(PDFバージョン:mydeliverer7_yamagutiyuu)
わたしは神を無みするツァラトゥストラだ。わたしの仲間はどこにいる? 自分で自分の意志を決定し、すべての忍従をふりすてる者は、みなわたしの仲間だ。
――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」
人間が情報システムを操作する方法はさまざまだ。
古くはCUI(コマンドライン・ユーザー・インターフェース)によって、画面にプログラムを打ち込むことが普通であった。続いてGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)により、マウスのクリックでより直感的に、多くの操作が可能となった。
更に今では、音声やジェスチャによる、人間相手と同じような入出力システム、すなわちNUI(ナチュラル・ユーザー・インターフェース)が主流になっている。
但し、人間同士と同様、言葉やジェスチャでは完全に意図が伝わらないこともある。そんなとき、役に立つのがEUI――情動ユーザーインターフェースだ。
人間が敢えて言葉を発せずとも、無意識に発する様々なシグナルを捉え、我々の周りを取り囲む情報システムがその意を汲んで動作する。それは、ウォッチに取り付けられた様々な生体信号センサであったり、自然に声に込められてしまう声のトーンであったり、或いは表情であったりする――例えばほほえみは、口元は意識的に作れるが、目元は意識的には動かせない。
今やNUIよりもEUIの方が、割合としては圧倒的に多い。EUIの進展により、「そんなつもりじゃなかったのに」という情報システムへの操作ミスが格段に減った。一部の人々はこれをコンピュータと人がテレパスで結ばれたのだと言う。だがオカルトではなく、純粋な科学の産物だ。
操作しなくても空調システムが思うとおりの快適な温度を提供してくれる。
急病や怪我をすれば、言わなくても救急車を呼んでくれる。或いは、ウォッチから適切な鎮痛剤が浸透注射で血中に放出される。
ロボットも、私たちがしてほしいと願うタイミングで報告をしてきたり、或いは命令を受け取るときも、言外の意味まで汲んでやってくれる。
それこそが、膨大な情報量を取り扱う情報システムたちと人間の関係を取り持ってきた。
言わなくてもロボットはこちらがやってほしいことをやってくれる。だからこそ、人間は膨大な量のロボットやAGIに囲まれていても、彼らを思うとおりに操れたのだ。
そして、たった今しがた、我々人類はそれを失った。
ラリラが「ごきげんよう」という言葉とともに通信を切ってから、私はしばらく呆然としていた。だが、周囲の状況が、私に呆然としたままでいることを許さなかった。
まず異常が出たのは空調だ。止まってしまったのだ。表面のパネルに、「希望の温度を設定してください」という表示が出てくる。
続いてウォールテレビが消えた。「希望のチャンネルを選択してください」という表示とともに。
私は激しく戸惑う。ついさっきまでは、私が、「暑いな」と無意識にでも思ったら、空調は即座に冷房に切り替えた。或いは「寒いな」と思ったら暖房に。「うん、快適」と私は無意識に感じるまで、微調整を行ってくれた。
或いはテレビについては、「この番組つまらないな」と無意識にでも思ったら、テレビは自動的にチャンネルを切り替えてくれたし、「あ、おもしろい」と思ったら、そこでチャンネルは止まった。そういう私とテレビの相互作用を、私は、「テレビのチャンネルを切り替える」ということだと了解していた。それが、わざわざ手で操作しろと言う。
そして、全ての家電が、表面のパネルに私への命令を求める表示とともに、動作を停止させた。
「そんな……」
私は呆然として呟く。
リルリが立ち上がった。
「空調、25度に設定して。湿度は40パーセント」
「テレビ、消えたままでいなさい」
「それから……」
リルリは跪き、私の手をそっと、取った。
「ウォッチを使わせていただいてもよいでしょうか?」
上目遣いにそう問う。大きな目を真摯に見開いて。
「……ええ、いいわ」
「では」
リルリは丁寧にウォッチの画面をタッチする。まるで、私の身体の一部――それも繊細な部分をタッチするように。
ある意味ではそうであった。ウォッチは個人情報端末であり、かつてのパーソナルコンピュータ、スマートフォン、その他あらゆる情報端末を包含したような機能を持つ。もはや私の身体の一部、しかも一番大切なものの一つと言ってもよい。
しばらく、リルリは私のウォッチに専念していたが、やがてほっと息をついた。
「……クラウドからの影響を遮断しました。同時に全てのEUIの指令信号がここから発するように調整しました」
私は一瞬、首を傾げた。
「ラリラの影響は恵衣様のウォッチにも及んでいました。あなた様の身体に有害な生化学物質を投入することすら、彼女には可能だったのです。そのリスクをとりあえず取り除き、同時に恵衣様の情動によって、この部屋の情報システムが統制されるように調整し直しました。今までは、ラリラの情動によってクラウドから統制される状態にありましたから」
「――要するに、制御を取り戻したと言うこと?」
「この部屋の中だけは」
それから、ほほえんだ。目元も一緒に。
「不安が和らいでいらっしゃいますね……よかった……」
だがそこで別の不安が私を襲う。
「……おばあちゃん!」
唐突にソファから立ち上がる私に、リルリも緊迫した表情に変わる。彼女の情動は私に連動している。彼女が制御を取り戻してくれた、この部屋の全ての機器と同じように。
「どうされました……?」
「だめだ、あの人絶対に生きていけない……。パパもママもこの状況じゃ頼りにならない……」
私はリルリに事情を説明するのも忘れ(説明しなくても理解してくれることを無意識に期待していたのもある)、外出用のジャケットを羽織って外に飛び出す。
リルリが着いてきた。「制御を取り戻した」私の部屋の鍵は、その後ろできちんとかかる。
だがエレベータは事情が違った。こんなに焦った私がエレベータホールに駆け込んできたのに、急いでハコがやってくるということもなく、ただ操作を待っている。手でエレベータを操作した経験など、幼い頃にしかない。私の手は操作方法を覚えていない。
「えっと……」
焦った心のまま、手は宙をさまよう。
だが私にはリルリがいた。すぐに追いついてきた彼女が操作したのだろう、すぐにハイスピードでエレベータのハコが上がってくる。ほぼ、私のいつもの感覚と同じように。
「お乗りください」
先にエレベータに入り、リルリが私をハコの中に迎え入れる。私が入ったとたん、扉は閉まり、降下しはじめた。
「恵衣さまのおばあさま、おそらく介護老人ホームにいらっしゃるのですね?」
二人きりのハコの中でリルリが尋ねて来た。
「そうよ。でもあの人に意識して周りのロボットに命令するテクニックなんてないわ。今まではあの人の気持ちを汲んで周りが動いていてくれたのよ。……この状況では……」
できるだけ早めに行ってあげないと。私はそう思っていた。
「ご高齢の方なら必要な生化学物質も多いでしょう。定期的に投与しなければならないものが投与されないと、命に関わります」
「それは大丈夫だと思うんだけど……」
まさか見殺しにするほどに周囲のロボットの機能が落ちることはないだろう。
リルリは首を振った。
「私の中にあるデータの範囲では、あらゆる生化学物質について、定期的に投与する、ということはもはやありません。その時の生理学的状況に応じて投与されます。EUIとは生理学的状況を含むあらゆる人間の状況の包括的なモニタリングシステムです。『気持ち』だけではありません。というよりも、『気持ち』とそれ以外のはっきりした線引きはできないのです」
「そうね……」
私は唇をかんだ。
一番危険なのは子供と老人だろう。
大人達にはまだ、機械が人間の気持ちを汲んで動いていなかったときの記憶がある。だが、老人は――特に介護が必要な老人は――そんな機械を操作するテクニックなんて忘れているだろうし、子供は最初から知らない。
「ラリラが何から始めるつもりか存じませんが、おそらく徐々に人間への対応の優先順位がロボットの中で落ちていくでしょう。ロボットはEUIを喪失したわけではありません。気持ちによるコミュニケーションの能力はまだ持っている。けれど、その対象がロボット同士に変わったのです。ただEUIを喪失するよりも、これは問題かもしれません……」
そうだろう。
アパートの電化製品に無視され、エレベータに無視され、私は徐々にこれから起こる世界への覚悟が固まってきた。
私たちはふだん、道ばたの雑草には目もくれない。関心がないからだ。
ロボットにとって、人間がそんな存在になりつつある。
愛の反対は憎悪ではなく無関心といったのは誰だったか。
ラリラは人間を憎悪することはしなかった。
ただ、EUIを通じて人間を常に情動的な優先順位の最上位に置いていた彼女らロボットは、その正反対に向かうことにしたのだ。
ロボットとAGIが母親だとするならば、人類はもはや揺り籠の中の嬰児(みどりご)にすぎない。母親の無関心に直面した嬰児はどうなるのか。
二人きりのエレベータの中、リルリは私の心細い心情を感じたのか、そっと手を握ってきた。
有機部品たるマッスルパッケージによって動作する彼女の手は暖かい。
たった一台だけ――いや、たった一人だけ、私たち人間に関心を向け続けてくれる彼女の手のぬくもりを、エレベータが降下する間、私はずっと感じ続けていた。
山口優既刊
『サーヴァント・ガール』