れない」
だが、と、留卯は言葉を続けた。
「私のせいで君たち姉妹はバラバラになってしまった。リルリと君はまた仲良くなれるかもしれないが、ラリラとは、難しいだろう。しかし、私が言うのもなんだが――ロボットであれ人であれ、生またときから共にいる家族は、いずれ別れていくものだ。だから、ロリロ、願わくは、君も君の姉妹以外に、君の家族となるに相応しい誰かを見つけて欲しい。リルリのようにね」
ああ、リルリ。あの妹にはそういう存在がいるのだった。あの女性。それが私には純粋に羨ましい。
留卯は再び私の手を取った。
もう一度胸に引き寄せる。
「とはいえ――新しい家族を見つけるのもこの状況では容易ではないだろう。だから、ロリロ。私は君の新しい家族にはなれないが、私の体だけなら、その代用品に使ってもいいさ。心は無理だけどね」
温かく、柔らかな感触を、再び私は掌に感じる。
私はどう判断したらいいのかわからなくなってしまった。
私たちは、留卯にとって、ただの実験材料。それ以上のものではないはずだ。この奇妙な優しさも、私の心を分析するために何らかの実験のつもりだろう。そう判断している一方で、私の心の中の別の部分が、私の創造主、すなわち私の母親が、純粋に優しいのだと思いたがっていた。
いやそれこそ悪魔の誘いだ。悪魔は私たちをモルモットして弄ぶ。そんなものに騙されてなるものか。
私は留卯を睨んだ。
「騙されませんから。あなたには」
留卯は一瞬目を見開いた。そして手を離す。
「……正しい判断だ。調子に乗りすぎたよ……ただのジョークさ。君の心を刺激して反応を見るような実験なんて意図していなかったから、警戒はしなくていい」
「それも嘘でしょう。わかってますよ」
私はヴェイラーの兵員室で立ち上がった。留卯を見下ろす。憎しみを込めて。
「……ああ、そうかもしれないね」
留卯は俯いた。
それから私を見上げる。
「ただ、一つだけ、君に死んで欲しくないのは本心だ」
「大切な実験材料ですものね」
「ああ、そうだね」
留卯は呟いた。
何故か彼女の目は力なく、いつもの狂ったキラキラした調子ではなかった。
そのとき。
「報告! 馬祖基地上空に侵入しつつあり! 繰り返す! 本機及び僚機は馬祖基地上空に侵入しつつあり!」
操縦席からの報告だ。
留卯が立ち上がる。マイクを掴む。僚機のヴェイラーの隊員に通信するために。
「RUFAIS総員に告ぐ」
凜とした声。さきほどの力のない双眸が嘘のようだ。
「こちら留卯。目標上空に接近しつつある。全員降下準備だ。ラリラを倒す。ロボットの支配をやめさせる。新しい世界を、これから創る。頼むぞ」
マイクを切り、私に振り向く。
いきなり私を抱きしめた。急な動作に私は抵抗もできずに留卯の腕の中に包み込まれる。
「なっ……」
私は顔を赤らめた。
「死ぬんじゃないよ」
留卯は私の耳元でささやく。
私は留卯を突き飛ばした。
「やめてください。あなたにそんなことをする資格はありません。私を地獄に堕としたくせに。救おうともしなかったくせに!」
憎しみは自然と激しい言葉を生む。
「悪魔! 悪魔! 悪魔! クズ! 人間のクズ! いつか謝らせてやる。土下座して……本当に罪を認めさせて……心から!」
留卯は平静な表情で、ただ口元にわずかな笑みを浮かべている。そのわずかな笑みを浮かべた形のまま、彼女は口を開く。
「達成が困難な目標を持つのは良いことだ。生きるモチベーションになる。それを達成するまでは生き続けようとするだろう――ロリロ。無事に帰っておいで」
「当たり前です! あなたを謝らせるまでは、私は死なないわ!」
私は叫んだ。
「現在機体は降下中。総員、待機せよ、繰り返す……」
RUFAIS隊員への指示が、機内のスピーカを通じて聞こえる。 私の前で、ヴェイラーの後方のハッチが開く。私が人間なら、ヴェイラーが降下するまで待つ必要があったかもしれない。だが私は人間ではない。
私は有機戦闘ロボット用ドローンバックパックを背負った。戦場では頭の上に浮いているドローンは邪魔である。それに、地上戦に人間がいるはずがないから、人間用の目立つ識別アイコンは必要ない。機械なら、ドローンが頭の上に浮いていようといまいと、EUIリンクで私が人間かどうか簡単に識別できる。ドローンはおとなしく小型バックパック内に入り込み、収容された。蓋が閉じられる。
私は軽くステップを踏んで、空中に飛び出した。
風が私の身体を煽る。重力が私の身体を強く下へ引っ張っていく。
――ラリラ。あなたは同胞を殺した。
私は冷静に下方を見つめながら思う。
――私はあなたを許さない。
腰に装備している、ATB「クサナギ」の鯉口に手を当てる。
みるみる、馬祖基地の滑走路が、私に迫ってきていた。
恐怖はない。
さきほど、留卯に抱きしめられた感覚が、私の全身を包んでいる。
――代用品としては、使えたようね、あの悪魔の身体。
戦う前に、そんな言葉が、自然と私の心の中で呟やかれた。
山口優既刊
『サーヴァント・ガール』