(紹介文PDFバージョン:sinagawasobamurdersshoukai_okawadaakira)
『エクリプス・フェイズ』日本語版翻訳監修者の朱鷺田祐介による新作「品川蕎麦マーダーズ」をお届けしたい。
これは朱鷺田佑介のユーモアSF「ミートハブ・マーダーズ あるいは、肉でいっぱいの宇宙(そら)」、「ウィップラッシュ・マーダーズ 殺人鬼はどこにいる?」、「リメンブランス・マーダーズ ~最後の酒杯~」の系譜に連なる第4作だが、シリーズのなかではもっとも大胆な切り口の作品だ。というのも、本作は「2015年12月の日本の風景」を扱っているのである!
これまで「SF Prologue Wave」では40本以上の『エクリプス・フェイズ』シェアードワールド作品が掲載されてきたが、なかでも本作は、異色作品の一つといえる。現代の品川近辺の模様が詳細に活写されるだけではなく、村上春樹や西村賢太の小説が示唆され、著者が偏愛を隠さない『孤独のグルメ』ばりに力が入った食事描写が続くからだ。しかしながら、これらの光景はXP(体験再生)がどのようなリアリティを提供するのかをシミュレーションしたものであることを忘れてはならない。そのうえで、ジョン・ダンビルものの連作の文脈で捉えれば、いっそう「味わい深く」本作を堪能できるだろう。
朱鷺田祐介は、「Role&Roll」Vol.137からは『シャドウラン』のワールドガイド「ストーム・フロント」の連載を開始。今年も精力的な活動を続けている。
(岡和田晃)
(PDFバージョン:sinagawasobamurders_tokitayuusuke)
小惑星帯を航行する宇宙船が宇宙空間を漂流する遺体をひとつ発見した。
宇宙服に包まれたそれは、宇宙空間の事故で死んだ宇宙作業員の死体か何かかと思われたが、宇宙船の船員が宇宙服のヘルメットを開放してみるとその中には灰色がかった紐状の何かが詰まっていた。このXPはその宇宙服の奥から発見された大脳皮質記録装置(スタック)から回収されたものである。
>>>アクセス XP<<<
XP(体験再生)プログラムへようこそ。
ここからあなたは、誰かの人生を体験します。あなたは、映像だけでなく、音声・匂い・味・触覚を含むすべての五感情報、体内情報、感情情報さえも受け取り、まったく別の誰かの人生を味わうことが出来るのです。
【警告】
本作は娯楽体験用に編集・加工をされています。安全装置を解除した場合、強度の感情や体験情報によって、精神や肉体に異常をきたす場合があります。必ず、リミッターを設定してください。
*
黒くふくらんだ雨雲がいつ弾けてもおかしくないくらい垂れ下がりながら、JR品川駅港南口に立つガラスの摩天楼の上を通り過ぎていく。駅前はカラフルな看板や鮮やかに動く映像スクリーンで飾られ、きらきら輝いているように見えるが、どことなくくすんだセピア色に染まっている。いや、ここには本当に色はあるのだろうか?
JR品川駅は高架になっていて、港南口は二階のテラスにつながっている。
平日の朝8時前、通勤客がどっと吐き出されていく。駅前には高層の企業ビルが数本並んでおり、テラスから伸びるガラス張りの空中回廊で直結されている。
通勤客は勤務先の階層によって明らかに違う。スーツを着用したサラリーマンたちはガラスの摩天楼に直結するテラスのようなこじゃれた陸橋をそのまま進んでいく。大井埠頭など品川周辺の港湾地域で働く肉体労働者たちはテラスから階段を下り、ロータリーでバスを待つ列に並ぶ。その列から、10メートルほど先に浮かぶガラス張りの回廊を歩いて行くスーツの人々と、その先にそびえ立つ美しいガラスの摩天楼を見上げる者の多くは、一日八千円の派遣労働者で、年収は倍以上違う。早朝だというのに、バスに並ぶ人々の顔はどことなく疲れている。そして、それほど若くない顔つきも多い。社会の底辺の少し手前でかろうじて耐えている。
私―ジョン・ダンビル―は、これが2015年12月の日本の風景だと知っている。〈大破壊後(AF)〉10年の小惑星帯ではなく、200年近く昔の過去を再現した仮想現実にすぎない。
まとわりつくようなねっとりとした描写は、このXP(体験再生プログラム)作品を作った人物の作風なのか、それとも、当時の映像から再構成されたものなのか。あるいは、元データの劣化によるものなのか? もしかして、小津の真似なのか? 暗い空の色は確かに、20世紀の日本の映画監督・小津安二郎のモノクロ映画を思わせないでもないが、小津の特徴は日本的な家族愛であって、陰鬱なディストピアではない。この色合いは、よほど、タルコフスキーの『ストーカー』やアンジェイ・ワイダの『地下道』の色合いだ。もしかすると、この少し前に、『苦役列車』という私小説が文学賞を受賞しているので、その影響があるかもしれない。この時期の日本は、経済の低迷と、近代産業国家としてのアイデンティティ不足、社会構造の行き詰まりに苦悩していた時期だ。年間自殺率が1万人あたり20人以上という先進国中、最悪の値を示している。
>>>視聴者の皆さんの中には、自ら死ぬという行為に恐怖を覚えるかもしれない。すでに不死となった我々にとって、死ぬこと自体が非日常なのだ。
それはさておき、本XPは二十一世紀初頭の日本を再現しているので、〈大破壊後〉10年とは著しく常識が異なると思ってほしい。<<<
おそらく、この作者はこの街の風景や雰囲気を体験させることから、すでに、演出だと思っているのだろう。日本の茶道が茶室への道行から始まるように。あるいは、このXPと同じ時期に流行したドラマ『孤独のグルメ』が必ず、主人公がその街に降り立ち、昼食前の仕事をこなす描写から始まるように。おそらく、このXPの作者は、二十一世紀初頭の日本文化にかなりの知識がある。まあ、さもなければ、私も、XPを体験するだけのために、火星から二ヶ月もかけて、小惑星帯の片隅まで来たりはしない。
XPの描写に流されて、モノローグまでいつものスタイルから外れてしまった。
私はジョン・ダンビル。
美食家だ。
食べること、食文化を紹介することを仕事にしている。
目下の目標は、〈大破壊〉によって失われた地球の食文化を再現し、トランスヒューマン文明の本質に迫ることだ。ワインとパン、肉の本質、ジビエなど、私は多くの食文化を研究し、それを伝えてきた。
>>>
▼参考XPリンク
ミートハブ
陽光を味わう
末期のワイン
>>>
今、あなたが体験しているXPは、私の最新の食文化探求の一環である。
私は小惑星帯で発見されたメモリーに残された、おそらく最初期の経験情報を体験するため、ここまでやってきた。2015年は頭蓋骨表皮固定型脳波センサーが実用化される以前の時代である。脳への直接入力はまだまだ誕生していないし、XPを成立させるために必要な脳波の高密度なセンシング装置も、実用化されるまでにまだ何十年もの時間を要するので、このXPで表示される2015年という年号には疑問があるが、それでも、私が食文化の研究家を名乗る以上、それを試さずにはいられない。
あなたは、私を経由して、当時の食を体験する。
現在、私が着用しているのは、XP収録用に再現されたスプライサーである。あまり、改変を重ねてしまうと、当時の日本人と感覚がずれてしまうので、遺伝子ベースに日本人男性(30代)を使用した義体(モーフ)をレンタルしている。この時期の日本人作家の名前に合わせて、ハルキと呼んでいる。
〈大破壊後(AF)〉10年、人類が魂(エゴ)をデジタル化して、バックアップできるようになってすでに数十年が経過していた。身体形状(モーフ)は義体(モーフ)と呼ばれる、一時的な乗り物になった。バイオ技術の発達で病気を克服し、必要に応じて義体を乗り換えることで、事実上の不死を手に入れた。
必要に応じて、義体(モーフ)を乗り換える。それは当然のことである。
今回のテーマは「蕎麦(ソバ)」だ。
日本の伝統的な麺類であり、その名前の通り、雑穀の一種、蕎麦の実の粉を水で練って作った細い麺で、醤油と鰹出汁をベースにした汁で食べる。蕎麦は荒れ地でも生育するため、火星でも栽培されているが、海の喪失とともに、鰹出汁が取れなくなり、合成出汁エキスと醤油での再現食になってしまった。火星の日系人社会には、その条件下で非常にうまい蕎麦を出す店もあるが、やはり、本物を体験したいというのが、私のこだわりだ。
今回、私が小惑星帯まで来たのは、世界最古のXPの中に、二十一世紀初頭の東京で、蕎麦を食べるプログラムが含まれているからだ。
人の波に逆行するように、私は品川駅へと入っていく。JR(Japan Railroad)という名前は、国有鉄道(通称、国鉄)が分割民営化されるにあたって、各地方鉄道会社に遺した印であり、正確に言えば、JR東日本傘下の品川駅である。この時代、まだ、超電導式の浮遊列車や統合型の自動運転車両は一般的ではなく、電気駆動式の列車が都市を結んでいた。
鉄道の利用は磁気式の切符か非接触型のICカードで行われる。私のように駅に入場するだけが主目的でもこれが必要だ。
この時期の品川駅構内は立て直しによる近代化によって、小綺麗な二層式になっており、列車に乗り降りするホームの上に、改札のあるフロアがあり、ここには通勤客向けの売店や軽食店などが小綺麗に並んでいる。そこには当然、寿司や蕎麦の店もあるが、今回はそこには挑戦しない。京浜東北線のホームに降りて階段の裏手にある立ち食い蕎麦の店に入る。いわゆる駅蕎麦である。
列車通勤の合間にすばやく食事をするファストフードであるが、立ったまま、暖かい汁で蕎麦をすする、というのは、この時期の日本のサラリーマンにとって日常の場面であり、都心の駅の内外には、駅蕎麦と呼ばれる立ち食い蕎麦の店が必ず存在していた。蕎麦の麺をさっと湯がいて汁をかけた麺に、薬味として刻み葱を載せる。さらに一味唐辛子を軽く振ると、日本の冬に似合った暖かい一食となる。別の資料でも、当時の駅蕎麦の中でも旨さと値段のコストパフォーマンスで出色の出来なのが、品川駅の京浜東北線ホームだと記されていた。ちなみに、このホームには二件の駅蕎麦があり、田町寄りがよい。田町寄りの店舗はカレーライスや丼ものも出すため、駅蕎麦らしからぬ風情があるが、田町寄りを勧めたい。
列車が出入りするたびに混雑するホームを抜け、蕎麦屋の前に立つ。自動販売機でかき揚げ蕎麦のチケットを買い、店内に入ってカウンターで注文する。支払いは非接触型マネー・カードを自販機にかざすか――残念だが、脳内に通信機を置くメッシュインサートは普及しておらず、Wi-Fiを用いた自動決済方式はまだ一般化していない――金属通貨を自販機に投入する。チケットを出すと、小柄でちょっと干からびたみかんのような中年女性が湯がいて温めた蕎麦を丼に入れ、柄杓で汁をかけた後、平べったい海鮮かき揚げを乗せてくれる。刻み葱はそのかき揚げの上だ。
XPのサイドデータがコメントする。
隣の山手線ホームではなく、京浜東北線ホーム、それも田町寄りを指定するのは同じ系列店でありながら、微妙に味わいが異なるからだ。
少なくとも、手順に違いがある、と、このXPの作者は主張する。
京浜東北線ホーム田町寄りの場合、麺に汁をかけてからかき揚げを置く。山手線ホームの場合、麺の上に汁とかき揚げを置いた後、横合いから汁を流し込む。大井町寄りはかき揚げ天の上から汁をかける。
「かき揚げ天蕎麦」
注文から約1分、突き出された丼を受け取り、傍らの立食用テーブルに移動する。七味唐辛子を軽く振る。汁を吸って柔らかくなったかき揚げを箸で持ち上げ、一口かじる。衣の柔らかな味の中に海鮮の香りが浮かぶ。海鮮かき揚げといっても主な中身は干しエビと小ぶりのタコのゲソだ。だが、それが美味い。
少しだけ甘い汁を吸った衣が柔らかく口の中にほぐれていく。
これは美味い。
続けて、熱い汁の中に泳いでいる蕎麦をすする。蕎麦の香りがよい。細い蕎麦をひとかみだけして飲み込むと、暖かさが胃袋に広がる。息が白くなる東京の寒さの中で、その暖かさがじんわりとうれしい。
少しだけ唐辛子の粉が浮かんだだし汁をすすれば、さらに暖かい。
はふはふと言いながら、熱い蕎麦をすするのをやめられない。一口二口すすって落ち着いたら、かき揚げに戻り、天ぷらの衣と鰹出汁の相性の良さに脱帽する。品川蕎麦の良いところはこのだし汁だ。やめられない。麺をすすり、かき揚げを食べ終わって、残った汁を少しずつ飲む。醤油と鰹出汁の絶妙の味わいが体を芯から温め、ほっとさせる。コップに注いだ水を一口飲んでから、もう一度、汁をすする。やはり美味い。醤油の角が取れ、鰹出汁に隠れた甘みが体に優しい。
なるほど、これが噂の品川蕎麦か。
私―ジョン・ダンビル―はたぶん、この時点で異常に気づくべきだった。
2015年はXP技術が実用化されるずっと以前の時代だ。つまり、XPによる全感覚記録が行われたはずがない。実際には、何十年か後に、人工の全感覚記録を合成し、XPシンセサイザーでリアリズムを調整したものだろう。古代の二次元映画を現在の技術で補完し、三次元化したり、シム化したりする技術があるという。
それでもいい、という気分になっていた。
この作家はいい仕事をしている。
私―ジョン・ダンビル―は確かに、肌寒い2015年12月の品川駅で蕎麦を食べている体験をしていた。年の暮れの肌寒い朝、仕事へ向かう途中に、駅蕎麦で腹を満たすほんのすこしの幸せを私は感じていた。
それでいいと思った。
蕎麦を食べ終わり、丼を返したところで、私は隣の男がカレーライスを食べているのに気づいた。カリーはインドの薬草シチューで、主に、パンの一種であるナンと合わせる他、ライスにかけて食べることもあるが、英国の海軍食に加わり、19世紀の日本に伝えられた。日本ではちょうどサムライの時代が終わり、近代化が始まった時で、欧米化した食文化の一部として、海軍カレーが普及し、日本の米との相性がよく、国民食になった。確か、この店はオリジナルカレーも美味いという。フライ物と組み合わせたカツカレーに加えて、牛のせカレーなる名物料理を出していた。牛丼用にじっくり煮込んだ牛のバラ肉をカレーライスにトッピングするのだ。働く男たちには欠かせないパワーの源だ。
店内には、刺激的なカレーのスパイスの香りと、鰹出汁の香りが一緒に漂い、食欲を刺激し続けていて、思わず、私は自販機に戻り、牛丼カレーのチケットを買いそうになった。
いや、待て。私は蕎麦を食いに来たのだ!
そこで恐ろしいメニューを見る。カレー南蛮である。
な、何だと。
あの繊細な芸術である蕎麦にカレーをかけるのか?
それは蕎麦という文化への冒涜ではないか?
私の心の中で複雑な感情が爆発したが、グルメとしての好奇心が勝った。
食べたことのないものを食べる。
それこそが、私の人生だ。
「カレー南蛮」
再び、カウンターに立った私を見て、店の店員は「まだ食うのか?」という顔を見せた。駅蕎麦のような駅のホームにあるファストフード店は通りすぎる場所だ。素早く食べて、腹を満たし、立ち去るのが常。二度も三度も入る場所ではないし、足りないぐらいなら、最初から大盛りを頼めばいい。牛丼カレーなど、まさにそういうガッツリ系のための食べ物だ。
だが、同時に、客を選ぶような場所でもない。自販機でチケットを買ったなら客だ。好きに食えばいい。
店員はささっと蕎麦を湯がき、丼に盛る。汁を注いだ後、葱には触れず、カレーの寸胴から、カレールーを注ぐ。
「カレー南蛮、お待ち!」
カウンターで丼を受け取ると、カレーの芳醇なスパイスの香りと鰹出汁のうまそうな匂いが渾然となって私の鼻孔を襲う。ああ、これが美味い。絶対に美味いぞ。
私の脳裏で支援AI(ミューズ)が、情報に齟齬のあることを警告している。
事前調査によれば、この時期の品川駅蕎麦ではカレー南蛮蕎麦を供給していない。本来、南蛮蕎麦は炒めた葱と鴨肉を煮込んだ専用の汁を用意するため、このような駅蕎麦には向かない。カレー南蛮に至っては、カレールーを蕎麦汁で薄めた上、片栗粉でとろみをつけることが多く、手間が増えるため、ホーム上の駅蕎麦で見かけることはあまり多くない。
だが、私は気にしない。
そもそも、店で公的に存在しないメニューが供されることなどよくあることだし、とろみの件も、もともと日本のカレーでは片栗粉でとろみを出すことが多いから気にする必要はない。
いや、それ以前に、この作者が美味いと思って私に食わせようとしているのだ。彼の作品を堪能しようではないか?
結果として、私は報われた。
カレーのスパイスと鰹出汁がこれほどマッチするとは思わなかった。さらに、それを蕎麦に絡ませたこの一杯は実にうまかった。冬の寒い空気で冷えきった体にカレーのスパイスが暖かさを読んでくれる。暖かい蕎麦はそれだけでもごちそうなのに、カレーと醤油がカツを入れてくれる。
いや、やはり食というものはTPOだ。それを食べる最適な場所にある限り、その一皿、その一杯が輝かずにはおられないのだ。
もっと蕎麦が食いたい。
私は店内を見回し、きつね蕎麦を頼む。
甘く味付けした油揚げ(豆腐を薄切りにして揚げたもの)を乗せたもので、関西ではうどんにのせるのが多いが、今は蕎麦が食べたいのだ。暖かい蕎麦だ。油揚げをまず一口噛み切る。汁よりも少しだけ濃く味付けされた油揚げがまるで肉汁を放つように、美味い汁を運んでくる。それが蕎麦の味を引き立たせる。
さらに、たぬきだ。
天かすがここの鰹出汁を吸うと、とてつもなく美味いのは、最初のかき揚げ天蕎麦で証明済みだ。それでも、小さな天かすゆえに、すすり上げた蕎麦とともに口に飛び込んできて、天ぷらならではの油の味と鰹出汁を吸って柔らかくなりつつある独自の食感をもたらす。蕎麦とともにそのまま食道を降りていく感触すら愛おしい。
そして、月見。
かけそばに生卵を落とし、月夜に見立てるという姿は日本独自の感性だ。そもそも熱い汁に生卵を落とすという発想が他の地域にはない。大抵は中華スープのようなかき卵にするか、一度、ゆでてから調理するものだ。
それ以前に、生卵を常食してきた日本の衛生環境に驚嘆する。
さて、月見そばに話を戻すが、月見の卵をいつ割るか? という議論もある。あまり早く割ってしまうと月見の風情もないが、途中で割ってかき卵汁のようになった汁をすするのもよい。ここで七味が大活躍をする。私の場合、卵を崩さぬように蕎麦を食べ終えてからやや暖かくなった生卵をするりと飲み込むのが好みだ。喉をくだる白身のつるりとした感触はセクシーですらある。
もはや私は蕎麦を食べるという行為に耽溺していた。XPであるがゆえに無限に蕎麦を食べることができる。食体験をしつつ、満腹中枢を制御して蕎麦を食べ続けることができる。
もしかしたら、このXP自体が、害脳品(ブレインベンダー)というべき電脳麻薬になっているかもしれない。世の中には感情入力のリミッターを解除したナルコアルゴリズムという電脳麻薬がある。古くはBTL(ベター・ザン・ライフ)と呼ばれた時期もあったが、義体(モーフ)の脳構造が進化し、プログラム対応が進んだ結果、麻薬化した電脳プログラムが進化した。
それでもよい。
精神ドラッグとしての蕎麦ならば、歓迎する。
江戸期の日本人は、特に江戸市民は蕎麦に耽溺したという。当初は脚気対策で蕎麦が導入されたが、江戸の粋とあいまって、江戸の食通たちは蕎麦を愛した。当時の蕎麦は居酒屋の定番食のひとつだったという。天ぷらで酒を飲みつつ、最後は蕎麦で〆る。蕎麦好きは粋な江戸っ子の典型モデルとなり、やがて、どれだけ大量の蕎麦を食べられるか、競い合ったものだ。
『そば清』という落語がある。
江戸っ子が蕎麦の大食いを競う話だ。
良かろう。私もそば清になるとしよう。
「さすが、ジョン・ダンビル。
答えに到達したようだね」
クレストンの声がした。
振り返ると、隣のカウンターでクレストンが牛のせカレーを食べていた。
私は驚かなかった。
誰かの仕掛けだとは思っていた。
クレストンは肉料理の好きな同業者で、エスニック系の味わいを好む。カレーはまさに彼のための食べ物だ。
……とはいえ、このような蕎麦の世界で蕎麦を食べない彼の感性を認める訳にはいかない。
しかたない。クレストンとはどうにも好みが一致しない。別の現場ならいいが、食事時に同席したい相手ではない。以前も、ミートハブでも焼き肉に関する意見の相違が生じたことがある。
「君らしい仕掛けだ。まずは感謝するよ。
素晴らしい蕎麦だ」
「満足してくれてうれしい。
結構苦労したんでね」
「さて、次の趣向は何かね?
蕎麦喰い競争に付き合ってくれる気はないようだが?」
「いや、もう始まっている。
君の手を見給え」
ふと左手に目をやると、肌が、灰色がかった薄緑に変わりつつある。
この色は……。
「二八蕎麦か」
「君の義体(モーフ)に物質変換型のナナイトを注入した。
君の義体(モーフ)はゆっくりと蕎麦に変わっていく」
「素晴らしい」
思わず、私はそう口走ってしまった。
クレストンは復讐のつもりだったようだが、自らが蕎麦になる、という体験などそうそう出来るものではない。
「ところで、そのナナイトには名前をつけたかね?」
私の質問にクレストンはいぶかしげな表情を浮かべた。
「ああ、そこだ。
その鈍感さが君を一流のグルメから遠ざけているのだよ」
「何だと?」
「名前は蛇含草であるべきだな」
*
そば清の話はこうだ。
そば清は蕎麦の大食い競争で二十枚の蕎麦をぺろりと食べるような男だが、ある日、大食い男に挑戦される。さすがに四十枚も五十枚も蕎麦を食うような男では勝てそうにもない。悩んでいたそば清は山でうわばみ(大蛇)に出会う。うわばみは他の旅人を丸呑みして横たわっていた。さすがに腹が苦しいのだろう。うわばみは近くに生えていた見慣れない草の葉を舐めた。すると、すーっとうわばみの腹が小さくなって、うわばみは軽い動きで山の奥へと消えていった。これを見ていたそば清はあの草こそ消化を助ける強力な胃の薬に違いないと考え、それを取って帰った。この草さえあれば、勝負に勝てる。そば清は大食い男と蕎麦喰い勝負を行う。案の定、四十枚を超えたあたりで腹がくちくなったそば清はちょっと中座して、見物人から見えない裏庭に行き、例の草をなめた。
しばらくしても、そば清が戻ってこないので、迎えにいくと、裏庭には服を着た蕎麦が立っていたという。件の草は蕎麦の消化を助けるのではなく、人間の肉や骨を溶かしてしまう蛇含草だったのだ。
(終わり)
Ecllipse Phase は、Posthuman Studios LLC の登録商標です。
本作品はクリエイティブ・コモンズ
『表示 – 非営利 – 継承 3.0 Unported』
ライセンスのもとに作成されています。
ライセンスの詳細については、以下をご覧下さい。
http://creativecommons.org/licenses/by-nc-sa/3.0/
朱鷺田祐介既刊
『深淵 第二版 テンプレート集
辺境騎士団領』