「しょうちゃんの噂」飯野文彦

(PDFバージョン:shouchann_iinofumihiko
 学生時代、所属していたサークルの仲間たちと飲んでいたときの話である。
 場所は高田馬場駅からほど近い、安居酒屋の座敷席だった。どういう話の流れだったのかまでは思い出せないけれど、仲間の一人が言った。
「吉祥寺で『しょうちゃん』に会ったら、教えてくれ」
「どこのしょうちゃん?」
「だから吉祥寺だよ」
「吉祥寺のしょうちゃんって言われても……」
 仲間たちは苦笑し、すぐに誰かが、
「それって鉄人のか。それともオバQのほうか?」
 と茶化した。『鉄人28号』にも『オバケのQ太郎』にも〈正ちゃん〉という少年が出てきたからである。
 別に面白い切り返しではなかったけれど、仲間たちはそれなりに笑い、場を和ませようとした。
 ところが、この話を切り出した当人は、とつぜん顔を真っ赤にして、
「冗談で言ってるんじゃない。ほんとだ。気をつけないと、飛んでもない目にあう」
 と怒鳴ったため、場は静まり返ってしまった。
「それじゃあ、何をどう気をつけろって言うんだ?」
 誰かが呆れ半分の口調で言った。
 その顔は、明らかに馬鹿にしていた。どうせたいしたことはない。単なる思いつきレベルで口走ったんだろうが――と書いてあるようだった。ほかの面々も、似たようなものである。
 それが、言い出しっぺの気持ちを逆撫でした。彼は、くっとグラスに入っていた焼酎を飲み干すと、時間いっぱいまで仕切った力士のような勢いで、話し出したのだった。

◇ ◇

 しょうちゃんって言っても、男の子じゃない。女の子だ。
 正式な名前は、たぶん翔子だったと思う……そう、翔子ちゃんなんだ。
 翔子ちゃんは、まだ幼稚園に上がるか上がらないかの小さな女の子で、家族や近所の人からも、また自分でも自分のことを『しょうちゃん』って呼んでいた。住んでいた場所は、吉祥寺の、とつけたことからもわかるように、吉祥寺だった。
 どこにしょうちゃんの家があったか、くわしい場所も知っている。だが言わない。別にもったいぶっているわけじゃなくて、後になって、
「何で、教えたんだ」
 と文句を言われても困るからね。
 JRの駅から北口へ出て、アーケード街を抜けて左に折れ曲がったところにある神社の近く、という程度にしておくよ。
 しょうちゃんは、最初のうちは活発で明るい女の子だった。見知らぬ人とすれちがっても、笑顔で挨拶するし、困っている人を見かけたら、ちょこちょこ駆けていって、
「だいじょうぶですか?」
 と声をかける。そんな子だった。まったく悪意の欠片もない。天使みたいな女の子だったのさ。
 ところが田舎町ならいざしらず、吉祥寺といえば、若者の街としても有名だし、人でごった返している。
 北側のアーケード街やデパートもだし、駅の南側にある井の頭公園は、カップルや家族連れで、それこそ朝早くから夜遅くまで人が絶えない。
 中には物騒な連中だっている。ほら、覚えているだろう。数年前ほど前、井の頭公園から切り刻まれた男の遺体が発見されたって事件があったのを。
 まあ、井の頭公園には、また別の曰く話があるんだが、話がずれるからやめておこう。ほんとうは底でつながっているという噂もあるんだけどね……。
 そう、しょうちゃんの話だ。明るくて元気で、人見知りしないしょうちゃんだったが、それが裏目に出た。
 世の中には、幼い女の子に異常なまでに執着する輩がいる。そんな一人が、どうした加減か吉祥寺を訪れ、しょうちゃんと出会ってしまった。
 その日、しょうちゃんは自分の家で遊んでいたんだけれど、退屈したんだろうね。お母さんが掃除洗濯で忙しくしている隙に、
「お散歩にいってきます」
 と家を出てしまった。
 お母さんはまったく気がつかなかった。不注意と言われれば、それまでだが、タイミングの悪いときと言うのは、誰にでもあるもんかもしれない。
 しょうちゃんにしたところで、別に遠くに行くつもりなんかなかった。庭で土いじりでもするか。家の門から出たとしても、近所をぐるり一周するくらいで帰ろうと思っていた。その程度の散歩は、それまでもぶらりとしていたからね。
 ところが、この日はまったく運が悪かった。時間は午後二時か三時頃で、ふだんなら近所の顔見知りのおじさんおばさんとすれ違って、挨拶していた。
 商売屋も多いから、しょうちゃんが店の前を通れば、
「どこ行くの、しょうちゃん」
 とか、
「一人で遠くへ行っちゃ、だめだよ」
 くらいのやり取りがあって、しょうちゃんも家に帰っていたはずだ。
 しかしこの日のこの時間に限って、顔見知りは誰も歩いていなかったし、どの店の人たちも、奥に入っているか、仕事に忙しくて、しょうちゃんに気づかなかった。
 さらに運の悪さは重なるもので、どこかの店の開店祝いがあった。その宣伝を兼ねて、遠くのほうにピンク色のうさぎの着ぐるみの姿が見えたんだ。
「あ、うさぎさんだ」
 ぱっと気持ちが明るくなった。それでも遠くのほうだったんで、ひとりで駆けていく決心はつかなかったんだ。
 うさぎさんのほうから、こっちへ来てくれないかなあ。聞きたいことがいっぱいあるのに。どこから来たんですか、とか、なぜピンク色をしてるの、とか、どうして二本足で立てるの、とか……。
 まだ幼い女の子だから、考えているうちに、ほかのものが見えなくなった。
 どうしてもうさぎと話したくてしょうがなかったんだ。けれどもうさぎは、近づいてくるどころか、どんどん遠ざかっていく。
「うさぎさん、お願い。こっちへ来て」
 しょうちゃんが言っても、とても声は届かない。そうするうちに、うさぎは角を曲がって、姿が見えなくなってしまった。
「あっ、待って!」
 声に出して言った途端、しょうちゃんはがまんできなくなって、走り出していた。
 幼い女の子だから、こうなると無我夢中だ。うさぎさんがいなくなっちゃうと、一生懸命に走った。はあはあと息はあがり、頭もくらくらしたけど、もう止まらない。
 何とか角まで来たけれど、その向こうにうさぎの姿は見えない。見えるわけがないんだ。実はしょうちゃん、一本曲がり角をまちがえてたんだ。
 うさぎが曲がったのは、もう少し先の、アーケード街につづくほうだったんだが、しょうちゃんは、それより手前の角で立ち止まった。でも、そんなことに気づくこともなく、しょうちゃんはうさぎを探して、その道に入りこんだ。
 そこは幅二メートルほどの、いわゆる裏路地だった。並ぶ建物も、その背中を見せるような姿で、道ばたにも空の瓶がつまったビールケースが積んであったり、大きなゴミ入れがあったり、生ごみの入ったビニール袋をカラスが突いていたり……。
 人の姿は見えずに、がらんと冷たい風だけが吹き抜けていくようだった。
 ふつうだったら入りこまなかっただろうし、またカラスにおびえて近づかなかっただろう。けれども、このときのしょうちゃんは、うさぎに会いたい一心で、
「カラスさん、ピンク色をしたうさぎさんを見ませんでした?」
 と近づきながら話しかけてしまった。
 ビニール袋から引きずり出した鶏肉をついばんでいたカラスは、ククッと首をあげて、しょうちゃんを見た。
 すぐに首を巧みに動かして、辺りを見回した。幸か不幸か――しょうちゃんからしてみれば、不幸の極致だったことに、ほかには誰もいなかった。
 カラスはほくそ笑み、すぐに魂胆を見透かされてはと咳払いしながら、鶏肉から離れた。そして、しょうちゃんに話しかけたんだ。
「ピンクのうさぎさん?」
 しょうちゃんは、カラスが話しかけたんで立ち止まり、ビックリして大きく目を見開いた。
 まだカラスとは十メートル近く離れていたから、逃げればかんたんに逃げられた。ところがカラスは、そうはさせじと言った。
「ああ、もちろん知ってるよ」
「ほんとですか?」
「もちろんさ。仲のいい友だちだからね」
 疑うことを知らないしょうちゃんは、すっかりの信じてしまった。恐そうなカラスだけど、うさぎさんと友だちなら、悪い人(鳥?)ではないはずよ、って具合でね。
 カラスが近づいてきても、逃げるどころかしょうちゃん自らも、息を弾ませて近づいた。
「今、ここに入ってきたところまで見えたんですけど……」
「うん。そうなんだ。今、ここに来た」
「どこに行きました?」
「すぐそこのぼくの家にいるよ」
「あなたの家で、何をしてるの?」
「一休みしてるのさ」
「ふーん。それじゃ会えないのか……」
 しょうちゃんが悲しげに言うと、すかさずカラスは、
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「しょうちゃん」
「そうか、君がしょうちゃんか」
「あたしのこと、知ってるの?」
「ああ、うさぎさんから聞いてる。実は私は、ここで君が来るのを待ってたんだよ」
「あたしを?」
「うさぎさんに頼まれたんだ。『しょうちゃんが来たら、こっそりぼくのところまで連れてきてくれ』って」
「どうしてうさぎさん、あたしの名前、知ってるのかしら」
「ああ、それはあのうさぎは、不思議な力を持っていてね。好きな子供の名前だけでなくて、その子が考えていることまでわかるんだ。しょうちゃんが、自分のことを好きだと思ってくれている。自分もしょうちゃんが大好きだ。ゆっくりお話ししたい。でも他に人がいたら、それもできないだろ」
「うん」
「だから、この奥に隠れて、しょうちゃんが来るのを待ってるのさ」 
 もちろんすべてが口から出任せだ。けれどもまだ幼いしょうちゃんは、疑うことを知らない。それどころか、うさぎが自分と話したがっていると聞いて、もうじっとしていられなかった。
「ああ、はやくうさぎさんと会いたい」
 地団駄を踏まんばかりに、身体を揺らした。こうなったら、もうカラスの思うツボだ。
「よし、さっそく会いに行こう」
 歩き出すと、何の疑いもなく、その後につづいた。そして……。
 これが生きていたしょうちゃんの最期の姿となってしまったんだよ。

◇ ◇

 他の連中が口を挟む間もなく、そこまで話し終えた。
 さすがにしゃべり疲れ、空のグラスに水を注ぎ、喉を鳴らした。
「それで?」
 一人が訊ねた。
「それでって?」
「何言ってんだよ。その後、どうなるんだよ」
「だから言っただろう。それが生きたしょうちゃんの最期の姿となったって」
「つまり、カラスに殺された、と」
「まあ……」
「それなら、もう会えないじゃないか?」
 別の者がそう言うと、首を横に振り、あざ笑いながら、
「おいおい。最初からおれの話を聞いていなかったのか。おれは最初に『吉祥寺の町で〈しょうちゃん〉に会ったら、教えてくれ』って言ったんだ」
「だって死んだなら、会えないだろう」
「いや、会える。というよりも、噂を聞いたんだ。とつぜん現れては、道を行き過ぎる人に声をかけるんだ。『すみません、ピンクのうさぎさんを見ませんでした?』って」
「ピンクのうさぎさんを見たかと言われてもなあ」
 一人が苦笑すると、それは全体に広がった。それまで黙っていた者まで、
「新しい都市伝説でも作ろうって魂胆か」
「それにしちゃ、ありきたりだ」
「カラスが喋って、殺したってのもなあ」
 などと口々に言われて、ムッとなった。
「フン。カラスって言ったって、鳥の、あのカラスとは限らないだろう」
「何だよ、それ?」
「黒ずくめの服を着た連中のことを『カラス』って言うのと、いっしょってことだ」
「それなら裏路地で残飯をあさっていた黒ずくめの男に、しょうちゃんは誘拐されて、殺されたってことか?」
「いや、殺すつもりはなかった。なかよくしようと思っただけなのに、泣き出すし、親に言うっていうから仕方なく……」
 場の雰囲気が一気にダウンした。
「そういえば、おまえ、ついこの間までは、いつも黒い服ばかり着てたけど……」
 一同の視線が、集まった。身につけていたのは、あざやかなピンクのトレーナーだった。
「これだけじゃない」
 立ち上がり、ジーンズを脱いだ。下にはいていたのは、
「あちこち探し歩いてやっと見つけた」
 と自慢げに、ピンク色のタイツを見せた。さらに鞄を開き、中からピンク色の長い耳のついたヘアバンドを頭につけた。
「どうだ、どこから見てもピンク色のうさぎさんだろう」
 その場でぴょんぴょんと飛びはね、そして叫ぶ。
「しょうちゃん。ぼくですよ。ピンクのうさぎちゃんです。ここにいますよ。だから出てきてください。そして、あのときのつづきを楽しみましょう」
「おい、落ちつけよ、井之」
 一人が言ったが、もう無理だ。しょうちゃんに対する思いがつのり、じっとしていられなかった。
 その姿のまま、そこから飛び出した。吉祥寺へ向かおうとしたのだが、警官に呼び止められ、職務質問された。
 いっこくもはやく解放されたい一心から、すべてを正直に話したところ、褒められるどころから、さらに尋問されて……。

◇ ◇

 あれから長い年月が経った。
 責任能力なし、無実だが治療を要す。となり、長いあいだ強制入院させられた。だがこうして私は、やっとのこと自由の身となった。
 さっそく、どこかでピンク色の衣服を探し、吉祥寺に出向くつもりである。

(了)

飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『飯野文彦劇場
 陰歯』