「赤との混色」葉月雨音+岡和田晃

(紹介文PDFバージョン:akatonokonnshokushoukai_okawadaakira
〈「ポップカルチャー論」学生優秀作〉
「SF Prologue Wave」は日本SF作家クラブの総会で公認され、有志によって運営されるネットマガジンです。その関係から、寄稿者は基本的に、SF作家クラブ会員ないし、その推薦を受けた、現在プロとして活躍中の作家ということになります。
いずれも興味深い作品が展開されていますが、他方で、よりみずみずしい原石のような才能の煌めきに触れてみたい、という方もいらっしゃるでしょう。
そこで今回は、十代後半から二十代前半、現役の大学生が書いた作品をご紹介していきたいと思います。経緯は以下の通り……。

 私(岡和田)は、二〇一五年から大学で非常勤講師をつとめているのですが、二〇一六年より、勤務先の群馬県の共愛学園前橋国際大学で「ポップカルチャー論」を受け持つことになりました。SF・ファンタジー文学の古典を講読しつつ、映像資料を交え、ロールプレイングゲームの方法論を応用したワークショップを展開するなど、さまざまな角度から、単に消費者としての姿勢から一歩踏み出し、ポップカルチャーを学術的かつ批評的に分析する教養を身に着けることを主眼としてきました。二〇一六年の受講生は六十数名。
期末レポートの課題では、創作と評論、双方をOKとしたのですが、創作として提出されたもののうち、優秀作を皆さんにご紹介したいと思います。今回お披露目する、葉月雨音さん(ペンネーム)の小説「赤との混色」は、二〇一六年の講義から生まれた優秀作。一風変わったホラー作品です。
「ポップカルチャー論」では、モダン・ホラーについても時間を割き、J・S・シェリダン・レ=ファニュ『カーミラ』、H・P・ラヴクラフト『ダゴン』、藤子・F・不二雄『流血鬼』といった古典的な作品を読み、また吸血鬼文学の歴史についても講義しました。
それとともに、ゴシックパンクRPG『ヴァンパイア:ザ・マスカレード』の日本語展開に関わった岩田恵・徳岡正肇の両氏をゲスト講師としてお招きし、同作を応用したキャラクターメイキングやライフパス、簡単なストーリーテリング体験ができるワークショップを展開しました。「赤との混色」は、こうした経緯で生まれた作品なのです。
ちなみに、『ヴァンパイア:ザ・マスカレード』は、アメリカ・ホワイトウルフ社が開発した作品で、とりわけ一九九〇年代にはRPG界をほとんど席捲する勢いで、TVドラマにもなりました。現在も根強い人気を誇ります。アトリエサード社より日本語版が出たときには「SFマガジン」や「SFオンライン」で大きく紹介が出ました。つい最近も、関連作品がPCゲームとしてアナウンスされたばかりです。
有名どころでは、ナンシー・コリンズの〈ソーニャ・ブルー〉シリーズ(ハヤカワ文庫FT)は『ヴァンパイア:ザ・マスカレード』のシェアードワールドでもあります。映画・原作ともに大ヒットした『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』や、〈トワイライト〉シリーズとも響き合う内容と言えるでしょう。
『ヴァンパイア:ザ・マスカレード』の大きな特徴として、貴族のようなヴェントルー氏族、暴れ者だが哲学者のような思慮も持つブルハー氏族、野生を忘れないギャンレル氏族、魔術を用いるトレメール氏族、芸術を愛するトレアドール氏族など、ドラキュラ伯爵のようなイメージに留まらない多彩なヴァンパイア像が提示されています。
そして「赤との混色」は、そのトレアドール氏族の設定が参考にされています。芸術に魅せられた大学生の語りで進められる作品なのですが、決して「わたし」という一人称を使わず、随所で「赤」のイメージが多重に混交されていく筆致も魅力的。
なお、ワークショップとして提出された小説の執筆者は、その多くが小説を書くこと自体初めてで、日頃、本を読む習慣すらなかった受講生もいたほど。大学での講義そのものも、プロの作家を育てるよりも大学生に期待される学術的な知見の習得を重視していました。それゆえ課題として提出された小説も、創作的批評としての習熟度という観点から採点を行っております。この点が、他の「SF Prologue Wave」掲載作とは大きく異なります。あらかじめ、ご諒承ください。
「SF Prologue Wave」での公開にあたっては、片理誠編集長の助言を参考に、岡和田晃が補作を行いました。(岡和田晃)

(PDFバージョン:akatonokonnshoku_hadukiamane
真っ白なキャンバスへ色鮮やかなパレットから色を移す。赤を、青を、黄を移していく。鮮やかな色の次は、淡い色。茜を重ね、蒼を加え、橙を混ぜていく。そうやって望む形を、質感を、表現するに相応しい色を探していく……。
絵を描くことが好きなわけではない。ただ描きたい「もの」があるから筆を動かしているだけ。大学へも、その「もの」を表現するやり方が知りたいから来ているだけ。
咳き込む。どうにも体調がよくない。妙に身体が重いのだ。もう何年もこの状態が続いているが、いっこうに慣れない。
不意に、ノックの音が響く。
教室の扉に寄り掛かり、こちらを覗う教授の姿があった。
「熱心にやってるところ、申し訳ないね」
表情からは申し訳なさよりも呆れたような感情が読み取れた。事務的にいいえと返すと、教授は諭すように続けた。
「残って描いているのは構わないが、もう夜間部の時間だ。まだ続けるようなら邪魔にならないよう、隅でやりたまえ。最近は変質者が大学をうろついているという話もあるようだから、早く帰ったほうがいいぞ」
それだけ言うと教授はそそくさと帰っていった。声をかけられて気づいたが、随分と絵に没頭していたらしい。描き始めたときにはまだ明るかった外が、もう真っ暗だ。
だがここで一旦やめて家へ帰るには切りが悪い。夜間部の学生達には申し訳ないが、このまま教室の一部を借りて続きを描いてしまおうと思い、指示されたとおり教室の隅へと移動した。

我に返った。頭がふらつく。
いちど描き始めると、夢中になって止まらないのだ。これ以上イーゼルに向っていては倒れてしまう。一段落ついたと言えるところまで描けたし、もう帰ろう。そう思い、音を立てぬよう気をつけながら筆を片付け、まだ作業している夜間部の学生たちを後目に教室を後にした。
教室を出ると、月明かりが廊下を照らしていた。まだ満ちておらず、街灯も必要最低限しか点いていない。そんな心許ない明かりの下で歩いていると、まだ幼かった頃に実家の倉庫で遊んでいたことを思い出す。

実家は先祖代々継いできた古い家で、その倉庫も家ほどではないが古いものだ。倉庫は元々、アトリエだったという。持ち主は何代も前の先祖の誰か、ということしかわからない。素性は知れず、突如行方をくらませた人らしく、その人がいつ戻ってきてもいいようにと、当時の家族がアトリエをそのまま残していたという話だ。それが時代を経るにつれ、倉庫として使われるようになり、アトリエだった面影は少しずつ失われていった。
だから倉庫には色々なものがあり、子供の好奇心を満たすには十分な遊び場だった。絵を描き始めるきっかけとなった作品を見つけたのも、そんな倉庫で遊んでいたときだ。
倉庫の中でも人目を憚るようにひっそりと置かれていたその絵は、ある人物を描いたものだった。男性だったのか女性だったのかは今でもわからない。中性的で、そう、綺麗な人であった。家族に聞いたところ、誰もその絵を知らなかった。ずっと置かれていたはずなのに、見たこともないと言うのだ。親戚でさえも、わからなかった。おそらく、アトリエとして使っていた人が描いたものだろう。それ以上は、あたかも記憶に霧がかかったかのように、誰も教えてくれなかった。まるで触れてはいけないことのように。
封印された記憶が不意に蘇る。
確かに、絵のなかのその人と目が合った。
生気が宿ったかのようだ。そう、微かに。
あんなにも心を奪われたのは、後にも先にもその時だけだ。まるで初めて恋に落ちた少女のように、その絵のことだけを考え、暇さえあれば眺めていた。
何もしていないのに、だんだんと体重が落ちていった。頬はこけ、目の下には隈ができ、それを隠すため、慣れない化粧をする羽目になった。それでも、少しずつ体重は減っていた。
あの人は化粧なんて無くても、そのままで綺麗なのに。
絵に話かける様子を見ていた周りの大人たちは、あの絵に魅入られただの、いや単に頭がおかしくなったのだの、好き勝手に言い放ち、あの絵を恐れていた。畏怖するあまり絵を燃やしてしまうほどに。
魅入られたというのは、今でも否定は出来ない。あの絵があったから、こちらの世界――日常ならざる世界へと来てしまったのだから。

そんなことを思い出しながら歩いていると、前から来ていた人に気づかず、ぶつかってしまった。
「ごめんなさい」
すぐに謝罪の言葉を述べ、頭を軽く下げた。頭を上げて、ぶつかってしまった相手を見やる。
――なんて美しい人。
その人を見たとき、素直にそう思った。化粧などで人工的に造られる美とは違う。赤みがかった黒い目と色素の薄い髪。常人離れしているようにも思えるが、違和感を抱かせない不思議な雰囲気。
ぼんやりとあれこれ考えていたら、天使のような顔立ちをしたその人は、こちらに一礼すると歩き去ってしまった。
後姿が惜しくて、想い人を見つめるように眺めてしまった。

数週間後。
あの日から何度か、夜間部の時間まで学校に残っていることがあったが、あの人に会うどころか、見かけることすらなくなった。
実在する人物なのだろうか。夢と現実とが、絵の具のようにごちゃ混ぜになっているのではないだろうか。
そんな、ある日。
自分の記憶に信が置けなくなっていた夜、キャンパスへの道を急いでいた。あの人に出会った時間よりも、もっと深く暗い、そんな時間。不安に駆られる。なぜこんな時間に脚が向かうのかわからない。それなのに不安に駆られる。
まるで、何かに操られているように。

ふと、急ぐ足を止める。今まで自分を襲っていた脅迫の念が消えている。ならば家へと帰ろう。用事など無いのだから。
ボト……。
物音がした。
ポトリ……
水音のようだ。
続いて、小さな悲鳴。何かが倒れる音。
それらはすべて、すぐそばの路地裏から聞こえた。周りに人はおらず、きっと物音も悲鳴も、聞いたのは自分だけ。このまま帰ればきっと誰にも気にされず、見過されてしまうだろう。だってそこはただ、道があるだけの路地裏。誰も気にすることはない。
意を決した。
正義感ではなく、純粋な好奇心。下世話な野次馬根性だ。
路地裏に近づくたび、大きくなる不安。
嫌な予感がする。自分のすべてが変わってしまうような感触。あの絵が燃やされた悪夢を、一時期よく見たものだが、あえて言うとそれに近い。
やめておけばよかった。引き返せばよかった。
好奇心は猫を殺す、と諺に言う。その通りだ。だが、三つ子の魂百まで、虎穴に入らずんば虎児を得ず、とも言うではないか。好奇心旺盛なのは子供の頃からだ。仮に選択をやり直せたとしても、変わらないだろう。
――後悔してもかまわない。

街灯など何処にもなく、真っ暗なはずだった。銀白色の満月だけが、〝それ〟を照らしていた。恐ろしいほどの壮麗さ。月明かりに照らされた〝それ〟は、ペンキをぶちまけたように広がるアカの中にあった。そのアカは未だに広がり続けている。アカが足元まで流れて、靴を汚すのを見てしまったらもう、気づかぬフリは出来ない。独特な鉄臭さを無視することは出来ない。アカの中にある〝それ〟が物言わぬ死体であることも。
死体は人間大の大きさだった。だが人であるならば持つはずのない鉤爪や牙、獣の耳を持っていた。
そんな死体の傍らに誰かがいる。あの人だ。一人、死体の傍らに立っている。全身を血で染めながら。
ここに生きているものは、自分とその人だけ。
これは本当に現実か。夢なんじゃないだろうか。駄目だ。頭が混乱する。思考がまとまらない。
しくじったか、と呟いて顔をしかめる。牙を生やし、口元が血で汚れていた。死体にはまるで、牙で噛み付かれたような傷跡がある。
――まるで、吸血鬼のよう。
まともに働かない頭で、ふと考えた
不意に、金縛りが解けた。生存の本能が勝ったのだ。
あれは何だ。吸血鬼なら、次にエサとされるのは自分ではないか。冗談じゃない。エサにされるのはごめんだ。死にたく無い。
まだあの人がやったという確証は無い。それに襲って来てもいない。しかしあんな状況を見て、逃げ出さないやつはいないだろう。
――逃げろ。脳が命令する。
走れ、早く、駆けろ、逃げろ!!

追いつかれた。もう無理だ。逃げることなんて出来ない。袋小路に入ってしまった。まるでB級映画だ。
「まあ、ひとまず落ち着いてくれよ。私は君を襲う気はないんだ」声が聞こえる。
見た目に反したフランクな話し方をするんだな、と冷静になりきれない自分にツッコミを入れてしまう。
「こんなところで話すのはなんだ。どこか人気の無い、落ち着いた場所に移ろうではないかね」
そう、人間ではない者――〝吸血鬼〟は続ける。
「だが、生憎、私は流浪の身でね。諸般の事情で、大事な寝所を失ってしまった」
芝居がかった仕草と共にそう問いかける。問いかけの形をとってはいるが、こちらの回答など肯定以外認めない押し付けがましさがある。にもかかわらず、話しぶりに嬉しさがにじみ出ている。馴れ馴れしい。そんな吸血鬼のご機嫌な様子に嫌な予感がする。
こちらのそんな思いなどお構いなしに目の前の存在は告げる。
「そこで、だ」
待ちきれないと、チャンスを得たと言わんばかりに。
「私を君の家へ招いてもらおうか」

吸血鬼を家へ招待してしまった。しかし、仕方ないだろう。あそこで断れば殺されていた。
家具は必要最低限しかなく、他はキャンバスなどの画材。そんな殺風景な部屋を、興味深そうに眺めている。
一通り見て満足したのか吸血鬼はこちらへと振り返り、さて、と勝手に話し出す。
「君には感謝している。我々は呪われた存在。黴の生えたような伝承に縛られてしまう。招かれなければ、他人の家に入ることはできないのだよ。トランシルヴァニアの某伯爵と同じだな」
美しい顔に似合わず、おどけた調子で続ける。
「あの現場を見られて言い訳は出来まい。私がどんな存在なのかは……わかっているね」
冗談じみた口調のなかに、脅しが交じる。
「正体を知られたとなると、死んでもらうか同胞になってもらわなければならない。だが、私はどちらの結末も望んではいない。まあ、公子の許可なしに、不用意に仔は増やせないしな」
まだ冷静になりきれない頭に、吸血鬼の話は殆ど入ってこない。にもかかわらず相手は続ける。
「それに、何を隠そう……私は君のファンなのだよ。才能に惚れていると言ってもいい!!」
楽しそうに吸血鬼が言うには、私が夜まで大学に残って絵を描いているのを、どこかからこっそり観察していたのだという。お世辞にも巧いとは言えないが、定命の者ならではの渇望が出ている。そのエネルギーに惹かれた……云々。倉庫に保管してあった作品も盗み見ていたらしい。
思い返せば、あの人と遭う夢を見ると必ず、起きると首に二つ、小さな穴があいており、げっそりと疲弊したものだ。おそらく、私の知らないところで、吸血鬼にマークされていたらしい。
だが……それを嫌だと思わない自分がいる。

「君の絵をまだまだ見続けていたい私としては、それらは避けたい。殺しはもちろん、吸血鬼にしてしまうと創作能力が無くなってしまうからね」
吸血鬼になってしまうと創作能力が無くなるとは不思議な話だ。聞いたことがない。よくあるお約束通りという訳ではないのか。
そう思っている間も相手は話し続ける。
「君には知る由もないことだが、わが一族は人間から身を隠して暮らしている。数では圧倒的に負けてしまうからね。それに、いくつもの派閥がある。なかには私のように、芸術をこよなく愛し、その庇護者となる者らもあるのだ。正体を隠し、こっそりとね。しかし君に、私の真の姿が知られたと仲間たちにバレると、私が追われる身となってしまう。それはとても面倒だ」
こちらが相槌を打つかどうかなど、お構いなしだ。
「だから私のことは誰にも言わないでいてくれると嬉しい。もし誰かに話したならば、私は君を殺さなければいけなくなる」
そんな恐ろしいことを平然と言ってのける。
「まあ、言ったところで誰も信じないと思うがな。むしろ君のほうが、頭がおかしくなったのではないか、と心配されるだろうけどね」
そう言うと吸血鬼は可笑しそうに目を細めた。
この状況にまだ理解が追いつか無いのだろう。話の内容は頭に入って来ず、ただ吸血鬼の姿を見ていることしか出来なかった。
改めてみると不思議な人だ。吸血鬼だというのに、話すその姿は普通の人間にしか見えない。話の節々に恐ろしさが出ているはずなのだが、どこかの紳士と話しているかのような感覚を覚えてしまう。
格好もお話の中に出てくる燕尾服の吸血鬼のようなものではなく、カジュアルな普段着だ。いつの間にか、返り血も無くなっている。特殊な能力を使ったのか。
ゾッとしたが、すぐに気にならなくなってしまう。と言うのも、画材に埋もれた部屋の中に立つその姿が、ひとつの作品であるかのような錯覚を覚えてしまったためだ、目の前に居るのが恐ろしい怪物であることを忘れさせるほどに。
「綺麗だ……」
見とれていたが、つい口から漏れてしまった。
その言葉を聞いた吸血鬼は少し驚いた顔を見せた。だがそれは一瞬で、どこか嬉しげな表情へと変化した。
「そう言ってくれるのは嬉しいな。褒められて悪い気はしない」
吸血鬼は複雑な表情を見せ、小さく呟く。
「わがままを許してもらえるなら、君に絵をまだ描いて欲しい……」
案外、表情がコロコロ変わる人だと思っていると、
「うむ、綺麗だと褒めてくれたお礼だ。君の絵のモデルとなってあげよう!」
そんなことを言い出し、度肝を抜かれた。
突然の申し出に驚いて何もいえないでいると、さらに続けた。
「自分で言うのもなんだが、私の容姿は君の、絵の題材にぴったりじゃないか?」
確かに自分は男性とも女性とも取れる人物をよく題材としている。そう、いつか見たあの絵の人のような。
題材が分かるほどに自分の描いたものを知られていた。願ってもいない提案に応答しなければ。
そうは思ったのだが、口も身体も思ったように動かない。
どうやら想像以上に疲弊していたようだ。今まで耐えてきた眠気や疲れが一気に襲って来た。
上手く力が入らない。ふらつく。
「いや、これではお礼にはならないか……ならば……」
吸血鬼はまだ話し続けているが声が聞こえるだけだ。内容は頭に入ってこない。
意識が遠のいていくのがわかる。
ああ、倒れる。
トス……。
「おや」
抱きとめられたようで、驚きが混じった声がする。
お礼を言わなければ。そう思ったが瞼が重い。
「……まあ、こんな時間だ。しかたない」
吸血鬼のそんな声が聞こえる。
「お礼の話はまた、君が目覚めてからだな」
やさしげな声だ。
起きたら消えてしまうんじゃないか。もう見ることが、かなわなくなってしまうのではないか。また、記憶の中でしか会えなくなってしまうのではないか。
そう思ったら、最後にもっとしっかりと見ておきたい。重い瞼を開き、吸血鬼を見る。
眠気がピークなのだろう。ちゃんと見えない。ぼやける。
だが、ぼんやりとしか見えない吸血鬼に、あの人が重なる。
ああ、何で気づかなかったんだろう。
「そうだ……貴方は似てるんだ、あの人に。……昔見た、あの絵のなかの、あの人に……」
もう、記憶の中でしか会えない、綺麗な人に。
それに対して吸血鬼は驚いたような、ほんの少し嬉しそうな表情を見せた。
ああ、ダメだ。眠気に勝てない。
「おやすみ、―――」
名前を呼ばれた気がする。母が我が子の成長を見守るような声音で。あるいは、父が我が子の成長を喜ぶような……。

葉月雨音プロフィール
岡和田晃プロフィール