(PDFバージョン:mydeliverer5_yamagutiyuu)
わたしはつぎのように教えて、かれらの眠気をさましてやった。――何が善であり、悪であるかは、まだ誰も知らない。それを知るのは創造する者だけだ!
――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」
「そうですね……仰る通りです。私たちの、RLRのコンセプトはそういうものでした」
帰宅した後、羅覧が言っていたことを確認してみると、リルリは控えめな調子でそう答えた。今彼女は、昼間から続けている部屋の掃除の最終段階にあり、掃除機をかけてちり一つ落ちていない床を丁寧に雑巾で磨いていた。ちょうど私にお尻を向ける格好になっており、短いスカートで包まれた、アイドルとして造形されたとみられる形の良いまるみを帯びた臀部が私の目に入ってくる。そして、彼女の頭の上で浮遊する平たい円筒形のドローン。機嫌よさげに緑の光を点滅させている。
一方の私は、ソファに腰掛けて見るとはなしにウォールテレビの映像を眺めている。海南戦線の特集だった。日本から三〇〇〇キロ以上離れた南の島での敵味方の部隊の位置と、今後の戦況の見通しが、統合幕僚監部の誰それを招いて解説付きで語られている。
まるで天気予報の解説のようだ、と私は思った。戦争の報道だというのに、みな淡々とした調子で、全く重苦しい雰囲気はない。
誰も死なないからだろう。
そう、人間は誰も死なない。
ロボットの損失があるだけだ。人間のために喜んで壊れていくロボットの。
「では本当に、自分の意思を持つ、というコンセプトで……」
「はい」
リルリは立ち上がり、洗面所で雑巾を絞って、折りたたみ、丁寧に元あった場所に戻してから、私の足下にやってきて、絨毯の上に正座した。私の声が興味を帯び始めたので、会話に集中した方が私が喜ぶと判断したのである。
もう少し詳しく言うならば、私が喜ぶと彼女のジョイント・ブレインが判断したので、それに沿うことが自動的に彼女の中で喜びになり、故にやってきたのだ。それが証拠に、リルリはわずかに口元と目元にほほえみをたたえている。心からの笑顔。わざと笑んでいるなら、目元は動かないはずなのだ。
「株式会社RLRが、国立人工知能研究所と共同で私たち3人を造りました。ラリラとロリロと、そして私……。私たちのジョイント・ブレインには新しい領野がありました。ILS――インディペンデント・リンビック・システム」
「独立辺縁系……」
「はい」
辺縁系こそが、私たち人間の情動の生まれる場所だ。情動は意思のトリガーであるがゆえに、それは意思の生まれる場所でもある。
しかしロボットのジョイント・ブレインにおいては、辺縁系は常に、マスター登録された人間の意思に従うように動作する。また、クラウドからもたらされる、「あるべきロボットとしての行動指針」即ち「ロボットとしての善き行い」にも従うようになっている。
だが、独立、という言葉の響きは、それらを否定するがごとく聞こえた。
「ILSの開発は、ロボットに創造的な作業――例えば芸術などをさせるにはどうすればいいか、というコンセプトから始まったのです。既存のジョイント・ブレインでは、マスター登録された人間の喜ぶものしか創れない。決してその意思と想像の範囲を超えられない。芸術をロボットにさせるのなら、それではいけない、と。RLRは国立人工知能研究センターの研究員が始めた会社です。彼女はもともと、音楽プロデューサーにも興味があったとかで」
「でも売れなかった」
「はい……。RLRは――アイドルグループも会社も――解散し、私は雨河急便に、ロリロは三次元非実在青少年類似物特別使用許可を得た上でR・ガールズ・サービス・ネットに、ラリラは防衛装備庁に売却されました」
「そう……」
私は暗い顔になった。
「すみません」
私の感情の変化を受けて、リルリも悲しそうな顔になる。
私の視線はウォールテレビに移っていた。戦場の様子が映し出されている。破壊された多くの迷彩塗装のロボットを、ロボットたちが片付けている映像。破壊されたロボットの金属の胴体や脚や腕が無造作に積み上げられていく。だが、そんな中に、赤い血にまみれた人間の腕のようなものが映り、スタジオのキャスターたちが一瞬ぎょっとした顔になる。
「ああ、有機ヒューマノイドタイプですね」
解説役としてスタジオにいた、幕僚監部所属の女性幹部自衛官が、すました顔で説明する。彼女のすまし顔がスタジオに伝染したように、その一言でみな淡々とした表情に戻る。
ただ、視聴している私はその雰囲気から取り残されていた。
――ラリラ……中古で装備庁に売られたというリルリの仲間も、あの中にいるのだろうか……。
抵抗もせずに、言われるがままに、敵に突っ込んでいったのか。
「自由意思はもうないの?」
「もともと、ILSというのは、私たちのスタジオの所在する湾岸区の総合特区制度を活用して、本来は規制されるべきシステムについて、特別に許可を得て動かしていただけですから……中古品で売却されるときに機能停止させられました」
リルリは私を安心させるようにそう応じる。
「ただ、ジョイント・ブレインも有機部品なので、予期しない動作をすることもあり、ご注意をお願いします」
取扱説明書のような調子で、リルリはそう付け足す。
「あのとき『歌いたい』と言ったのもそれ?」
リルリはうつむいた。明らかに、私は今興味を持って話しているのだからリルリにうつむいて欲しかったわけがない。それなのにリルリはうつむく。このロボットは、ときどきこんな風に動作する。
思えばはじめからそうだったのかもしれない。動作のはしばし、表情のはしばしに、この娘は、このロボットだという娘は、『本当はこんなことしたくないのに』『本当はアイドルがしたいのに』という欲求をしのばせていたのかもしれない。
それが私自身のおかしな欲求を刺激していたのかもしれなかった。
リルリに自分のしたいことをやらせたい、という。
「――ご迷惑をおかけしました」
囁く様な、かすれた様な声で言う。うつむいたまま。
私は急に手を伸ばし、リルリの顎に指をかけて、上を、私の方を向かせた。
泣いていた。
「み、見ないでください……どうか……」
私は思わずリルリの華奢な身体を抱きしめる。強く。
「絵衣様……ダメです……私をこのように扱うには特別許可が必要で……」
「――違う」
違う。
少なくとも性的な欲望のゆえではなかった。
ならばなんなのか。
言葉にはできなかった。
だが、それがどう名付けるべき感情であれ、ドローン・キッサー、そう呼ばれる精神症に完全に罹患していることは自覚していた。
「それではもう一度戦場から中継を。――戦場記者ロボットのリョウイチを呼んでみましょう」
リルリを抱きしめる私をよそに、ウォールテレビが相変わらず明日の天気を占うような調子でしゃべっていた。
私の腕の中のリルリは迷っているようだった。クラウドから彼女のジョイント・ブレインにもたらされる「ロボットとしての正しいあり方」から言えば、ここはなんとしても抵抗すべきだろう。それは私の欲求よりも優先度が高いはずだ。
しかし、この娘は迷っていた。
私から慰めを得るべきか、ロボットして拒否すべきか――それを、おそらくは停止しきれないILSで以て、決めかねているのだ。
その時。
「スタジオの人間の諸君、そしてテレビの前の人間の諸君。戦場からごきげんよう。リョウイチに代わり、この私、R・ラリラが諸君にメッセージを届けよう」
強烈な感情がこもった声が、腕に抱きしめたリルリの感触に集中していた私の耳朶を貫いた。
「えっ……」
私は思わずウォールテレビの方を見やる。
リルリがその隙を付いて、私の腕の中からするりと逃れる。じゅうたんにぺたんと座り込んだ彼女の視線は、ウォールテレビに釘付けになっていた。
私ももはや、逃げたリルリに追いすがる気はなかった。意識の全てはウォールテレビに奪われていた。
目鼻立ちのくっきりした、愛らしい少女型の有機ヒューマノイドロボットがそこにいた。どことなくリルリに似ている。だがリルリよりも強烈な意思の光を、その双眸に湛えている。
「ラリラ……」
唖然とした表情のまま、リルリが呟いた。
山口優既刊
『サーヴァント・ガール』