「左目の異世界」高橋桐矢


(PDFバージョン:hidarimeno_takahasikiriya
 セミの声がふってくる、夕暮れの公園。
 ひとり、ブランコをこぐ。前に後ろに。
 このまま、どこかに行ってしまいたい。
 地面に影が長くのびている。お母さんとケンカして、何も持たないで飛びだしてきてしまった。でももう家には帰らない。帰りたくない。お母さんのわからずや。わたしがいなくなって心配すればいい。
「斉藤まりかさん、どうしたの」
 声に、おどろいて足をつく。ふりむくと、5年2組の担任の、鈴木先生がいた。ブランコの後ろに。いつのまに。
「もうとっくに5時を過ぎてるよ。家に帰らなくちゃ」
 だまって、首をふる。鈴木先生は、今年の春、転勤してきた、暗くてジミなメガネの男の先生だ。
 鈴木先生が、ブランコの横に立った。鈴木先生の影とわたしの影が、ならんで長くのびている。
「帰りたく……ないのかな?」
 わたしは地面の影を見ていた。鈴木先生の影の手が動いて、メガネを外した。
 家になんて帰らない。夏休みの宿題を一日忘れたくらいで、あんなに怒るなんて。
「どうしても帰りたくないのなら」
 鈴木先生の言葉に、ふっと横を見たわたしは、そのまま動けなくなった。
 メガネを外した鈴木先生が、じっとわたしを見ていた。
 片手で、前髪をちらとかきあげた。初めてちゃんと顔を見た気がする。長い前髪とメガネで、かくれていた顔。
 見開いた先生の目は、そこなし穴みたいに、真っ黒だった。
「わたしの左目の中に来ないか?」
 背中がぞくりとあわだった。
「どういうことですか」
 先生は、さらに片手をそえて、左目を、大きく、いっぱいに見開いてみせた。
「わたしの左目は、異世界につながっているんだよ。ほら、見てごらん」
 さからえなかった。すいこまれるように、立ち上がったわたしは、先生の左目をのぞきこんだ。
 先生が腰をまげて、中腰になって、わたしが背伸びして。先生の左目をのぞきこむ。
 そこには。
 わたしがいた。黒い、真っ黒な瞳の中に、わたしが、不安そうな顔をして、映っていた。わたしは、はっとして飛びのいた。
 先生は、白い歯を見せて、ニコリと笑った。……先生の笑顔を初めて見た。教室では、つまらなそうな顔でだまっているか、下をむいて、ぼそぼそとしゃべるだけだったのに。
 力がぬけそうになって、わたしはブランコのくさりにしがみついた。
 先生は、笑顔でうなずいた。
「見えただろう?」左まゆをきゅっと上げて。「わたしの左目の中には、この世界と左右が反対で、あとはそっくり同じな世界があるんだよ。左目の中は、信号の青が右で、赤が左にある。字は右から左に書く。心臓は右に、肝臓は左に。斉藤さん、ぼくの左目の中の世界ではきみの目の下のほくろは左にある」
 わたしははっとして右のほおをおさえた。一歩さがって、先生を見上げる。先生が左目を指さす。
「この向こうでは、時計は左回りに動き、太陽は西からのぼり東にしずむ」
 先生の黒い瞳は、ぬれたように光っている。
「斉藤さん、ここじゃないどこか、ちがう世界に行きたいって思ってただろう?」
 先生が一歩近づいた。
「斉藤さんは、いつもそうだったよね。教室でもひとりでいることが多かった」
 先生の瞳から目をはなせない。
「わたしはずっと、見ていたよ。きみが『行きたい』と言えば、それだけで左目のとびらは開く」
 ブランコのくさりを持つ手に力をこめた。
 先生の瞳の中の、わたしが見える。
 瞳に映った、左右反対であとは全て同じわたし……。同じ……じゃない!
 瞳の中のわたしは、顔をゆがめて、さけんでいる。
 ――ここに来ちゃだめ!
 一瞬で、つめたい氷をあびせられたような気がした。
 つかんでいたブランコのくさりを、思い切りふりまわす。
「あっちに行って! 来ないで! わたしはそんなとこに行かない!」
 その瞬間、先生の顔が悲しげにゆがんだように見えた。けれど、気のせいかもしれなかった。
 わたしの前に立つ先生は、5年2組の教室にいたときと同じように、冷ややかな表情をしていた。
「そう。残念ですが、それならしかたありませんね」
 先生はポケットからメガネを取り出して、かけた。もう、どこからどうみても、いつもと同じ鈴木先生だった。その左目に……異世界があるなんて信じられない。
 先生は、くるりと背を向けると、そのまま歩きさっていった。
 わたしは、ブランコのくさりにつかまったまま、立ちつくしていた。
 行かなくてよかったんだろうか……?
 その思いは、とつぜんの呼び声で中断された。
「まりかー! まりかー!」
 ふりむくと、公園の入り口をお母さんが走ってくるところだった。
「お母さん!」
 かけよってきたお母さんは、泣きそうな顔をしていた。
「心配したじゃないの!」
 お母さんに手をひかれながら、わたしは後ろをふりむいた。公園の反対側、先生が向かったほうへ目をむけた。
 そこにはもうだれもいなかった。
 お母さんが手をぎゅっと強くにぎった。
「どこかに行ってしまうかと思ったわ」
 どこかに行ってしまうところだったのだ……もしかしたら……。
 それが、夏休みに入ってすぐの出来事だった。お母さんとわたしは仲直りして、そして、お盆には、田舎のおじいちゃん、おばあちゃんちに行って、スイカを食べて、花火をした。
 肩を叩いてあげたら、おばあちゃんが目をうるませた。
「まりかちゃん、本当に元気に大きくなってよかった。ゆりかちゃんもきっと、よろこんでくれているわ」
「ゆりかちゃん……って?」
「ゆりかちゃんはね、あなたの双子のお姉さんなのよ」
 おばあちゃんが教えてくれた。わたしと双子のゆりかちゃんは、生まれたその日に亡くなってしまったこと。そして、わたしとそっくり同じ顔のゆりかちゃんは、目の下のほくろだけが、反対側にあった、ということも。
 わたしは、鈴木先生の左目の中の女の子のことを思い出していた。
 9月になって始業式の日、学校に行くと、鈴木先生が来ていなかった。
 教頭先生が教室に来て言った。
「鈴木先生は、つごうで、遠くの学校に行くことになりました」
 それから、鈴木先生を一度も見かけていない。
 あれは、夢だったのだろうか。
 それとも……。

おわり

高橋桐矢プロフィール


高橋桐矢既刊
『あたしたちの居場所:
イジメ・サバイバル』