「古椿姫」待兼音二郎

(紹介文PDFバージョン:furutubakihimeshoukai_okawadaakira
 『エクリプス・フェイズ』日本語版翻訳チームのメンバー、待兼音二郎の小説をお送りしたい。
 ちょうど、今月の「『Eclipse Phase』情報」に紹介のあるシナリオ「スペース闇金道――情報難民をさいなむドラッグ」の作者でもある。
 SF Prologue Waveの読者のなかには、『ウォーハンマーRPG』の翻訳を手がけ、紹介文を寄稿したことを記憶されている向きもあるだろう。
 あるいは、いまだルールブックが翻訳されていなかった時期に、ファンジン『Eclipse Phase Introduction Book for 2011 Japanese』に翻訳「特異点への突入」を寄せていたことを、ご存知の方もいるかもしれない。いまは「SF Prologue Wave」に採録されている。
 待兼は、翻訳者として長きにわたるキャリアを誇るのみならず、ライターとしても多彩な活躍を見せている。

 その小説「古椿姫」は、明治や近世の擬古文に通じた待兼音二郎の資質が遺憾なく発揮されているが、それだけではない。
 あのケン・リュウが書いた『エクリプス・フェイズ』小説「しろたえの袖(スリーヴ)――拝啓、紀貫之どの」を訳した経験が、明らかに投影されている。
 また、「TH(トーキング・ヘッズ叢書)」No.73に掲載された批評「物言わぬ樹木にもしも人魂が宿ったら――植物変身譚の考察」は、本作の「理論編」と言えるかもしれない。(岡和田晃)


(PDFバージョン:furutubakihime_matikaneotojirou
 栗色の髪をうしろで結わい、大輪の白椿をそこに髪留めのように挿した女。渦巻きのような花弁の重なりがほのかな紅色をにじませているばかりか、肉厚な緑の葉までついていて、天然美が匂わんばかり。となればこれは正真正銘の椿の花なのか、それとも精巧なイミテーションなのかと、赤鬚の男は心動かされ、ささくれた指を伸ばして確かめようとする。
 するりとその指から逃れた女。スカートの裾をつまんでゆるやかな螺旋をえがく大階段を中途までのぼり、足を止めては男をふり返る。その階段を履き古したブーツで一歩一歩踏みしめてゆく男。少し逃れてはふり返り、また少しのぼってはふり返りする女。そうしてふたりは一定の間合いを保ちながら半螺旋の階段をのぼり切り、二階の廊下に歩を進める。
 廊下に並んだ扉のひとつ。ここにも大輪の白椿が飾られている。女はとうとう観念したのか、その扉の前で足を止めてうなだれる。そこに立ち塞がる赤鬚の男。古い映画のガンマンのようにスローチハットを目深にかぶったまま、相手より頭ひとつ高い背をかがめて両手をさしのべ、火星の砂塵に荒れた両手で、女の白い頬をすっぽりつつむ。その手のひらに伝わる女の震えと肌の温もり。栗色の髪の女は面をあげ、すがるような眼差しを男に向ける。赤鬚の男、こうして遊女を金で購うのはもはや何度目ともわからぬほどだが、これほどの上玉、それも夜の商売にまだ慣れないのか、うぶさを一挙一動に漂わせる女に巡り逢えたのはかつてないほどで、やはり内心ぐっとこみ上げてくるものがある。男が帽子のつばの奥で無表情を崩さずにいるうちに、女は後ろ手にドアをあけ、男の手を握って室内に招じ入れた。


Marie Duplessis, La Dame aux camelias c Kinuko Y. Craft
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 スローチハットを帽子掛けにひっかけ、男と女は天蓋付きのベッドに並んで腰掛ける。それからどれだけの時が流れたのだろう、ふたり、言葉のやり取りもほとんどないままに、アンティーク調の置き時計が火星の時刻を刻む音ばかりが室内に響く。名前は? マルグリット――そのくらいのことは訊いたのだったか。女は物静か、言葉少なではあったけれども、目は口ほどに物をいい、よく動く眼差しが男の心を測り、探り、踏み込みすぎたかとみればまた退いて窓辺をぼんやり眺めやり、その横顔がまたはっとするほどに可憐であった。男も寡黙で、ここ火星ティターンズ検疫ゾーンの流れ者、修羅場も数知れずくぐってきただろうに、ウォーボットをしとめた武勇伝を脚色たっぷりに語るよりは、むしろ沈黙に居心地のよさを感じる性質であるらしかった。
 やがて無言のうちにも心が通ったのか、男と女はベッドの上でにじり寄り、肩を触れ合わせた。女の肩に男が手をまわすと、あとはお決まりの流れ。女の肌のにおいに男の切迫はたちまち抑えがたいものとなり、女がそそくさと天蓋付きベッドのカーテンをとじ合わせるのも形ばかり、もとより密室のこの部屋での情事を、いったい誰にはばかるというのか。人目はなくとも男女の痴態は赤裸々、恥じらいなど頭の片隅にでも浮かべておってはかくまで肉欲には狂えぬ。男の低い呻きは言葉をなさぬばかりか女の肌に吸いつく音にまぎれてさらにくぐもり、女のあえぎもそれに応じて上がり下がりする。栗色の髪をくりくり、指先からめてくりくりと、男は執拗にもてあそび、やがて思い出したかのように白椿の髪留めに指先を伸ばそうとする。しかし女の髪はとうに解かれてさらさらと枕に広がっていた。
 アルマンさま、アルマンさま……女が吐息の間に間に愛しい男の名を口ずさむ。それは赤鬚の男の名前なのか、いや、そうではあるまい。女の口に片手を押しあてて黙らせようとした。しかし女はその手から逃れ、さきほどより声量を抑えてどうにか聞き取れるかどうかの低いくぐもりで、アルマンという名をうわごとのようにつぶやき続けた。赤鬚の男、半ば呆れて女の面を見つめたが、まっすぐに見つめ返してくるその眼差し、瞳にきらめく純情の光にはっと心打たれ、いまここにいる自分を最愛のアルマンなる男と信じて疑わぬらしい女の思いを受け止める心の用意ができたのか、ふたたび女の肌に脣を当てると、すぐに先ほどまでの荒々しさを取り戻した。
 女の腰がくねくねと動く。これで女が人魚であったら、さぞかし優美に尾鰭をふり動かしでもしたことだろう。もしも女が人魚であるなら、吐息が細かなあぶくとなってゆらゆら立ち昇ったことでもあろう。その涙が真珠となって、はらはらと水底にこぼれ落ちさえしたかもしれぬ。男と女はまるで二匹の魚のように、ベッドシーツに影を落として舞い泳ぐかのごとき浮遊感たっぷりの身のこなしで、互いに上になり、下になり、海面下のうねりに揉まれるかのように、組んずほぐれつして交わり合う。いやこれは無重力ベッドという特注の品で、男女はほんとうに数インチほどシーツから浮いているのかもしれぬ。やがてふたりの喘ぎが激しくなり、激しさの極みに達したかと思うと、波が引くように吐息が静まり、閉ざされたカーテンの中はまた沈黙につつまれた。
 ベッドに仰向けに寝そべり、情交の余韻に息を弾ませている男。ひと息ごとに大きく上下するその胸から、銀鎖で首にかけたペンダントがこぼれてシーツに落ちた。大粒のダイヤモンドか、それとも模造品なのか、光のきらめきに女は興味を惹かれてか、シーツの上のペンダントに手を伸ばす。しかし男は邪険に、その指先を払いのけ、ペンダントをしかと握りしめた。まるでこれは命の次に大切な品で、誰にも触れさすわけにはいかないのだとでも言わんばかりに。
 手を払われて寝返りを打ち、男に背を向ける女。そうして漂う白けた雰囲気に相手にかける言葉もなく、仰向けに寝たままの男。ひっそりとした室内に、アンティーク調の置き時計が時を刻む音ばかりが響いた。
 やがて赤鬚の男はベッドから身を起こし、そそくさと服を着はじめた。いっぽうまだ情交の余韻から醒めずに、裸に薄絹をまとっただけの女。ブーツの紐を結び終えた男に、名残惜しげに片手を差し伸べる。ちらりとその手を一瞥するも、引き結んだ口を緩めもせぬ男。ほんの一瞬、そこで動きを止めたが、すぐに大股で出て行った。扉を閉める音が室内に響きわたる。
 さしのべた手を宙に浮かしたまま、寂しげな表情を浮かべる女。生身の女の色香をたたえてはいても、しょせんこの身はプレジャー・ポッド。事が終われば男にとってもう用はない相手……などと憂き身をかこつだけの知能をこのAI駆動の半ロボットが宿しているのかどうかは定かならねど、栗色の髪の女はしばらく虚空に手を伸ばしたまま、思いを言葉で伝えることのかなわぬ人魚姫の悲哀を全身に漂わせるかのごとくでいた。やがて、情交の気だるい疲れからか、女はベッドに仰向けに身を横たえ、すやすやと軽い寝息を立てはじめた。それはたぶん人工知能のOSが再起動されたということで、いずれ女が目を覚まし、ぱっちりと瞼をひらいたときには、先ほどの男との交情の生臭い部分はきれいさっぱり消去され、相手の顔や身体的特徴ばかりが好ましい記憶として残されるに違いあるまい。女が半ロボットであるのをいいことに、ひどい陵辱をする男もいるからだ。彼女はまた男を知らぬ乙女の心を取り戻し、それでいて肉体は孕み女のごとくに熟れきっていて男の愛撫の気配を感じただけで触られもせぬうちから蜜を滴らせ、また髪を結い上げてめかし込み、娼館の広間にならぶ椅子のひとつに腰をおろして羽根つきの扇子をゆっくりと動かし、精巧な肉人形のひとつとして客を待つに違いないのだ。
「ねえ旦那、あの娘はどうだったかい?」
 大階段を下ってきた赤鬚の男の背中にでっぷり太った女将が声をかける。体型を隠してくれるワンピースのフリル付きのちょうちん袖から覗いた二の腕がはちきれんばかりの肉付きだ。
 スローチハットをまたかぶった男はその声に足を止めたが、ふり返りはせずに口の中で何やら答える。言葉がうまく聞き取れないが、非難ではなく肯定のニュアンスが込められていることは抑揚から察せられた。女将が満足げに三重顎でうなずく。
「なまじっかの生体義体の女なんかよりずっといいって思わなかったかい? うちの常連さんたちはいつもひいきの子を指名してくれて、帰りしなには決まって上機嫌でそう言ってくれるんだけどさ」
 ああ、そうだね。男の口の動きが、そう言葉を発したように読み取れた。西暦でいうならおよそ二三世紀、太陽系の果てにまで進出した人類の技術は精神のデジタルデータ化と肉体の乗り換えを実現するまでに進歩しており、ロボットの類がここまで生身の人間に酷似することもまた必然であった。二〇世紀のSF小説ではアンドロイドと呼ばれるのが常であったが、培養槽で生産され、生体脳の代わりにサイバー・ブレインを組み込まれることから、エンドウ豆の莢から生まれでるイメージそのままに、この世界ではもっぱらポッドと呼ばれている。わけても性産業向けに作られるものはプレジャー・ポッドと呼ばれ、たいそうな人気を集めている。喜怒哀楽の基本的な感情を幼児程度のレベルで備え、性欲については成人の平均をかなり上回るように設定された自動人形。基本的人権の尊重というのはあくまでも人間に対しての概念だから、ロボット相手にはいかに変態的、陵辱的な行為であろうと気兼ねも遠慮もなく行えるというわけだ。生産量については男性向けの女性型のものが大半を占めるが、女性向けのプレジャー・ボーイも珍しくはなく、いわゆるストレート以外の性的嗜好に応じてカスタマイズを施すことも自由自在だ。
「それにしてもさ、旦那。あの娘を選ぶとはお目が高いよ。そんじょそこらのプレジャー・ポッドとはひと味違った特注品なんだからさ。ずいぶん満足してくれたよね? ま、顔つきを見ればわかるけどさ。喜んでくれてあたしも嬉しいよ。ねえ、そんなに急ぐ旅じゃないんだろ? 酒はおごるから、あの娘にどんないわれがあって、どんないきさつでこの店に来たのかを、あたしから話させておくれよ」
 女将がいつ指図したのか、こちらはいかにもロボットそのものという外見のサーヴィター・ボットが、お盆にグラスやらナッツの盛り合わせやらを載せてガタゴトとやってきた。赤鬚の男は肥り肉に三重顎の女将に手でうながされるままに壁際のソファにかけてさし向かい、長話につきあうことになった。
 なんでも、あの栗色の髪に白椿の髪留めのポッドは、かつてこの街で〝椿姫〟と呼ばれていた高級娼婦の精巧な模造品なのだという。それは火星植民とテラフォーミングが惑星全土で進められ、開拓者が引きも切らずにやってきた頃のこと、赤い砂漠のなかにぽつんとできたこの街は、アラビアのオアシスか西部劇の駅馬車の街さながらに賑わっていた。現在の廃れぶりからは想像しがたいことであるが。
 それはそうと、当の〝椿姫〟は控え目な物言いの端々に教養が匂い立つ才媛で、ふだんは白椿の髪留めを挿し、月の障りの期間中には赤い椿を髪に挿してそれとなくまわりに知らせていたという。さてその椿姫は開拓景気による成金や密貿易商人などを贔屓筋に街いちばんの高級娼館の花形の座にあったが、あるとき、アルマンという前途有望な青年とかなわぬ恋に落ちた。
 アルマン青年はさる実業家の御曹子で、火星を新天地に、さらにその先の外惑星圏までも見据えて新たな事業を打ちたてようとの気概に燃えていた。ふたりは知り合うやたちまち恋に落ちたが、ベッドを共にするだけの愛人であれば気兼ねも迷いもなかったものを、どうあっても彼女を生涯の伴侶にというところまでアルマンの恋心がいきり立ってしまっては、やはり椿姫の生業が青年実業家の前途には差し障りとなる。売春婦との結婚など金輪際認めるものかと地球の父親から申し渡され、ならば勘当されてでも裸一貫から成功してみせると腕まくりするアルマンを椿姫は傍らで見守りながらも、その眼差しは憂いを募らせるばかりであった。
 そしてある日を境に、椿姫はアルマンによそよそしい態度を示すようになった。会いに行っても仮病を使い、ようやく会えてもうわの空の他人行儀。きみはどうしてしまったんだ? ぼくの気持ちはまったく揺るがない。どれだけ親に反対されようとも必ずきみを幸せにしてみせる。そう力説して手を握れども、握りかえしてくる力は弱く、椿姫の目は床に落とされたままだった。
 やがてアルマンの耳に届いてきたのは、火星のテラフォーミング事業で大儲けをした実業家が近ごろ椿姫に入れあげているという噂だ。おまけに女の方でもまんざらではなく、ふたり着飾って劇場やら高級レストランやらに繰り出す姿が大勢の目に留まっているのだという。その実業家というのが精力的に日焼けした顔に口ひげを蓄えていて、なかなかの男ぶりだという話だった。
 そこまで聞いてアルマンは近ごろの椿姫の他人行儀さにいちいち合点がいき、絶望に頭を抱えて眠れぬ夜を過ごしたはてに、きっぱり身を引くことを決意した。
 それからどれほどの歳月が流れたことだろう、アルマンは失恋をきっかけにここ火星から土星の衛星タイタンへと旅立ち、ようやく人類が進出しはじめた外惑星圏との貿易事業に精を出して、恋の過ちのことは忘れようとしていた。ところがその過程で誰かの恨みを買ったのか、小惑星帯のとある鉱山で苛酷で奴隷的な契約労働を強いられていた移民たちが一斉に決起し、違法な経営実態の内部告発をした事件をきっかけに、鉱山経営者を裏で操っていた黒幕とされて出資者のアルマンも経営者とともに連座逮捕され、決起した労働者たちに同情的なジャーナリズムの過熱報道にも煽られて見せしめ的な重罪を負わされ、木星の何番目かの衛星にある流刑地に送られた。多くの囚人が苛酷な労働で命を落とし、刑期を勤め上げて出所した者も多くが精神に異常を来すことで悪名高い場所に。
 いっぽう椿姫は娼館で夜の商売を続けていたが、このまま身請けされて結婚するのではないかと噂されていたあのテラフォーミング実業家との仲はいつしか冷めてしまい、やがて寄る年波で、さすがの彼女も全盛期を過ぎ、美貌にも人気にも衰えが目立ちはじめた。そんなある日、木星の衛星の流刑地から釈放されたという男が彼女のもとを訪れた。男が椿姫に手渡したのは、なんとアルマンからの手紙だった。「きみを想うぼくの気持ちは未来永劫揺るがない。いつかここを出所できたら訪ねていくから、どうか待っていてほしい」それだけの短い手紙だった。流刑地は外部との通信が遮断されているから、こうして仲間に手紙を託すしかなかった。そう追伸に記されていた。
 その日から椿姫は見違えるように生き生きとしだした。アルマン青年を裏切ってテラフォーミング実業家になびいたように見せたのも青年の将来を考えて身を引くための演技であって、やはり本心ではアルマンのことをずっと慕い続けていたのだろう。まわりの誰もがそう噂した。椿姫は立ち居振る舞いにも生気がみなぎり、表情までもが一気に若やいだ。されど待ち暮らす身に歳月は重く、年齢の残酷さが彼女の身にも降りかかってきた。椿姫はもはや若いとはいえず、白髪は染められても顔の皺は隠しようもなく、言動も何やら神がかってきて腫れ物に触るような扱いを周囲の人からされるようになり、そうこうするうちに、気づけば行方知れずとなっていた。
 彼女の末路についての噂はいずれも憶測の域を出なかったが、精神のデジタルデータ化と義体乗り換えがまだ研究室レベルのものだった時代のこと、どこかの場末に老残の身をさらし、その果てに野垂れ死んだとしても不思議ではなかった。絶世の美女と謳われた小野小町が、かつての才色兼備ぶりも晩年にはすっかり衰え、都から遠く離れた片田舎で女乞食に落ちぶれた、いや、それどころか野辺に転がる髑髏となり、その眼窩を貫いて萱が生えていたという伝説が日本人の末裔によって伝えられているが、それと同様の末路をあの椿姫もたどることになったのではないかと囁く者も少なくなかった。
 まとまった金さえあれば今からでもシルフなどの生体義体に精神データを乗り移らせて、未来永劫に若く美しい身体のままで愛しい男の迎えを待つこともできるものをと、椿姫の全盛期を知る者たちはかつての人柄を懐かしんでなんとかこの世に再び甦らせる術はないものかと寄り集まって文殊の知恵を探り、そうして出された結論が、彼女のクローンをつくることだった。娼館の奥にそのまま残されていた彼女の部屋から髪の毛やらの痕跡を丹念に採取してDNAを集め、それを元に椿姫そのままのクローンを作ろうというのだ。
 しかし、人物の複製にまつわる倫理的な問題と、高額な費用が障壁として立ちはだかり、椿姫の完全コピーを作るのは難しいということになった。その抜け道として出てきたのが、プレジャー・ポッドならどうかという案だ。知的能力を制限することで、同じ人間がこの世にふたり存在してしまう問題を回避できたし、性産業の需要はおよそ途絶えることがないことから、資金繰りの目処も立った。そうして生み出されたのがあの栗色の髪の女、マルグリット・ゴーティエ二号だというのだ。
 赤鬚の男は女将の長話を口も挟まずに聞いていた。なるほど伝説の遊女のDNAクローンを元につくられプレジャー・ポッドというわけか。しかしそれは本当なのか? アルマンの名をくり返すあの口ぶり、あの眼差しにこもった真情には、とうていAI駆動の半ロボットとは思えないものがあった。男は声にだしては言わねども、いかにもそう言いたげな顔をしていた。やがて男は膝に置いていたスローチハットをまたかぶると、マントを羽織り、女将に短く礼を言って娼館を後にし、戸外の道を歩きはじめた。

 赤砂がうっすら吹き溜まり、あちこちでひび割れた路面。通りには行き交うヴィークルも人の姿もなく、白昼に死に絶えたかのような静寂の漂う街はずれに、その奇妙な城館があった。
 およそ植物の姿などないこのハビタットにあって、その古屋敷だけが植物の楽園のごとき緑豊かさをみせていたのだ。スローチハットに赤鬚の男、ハビタット中心街にある娼館から場末のここまで歩いてきて、その門前で驚きに足を止めた。
 サワーロやプリックリーペアといった大小のサボテンが門から踏み石の続く庭園のあちこちに生え、群生するチョーヤサボテンは棘だらけの枝先に赤い可憐な花をいくつも咲かせている。さらに竜舌蘭が鋸歯の剣のような多肉質の葉をまるで孔雀の羽根のように大きく地面から広げているし、月下美人が昨夜に開花して萎んだ名残をみせてもいる。赤鬚の男、地球の生まれ故郷の植物相そのままの庭園にゆかしさ募り、歩み寄ってさらに仔細に眺めようとした。
 されど廃墟となって久しいのだろう、黒塗りの鉄柵の門扉は蝶つがいが外れて傾き、あちこちで塗装がはげて錆びついている。庭園の奥にそびえる白壁の城館も、壁面にびっしりと蔦が這い、スペイン瓦の屋根をいただく高窓は、幽霊の手つき腰つきそのままにくねくねとのびた古柳の枝先につつかれんばかりになっている。
 スローチハットに赤鬚の男、門前に立ったままで懐に手を入れ、銀鎖で首からさげたブローチを握りしめる。サンチョよ、まるで俺たちが育った街みたいだよな。声にださずに、ダイヤモンド製のブローチに封入された旧友の魂に語りかける。
 それにしてもなぜ、ここの邸内ばかりに植物が生い茂っているのだろう。その謂われを聞こうにも、同じようにひっそりと静まりかえった家並みが連なるこの一角には、人の姿とてもありそうにない。赤鬚の男、しばらく周囲を歩き巡り、やがて一軒だけ開いている酒場を見つけた。
 スローチハットに赤鬚の男、重厚な木の扉を肩で押しあける。薄暗い店内はひっそりと静まりかえり、天井でファンが音もなく回っている。フロアにはビリヤード台があり、壁にはダーツの的が掲げられ、こういった酒場の典型像と呼べそうなたたずまい。誰もいないのかと思ってしばし立ち惑っていると、カウンターの奥から視線を感じ、見ればそこの薄暗がりに立っていたのは銀髪をオールバックに撫でつけたマスターであった。
 スローチハットに赤鬚の男はカウンターに歩み寄り、スツールに尻を滑りのせると帽子をとって隣の席に置く。
「何かお飲みになりますか?」
「テキーラがあるなら、ストレートでもらいたい」
 銀髪のマスターは心得顔でにんまり微笑み、ショットグラスの縁に塩を盛りつけたものに、ライムの四つ切りを添えてカウンターに差し出した。これは本場の呑み方だ。赤鬚の男はライムを囓り、それからショットグラスに口をつけ、先ほどの屋敷の庭にもあった竜舌蘭の蒸留酒をあおった。強烈なアルコールが胃の腑に沁みわたり、香りが鼻にツンと抜け、男はようやく人心地ついた。

「てっきりゴーストタウンかと思ったよ。ここが開いていてよかった」強いテキーラのおかげで、重たい口も少しは軽くなる。
「今でも住民はそれなりにいるのですよ。ただ、白昼に出歩く人が少ないというだけで」マスターがグラスを磨きながら穏やかな抑揚で答える。
「それでも、この酒場は昼間から開いているんだね」
「そういうことです。パンやらチーズやらの食品、それに生活必需品の一切が公共の万能合成機で作り出され、無償で配給される時代にはなっても、酒はそれなりの雰囲気のある場所で、誰かを話し相手に飲みたいもの。それゆえに酒場だけは、このように閑散とした街並みのなかでも、たいてい店開きをしているというわけなのです」
「おまけに、昼間から飲む酒の味はまた格別だしな」
 マスターの長台詞に、何者かの声が二の句を継いだ。
 やがてギターの爪弾きが響いてきて、その何者かの言葉に節がつき、しわがれたようでいて張りのある独特の歌声が、火星バラッドのたぐいをひとしきり歌い上げた。

  火星に花が咲くものか 赤砂の土にどれだけ人手をかけたところで
  新たなる新大陸 なんて体のいいうたい文句に誘われて
  どれだけのやつらが火星の新天地に夢を抱き 夢に裏切られてきたことだろう
  そこに起きたのが〝大破壊〟 ただでさえ素寒貧ぞろいのこの星に
  食い詰めた有象無象がまた どっと押しよせて来やがった
  おまけに今度のやつらは 裸一貫どころか肉体さえも捨ててくる始末
  人呼んで情報難民(インフュジー) 滅んだ地球から逃げ出すには
  手っ取り早く魂データだけを 飛ばすしかなかったそうだぜ
  ふたたび義体を取り戻す夢 そいつをニンジンみたいに鼻先にぶら下げられて
  そいつらは馬車馬みたいに働かされた
  レッドネック そんな言葉が まさか今の時代に甦るとはな
  だけどここまでぴったりな言葉は どこを探してもなかったのさ
  かつてアメリカで肉体労働に明け暮れ 首筋が真っ赤に日焼けした白人の貧困層
  歴史がひとまわりして ヒルビリーがまたここに現れたってわけなのさ

 歌声の主が店の奥から出てきて、ギターを壁のラックに収めると、赤鬚の男から少し離れたカウンター席に腰かけた。ややウェーブのかかった長髪で、ネイティブアメリカン風の細いヘアバンドを額のところに巻いている。口ひげを蓄えた現代の吟遊詩人は、ボブ・ガスリーと名乗った。
「おれはエルネスト。しがない冒険者稼業さ」赤鬚の男はそう答える。
「あんた、顔に似合わず愛想がいいんだな」
「きみの歌があんまり図星だったからさ。レッドネックとは、まさしくおれみたいなやつのことだからな」
 すると相手は口笛をひゅうと鳴らし、片手を差し伸べてきた。赤鬚のエルネスト、その手をしっかと握りしめる。
 それからギター詩人のボブ・ガスリーが、この街の栄枯盛衰の歴史を先ほどのバラッドよりもなお事細かに、伴奏なしでとうとうと述べたてた。
 赤鬚のエルネストはショットグラスのテキーラを啜り飲みつつ、男の物語を聞いていた。ほろ酔いに心がふわりと浮き立つうちに、前回の冒険の記憶が甦ってくる。エルネストは懐に手を入れて、銀鎖で首から提げている大粒なダイヤモンドのブローチを握りしめた。サンチョよ、もうすぐおまえを蘇生させてやるからな。声にださずにそう胸につぶやく。
 そう、これは装飾品のブローチではない。ダイヤモンド製の外殻のなかに大脳皮質記録装置(コーティカル・スタック)を収めたものなのだ。人間の魂がデジタルデータ化されて記録と保存ができるようになったこの時代、多くの人が延髄にこの装置を埋め込んで魂のリアルタイム保存をしている。もしも死んでしまっても、この装置さえ回収できれば、その人は死の時点までの記憶を保持したままで新たな義体(モーフ)に宿ることができるというわけなのだ。
 そしてこのペンダント型の大脳皮質記録装置には、エルネストの旧友サンチョの魂がそっくりそのまま収められている。
 レッドネック―――先ほどのギター詩人のバラッドの歌詞ではないが、エルネストやサンチョはまさしくそう呼ばれる情報難民(インフュジー)だった。〝大破壊〟の混乱のなか地球から命だけでも逃れでるために、泣く泣く肉体を棄てて魂(エゴ)データだけをここ火星に飛ばしてきたのだ。
 地球の壊滅によって新たに太陽系の中心地となった火星には〝大破壊〟で受けた被害からの復興と、古くから行われてきたテラフォーミングをさらに進めて居住可能な人口を増やすというふたつの大きな需要があり、情報難民が仕事を見つけるにはかっこうの地だった。地球からの脱出の際にすべてを失った彼らは、数年間の労働契約を終えた暁には義体を手に入れられるという誘い文句に乗せられてハイパーコープとの契約を結び、危険な現場でドローンの遠隔操作などに酷使されてきた。肉体を持たないがゆえに疲労回復のための休憩も後回しにされてろくろく与えられず、毎日のシフトも際限のない長時間労働となり、ちょっとした落ち度を理由に一方的に労働契約を延長され、三年の契約が五年に延びて、どれだけ働いても待望の義体にはいっこうに手が届かないのが常なのだった。
 いや、義体を入手できたところで、せいぜいがケースやシンス程度の安物の合成義体(シンセモーフ)。動くたびにガチャガチャと騒々しいその姿がかっこうの蔑視の的となり、ハイパーコープのエリートや特権階級からは〝レッドネック〟と、かつて主にアメリカ南部で日焼けした白人貧困層労働者に対して用いられた差別語でもって呼ばれていたのだ。
「でもあんた、レッドネックだなんて謙遜しちゃいるが、その姿はまぎれもなく立派な生体義体(バイオモーフ)じゃねえか。この火星でひと山当てでもしたんだろう?」ギター詩人のボブ・ガスリーがグラスのバーボンを啜りつつ言う。
「まあ、そんなところさ。ふつうの仕事じゃあ生体義体にはそうそう手が届かんからな」
 じっさい、人に言えないような仕事もあれこれとやってきた。エルネストとサンチョは地球のスペイン語圏で育った幼なじみ。長身で色白だが人づきあいの苦手なエルネストと、色黒の短躯で小太りではあるがどんぐり眼とぶ厚い口ひげに独特な愛嬌のあるサンチョは地球時代からコンビを組んで裏稼業に精を出していたが、お互いに魂データひとつで火星に逃れてきてからも固い絆で結ばれたままで、ハイパーコープとの労働契約をどうにか終えて安物の合成義体に魂を宿してからは、火星の赤砂に埋もれかけた戦闘機械の残骸から価値ある品を盗み取って転売したり、荒廃したハビタットを襲って住民から金品を巻き上げたり、あるいは逆に用心棒として雇われてハビタットを無法者の襲撃から守ったりと、ひと言でくくれば強盗や山賊まがいのこともしてきたのだ。そうして溜めこんだ金でようやく手にしたのが、この生体義体だ。エルネストはビド映像で古い西部劇映画が観るのが好きで、夕陽のガンマンを演じた俳優が特に気に入っていた。地球時代の元々の背格好が長身に赤鬚であの俳優に似ていたこともあり、元々の自分の肉体を再現することがもはや不可能な現状で、妥協も込めて選んだのが、あの俳優に似せたこの義体だったのだ。
 そしてサンチョも、せっかく高い生体義体を購うのだから美男型のものを選んでおけばよいものを、いやいや生まれてこの方なじんできた元の身体に近いやつの方が落ち着くのさということで、ラティーノをコミカルに戯画化したゲームキャラクターに似せた義体を選んだのだ。
 ともかくそうしてお互いに生体義体を取り戻し、冒険者稼業に新たに精を出したのも一、二年のことか。氷の小惑星を曳航して火星地峡に衝突させ、巻き上がる二酸化炭素で温暖化を進めるという惑星連合政府の強引なテラフォーミング計画が批判を呼ぶなか、その氷の小惑星とともに火星にもたらされたという異星人の遺物を探して回収する大仕事で、遺物の価値に目がくらんだあちこちの無法者集団とかち合って我先の蹴落とし合いになり、その戦闘でサンチョを含む仲間たち全員が命を落とした。
 エルネストはもう動かないサンチョの首根にナイフを突きたて、血まみれの大脳皮質記録装置をえぐり出した。それをこのようにペンダントに加工して肌身離さず身につけており、サンチョ以外の仲間たちの装置も、大切に持ち歩いているのだ。
 そうして無法地帯のティターンズ検疫ゾーンをさまようこと久しく、ようやく安全な居留地で人心地つけたのが、このハビタットだったというわけだ。繁華街にある娼館で久方ぶりに女の肌に触れ、その足でそぞろ歩きをするうちにたどり着いたのが、中心街から離れて閑散としたこの一角だ。ふと目に留まったあの城館。廃墟のたたずまいではあったけれど、サンチョと過ごした故郷そのままの植物相に懐かしさが募ってしかたがない。赤鬚のエルネストはボブ・ガスリーに、それについて訊ねてみた。
「あれかい」ギター詩人は視線を天井に向けて記憶を探った。「ワンコムとかいうハイパーコープが、リゾート計画の実験用に買い取った屋敷だったよな、たしか。なあ、マスター」
「その通りです。〝大破壊〟の十数年前のことでした」
「それというのも、見ての通り」ボブ・ガスリーが片手をぐるりとふり回す。「火星は植物の成育に適さない環境だろう? このハビタットもポリカーボネート製の透明なドームにすっぽりと覆われて呼吸可能な大気に満たされちゃいるが、回転草ひとつ生えない乾ききった環境だ。そこにどうにかして植物の楽園をつくり出せれば、千客万来のリゾートホテルにできると奴らは考えたのさ」
「それで手始めに植えたのが、乾燥に強いサボテンの類だったってわけか?」エルネストはそう訊ねた。
「あんたの言うとおりさ。乾燥地帯の植物を皮切りに、温帯植物から、熱帯雨林のものに至るまで、ワンコムの技術者たちはありとあらゆる植物をあの屋敷内で育てることに成功した。ところが、成長促進のために遺伝子改良だかなんだかの手を使ったのがやがて制御不能になって、化け物みたいな植物がはびこるようになったそうなんだ」
「化け物?」
「蛍光色の胞子を吐き出す茸だとか、何かの花が蝶になって空を舞うだとか、まあ噂半分に聞いとくべきなのかもしれねえが、あれこれの怪異が起きたって話だよ」
「それに、もっとおぞましい噂もあるのです」と、マスターが付け足す。「これも眉唾の話かもしれないのですが、植物の成長促進のために人柱のようなことがなされたと言われているのですよ」
「人体を肥やしにでもしたのか?」とエルネスト。
「いえ、人の魂データを肉体から吸い取って、それを植物に封じ込めたのだと言われています。人間の魂を樹木に宿らせることで、慣れない環境でどうにか生き延びようとする人間の生存本能を樹木の成育のための肥料のように利用できるに違いないと技術者たちは考えたのだそうです。言うなれば、生体義体の変種とでも呼ぶべき植物義体です」
「植物義体……」
「ネオ・ピッグやネオ・オルカなどの知性化種は広く実用化されていますが、ご存知のように、植物義体が実用化されたという話は今もって伝えられてはおりません。だとすれば研究室段階の技術を実験的に使ったということになり、おそらく失敗したのでしょう。とにかく、そんなことまでがあの屋敷については噂されているということなのですよ」
「あんた、ちょっとは腕の立つ冒険者なのかもしれねえが、そんなわけだからあそこには立ち入ろうなんて考えないほうがいいぜ」と、ボブ・ガスリーも補足した。
 そこまでで古屋敷の噂話は終わり、沈黙が店内にただよった。ボブ・ガスリーは席を立ってギターをまた取り、壁際の椅子にかけて爪弾きに没頭しはじめた。赤鬚のエルネストは三杯目のテキーラを飲み干すと、無言でうなずき、それを機に立ち上がった。メッシュ経由のクレジットで決済する旨をマスターに告げ、重厚な木のドアを押しあけて通りに出た。

 エルネストは先ほどの城館に歩いて戻ることにした。地球の故郷を想わせるその植物相をいまいちど目に収めて、名残惜しいがそのまま立ち去ろうと考えたのだ。
 赤砂まじりの路面をブーツで踏んで歩いていくと、やがて城館の鉄柵門が見えてきた。そこに何者かの姿がかぶさる。女……こんな白昼閑散とした場末に似つかわしくもないことだが、あろうことか、その女人は蝶つがいの外れて傾いた門の隙間に身をねじ入れようとしていた。
 どこか見覚えがあるような、と首をひねったところで目に映り、記憶も蘇ってきたのが、女が髪留めにしている大輪の白い椿だ。となればあれは、先ほど娼館でこの腕に抱いたプレジャー・ポットではないか! あの女が性娯楽用の半ロボットであるなら、どうしてこんなところまでひとりでやって来る? 赤鬚のエルネストは怪訝な思いに突き動かされ、小走りになって門に向かう。そうするうちにも女は隙間をくぐり抜け、サボテンに竜舌蘭の庭園を城館の方へ歩いて行く。
 もしや彼女はプレジャー・ポットなどではなく、本物の生身の女なのではあるまいか? 娼館の女将から〝椿姫〟の半生とそのクローン作成の経緯を聞かされて覚えた違和感が、改めて胸に浮かんでくる。とにかく先ほどの酒場で、魔物と化した植物がはびこっていると聞かされたこの城館に女が単身踏み込むというのは尋常なことではない。エルネストは彼女の後を追うことにした。
 傾いた門扉の隙間に苦労して身をねじ入れると、女の姿はもう見えなくなっていた。だが、真新しい足跡が点々と続いている。それをたどって城館の脇を抜け、奥の庭園へと進んでいく。
 ギター詩人ボブ・ガスリーと酒場のマスターが言っていたように、邸内の植物相は前庭の乾燥地帯のものから、奥に向かうにつれて次第に変化していった。通り過ぎざまに土埃のこびりついた窓から覗くと、屋敷の広間は蛸の脚のようにくねり伸びた熱帯植物の巨大な葉や蔓にびっしりとからめ取られ、とうてい人が住めるとは思えないありさまだった。
 屋敷の奥庭には睡蓮の浮かぶ池が広がり、印象派の絵画に描かれるような水と緑の光景が広がっていた。春めいた陽射しが池水をきらめかせている。その岸をぐるりと回り込んだ奥の水際に膝をついて水面を覗き込んでいたのが、例の女だ。雛菊やスミレの蔓をからめて編みこんだ花の冠を頭にちょこんと載せ、その装いのできばえを確かめようとするかのように、池水に映るみずからの姿を眺めている。
 やがて女は男の視線に気づいたのか、さっと立ち上がった。その片手にはなぜだか草刈り鎌が握られていた。女は何やら陽気な歌を口ずさみながら、握った鎌を魔法使いの小杖のようにふり回し、まるで柄の先に花火がついていてそこから火花が尾を引いて流れるかのような所作と、半ばスキップするような足取りで、庭園の奥へと向かっていく。
 どうにも正気の沙汰とは考えがたい女のようすに、赤鬚のエルネスト、ますます怪訝な思いを募らせてその後を追う。やがて女が築地塀を回り込むと、そこには一転して東洋的な庭園が広がっていた。
 竹林がその空間をぐるりと囲み、中心には赤瓦の屋根をいただく東屋がある。あたりには梅が咲きそろい、春めいた陽気のなかほのかな香りを漂わせている。甘酸っぱい梅花の芳香に包まれて歩くうちにエルネストは何やら陶然とし、ふわふわと微重力空間を歩むような心地がしてきた。テキーラの酔いが一気に回ったのかもしれないが、あまりの心地よさに、そんなことももうどうでもよくなってきた。さざ波が寄せて足を心地よくくすぐり、無重力感を伴って沖に引いていくかのようで、エルネストはふらふら歩いて東屋にたどり着き、板敷きの長椅子にへたり込んだ。
 そこから夢見心地で眺めるうちに目に留まったのが、庭の端の築地塀を背に植わっている椿の木だ。幹に青苔がうっすら生えたさまからしてかなりの古木なのかもしれないが、ごつごつした幹とは対照的に、光沢のある濃緑の葉が茂ったなかに可憐な薄紅色の花をいっぱいに咲かせていた。
 椿の花はどれを見ても、渦巻きのような薄紅の花びらの重なりの中心に黄色い花芯がつんと伸びていて、それが小気味よいアクセントになっている。
 梅の香りを嗅ぎながら満開の椿を眺めていると、まるでこの古木が椿柄のキモノをまとった黒髪の美女であるかにも思えてきて、赤鬚のエルネストは気が遠くなった。そこに東屋の庇をくぐった陽射しの温もりまでがくわわり、猛烈な睡魔が襲ってきて、彼はそのま長椅子に寝そべり、すぐに寝息を立てはじめた。
 黒髭のサンチョが瞼に浮かび、何かを語りかけてくる。あいつと打って出た冒険の数々、数々の手柄と、幾度もの失敗。そして冒険の場面がぐるぐるとめぐり、エルネストはこの開拓街へとたどり着いた。娼館で巡り会ったあの栗色の髪に白椿の髪飾りの女。プレジャー・ポッドとは思えないまでに情感が細やかで、その柔肌は手のひらに熱く脈打ち、目が口ほどに感情豊かにくりくり動いた。あれは性産業向けの人造人形なのだと女将は言ったが、どうにもそうとは思えない。あまりにも人間くさいところが彼女にはあった。それにくわえて先ほどの奇態。ほんとうは、心を病んだ生身の女なのではあるまいか。だとすれば何者なのか――。
 などなどと思いがめぐるうちに耳にとどいてきた女のつぶやき。これもまた夢なのか、いや夢にしては現実味がありすぎる……と考えながら聞くうちに、遠くかすかだった言葉がはっきり耳にとどいてきた。
「……アルマンさま、わたしのアルマンさま。ようやく戻ってきてくださったのね。嬉しいわ。どれだけ首を長くしてお待ちして、待ちくたびれ過ぎて気がおかしくなりかけたことか。でも、ようやくそれが報われるのですね。嬉しいわ。ほんとうに嬉しいですわ、ああ、わたしのアルマンさま」
 アルマンというのは誰のことだ。彼は赤鬚のエルネスト。人違いだと夢見心地に思いはしたが、午睡のあまりの心地よさに、そんなこともまたどうでもよくなってきた。
 しかし女の声は、あくまで切実で執拗だった。その声が耳に聞こえるのだとエルネストは感じていたが、むしろ心の奥底に直接届いてくるような心地もあった。
「アルマンさま、どうなさったの? もしかして、あんまり久しぶり過ぎて気恥ずかしいとでも思っていらっしゃるの? そんなことは気になさらないでいいのよ。さあどうか、目をあけてわたしを見て。ここであなたをお待ちしているわたしの姿をご覧になって」
 赤鬚のエルネスト、その言葉は夢ではなくまぎれもない現実と受け止めて、むっくりと身を起こす。東洋風の庭を見回して、どこにも人の姿などないではないかと思っていると、築地塀の際に植えられたあの古椿の幹に寄り添うように、ひとりの女が立っていた。
 草を編んだ花の冠を頭にのせている。あの女ではないか!
「アルマンさま!」樹下の女が燃えるような眼差しを彼に注ぐ。万感のこもった言葉が男の胸の奥で谺する。
 声と人柄が結びつかない。幼児程度の知能しかないはずのプレジャー・ポットに、あそこまで理路整然としたしゃべり方ができるわけがないではないか。だとすれば、彼女はやはり本物の、心を病んだ人間の女ということなのか?
 そこで記憶が甦ってきた。娼館の女将から聞かされた〝椿姫〟の半生が。アルマンというのは、伝説の高級娼婦が愛した青年の名だ。そして目の前にいるあの女、娼館のベッドでこの腕で掻き抱いた女も、思い返せばアルマン、その名をうわごとのようにくり返していた。だとすれば、やはりあれはクローン体のプレジャー・ポッドなどではなく、椿姫本人ということになるのではないか?
 だが、そうだとすれば、目の前にいるこの女の若々しさはどういうことか? 年増の若作りなら厚化粧でそれと知れようが、肌にみなぎるはつらつとした精気は、正真正銘の娘盛りの証し。つぼみがひらいてこれから満開を迎えようとする年頃の血気がおのずとにじみ出て、桃のように初々しくも甘く熟れた雰囲気を総身から放散させていたのである。
「おほほほ。まあ、よいですわ。こうして再び逢えたのですもの、焦ることなどひとつもないわ。東屋と庭の片隅との距離を隔てていても、あなたとわたしは将来を誓い合った仲。夫婦の契りもゆめ二心なきものなれば、何があろうと揺らぎはしませぬ。まずは昔話あたりを手始めに、長らく離れていたことの遠慮、他人行儀を解きほぐしていこうではありませんか」
 しかし女の口ぶりは、かようにいかにも年古りたものであった。外見と口ぶりがここまでかけ離れているのはどうしてか。その理由として考えられるものがあるとするなら、それは、あの栗色の髪の女がじつはプレジャー・ポットではなく、椿姫マルグリットの全盛期の肉体をクローン技術でつくりだし、そこに本人の魂のアルファ分岐体を着装させた存在、つまり本人の完全コピーである可能性だ。
 アルファ分岐体の作成は、内惑星圏に属する火星では明白な違法行為だ。いや、それとも、意図的な劣化コピーであるベータ分岐体という線はないだろうか。げんにこの女の言動のおかしさを考えれば。このエルネストをアルマンなどという身に覚えのない名で呼ぶことからして。
「それでは、いいかしら? まずはわたしの思い出話からさせていただきますわよ。ああ、もう、どれだけ長いこと、あなたに再びお目にかかる日、それだけを心の糧に待ち暮らしたことかしら。そうするうちに若さを失い、このままでは別れたままで命果てることにもなりかねないと、出家のようなものかしら、この場所で永遠にも近い生命を得て、いつまででもあなたをお待ちすることにしましたの。でも、それは言うなればまわりから見えない存在になるということ。すぐそばをどれだけ人が通り過ぎても、わたしの存在には気づいてもらえず、話しかけたくても言葉が通じないということ。アルデルセンの『人魚姫』という、地球の一九世紀に書かれた物語のことはご存知かしら?」
 椿の古木の傍らの女は、幹に片手を当てたまま、身じろぎもせずに彼を見つめている。
「それは言うなれば、言葉が通じないがゆえの叶わぬ恋の物語です。人魚の王の六人姉妹の末娘は、海底から水面に浮上して見かけた船上の美しい王子に一目惚れをして、嵐で海に投げ出された王子を救って砂浜まで運びます。ところがそこに人間の娘が通りがかり、王子はこの少女が救ってくれたのだと思い込んでしまうのです。
 海底に戻ってもどうしても王子が忘れられない人魚姫は、魔女を訪ねて人間の姿にしてもらう代わりに、美しい声を奪われてしまいました。
 そうして裸のままあの海岸に倒れていると、今度は王子が人魚姫を助けてくれ、宮殿に連れて行ってくれました。ところが言葉が話せないせいで、人魚姫は思いを伝えることができません。王子は人魚姫を妹のように可愛がってくれるのですが、やがてあの嵐のあとで砂浜に通りがかった娘と結婚することになります。人魚姫はそのさまをじっと見ていることしかできなかったのです。ああ、なんと悲しく、なんと切ない物語なのでしょう。アルマンさま、いいかしら、その人魚姫の憂き身をそのまま生きた女がここにいるのよ。どれほどもどかしく、どれほど待ちわびる日々であったかわかっていただけて? もしやあなたはわたしを捨てたのかと、もうわたしのことなどは忘れて他の女と睦んでいるのではないかと、恨みの気持ちがみぞおちの奥に湧き上がるうちに炎となりかけたことも幾たびもあります。でもいつか、あなたはかならずこうして迎えに来てくださる。そればかりを心の頼みに待ち暮らしてきたのです。その願いがいま、ようやくかなった。どれだけ嬉しいかがおわかりになって? ああ、でも、わたしばかりが長く語りすぎてしましましたわ。今度はあなたの番ですわよ。アルマンさま、これまで長いこと、どうしておられたの?」
 椿の樹下の栗色の髪の女はまたひとしきり彼を凝視して、それから目を伏せた。
 赤鬚のエルネストは縁側から立ち上がり、スローチハットを手にとって胸に当てた。
「なあ、聞いてくれないか。俺はアルマンなんて男じゃない。ほんの何時間か前に、ベッドを共にしたばかりじゃないか。それを忘れるなんてことはないよな。きみはいったいどうしちまったんだ?」
 エルネストは庭に降り立ち、一歩一歩を踏みしめるようにして、古椿の樹下に立つ女の方へ歩いていく。栗色の髪の女は表情をこわばらせ、身震いの気配すらかすかにみせながら、古木の幹にいっそう身を寄せる。
「なあ、はっきり言ってくれないか。きみは元椿姫、マルグリット・ゴーティエのアルファ分岐体か何かなんだろう? 愛しい男を待つことにくたびれて、心のバランスをいささか失っているのではないかな。あの館まで俺が送ってやるからさ、少し休んだほうがいいんじゃないか」
 そうとも、あの若々しい肉体は椿姫のクローン体とみて間違いないのかもしれないけれども、その内に宿った魂(エゴ)は老いさらばえて狂気を宿した椿姫本人のもの。かりにベータ分岐体として劣化コピーしても拭い去れないまでに狂気が深く心を蝕んでいたか。乙女の柔肌の内側でとぐろを巻いているのは狂った老女の魂なのだ。それをプレジャー・ポットなどと表向きに称しているのは、お客の前ではあまり多くをしゃべらせないことで狂気に気づかれないようにするための方便なのだろうか。
 いまや狂女と知れた樹下の女にエルネストは近づいていき、片手を相手にさしのべた。すると女はいっそう表情を固くして、草刈り鎌を頭上に振り上げた。
 エルネストはとっさにその武器をはたき落とし、女の腰に片手を回して抱き上げた。手足をばたつかせる狂女を横抱きにしたまま東屋まで運んで長椅子に寝かせ、頬を平手打ちにして黙らせる。
 はっと目を剥いて頬に手をあてた女。ひと筋の涙が流れてその指先にからまる。
 相手を平手打ちしたばかりの手を女の白桃のような頬に当て、やさしく撫でさする赤鬚のエルネスト。
 狂女は驚きの眼差しをぱちくりとさせていたが、エルネストが赤い無精ひげの生えた頬を緩めて微笑むと、女も顔の曇りを一陣の風が払ったかのように表情を一変させ、童女さながらのあどけない笑みを顔いっぱいに咲かせた。
 そうして狂女は童女となり、そよ風が運んできたたんぽぽの種子に手を伸ばしてつかもうとした。
 エルネストは服の上から女の胸の先端のいちばん敏感な部分を探り当てて指先でつまむ。すると狂女はくぐもった呻きをもらし、童女の笑みを浮かべていた口元を切なげにゆがめ、熱い吐息をもらした。片眉をひそめた眼差しもなまめかしく、たちまち夜の女の色香を取り戻した。
 乱れた裾に片手を差し入れて太腿の隙間を強引に割り進む。そしてたどり着いた部分は驚くほど熱く、すでに充分すぎるほどの湿り気を帯びていた。指先を割り入れると女の喘ぎはいっそうただならぬものとなり、赤鬚のエルネストもこみ上げてくる切迫に我を忘れ、まわりが一切見えなくなった。
 どのみち誰に見られる恐れもない。肉欲に狂わば狂え――。赤鬚のエルネストと栗色の髪の女は娼館のあの天蓋付きベッドでくり広げたものをまた一段と上回る肉欲の宴に一心不乱となり、いつしかどちらも全裸となって組んずほぐれつするのだった。歓喜にかすんだエルネストの頭の奥の片隅を、ふと、そういえば植物の魔物とは何だったかという思いがよぎった。
 そうして痴態をくり広げるふたりの気づかぬところで、庭園ではただならぬ事態が起きていた。あの古椿の樹の大枝が暴風にさらされたように揺れ動き、薄紅色の満開の花がぼたりぼたりと樹下に落ちて、断頭された生首のごとき姿をさらしていたのだ。
「ああ、憎らしい! よりにもよって、わたしの目の前でかくも穢らわしい畜生道のごときまぐわいを見せつけるとは!」
 声もいつしか鬼女の凄みを帯びている。
 古椿の枝々がまるで髪の毛のように天に逆立ち、二本の大枝が蛸の腕のようにするすると伸びてきた。そして赤鬚のエルネストにくるくると巻き付くと、男の身体を草庵の屋根よりも高くふりあげて、それから大きな庭石に勢いよく叩きつけた。男の頭が西瓜さながらに割れ、庭石には血と膿漿がこびりつく。椿の大枝はそれでも足らぬと言わんばかりに、何度も男の身体を大石に叩きつけ、ミンチ肉のようにしてしまった。


鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「古山茶の霊」
* * *

「姉サマ、マタ、ヤッテシマッタノネ」
 長椅子に寝そべったままだった狂女がむっくりと身を起こし、肩で息をする人のように枝々をゆらしている椿の古木を見つめてそう呟いた。
「草刈リ、シナクチャ」
 女は庭に降り立ち、古樹の幹近くに落ちたままの草刈り鎌を取り上げると、あたりの雑草を刈りはじめた。
 これはいったいどういうことなのか? まずふり返れば、酒場のマスターが口にした植物義体の噂があったではないか。それに椿姫マルグリットには、あの娼館の女将があえて口にしなかった噂もあるのだ。愛しいアルマンを待ちつづけるために、植物に魂を宿すことを彼女が選んだというものだ。迫り来る老いを実感したマルグリットは植物の繁殖実験を続けるワンコム社の門を叩き、まだ実験段階にある植物義体の実験台に志願したのだという。植物になればいつまででも彼の帰りを待っていられる。それに望みを託したというのだ。
 今となれば、精神データさえ保存されていれば、何度だろうと義体の乗り換えができる。しかし当時は、義体着装はまだ草創期の技術で、その実施には驚くほどの高額を要した。そんな条件下で椿姫は長寿を得るための唯一の可能性にかけ、木星の流刑衛星での懲役を終えて社会復帰したアルマンが迎えに来てくれることを待つことにしたというのだ。
 あくまで噂に過ぎない説ではある。そしていま東洋風の庭園では古椿の木が何事もなかったかのような姿を見せ、薄紅色の花がぽろりと萼ごと落ちたものが樹下いっぱいに生首のごとくに転がるなかを、椿姫の分岐体ともプレジャー・ポッドとも知れぬあの女が腰をかがめて鎌で雑草を刈り取っていた。
 春めいた陽射しはいよいよ暖かく、梅の香りはますます芳しく、響かぬ鶯の声が待ち遠しくなるような陽気である。そしてこの庭には栗色の髪の女の姿があるばかりだ。精神異常とも、意図的な低知能ともつかぬ謎めいたあの女が。
 そして、もしも植物義体説が本当であるなら、未完成の技術に望みをかけたばっかりに、椿姫はとんだ貧乏くじを引いたことになるのだろう。大破壊後十年の今もって植物義体が実用化されていないことに照らせば、義体などとは名ばかりの魂の牢獄に閉じ込められたことになるからだ。椿の古木から出ることもできず、まわりを通りかかる人に意思を伝えることもできないのだから。
 古椿の精という妖怪がはるか昔の東洋で言い伝えられている。通りがかった商人の前に女人の姿で現れて男をたぶらかし、亡き者にするという類だ。ことによると、それらの精というのは、異星人のロストテクノロジーで植物義体に閉じ込められた女の魂のなれの果てなのかもしれない。いや、きっとそうであるに違いあるまい。



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