(PDFバージョン:haranonakanonezumi_takahasikiriya)
猫が、小さなネズミを追いつめました。
絶体絶命のネズミは、目をいっぱいに見開き、ぶるぶるとふるえています。
「猫さん、どうかお助けください」
猫は、目を細めました。それほど腹がへっているわけではありません。
ネズミは祈るように手を合わせました。
「助けていただけたら……」
「助けたら?」
白いひげの生えた鼻をひくつかせ、ネズミはふるえながら微笑みました。
「あなたの友達になります」
ネズミの言葉を聞くなり猫は飛びかかりました。
ごくりとまるのみして、ネズミは腹の中におさまりました。
「ふう……」
腹がふくれていっぱいになりました。猫は一つ、げっぷをしました。
猫は友達なんて欲しくありませんでした。
「わたしはたいくつしていたのだ。面白い話をしたら、助けてやってもよかったのに」
すると、まるまるとふくらんだお腹から、小さな声が聞こえてきました。
「本当ですか? 友達が欲しそうな顔をしていましたよ」
ネズミの声でした。猫はびっくりして、自分のお腹を見つめました。柔らかい毛の生えたお腹は、猫が息をするたびに、ゆっくりと動きます。
いくらまるのみしたからって、お腹の中でしゃべったりするでしょうか。空耳に違いありません。
猫は体を丸くして横になると、すぐ寝てしまいました。
つぎの朝、めざめた猫は、大きくのびをしました。
「おはようございます」
さわやかなあいさつの声に、猫は、あたりを見回しました。
だれもいません。おそるおそる、自分のお腹に目を向けました。一日たったのにまだ、お腹が丸い気がします。
「お前はネズミか」
「はい。ネズミです」
やっぱり、ネズミは猫の腹の中にいました。
かまずにまるのみしたせいでしょうか。猫はしかたなく、ネズミをお腹に入れたまま、いつもの散歩にでかけました。
「いいお天気ですね」
ネズミは能天気に喜んでいます。
「苦しくないのか」
「いいえ、全然。歩かなくていいので楽チンです」
猫は、フンと鼻を鳴らしました。歩きながらひとりごとをつぶやきました。
「耳がかゆい」
「左耳ですか? 右耳ですか?」
すかさずネズミがたずねます。
「左だ」
「左耳がかゆいときは、いい知らせがあるって言いますよ」
どうということのないつぶやきでも、誰かがこたえてくれると、ちゃんと会話になるのだと、はじめて知りました。
それから猫は、お腹の中のネズミと時々話をするようになりました。
猫がひだまりでぬくぬくとねそべっていると、ネズミが腹から呼びかけてきます。
「猫さん、お腹はいっぱいですか」
猫は、片目をあけて、「ああ」と答えました。
さっきモグラをつかまえて食べたところでした。ネズミはしみじみ言いました。
「モグラもネズミも猫さんの食べものなんですよねえ。友達になんてなれませんよね」
「なんだ、そこにはモグラもいるのか」
「いるっちゃ、いますけどね、猫さんとお話はできないと思いますよ」
ネズミの言うとおり、猫はこれまでいろんな生きものを食べてきましたが、腹の中で話をするものなんて、いませんでした。
猫はからだを起こしました。腹にはネズミが入っているので、丸くふくらんでいます。
「お前はなぜ、友達になるなどと言ったのだ」
ずっと聞いてみたかったのです。
お腹の中で、ネズミはもぞもぞ動きました。
「そうですね。食べられたくなくて必死だったんです」
「そんなことだろうと思った。わたしが、友達が欲しそうな顔をしていたなんて、でまかせだろう。あのときお前とはじめて会ったのだから」
猫は、お腹に目を向けました。前より大きくなっているような気がします。まるのみした小さなネズミが、お腹の中でだんだん大きくなっているのでしょうか。
「そうですね。本当は友達が欲しかったのは、ぼくのほうだったのかもしれません」
ネズミの答えを聞いて、猫は満足しました。
「さみしいやつだな」
「でも今はさみしくありません」
ネズミの声ははずんでいました。
「猫さんがいるから」
猫はだまっていました。
息をすると、丸くふくらんだお腹が、ゆっくりと動きます。
猫は、ネズミをまるのみするまで、誰ひとり友達がいませんでした。友達がいないのに、さみしいとも思わなかったのはどうしてでしょうか。
大きな生きものはすべて敵。小さな生きものは食料。たまさかに同族に行き会うことがあっても、言葉を交わすこともありませんでした。
誰とも話さず、一人で食事をし、一人で散歩し、一人で寝て平気だったのが、遠い昔のようです。
今はいつも、お腹の中にネズミがいます。
猫は立ち上がって、体を伸ばしました。
「散歩に行くか」
猫はネズミが苦しくないようにゆっくりと歩きました。確かに前よりお腹が大きくなっています。このごろは、ネズミのぶんまでお腹が減るので、二人分、食べています。
それからしばらくたったある日、猫は、落ち着きなく歩き回っていました。お腹が痛くてじっとしていられないのです。
猫のお腹は、もうぱんぱんに張っていました。
お腹の中でネズミが大きくなりすぎたのでしょうか。
しゃがみこんだとたん、お腹にぎゅっと力が入りました。あっと思ったときはもう、猫は、何かを産み落としていました。
おそるおそる、自分の腹の中から産まれたものに目を向けます。
それは、黒くてぬれていて、もぞもぞと動いていました。包まれた膜を破ってやると、突然勢いよく「にゃあ」と鳴きました。
「ネズミ……。お前は猫となって産まれてきたのか」
猫は、思わずつぶやきました。
小さな猫の赤んぼうは、目も開かず、しっぽも短く、手足もちいさく、まるで出来そこないのネズミのようです。けれど、よくよく見ればやはり、正真正銘の猫なのでした。
さっきまでぱんぱんに張っていた猫のお腹は、今はもうしぼんでいます。
しぼんだ腹に「ネズミ?」と呼んでみましたが、何も答えません。
猫は、もぞもぞと動く小さな赤んぼうに目を向けました。見ていると、何ともいえない愛しい気持ちが、ぐっとこみあげてきました。
猫は赤んぼうをなめてやりました。
「わたしがいるから、さみしくないぞ」
そのとたん、赤んぼうは、声をはりあげて泣きだしました。
終わり
高橋桐矢既刊
『あたしたちの居場所:
イジメ・サバイバル』