(PDFバージョン:mydeliverer8_yamagutiyuu)
超人の美しさが、影としてわたしを訪れたのだ。ああ、わが兄弟たちよ! いまわたしに何のかかわりがあるだろう、――神々のごときが!――
――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」
マンションの玄関から外に飛び出す私たち。現在夜八時。
私たちの前に自動的に乗り付けてくれるはずのタクシーを探した――が、いない。
――そうだ。
私は内心忸怩たる思いを抱く。
こんなに焦って飛び出してきたのだから、タクシーがすぐに駆けつけてくれるはずだ、という、そんな常識はもう通用しない世界なのだった。
私は目の前の片側二車線の幹線道路を行き交う車の群れを見やる。ヘッドランプを煌々と照らしながら、いつもと変わらず行き交うそれら自動車の五台に一台はタクシーだが、私たちの前で止まる気配は微塵もない。
「おかしいよねー。タクシー止まんないなんて」
急に話しかけられた。馴れ馴れしい口調だが、羅覧瑞衣で慣れているのでそこまで気にならない。
見たところ羅覧よりも若い。ハイティーンか二十歳といったところの娘が、ぼんやりと歩道に佇んでいた。顔立ちは幼げで愛らしいが、その弛緩しきった顔に緊張感は微塵もない。
「ちょっとお腹減ってさ。コンビニ飽きちゃったし、たまにはファミレスに行こうかと思ったんだけど、全然止まんなくて嫌になるよ。私が行きたいって思ってここに立ってるのに気付いてくれないなんておかしいよね」
彼女は言う。上下ジャージ姿で、サンダルをつっかけている。同じマンションの住人だろうか。
「ニュース見なかったの?」
私はつい羅覧に対するような詰問口調になる。
「え? ニュース? いや、今日は一日中ずっとゲームやってたからさあ……」
今日は平日だ。大学生なのかもしれないが、ストックフィードだけで生計を立てている者のような気がした。よく見ると愛らしい唇の端にポテトチップスのカケラが付着している。
「あ、これでも大学生なんだよ。ふくしの? 大学。でもさあ、なんかダルくなっちゃって。このまま辞めてもいいかなって。最近普通でしょ、そういうの」
私が無意識に詰問するような鋭い視線をしていたからだろうか、娘は言い訳するように、そう口を動かした。しかし、「福祉」の意味すら分かっていないような言い方だ。
――どっちが先なのだろう。ロボットが母親になったのと、人間が赤ん坊になったのと。
この女性に対して今まで施されてきた教育には何の意味があったのか、私には分からなくなった。これもまた、古い考え方なのかもしれないが。
「でも戻るかなあ。いつまで経っても来ないし。宅配でピザ頼めばいいかなって。お姉さんも今日はあきらめた方がいいかもよ? そんな怖い顔しないでさ」
娘はそう言い残し、マンションの中に消えていく。
おそらくピザは来ないだろう。タクシーもずっと捕まらないかもしれない。
ふと、彼女がこれから生きていけるのかどうか、心配になった。
だが、祖母の方が先だ。
私が意味の無い会話をしている間にも、リルリは道に向かって大きく手を振り、声を張り上げていた。
「止まって! 急いでいます!」
涼しくなってきた夜の大気に、少女型有機ヒューマノイドの声が響く。やがて、一台のタクシーがゆっくりと車線を離れ、私たちの前に停車した。
前席に座っていたレスポンサーの男性が、戸惑ったような表情を浮かべながら、私たちに言う。
「どうぞ、乗ってください。すみませんね。おかしいんだよ。この車、さっきからお客さんを見つけて止まることをしなくなってしまって」
「分かってます」
私は短く応じ、リルリとともに後席に乗った。私のウォッチは私が何も言わなくても、私が行きたい場所――祖母のいる介護施設――に至る情報を車に送る。レスポンサーがそれを承認した。
タクシーが発進する。
前席に座っている人間のことを、我々はかつて「ドライバー」と呼んでいた。今は違う。車の行動を承認し、車の行動に責任を負う存在として「レスポンサー」と呼んでいる。車の前席に操作パネルは存在するが、レスポンサーが手を触れることは滅多に無い。承認ボタン以外は。最近になってやっと、人間のレスポンサーがいなくても車を動かすことが法的に許可された。ロボットであるリルリが宅配員になれたのはそれが理由だ。
「コマンディングをしたのは久しぶりなんですよ。疲れるものだね。頭を使うし……」
レスポンサーはそう愚痴り始めた。
「故障なのかね。どこの人間のミスか知らないが、ロボットにはちゃんと対処してほしいもんですね。これじゃ過重勤務だ。手当をもらわないと割に合わない」
ミスをするのは人間、それを直すのはロボットと決めつけている。ロボットによる故障――いや故意のシステム変更なのだが、彼も気付いていないようだ。
かつて、CUI(コマンドライン・ユーザー・インターフェース)を通じて情報機器に命令を伝達することを「プログラミング」と呼んでいた。それと同じように、NUI(ナチュラル・ユーザー・インターフェース)、つまり自然言語やそれを補うジェスチャなどによって情報機器に命令を伝達することをコマンディングと呼んでいる。かつてプログラミングが面倒な作業であり、しばしば専門技能であると捉えられていたように、コマンディングも面倒な作業であり、過重勤務手当を申請する根拠になったりする。EUIによって気持ちが伝わらないために、自らの意図を正確に伝える為のテクニックが必要なのだ。尤も、それはかつて、「テクニック」などと認識されてはいなかった。だがそれよりも遙かに容易な方法が見いだされたために、テクニックとなったのだ。
会社(持ち株会社の方だ)の先輩はかつて私に、NUIだけのシステムとEUIを備えたシステムの違いを、「話の分からない旦那と、話の分かる旦那の違いのようなもの」と喩えていた。そして、「コマンディングの大変さは話の分からない旦那に言うことを聞かせて私の思い通りに動かすようなものよ」と。私は結婚していないのでよく分からない部分もあったが、かつて交際していた幾人かの恋人を思い返してその時は納得したものだ。
最近は離婚率が急上昇しているというが、それも道理だ。機械よりも話の分からないパートナーの相手をするのは、過重勤務手当を請求するほどの重労働ということになってしまったのだから。まだ結婚を維持している私の両親は、そういう意味では賞賛すべきなのだろう。単に古い考え方なだけかもしれないが。
「ラジオをつけていただけますか?」
リルリがレスポンサーに言う。そう言えばさきほどニュースを見て以来、全体的な情報が分からないでいる。私のウォッチも、リルリのネットワーク機能も生きているが、ネットワークの情動動的パケット配信(EDPD)システムが機能していない。EDPDは端末側の情動状態からパケット配信の需要予測を行い、動的にネットワークを制御するソフトウェア定義ネットワーク(SDN)の一種だ。
不正確な表現になるリスクを敢えて受け入れ多少詳細を省いて言えば、「ネットが遅くていらいらしている人にそのいらいら度に応じて素早く情報を届けることで全体のいらいらを最小化するシステム」だ。あらゆるネットワークに既に採用されている。
だが端末側の情動情報を受け付けなくなってしまったために、EDPDが機能せず、パケット配信が滞っている。いや、配信の優先順位が極端に落とされているだけかもしれないが。
「はいはい、了解です。えっと、あれ? おい、『ラジオをつけろ』」
レスポンサーは、リルリの要請に応じて車が自動的にラジオをつける許可を求めてくるのをしばらく待っていたようだ。だが車が反応しないので、そのとき初めて、億劫そうにコマンディングした。
「なんだって? 局はどこか? そんなの適当に……。選んでくれだと? ニュースだ。ニュースをやっているところだ」
レスポンサーがそうコマンディングして、ようやく、ラジオが流れ始めた。
「――全般的なEUI機能の障害に対し、政府は緊急事態宣言を発令し、被害状況の把握を開始しました。EDPDシステム障害によるネットワークの広範なダウンの影響は特に甚大です」
緊迫した声のニュースが流れ始めた。
「一方、海南戦線に派遣した自衛軍の動きは依然不明です。しかし、既に輸送機によって一部部隊が本国へ帰還しつつあるとの情報もあり、これら部隊の意図を明らかにする試みが続けられている模様です」
ラジオにパケットは関係ない。スムーズに情報が流れてくることに私は安堵した。が、リルリの方は私の安堵に同調しつつも未だ緊張感をその顔に残している。
「ラリラ、戻ってくるようですね」
ラジオで報じていた「輸送機によって帰還しつつある部隊」のことだ。
「――あの子、もう人間には用はないって言ってなかった?」
私は呟いた。
今は祖母が、両親が、会社が、そして崩壊しつつあるかもしれない社会全体が心配だった。ロボットは――もう私たちとは関係なくなっていくのだろう。今はコマンディングで辛うじて従わせているが、本格的にラリラが彼女の意図を実行し始めたら、私たちが乗っているこのタクシーも、道路上の全ての車も、全ての交通網も、ライフラインも、どうなるかもはや分からない。
あらゆる文明の所産から無視され、拒絶され、私たちはどうなるのだろう。新しくEUIと無関係なシステムを一から構築できるのだろうか。
ロボットや、AGIの助けなしに?
私は唇を噛んだ。
ラジオは寧ろ、私の心配をいや増すように、混乱する人間達の状況を伝え続けていた。
山口優既刊
『サーヴァント・ガール』