「人類の進化」高橋桐矢


(PDFバージョン:jinnruinosinnka_takahasikiriya
 部屋に入るなり、強い視線を感じた。
 わたしは視線の主に目を向けた。
 窓際に、大きな犬が前足をきちんとそろえて座っていた。シェパードに似ているがもっと大きく、目つきが鋭い。黒曜石のような目で、わたしのことを値踏みするかのようにじっと見つめている。
「これがうわさのウルフドッグか」
「ああ。そろそろ君が来る頃だと思っていたよ。キャサリンも君に会いたがってる。今、コーヒーをいれるよ」
 朝田教授は、愛想良くほほえんで、手招きした。
「アメリカのブリーダーから手に入れたんだって?」
「ああ、ジョンには、アメリカアカオオカミの血が2分の1入っている」
「それにしては、なかなか賢そうだな。犬の血が強いのかな?」
 ウルフドッグのジョンが耳をぴくりと動かした。自分のことが話題になっていると分かっているように見える。
 朝田教授が、首をかしげた。
「なにか勘違いしていないかね? 脳容量はオオカミのほうが犬よりも大きいのだよ」
「え? オオカミのほうが?」
 朝田教授はコーヒーメーカーにカップをセットした。ふくよかなコーヒーの香りがただよう。
「家畜、ペット化された動物はみな、脳容量が小さくなる。イノシシとブタ。野生牛と家畜牛。ヒツジの野生種と家畜化されたヒツジ。みな同様に、家畜化されて脳が小さくなった」
「へえ、そうだったんだ」
 知性をたたえた瞳と見えたのは、気のせいではなかったのか。
 朝田教授は、ジョンの首筋をなでた。
「野生種が飼いにくいと言われるのは事実だ。彼らは、自分の頭で考え、自分で行動し、自分の力で生きてきたんだからね。そう簡単に、人に懐いたりしないさ」
 わたしは、なるほど、とうなずいた。
「ということは、家畜やペットは、長年人間に支配されることで、脳の機能の一部を手放した、あるいは人に受け渡したとも言えるわけか」
「そうとも言える。そしてそれはわたしたち人類にもあてはまる」
「そうか。それがあの最新の論文につながるわけだな」
 学会だけでなく、世間を大論争に巻き込んだ問題の論文。
 朝田教授は、苦笑した。
「真実だからといって、すぐに認められるとは限らない。人間が、家畜化されているなんて、認めたくないと思う者が多いんだろう」
「確かにスキャンダラスな論文だよ。本当に人類の脳容量は小さくなっているのか?」
「ああ、1~2万年前の成人男性の脳容量の平均はおよそ1500ml。現代人の平均は1350mlだ。ここ一万年でおよそ、一割ほど小さくなっている」
「脳容量は、頭の大きさと関係あるのかい?」
「有意な相関関係があるといえる」
「それじゃ、最近の小顔ブームも、巧妙な情報隠蔽なのかもしれないな」
「まあ、ものは考えようだよ。前世紀には、人類は、支配者と被支配者に分かれて進化してきたと考えた者もいた。暗黒の優生学の時代だ。それに比べれば、人類皆家畜、平等でいいじゃないか」
 わたしはうなずくしかなかった。確かに、人類は平等に平和に退化してよかったと思うしかないのかもしれない。
 人類は、いつのまにか、気づかないうちに完全に支配され、従順な下僕となっていた。
 朝田教授がみずからコーヒーをいれてくれた。ふくよかな香りがひろがる。
 わたしは、奥の部屋につながるドアに目を向けた。
「ところで、キャサリンの具合はどうだい?」
 キャサリンはこの夏の暑さで体調をくずしてしまい、先週は毎日点滴をしていたと言っていた。
「大分よくなったよ。アルプスから取り寄せた水もよかったみたいだ」
 わたしは内心、やれやれ……と思った。人類学教授である教授が、キャサリンのためなら、アルプスからあやしげな高価な水を取り寄せることも厭わない。朝田教授はもちろん仕事熱心な研究者だけれど、それ以上の情熱を、ひたすら、愛するキャサリンにささげている。とてつもなく偏食なキャサリンのために、教授はみずから毎回の食事も用意しているという。
 嬉々としてキャサリンに仕えているように見える。
 しかし、それがこれからの人類のあるべき姿なのだろう。
 ドアの下部の、小さなくぐり戸から、キャサリンが入ってきた。
 朝田教授は、キャサリンの前に、ひざまずいた。
「おお、キャサリン、今日はごきげんうるわしゅう」
 黒猫のキャサリンは、ツンと顔をそらして、ソファの上に飛び乗った。わたしを、ちらと一瞥すると、興味なさそうにシルクのクッションの上に丸くなって、毛繕いをはじめる。
 わたしはあわてて、キャサリンに挨拶した。
「ご挨拶が遅くなりました。ご無沙汰しております」
 キャサリンの金色の目が、きらりと輝く。しなやかな身体をのびのびと伸ばして横になった。わたしは、キャサリンの前に膝をついた。
「ひとなでしてよろしいでしょうか」
 キャサリンの返事をまたずに、手を出したら、しゃーっと怒られて、ひっかかれた。
 朝田教授が、肩をすくめた。
「君はまだまだ、猫に仕える者としての自覚が足りないな」
 猫に仕え、猫の家畜となった新人類、ホモ・ミャウスは、野生を生き抜く判断力を手放した代わりに、安穏と平和を手に入れた。
 それが教授の論文だ。
 わたしは、引っかかれた手の甲を舐めて、窓際にねそべっているウルフドッグに目を向けた。
「なあ、ジョン。おまえならわかってくれるだろう? わたしはホモ・サピエンスとのハーフなんだ」

おわり

高橋桐矢プロフィール


高橋桐矢既刊
『あたしたちの居場所:
イジメ・サバイバル』