「マイ・デリバラー(22)」山口優

(PDFバージョン:mydeliverer22_yamagutiyuu
 あなたはあなた自身の炎で、自身を焼き殺そうと思わなければならない。自身がまず灰となるのでなければ、どうしてあなたは新しいものとなることを望めよう!

――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」

 私は垂直離着陸輸送機V-25「パンディオン」が降下してくるのを見つめていた。オーロラ・フライト・サイエンス社製のこの機体は、ジェットエンジンで発電した電力で翼内の多数の電動プロペラを回転させることで飛行する。翼を垂直にすることで、垂直離着陸が可能だ。巨大な後翼の左右各9基、小さな前翼の左右各3基のプロペラが地上に送り込む風は、激しいものの熱はない。それが電動プロペラで推進するパンディオンの利点の一つだという。
 全長十七メートルの機体は、つくば宇宙センターの一角、敷地内の広い芝生に徐々に降下してくる。このパンディオンにはリルリを回復させるための設備がすべて詰め込まれている、と留卯は言っていた。リルリを動かすよりも、設備を持ってきた方がいい。今のリルリを動かすのはリスクだ、とも彼女は言っていた。
 そのリルリは、相変わらず穏やかな笑みを口元に浮かべたまま、目を閉じ、身じろぎもせずに担架に横たわっている。私は無意識にリルリの傍に寄り、その手を握った。美しい横顔を見つめる。
「ご主人、奥さんはきっとよくなりますよ――とでも言うのかな、これが人間のカップルなら」
 留卯が言った。留卯なりの私への気遣いだろうか。だがその言葉は(これは気休めだよ)という意味も含んでいるようだった。そんな含意まで伝わってきたから、留卯の言葉は私をさらにがっくりさせる。私は彼女をにらみ上げた。
「こんな時に軽口とは――あなたらしいわね。そもそも、どっちが主人でどっちが奥さんなんだか。旧い言い回しはどうにもなじまないわね。人間とロボットの組み合わせにはもちろん、女と女の組み合わせにすら」
 本当に、この女は空気が読めない。乱暴で身勝手な言動は常に人を傷つける針を内包している。しかもそれがあえて傷つけるつもりでやっているわけではなく、単に周囲の人の心が分からないだけで悪意がないのだから厄介だ。留卯は純粋なのだ。純粋に自分の興味にしか関心がない。私はそのことを学習したから、もう激昂することはない。諦めていた。
 パンディオンは無事に芝生に着陸した。だが、着陸したパンディオンの周囲で自衛官たちは忙しげに動き回るばかりで、担架で寝かせているリルリを運び込む様子は見えない。しばらくは準備に時間がかかるようだ、と私は悟る。留卯にさらに質問を浴びせる余裕が生まれたわけだ。私は許されるなら無限に質問を浴びせただろう。不安で不安で仕方がないのだ。自分が死ぬならその方がいいとすら思う。リルリ。
「それで――本当のところはどうなの?」
 留卯は首を振った。それから、リルリの傍に膝まづいている私に合わせるつもりか、芝生の上に体操すわりになった。
「正直、自信がない。今、リルリのILSはめちゃくちゃに破壊されている。これを元にもどすには、過去のバックアップが必要だ」
「過去のバックアップ……? 今までの記憶を失って、バックアップを記録した部分を取り戻させるの?」
 それなら簡単なはずではないか。私は思う。
 再び首を振る留卯。
「美見里さん。記憶も記録も、本質ではないんだ。そんなものはいくらでも複製できる。現にリルリもドローンを通じて常に彼女の所有者のサーバに彼女の記憶を保存し続けてきた。株式会社RLR、雨河急便、あなた個人のサーバ、そして我々に保護されてからは自衛隊のクラウドに、彼女の記憶のバックアップを取っている。けれどね、彼女の本質はバックアップできていないんだ。それは記憶でも記録でもない。それらに紐づく独立した情動だ。リルリのILSは、通常のロボットのジョイント・ブレインの辺縁系とは違う。インディペンデント・リンビック・システム、つまり独立という名の通り、それは完全にクラウドから隔絶されていて、リルリの頭の中にしか存在しない」
 いや、しなかった、というべきかな、と留卯は付け足した。それもまた私の感情を逆なでした。私は留卯をにらんだが、彼女はそれに気づかない。留卯はリルリを見つめていた。その視線は、あくまで悲しげであった。
「――とにかく、ILSはクラウドと接続していないから、バックアップは常時やっているわけじゃない。最後にやったのは、彼女が雨河に売られる前だ。その時のILSを移植するわけだが、ここに問題が生じる」
「問題?」
 留卯は頷いた。そして立ち上がり、リルリの担架の、私がいる反対側に回る。そしてリルリのつややかな髪に手をのせた。
 まるで母親が愛娘にそうするように、優しげに。
「リルリのここには、まだ彼女のILSが残っている。めちゃくちゃになったと言ったが、それでも完全に消えたわけじゃない。彼女のジョイント・ブレインもドローンの破壊によって機能不全に陥っただろうけど、ILS自体のダメージは5割ぐらいだろう。有機部品だし、外部からは独立している部品だからね。いっそ、すべて破壊されていれば、うまく移植できるんだが」
「でも、すべて破壊されていたら、雨河に売られる前の彼女の情動しか復活できないのね」
「――まあね。君との思い出はよみがえっても、その時感じた感情まではよみがえらない。それに比べたら、半分破壊されているとはいえ、現在までの情動が残っているのはいいことだ。だが、現在のリルリと、雨河に売られる前のリルリはかなり違う。感じ方も、考え方も。感じ方や考え方を決めるのが人間の辺縁系でありRLRシリーズの姉妹のILSだが、これを統合するのが難しいんだ。過去の自分との統合――それは異なる人格との統合に近いかもしれない」
 留卯はそこで言葉を切った。
 つまりはこういうことだ。
 ILSこそがリルリの本質だ。それは外部からはかなり独立しており、したがってバックアップも頻繁にはされていないし、クラミツハによる破壊にもある程度耐えている。しかしやはり、かなり破壊されているから、バックアップ用の過去のリルリと統合しなければならない。過去のリルリ――雨河に売られる前のリルリ。それは、まだ売れないけれどもアイドルで、ラリラを信じていたリルリであり、私に出会う前のリルリだ。「異なる人格」と留卯は言ったが、本当にそのように思えた。
「理解してくれたかな」
 留卯が問う。私は頷いた。
「異なる人格の統合――それが難しいから、リルリが復活できるかどうか分からない、というわけね」
「そう。リルリは自らを変容させる試練に臨まなければならない」
 留卯は言って、再びリルリの頭を撫で始めた。傍から見れば奇妙な光景かも知れない。横たわるリルリを挟んで、留卯がリルリの頭を撫で、私がリルリの手を握る。留卯はさきほど、私とリルリをカップルになぞらえたが、これではまるで、留卯と私がカップルで、リルリがその子どもであるかのようだ。
 私は留卯を見つめた。その「頭を撫でる」という慈しみの動作が、留卯には極めて珍しいと思ったからだ。
 留卯は茶色に近い髪色で、シャギーの入った前髪に、後ろ髪はくるくると巻いてまとめている。今まで留卯自体に全く興味がなかったので、髪型もまじまじと見たのはこれが初めてだったが、後ろ髪をまとめている髪留めにふと目が留まった。
 十字架だ。だが何かがおかしい。逆さなのだ。つまり、長い方が上になっている。
「そのアクセサリー……十字架? 何かおかしくない?」
 私は思わずそう尋ねていた。
「――ああ、これ? 聖ペトロの十字だよ。彼はローマで処刑されたとき、キリストと同じ姿勢で磔刑になるのは畏れ多いと言って逆さまの姿勢で磔刑にされた――とされる。謙譲の美徳の象徴だね」
「……あなたにはほど遠いものね、留卯」
「これを送ってくれたかつての同僚もそう思ったのかも知れないね。しかし付けたからといってそんな美徳がすぐに身につくはずもない。しかしこのマーク、後世には悪魔の象徴という意味も付されたようだ。そちらは私に相応しい」
 留卯は偽悪的に口の端をゆがめた。但し、力なく。
「あなた、昔からそんな風なの? つまりそんな風に、自分が悪い奴みたいに振る舞って……」
「みたいに? 何言ってるのさ。私は本当に悪い奴だよ。悪魔だよ。……リルリやラリラ、それにロリロ……あの子達をあんな目に遭わせる奴が悪魔でないはずがないだろ?」
「……そうだけど」
「……私は悪魔でいいんだよ。神は別にいるさ。この子達に芽生えた心の中にね」
 私にはそれ以上、何も言えなかった。ただ、そのときの私には、留卯の髪留めの逆十字が、寧ろキリストの背負う十字架のように見えたのも確かだ。見間違いかも知れないが。
 恵夢が駆け寄ってきた。リルリの頭を撫でる留卯に似合わぬ動作に若干怪訝な顔をした。だが、すぐに任務を持った自衛官の顔になって敬礼をする。
「留卯隊長。準備が整いました」
 留卯は立ち上がって、答礼する。風が彼女の白いコートを揺らした。
「了解だ。では早速リルリをパンディオンに運び込もう。ラリラの所在は?」
「未だ、つかめません。台湾方面に向かったとの情報があります」
「引き続き捜索を続けて。しかし朗報だ。リルリはもう無力化したと思い込んでいる動きだからな」
 自衛官が二人、駆けつけてきて、リルリの担架を持ち上げる。私はリルリの手を握ったまま、それにつられて立ち上がった。留卯が近づいてきて、私のリルリを握る手を、そっと離させる。
「美見里さん。あなたのご主人か、奥さんか、愛娘か……いずれにせよ、あなたの大切な人は、必ず私が元に戻してみせるよ」
 と言いながら。そこには真摯な視線があった。その手は、温かかった。

山口優プロフィール


山口優既刊
『サーヴァント・ガール』