「悪い夢」小珠泰之介


(PDFバージョン:waruiyume_kodamayasunosuke

 1

 これは悪い夢だ。

 一つ断っておこう。
 実は、ぼくはこの悪い夢の結末を、未だに知らない。
 つまり、ぼくは自分が知っていることしか書けない――などと書くと、これを読む人は、たぶん、狐につままれたような気持ちになることだろう。
 しかし、それが一体どういうことなのかは、最後まで読んでもらうしかない。
 ぼくとしては、最後までこれを書き続けられるよう幸運を祈るしかない。

 2

 ぼくはゾンビである。
 名前はもう無い。
 生きていた時の名前は小角一樹といった。
 その時は、二十七才の独身男性だった。
 実家で両親と妹の四人暮らしをしながら、宅配便の会社で契約社員として働いていた。
 ぼくがゾンビに成り果ててしまったのは、今から三ヶ月前に、三面記事に載るような、しけた事件に巻き込まれたせいだった。
 簡単にいえば、ぼくはゾンビに噛まれてしまったのだ。人の血を求めるゾンビに噛まれれば、やがて噛まれた人間もゾンビになってしまう。小さな子供でも知っている事実だ。
 その話から始めよう。

 ある日の晩方、ぼくが宅配便の配送センターで荷物受付をしていた時に、そのゾンビは現れた。
 ぼくは驚いた。ゾンビという存在に対して驚いたのではない。ゾンビなぞは、この世の中に腐るほどありあまっている。陽の光に弱いため夜にしか出歩かないが、奴らはいつも暗闇の街を当たり前にうろついている。
 ゾンビだからといって特に何かをするでもなく、ただうろつき回り、朝が来る前に棲家――たいていは築数十年の集合住宅だ――に戻って眠りにつく。
 それだけならば、わりあい付き合いやすい存在ともいえるのだが、少しでも関わると、すぐに支障が生じてしまうのだ。この時のぼくのように。
 ぼくが驚いたのは、窓口に立っている禿げた中年男のゾンビが、荷物を送りたいと言い出したからだった。
 奴らがこんな社会的な行動をとるはずがない。
 こちらが戸惑っていると、相手はもごもごと話を続けた。
「送って欲しいものがある」
 しかし男は手ぶらだった。
 反射的に、ぼくは尋ねてしまった。
「でも何を送るのですか」
 するとゾンビは自分を指差して、こう云った。
「この俺の体を、母のいる北海道まで着払いで送って欲しいのだ」
 それは、どだい無理な話だった。
 宅配便では生きた動物はもちろんのこと、死んでいるゾンビだって運送することなど出来ない。それはみな会社の約款で決められていることだ。
 ぼくはそのように回答した。この窓口にいる以上、生者にも死者にも分け隔てなく接客しなくてはならない。
 だが、男は首をゆっくり横に振った。
「母が危篤なのだ。親の死に目に会えなかったら、お前はその責任を取ってくれるのか?」
 これはほとんど脅迫だ。男は自分の主張を譲る気配が全くない。
「申し訳ございません。事情は察しますが、対応はできません」
 ぼくは、そう言うほかなかった。
 しかもこいつは金を持っていない。それはそうだ。ゾンビは金を持たない。その必要が無いからだ。
 自分の体を着払いにするとは、ゾンビにしてはよく考えた方だと感心したが、ぼくは出来ないものは出来ないということを、丁寧に説明した。
 だが、やはり奴はこの説明に納得しなかった。
 その結果、奴はいかにもゾンビらしく、その凶暴性をあらわにし、その残虐性を剥き出して、ただの一市民であるぼくに襲いかかった。
 まあ、そういうわけなのである。

 ぼくは命からがら配送センターから逃げ出したのだが、奴を振り切る際に右手の甲をしたたかに噛まれてしまった。赤黒い歯型がくっきりと付いた。痺れるような激痛が腕に走った。
 すぐに夜間救急病院に駆け込んだが、そこはやけに混み合っていた。
 ぼくは受付で、ゾンビに噛まれたことを説明して、急いで診てほしいと訴えたが、「順番を待つように」という一点張りだった。
 それで診察室に入るまでに、二時間も待たされてしまったのだ。
 初老の医者は、ぼくを見ずに机上のディスプレイを見つめながら訊いた。
「どうしました?」
「ゾンビに噛まれました」
「いつ?」
「今日です。三時間くらい前に」
「どうしてすぐに来ないの、すぐに処置すれば腕を切断して助かったかもしれないのに。本当に多いんだよ、こういうの最近」
「ずいぶん待たされたんですが」
「でもまあ、こうなったらもう、しょうがないな。一応、薬は出すけど、ゾンビになっちゃったら自分で必ず保健所に行ってね。多分なっちゃうけどね。はい、今日はおしまい。向こうで手当てをして」
 ぼくは消毒され包帯を巻かれ薬を処方してもらった。
 しかし案の定、痛みが消えることはなかった。

 それで、今、ぼくはゾンビなのである。

 3

 ぼくは仕事を失った。
 ゾンビは生きている人間の仕事につけない。そしてゾンビは、市の保健所に行って登録しなければならない。
 無登録ゾンビは断りなく「処分」されても文句は言えない。「処分」というのは、捕らえられて「跡形もなくされてしまう」ことだと聞いた。
 だからぼくは、もよりの保健所に行くことにした。
 専用窓口には、すでに数人が並んでいた。お互いに無言で、じろじろ様子を窺った。
 血液採取や心電図などの簡単な検査を受けた後で、こう云われた。
「小角一樹さん、あなたは確かにゾンビです」
 登録証が交付され、その余白に検査後に撮られた写真を貼りつけられた。
 ぼくは同じ日に登録した他のゾンビ達とこの写真を見せ合って、自分がどのようにして死んだのか、お互いに夢中になって話し合った。不思議なことに、検査前とは打って変わって親しげに会話ができたのだ。
 登録されたゾンビは、一定の奉仕活動をすることと引き換えに、生者の血液から作られたボツルスという錠剤が配布されることになっていた。
 まるで碁石のようなそれを一粒飲み込むと、ぼくはとても満たされて幸福な気分になった。そのまま一日二日は空腹を感じなくなるのだ。
 だからぼくは、与えられる奉仕活動を時々こなさねばならなかった。
 空腹だからといって人間を襲えば、現行犯ですぐに「処分」されてしまう。大昔に、人間とゾンビとの間でそういう決めごとがなされたのだった。だから、ぼくを襲ったあの中年男も、とっくに「処分」されたことだろう。
 今から思えば、自分は真面目なゾンビだったと思う。
 日の入りから日の出までの時間に行われる、河川のゴミ拾いや、放置された国有地の草むしり、不審者(もちろん生者の)が出没する場所での警ら。
 ぼくは無心に活動した。たんに報酬のボツルスを貰うのが嬉しかったともいえる。
 死んでからも、ぼくはずっと実家に住んでいた。それは家族が世間体さえ気にしなければ許されることだった。
 父親は、そもそも近所付き合いなどするような人間ではなかったので、ぼくが家にいようがいまいが無頓着だった。
 母親は、ぼくが目の届かない所で他人に迷惑をかけることを心配してばかりで、とにかく家にいろと厳命された。
 唯一、二つ下の妹だけが、ぼくを疎んでいた。
 それもそうだろう、妹には婚約者がいて、来年の春には結婚式を予定していたのだから。親族にゾンビがいるというのは、さすがに人聞きが悪い。
 二言目には「あたしの視界から消えて」と冷ややかに宣告した。
 ぼくは可能な限り妹の希望に添えるよう気をつけた。昼間はずっと閉め切った自室にこもり、夜になるとひっそり外に出て奉仕活動をした。
 ゾンビになって、奴らが夜にしか外出しない理由が初めてわかった。もちろん人目を避ける意味もあるのだが、それだけではない。
 ぼくも誤解していたのだが、ゾンビは生者と比べて、感覚が異常に過敏なのだ。
 昼間は光が強すぎて視界が真っ白になってしまう。ただの生活音が耳鳴りとなって何も聞こえなくなる。熱がこもって逃げて行かないので肉体が腐敗する。
 夜になれば、それが多少はましになるというだけだったのだ。

 4

 ある日、スーツ姿の女性が、ぼくを訪問してきた。
 ショートカットで眼鏡をかけたその若い女性は「NOTLD」という公益社団法人から派遣された職員で、白石布由子と名乗った。
「たった一週間、ある場所に滞在するだけで、あなたに一年分のボツルスを差し上げます」
 と、彼女は笑顔で云った。
「これは限られたゾンビの方にしかお話をしないのです。あなたはその一人に選ばれました」
 それは大きな仕事だった。
「NOTLD」が、ゾンビの生態を調べるために、国内某所に大勢のゾンビを集めている。そしてゾンビ達は一週間、ある環境の下で自由に過ごすだけで良いのだという。毎日の食料は保障するという。ただし、どのような環境なのかは、今日は話せないらしい。
 その調査研究は国家からの補助金が交付されており、大規模な予算と人手のもとに行われるという。それが本当ならば、ある種の社会実験とも言えるものだった。
 しかも破格の待遇だ。躊躇することなく、ぼくは参加を決めて彼女に伝えた。
 地味な奉仕活動を続けるよりは、もう少し何か世の中のためになった方が良いに決まっている。
 ぼくは契約書にサインをした。
 白石さんは静かに微笑んで、出発の日時が記された紙を渡すと、すぐに去っていった。
 約束の晩、ぼくは待ち合わせの保健所前へ向かった。十数人のゾンビ達がそこで待っていた。
 午前零時ちょうどに、四トントラックがやってきて、全員コンテナの中に入れられた。その後も何か所か停車してはゾンビ達を拾い上げた。最終的には五十人ほどのゾンビを詰め込めんで、トラックは何時間もかけて目的地に到着した。エンジンが止まると同時に、後方扉が開き、ぼくたちは順番にゆっくり降りることになった。
 その場所は見渡すばかりの草原だった。トラックはすぐに来た方向に去ってしまった。
 どうやらそこが実験場らしかった。あらかじめ説明された内容からすると、ぼくたちはここで自由に過ごして良いのだった。
 まもなく夜明けだったので、ぼくはすぐに隠れる場所を探し始めた。他の地区から運搬されたゾンビたちも、すでにあちこちにさまよい歩いているようだった。
 ぼくは、それから三日三晩、安楽に過ごした。
 夜の暗闇の中で、ゾンビ達はお互いに干渉することもなく、好きなだけ丘や森の中を歩き回った。小川を渡り、渓谷を越えた。平原をどこまで進んでも、地平線しか見えなかった。
 そして陽の光が支配する朝が来る前に、光が届かない、鬱蒼とした森の奥で、大樹の根元に横たわって眠った。
 一日に一回、夕日が沈んだ地平の彼方から、ヘリコプターがやってきて、「NOTLD」のロゴが入った麻袋が投下された。その麻袋の中からはボツルスがこぼれ出た。これが食糧の保障だ。
 ぼくらは時間になると森から出てきて、わらわらとヘリを追った。
 最初のうちは、我先にボツルスを手に入れるべく、多くのゾンビ達が落下した麻袋に殺到した。しかし一度ボツルスを口にすると、とたんに彼らは冷静になり、急速に混乱は収まった。そして次のゾンビ達のために順番に分け与えていく輪が波紋のように広がっていくのだった。
 ここはまさに楽園だと思った。

 5

 四日目の夕方に事件は起きた。
 森の中に広がる沼地に、ゾンビ達が続々と集まっていた。
 ぼくも何があるのか気になったので、みんなの後について見に行くことにした。
 沼に人間の死体が、うつ伏せに浮かんでいた。
 ゾンビではない、かつて生きていた人間の、ほやほやの死体――それをゾンビ達は見に来ていたのだった。
 何人かのゾンビは沼に入り込んで、その膨れ上がった肉体を岸辺に引き寄せ、地べたにひっくり返した。
 若い男の亡骸。そして首には、何かを巻きつけられたような紫色の痕がはっきり見えた。
 これは殺人だ。
 ぼくは口に出して云った。
「これは殺人だ」
 いつしか周囲のゾンビ達に、不穏な空気が流れた。
 何人もきょろきょろと首を振り、大げさな身振り手振りを繰り返した。軽い揉みあいが始まった。続けて威嚇の怒号が響いた。
 そしていきなり混乱が起きた。
 死体の剥奪。一気に腕と脚と胴体と頭が引きちぎられた。体の部位はさらに細かく分けられ、手のひらや耳が空中を飛び交った。
 ぼくの目の前に頭が転がってきた。ぼくはそれを素早く拾うと、胸に抱えてくるりと振り返り、その場を去ろうとした。
 なぜそんなことをしようと思ったのかはわからない。その男を可哀そうだと思ったのかもしれない。
 隠していることに気づかれなかったのは、ほんのわずかな間だけだった。続々とやって来た野次馬のゾンビ達に、あっという間に見つかってしまった。哀れな男の頭は奪われ、背後の狂乱に放り込まれ、それが最後にどうなったのか、もうぼくにはわからなかった。
 ぼくはこの状況に危機を感じた。非常にまずい気がして、すぐに沼地を離れることにした。そして二度と近づかなかった。
 残りの三日間を、ぼくはほとんど暗がりに座り込んで誰にも会わず、動かなかった。空腹は我慢することにした。
 しかし、ぼくの危惧をよそに、他のゾンビ達は夜の草原で楽しげに過ごしていた。結局、あの事件の後は何も起こらなかったようだ。
 一週間の実験期間が終わり、ぼく達は再びトラックに何時間も載せられて帰宅した。
 報酬のボツルス一年分は、後日、自宅に郵送されるとのことだった。それが、せめてもの慰めだった。

 6

 帰宅してから数日後のこと、あの「NOTLD」の職員――白石布由子から、携帯電話に連絡があった。
 何ごとかと思いきや、いきなりぼくに、家を出て隠れろと言う。
 訳がわからず事情を尋ねると、唐突に苛立った声で、彼女のメールアドレスに空メールを送れ、と言ってぷつりと電話が切れた。
 訝りながら、教わった宛先に携帯電話からメールを送ると、すぐにメールが返信されてきた。
 件名なし、本文にはURLが一つ記されているだけ。リンク先へ飛ぶと突然、動画が始まった。
 無音の動画。そこには林の中で血塗れのゾンビ達がしゃがんで蠢いている姿がくっきり映されている。
 地面には血だまり、その中にぐちゃぐちゃした臓器らしき物体が散乱していた。何体ものゾンビがその周りを行き来している。そのうちの一体が人間の生首を持ってカメラに近づいて来た。一分程度で動画は終了した。なんとも悪趣味な映像だ。
 再び電話が鳴った。白石さんだ。
「それ、どう思う?」
 ぼくはゾンビがたくさんいたと話した。すると彼女はため息をついてこう言った。
「もっとよく見て頂戴。あの頭を持っているのは誰なの」
 通話しながら、ぼくは自室のノートパソコンを開いて同じ動画を検索した。それはすぐに見つかった。大きな画面で見てみると、最後の数秒間に、紛れもない人間の頭が鮮明に映った。その顔は苦渋の表情を浮かべている。そして、その頭部をしっかり掴んで持っている奴の顔も、はっきりカメラの前を遮っている。
「こいつもゾンビだ。陰気臭い顔をした奴。このゾンビは誰なんだ」
「莫迦ね、それはあなたよ。これは間違いなく一週間前の実験場の映像だわ。だから困った事になっているのよ」
 にわかには信じられなかった。白石さんが言う事実が――ではなくて、ここに映し出されているのが自分自身だという事が――だ。
 そこに居たのは、土気色をした頬、うわの空であさっての方向を見つめている目、ぽかんと口が開いたデクノボー。
 何の変哲もない平均的なゾンビだ。
 これが自分だとは到底信じられなかった。もう一度まじまじと見てみたが、やはり、どうしようもないほど自分自身であった。
 たちまち恥辱でいっぱいになった。
 こんな奴が自分だなんて。自分がこんな奴だったなんて。
「NOTLDの幹部が殺されたの。あの人間の死体がそうなのよ。あなた達が死体を弄んでいる所を撮影されていたってわけ。しかも、この動画だけ見ると、人間はあなた達の手にかかったようにしか見えないわ」
 それは誤解だと繰り返したが、彼女は歯牙にもかけなかった。
「これを見る人にとって、真実はどうでもいいの。重要なのはここに映っているものだけ。それだけがここでの真実だから。辻褄が合えばどうにでもなるのよ――で、あなたに朗報があるわ」
 彼女は投げやりに言い放った。
「あなたが主犯格だと思われているわ」
「え……」
 ぼくが首をひねって唸ると、白石さんは再びため息をついた。
「もう一度見てご覧なさい。この動画が何を意味しているものなのか」
 ぼくはしぶしぶ動画を再生してみた。
 固定された視点のカメラは、おそらく茂みの中に設置されたものと考えられる。画面の中央に人間の胴体が仰向けに横たわっている。
 既にゾンビ達によって引きちぎられているので、四肢は確認出来ない。首も無い。こちらに背を向けてうずくまったゾンビ達が四、五体。奴らが両手を口に当てて何をしているのかは言わずもがなだ。
 それから人間の頭を胸に抱いた無表情のゾンビが――つまりぼくなのだが――ゆっくりとカメラの目の前を通り過ぎて行った。飛び散った血飛沫を気付かぬうちに浴びていたのだろう、ぼくの口もとが赤黒い血で汚れていた。
 そこで画像が止まった。
「どうしてこれで、僕が主犯格にされてしまうんだ。一体何の罪で?」
 ぼくは白石さんに訴えた。
 すると彼女の声は、いきなり優しい響きを帯びた。
「ごめんなさい。本当に一から説明しないとわからないのね。じゃあ説明してあげるわ。まずこのタイトルをゆっくりでいいから読んで頂戴」
 ぼくは言われたとおりに動画のタイトルを読み上げた。
「衝撃! 本物? ゾンビが人間を喰らった瞬間を撮った!」
 なんという品の無い言葉づかいだろうか。
「でもね、予備知識の無い人間が題名に惹かれて、これを見るでしょう。すると頭の無い死体があって、その次に頭が運ばれてきて、持っているのはあなた。ほら、食べたのはあなたでしょう」
「ちょっと待てよ。それじゃ、あまりにも不公平じゃないか。大体、この映像は誰が公開したのさ」
「NOTLDの幹部よ。殺人を犯した当の本人がこれを公開したのよ。私は組織の内部にいて、偶然それを知ってしまったわ」
 彼女は言葉をいったん止めてから、一気に吐き出した。
「そう、私はこの犯罪の真実を知っている。以前から幹部同士の関係が悪いことは皆が知っていたわ。理事会に大きく二つの派閥が出来ていて、互いに牽制し合ってことあるごとにいがみ合っていたもの。今回の実験も大きなプロジェクトだったから、いろんな場面で彼らは衝突していた。主導権争いが今回は特に激しかったみたい。頭が良い人間同士だからといって、話し合いでなんでも解決するわけじゃないわ。結局、自分の方がより賢いってことを白黒で証明せずにはいられないのね。結果的に、一方の派閥のリーダーが殺されて、あの沼に沈められた。それも最初から沼に沈めるつもりじゃなくて、どうやらうっかり殺しちゃった死体の処理に困って考えただけみたいなのよ。賢いことね」
「でも、君の言うとおりだとしたら、この真実を明らかにすべきじゃないか。君が証言すればいい。君はそこの職員だろう」
「いいえ、私は一介のアルバイトなのよ。間抜けそうなゾンビを実験に勧誘する簡単なお仕事よ。幹部には、名前さえ覚えてもらえていないわ」
 どうも彼女は口が悪い。
「私が何を言ったって誰も聞いちゃくれないわ。首謀者は、この動画を公開したことで、扇情的に世間の目を引き付けて、都合の悪い真実を隠蔽しようとしたのよ。騙されやすい無実のゾンビに罪を着せた。そして最後にNOTLDが被害者として世間から同情されるように仕向けた。私に言わせれば、あなた――面白いくらい格好のだしに使われているわ」
 だが、そう言われて改めて映像を見てみると、ぼくにもその筋書きが本当らしく思えてきた。
「だから、残念ながらあなたに出来るのは、今すぐその部屋から逃げて安全な場所に隠れることだけなの。この動画が昨夜に公開されてから、あちこちで騒動が起き始めたわ。まだ火がついたばかりだけどね。でも早速警察が動き出したみたい。さっき、仲のいい職員から聞き出したのよ。例の実験募集に使用したゾンビの名簿を登録証のコピーと一緒に提出したって。あなたの部屋に制服どもが駆けつけるのも時間の問題よ。で、そこへ着いてみたら、動画に映っていたゾンビが間抜け面をして立っている――やっぱりこいつが、と見なされる。辻褄が合うわ」
「ごたくはもういいよ。警察はごめんだ。でも安全な場所なんてぼくは知らない。何処にも行くところが無い」
「田舎とか別荘とか無いの。あなたを匿ってくれそうな親族とか、高飛びできそうな外国とか」
 そんな都合の良い協力者がいるものか、と言いかけて、ぼくはふと思いついた。
 可能性は低いが――あそこなら安全かもしれない。
「……分かった、君のいう通りにする。これからぼくは姿を消す。教えてくれてありがとう。いつかお礼ができるといいけど」
 彼女が溜息をついて受話器の音が一瞬こもった。
「あなたの呑気さにはあきれるわ。私は自分の身が危険に晒されたくないだけなの。これはあなたを思っての事じゃないから、お礼をしてもらう筋合いは全然ないのよ。私の気が済まなかっただけ――自分のした事がきっかけで、無実のゾンビが殺人容疑をかけられたなんて、そんなの、私には我慢できないから」
 白石さんの声が怒っていた。
「――この動画のフルバージョンがあってね、前後の様子もそこには映っているの。私はそれも見たわ。だから、あなたがあの人間に優しくしようとしてくれたことを知っている。あなたは他のゾンビとはどこか違っているわ――これはお世辞じゃなくてね――それだけのことよ。じゃあ、くれぐれも見つからないようにね」
 電話が切れた。
 ぼくはもう一度だけノートパソコンで動画を再生させながら、見知らぬ自分の顔を眺めた。停止したりコマ送りしたり。だが、どの角度からどう見ても好感が持てない。諦めて出かける支度を始めた。
 こうして、ぼくは殺人を犯したゾンビという、全くの濡れ衣を着せられて、追われるはめになったのだ。

 7

 真夜中に家を出て、ぼくはひたすら目的地へ向かって歩く。
 見晴らしのよい土手をめがけて道路を突っ切る。
 灰色の雲が、頭を押し潰しそうなほど垂れ下がっている。石段を登って土手の上に立ち、ぐるりと周りを見渡す。
 誰もいない事を確かめる。
 それから河川敷に沿って南へ歩く。
 ぼくは橋を渡った。川の流れは暗くて見えない。向こう岸には人家の灯りがほとんど見受けられない。
 橋を渡り終えると、今度は左右に蛇行する上り坂を歩き始めた。もはや車は一台も通らない。闇の中で黄色に点滅する信号機が、坂の向こうまで点々と並んでいた。
 坂を登り切ると、今度は国道をまたぐ陸橋が目の前に伸びていた。流星の如く尾をひいて、轟音で走る車が下にたくさん見えた。
 あちらの道はなんと明るく華やかなのか。
 それにひきかえ、こちらの道の静寂と暗さといったら別世界だ。
 陸橋を渡り終え、さらに一時間ほど歩くと、切り開かれた丘陵の一帯に、かつてニュータウンと呼ばれた、かなり年季の入った住宅街がある。ぼくの目的地はそこだった。
 暗い街並みを慎重に歩きながら、目当ての家を探した。自分の足音がやけにうるさく響く。住所は知っていたが、実際に来たのは初めてだ。
 規則正しい区画の似た様な街路。
 無人のバス停留所。
 シャッターが閉まったスーパーマーケット。
 妙にこざっぱりとした街路樹。
 どの家も同じ作りに見える。季節の花が咲き乱れるプランターまで同じように見える。かろうじて表札の素材や形や文字によって、それぞれの世帯の個性を出そうと試みているかの様だった。
 しかし逆に考えれば、これほど隠れるのに最適な場所は無い。
 ここには誰もいなかった。
 それは今が真夜中だから、という理由だけではない。普通の街なら、ゾンビの一人や二人がたむろしていてもおかしくない。
 ありていに言えば、この街は静かに見捨てられているのだ。ゾンビすらいないほどに。
 新興住宅街として売り出されたが、買い手が半分も埋まらず、分譲計画が頓挫した陸の孤島。今や、見事なまでのゴーストタウンだ。
 わずかに残った住人は、わざわざバスに乗って川を渡り、繁華街まで出ないと簡単な買い物すら出来ない。そのバスでさえ朝と晩の2本しか来ないのだ。
 ようやくぼくは目当ての家の前に立った。
 表札には「如月キヨ」とある。
 玄関の前から見える雨戸は全て閉まっており、物音一つしない。
 目の前にインターホンがあった。思い切って呼鈴ボタンを押す。予想以上に大きな音が道路まで鳴り響いたので私は驚いた。
 余韻と沈黙。時間の経過。誰も出ない。
 もう一度ボタンを押した。
 反響が尾をひいて消えて行き、静寂が再び戻ってきた時、いきなりスピーカーから声が響いた。
「誰」
 老いた女性の声だ。
 ぼくはスピーカーに口を近づけて言った。
「一樹です。小角英子の息子です。遅くにすみません」
 しばし沈黙があって、また声がした。
「あの子は死んだと聞いたよ。あんた何言っているんだい」
「いや死んだんですけど、完全に死んでいなくて――でも困ってしまって、ここに来たのです」
「そういうのは間に合っているから」
「本当です。お願いです。入れて下さい」
「困るねえ。どうして皆いつも勝手な事ばかり言うんだろうね、まったくさ」
「追われているんです。お願い、助けて下さい」
「みんな必ず、私にそういう風に言ってくるのさ。非常識だね。今は何時だと思っているの」
「ごめんなさい。急な事だったので。先に電話すれば良かったね」
「今起きたばかりなの。もう帰ってちょうだい。じゃあね」
「おばあちゃま」
 再び沈黙。インターホンのじじじ、という雑音が小さく聞こえた。
「本当に一樹なのかい――まさかね――でも待ちなよ。私は着替えてもいないんだから……だけどまあ仕方ないね、今日だけだよ」
 突如、解錠される音が鳴って外扉が自動的に開いた。同時に頭の上で灯りが閃いた。
 少し戸惑っていると、また声が響いた。
「早く入りなさい。すぐ閉めるから」
 ぼくが敷地に入ると、背後で静かに外扉が閉まり再び施錠された。
 同時に、目の前にある玄関の引き戸が開いた。
 中に足を踏み入れると、痩せた祖母がガウンをまとって、壁に寄りかかりながら立っていた。白い肌は皺だらけで、銀色の長い髪が腰までおろされていた。
 彼女が手に持ったリモコンのボタンを押すと、背後の戸がするすると閉まり、施錠された。
「寝巻きのままで失礼するよ。いったい何の用だい」
 ぼくが慌てて、何から説明しようかと口籠っていると、審問官さながらに挑発的な目つきをした祖母は、急にうつむいて小さく肩を震わせた。
 この御年九十九歳の人間の女性は、笑っているのだった。
「どうぞお上がりなさい」

 8

 部屋はやけに蒸し暑かった。これで祖母は平気なのだろうかと不安に感じるほどだ。
 それから、この家に一歩足を踏み入れた時から、大きく響いていたのがラジオの音だ。どうやら隣の寝室から流れてきているようだ。
 祖母は、奥の台所でお湯を沸かし始めた。
 一人で何か悪態をつきながら食器を出す音が聞こえる。座って待つよう指示されたので、ぼくは傍の椅子に腰を下ろした。それから十畳ほどの洋風のリビングを見渡した。
 すっきりと整理整頓された部屋だ。がらんとした、と言っても過言ではない。二人掛けのソファ、ローテーブル、奥にテレビと書棚。壁には抽象画が一点飾られている。それだけだった。生活の匂いがあまりしない。
 台所から、祖母がしずしずと姿を現した。お盆に二つの湯呑みを載せて持っている。
 あまりにゆっくりなため、あわてて助けに行こうとすると「いいから」と制止された。
「お前さんは、ここには入らないで。座ってなさい」
 ぼくは言う事におとなしく従った。
 祖母の淹れた緑茶を、せっかくだから一口呑んでみたが、ぬるいお湯の味しかしなかった。しかし、ぼくの渇いた喉をいくらか潤してくれた。
「お茶だけじゃ寂しいわね。冷蔵庫に何かあるだろう」
 そう言って祖母は再び台所へ立った。
「ぼくはこれだけで大丈夫です」
「何だって。耳が莫迦になってしまってね。まあ座って待ちなさい。私も丁度小腹が空いたところだったから、あなたに付き合ってもらわないと」
 実際のところぼくは何も欲しくなかった。しかし祖母の好意を無下にもしたくなかったので、これ以上は黙っていた。
 奥から電子レンジの作動音が響き、数分後に軽快な合図が鳴った。やがて彼女は大皿を捧げるように持って静かに戻ってきた。
 ぼくの目の前に出されたのは、ほかほかの小さな肉まんが四つ。どうしたものかと途惑っていると、祖母は微笑みかけてきた。
「ほら、私も一つ頂くから、お前も召し上がりなさい」
「おばあちゃま、ごめんなさい。ぼくはもう生きていないんです。つまり、ゾンビなのです。ゾンビは生きている人の食べ物は食べられないのです」
「まったく困ったわね――これを食べられないっていうのかい。それはとんだ失礼をしてしまったわね。じゃあ、何をお出しすれば良いのかしら」
「ボツルスっていうのを聞いた事ありませんか。真っ黒な碁石みたいな錠剤です。ぼくはそれだけあればこと足りるんです」
「ふん、難儀なことだね」
 見ると、祖母はとっくに肉まんを一つ平らげていた。すぐにもう一つを手に取ると、それを半分に割った。
 湯気とともに肉汁たっぷりの中身が現れた。右手の方にかぶりつく。三口でそれがなくなると、今度は左手の方に移った。そちらも忽ち彼女の腹に収まって行った。
「夜中に食べると、こういうのも美味しいのよね」
 祖母は微笑んで、さらにもう一つ手に取った。淀みのない、優雅ともいえる動きだ。先程と同じく半分に割って食べ始めた。
 それは、あんまんだった。ほのかに胡麻の風味が混じる甘い匂いが漂った。熱々にとろけそうな餡が少し、ぽたりとテーブルに落ちて、ひとすじの湯気を立てた。ぼくも思わずそれを指ですくって舐めたくなったほどだ。
 祖母の食欲は旺盛だった。最後のあんまんにも躊躇することなく手を付けた。彼女は普段からこんなに食べるのだろうか。
 ぼくには、手持ちのボツルスが一粒も無い。一年分の報酬は、結局まだ貰っていなかった。だから、ここでどうにか入手する手立てを考えなくてはならない。
 瞬く間に大皿が綺麗に片付いた。最後に湯呑みのお茶を飲み干すと、彼女は満足げに息を吐き、手を合わせた。ぼくは拍手を送りたくなった。
「それで、お前さんは一体どうしたって言うんだい」
 祖母の問いに、ぼくはこれまでの事をかいつまんで説明した。彼女は目を閉じて聞いているようだったが、理解してもらえたかどうかはわからない。
 話が終わると、祖母は目をぱちぱち瞬かせながら、ぼくを見つめた。
「お前さんの言うゾンビとやらは、私の知っている、死にきれずにふらふらしている、あれかい。私が若い頃はそういうのはまだ滅多にない珍しいものだったが」
「そうです。僕は死んでしまった。ゾンビとしてふらふらしている。そして警察に追われているのです」
 ぼくはやや自嘲気味に吐き捨てた。
「要するに、お前さんはここにしばらく隠れるって訳だね。こんな老いぼれたお婆さんの家で。どうせ親戚から絶縁されたうちなら、身を隠しやすいと思ったんだろ。馬鹿娘はなんて言っていた。あれは末の子だからわがままに育ってしまったよ。だから婚期が遅れたのさ」
「母さんは、何も知らないはずです。急に黙って出て来たから。だから、おばあちゃま――いろいろ手伝いますから、ぼくをここに居させて下さい」
 祖母は黙って立ち上がると、壁に手を突きながらリビングを出て行った。
 ぼくは何気なく壁時計を眺めた。針が止まっていた。次に飾り棚の上にあった置時計を見た。それも止まっていた。棚の上には他にも三、四個の時計が飾ってあったが、どれもこれも全部動いていなかった。
 祖母が戻ってきた。両手に紺色の甚平を抱えている。それをソファの上に丁寧に置いた。
「これに着替えなさい。お前の祖父さんのだけれど、合うかしらね」
 その防虫剤の匂いが染みついた甚平は、不思議なくらいぼくの身体にぴったりだった。
 それから祖母に促されるまま、隣の仏間に敷いてくれた布団に入り込んだ。寝るつもりは無かったが戸を閉めかけた祖母に、おやすみなさい、と言った。彼女は一瞬、ぼくの顔を見て驚いた表情になった。
「まあ、あの人によく似ていること。ゆっくりおやすみ」
 戸が閉まった。
 仏間は八畳の和室で、床の間の横に小さな仏壇があった。半開きになった仏壇の扉が目に留まった。隙間から二つの位牌が並んでいるのが見えたが、戒名までは読み取れなかった。
 ぼくは布団に横たわり、携帯電話を取り出した。電池が切れていた。この家には充電器などない。仕方なく、空腹で渇き始めた体を紛らすために眠ることにした。
 少し経つと、隣室のラジオの音が小さくなった。

 9

 しばらくして目が覚めた。部屋はまだ暗い。今が一体何時頃なのか分からない。
 ぼくは布団を畳んで、昨夜着ていた服に着替えようとした。だが枕元に置いたはずの服がどこにも無かった。仕方なく甚平を着たまま部屋を出ようとした。
 その時、いきなり襖が開いて、まぶしい光が、ぼくの目を突き刺した。だが、これは電球の光なのでたいしたことはない。
 廊下に祖母が立っていた。
 彼女はぼくを見て目を剥き、短く叫んだ。
「あんた、どこから入って来たの」
「どこって……夕べここで寝て、今起きたのですが」
 変だな、と感じた。祖母はまるで初めてこの家でぼくを発見したかのように警戒しているではないか。
「おばあさん、僕のことがわかりますか。一樹です。小角の。英子の息子です。夕べ、ここに泊まらせてもらいました」
 そう告げると、祖母の眼が逡巡した後で、一点に定まった。
「ああ、そうだ。英子の上の子だ。一樹、お前どうしてここに居るんだい。死んだんじゃなかったのかい」
 ぼくは昨日と同じ話を繰り返した。
 話し終えると祖母は納得した様子だった。消えた服の事を尋ねたが、祖母には何の話かわからないようだった。
 もしや、と祖母が言って浴室をのぞくと、ぼくの服が干されていたのを発見した。ぼくが眠った後で祖母が洗ってくれたのだろう。祖母はぼくと目を合わせてから、一人で笑い転げた。
「いやだよ、まったく、莫迦だねえ」
 翌日もまた、ぼくが目覚めると、仏間の襖を開けたままこちらを凝視している祖母の姿が目に入った。だが、その後は何事もなかったかのように接してくれた。
 その次の日からは、やっとぼくの存在を覚えてくれたようだ。
 祖母の家に来て、たちまち一週間が過ぎた。
 この家は時計だけではなく、トイレや洗面所など、あちこちで電球が切れていた。郵便受けが湿った封書やチラシで溢れ、庭木や雑草は繁り放題、外壁の塗料は剥げてまだら模様となっていた。

 祖母は、一見しっかりしている様に見えて、実は意外とできていない事や理解できていない事が多かった。最低限の家事や食事、入浴などは身体に染み付いた動作としてこなされるのだが、それ以外のことは、ほとんど無頓着に放っておかれてしまうのだ。例えば、郵便物がそうだ。
 役所からの通知も広告のダイレクトメールも投げ込みチラシも彼女には同じようなものだと見なされていた。セールスの人間も悪徳商法の人間も、自治会の班長さんや近所の人までも、みな同じものとして扱われていた。
 ぼくが整理した手紙の中に、役所から制度改正による保険証の切替えについての通知が来ていた。どうやら先月、新しい保険証を簡易書留で送ったが、受け取られなかった為に市役所へ返送されてしまったらしい。受け取り方法について担当課まで連絡を乞う内容が最後に書かれていた。
 これすら今頃まで放置されていたのだ。連絡期限がとっくに過ぎている。だが、何かあった時のために手配はしなければなるまい。
 ぼくは祖母に説明し、役所に電話する様に促した。だが彼女は、よくわからないから電話したくないと云って拒んだ。
 それ以上は、ぼくも説得できなかった。

 10

 次の日は、その夏の最高気温を記録した。
 閉めきった部屋がどうしても蒸し暑くなるので、ぼくはエアコンを動かそうと考えた。だがリモコンに電池が入っていなかった。祖母が小物入れから探し出してきた単三電池をはめて、電源を付けた。
 ところがエアコンは送風しかせずに全然冷えなかった。しばらくいじってみたが、一向に改善されない。室外機が故障している可能性があった。
 祖母は、困っているのよね、と口に出して言いはするけれども、本気で直す気配は微塵も無かった。笑ってこう言ったものだ。
「だって自分で買いに行けないしね。まあ電気だって全部消えている訳でも無いし、まだ平気だ。冷房もね、まだ私は汗をかかないし。いよいよ困ったらその時に考えるさ」
 いくら歳をとった人間は暑さを感じないと言っても、祖母の身体にだって相当の負担がかかっているはずだ。
 ぼくも汗こそかかないが、もっと悪い事態――腐敗が進行するかもしれなかった。暑いので、ずっと甚平姿でいた。
 ぼくは夜になってから庭に出て、冷房の室外機のリセットを試みた。だがそれでも冷風は出てこなかった。
 翌朝、また祖母に言い聞かせて近所の電気屋に電話をかけてもらった。
 夏場なので、どんなに早く修理に来てくれるよう頼んでもすぐには来てくれない。案の定、早くても十日は先になるという。
 仕方がないことだが、ぼくは絶望のどん底に落とされた。この十日という期間が永遠に思えた。飢餓感もとっくに際どい領域に達していた。なるべく動かないようにして堪えたとしても限界はすぐ来るだろう。
 暗く陰気な考えが、頭の奥からわんさと浮かんできた。
 お昼の十二時を知らせるラジオの時報音が響くと、祖母が仏間に顔をのぞかせた。愛想良く手招きをしている。
「ちょっとこちらへおいで」
 ぼくは立ち上がり、ふらふらしながら後についてリビングに入る。
 彼女はソファに腰掛け、こちらにも促す。ぼくが座ると、おぼつかない手つきで、ハンドバッグから何かを包んだ懐紙を取り出した。
「お前さんが欲しがっていたのは、これで良いのかね」
 中身を広げると、なんとボツルスが十粒ほど転がり出たではないか。
 ぼくはそれを反射的に両手で押さえた。それを、みっともない行為とは感じなかった。
 どこで入手したのか尋ねても、祖母は腕を組んで含み笑いをするばかりだった。
「忘れていてごめんなさい」と彼女は繰り返した。
 とにかくぼくはボツルスを貰った。貴重なボツルスの一粒を呑み込むと、すぐに空腹と体中の痛みが薄らいだ。頭を悩ませていた陰気な考えも、一気に霧散した。
 その晩、ぼくは久しぶりに深い眠りに落ちた。

 11

 祖母の家に来てから半月が過ぎた。
 祖母は、ぼくが居候する以前とまったく変わらない生活を繰り返した。要するに誰がいてもいなくても、彼女の生活にはあまり影響がなかった。
 暗闇の中でラジオの時報が大きく鳴り始めると、祖母が起床したと分かる。この家では、日がな一日放送が聴こえる。そして就寝する時も決して電源を切らずに、音量をごく小さく絞るのだった。
 このラジオは果たして何年前から消されていないのだろうか。
 彼女は起床するとすぐに洗面所へ行って洗顔し、お手洗いに寄り、自室に戻ってその日の服を決めるため箪笥の前に座る。
 服が決まると着替え、化粧台の前に座り、髪を梳かす。化粧こそしなかったが、髪を結い上げ、身だしなみを整えた。
 この家の雨戸は、一日中閉められていた。電気を消すと昼でも真っ暗だった。
 一度、祖母から家中の雨戸を開けて欲しいと頼まれたことがあった。朝から締め切ったままにしていると近所の民生委員さんが心配するというのだ。
 しかし、ぼくはそれだけは出来ないと熱心に断った。その代わり、夜の間だけは開けても良いと提案したのだが、「莫迦いっているんじゃないよ」と一蹴された。
 寝室から出てきた祖母は、台所で生ごみをまとめる。曜日によっては、家から徒歩一分の集積場に出かける。ごみ出しを終えて帰宅すると、仏壇に線香をあげてご飯を供える。それから朝食の支度を始める。
 目覚めた後の食事は、生前のぼくですら驚くほど濃かった。
 ある朝などは、祖母が冷蔵庫からビビンパの冷凍パックを取り出し、電子レンジで温め、その間にフライパンで目玉焼きを焼いた。米は前夜に炊飯予約してあるので、丼に熱々のご飯を盛って、その上にまずビビンパの具をのせ、さらに少し焦げた目玉焼きをのせた。
 祖母は、それを得意げにぼくの目の前に置いた。
 ぼくの存在は覚えてくれたが、死者の食事事情については、いつも忘れてしまうのだった。
 毎度のことでやんわり辞退をすると、彼女は呆れ顔をして、こんなにおいしいものを、と言わんばかりに肩を竦めてから、丼を手前に引いてお箸で食べ始めたものだ。
 ぼくは羨望の眼差しで見つめながら、三日に一度のボツルスをちびちび齧った。予定ではこれで一ヶ月間は保たせるはずだった。
 朝食を済ませると、祖母はやかんでお湯を沸かしはじめ、食器をさっと洗い、お茶を淹れる。ひと休憩の後で、今度はリビングの掃除が始まる。
 祖母は階段脇のクローゼットを開けてしゃがみ込み、小さな掃除機を取り出す。小声で文句を言いながら、コードを懸命に引っ張り、コンセントを電源に差して掃除を始める。
 本人はいたって大真面目なのだが、腰が曲がらないので、どう贔屓目にみても大雑把な動作になった。一通り床の上を掃除すると、また掃除機を、時間を費やしてクローゼットにしまい込む。
 見かねてぼくが手伝い始めたところ、喜んでくれたので、その日からぼくは掃除係となった。
 掃除が終わると再び湯を沸かし、茶を淹れ、つまめそうな菓子を物色する。
「電気ポットが嫌いなのよ」と云う。
 毎週水曜日のこの時間帯には、食材の宅配便が来る。
 呼び鈴が鳴ると、祖母はゆっくり立ち上がる。リビングから玄関まで出るのに、彼女の足では五分程かかる。相手も慣れたもので、きちんと待っている。インターホンで相手を確認してから自動ドアを開けると、いつもの担当者の男がカゴと発砲スチロール箱を一つずつ並べて置いてくれる。最後に次の週の注文を確認するのだが、祖母もてきぱきと男に向かって旬の魚や果物を指定する。男もそれに対してそれはある、これは無い、と応対して注文票を埋めると去って行く。
 それから祖母は、再び時間をかけて食材を全て冷蔵庫まで運ぶ。カゴには野菜や惣菜パックなどが詰め込まれており、発泡スチロール箱には生ものや冷凍食品が入っている。
 ぼくも玄関からリビングまで、物を抱えて持って行く。最初は手伝おうとしたら断られてしまった。
「このくらい自分で出来ないと足腰が弱ってしまうから」という理由だったが、いつしか黙認されるようになった。ただし、台所には一歩たりとも入れさせてくれない。
 彼女はひと仕事する度にお茶を淹れ、何かを食べる。常に自分が動いていないと落ち着かないらしい。ぼくが先に座らない限り、椅子に座ろうとしないし、ぼくが立ち上がろうとするとそれを制した。自分が先に立ち上がって用事を片付けようとするのだ。
 昼食は缶詰などで適当に済ます事が多かった。この時に祖母は必ずワインを一杯飲む。だから、主食はあくまでもワインであって、他はつまみなのであった。
 宅配の注文ではいつも同じ銘柄の赤ワインを毎度頼んだ。理由はその瓶が手で開けられるスクリューキャップだからだ。グラスを空にすると寝室に行って午睡をする。もちろんその間もラジオは小さく付けっぱなしだ。
 二時間きっかりで彼女は起きてきて、夕食のお米をしかける。台所で何をしているのかは、ぼくの方からは見えないが、おそらく食材を眺めながら献立を考えて調理にかかるのだろう。そうはいっても特別に凝った料理をするわけではない。単に作るのに時間がかかるだけなのだ。
 例えば、思い出してみよう――ご飯に味噌汁、焼き魚、青菜のごま和え。宅配で購入したパックの梅干し、煮豆、ポテトサラダなどが加わる。
 食後にお茶を飲み、果物を頬張りながら、祖母は新聞を眺める。ぼくは彼女が指差した記事を大きな声で読み上げる。これが日課となった。
 夕食後は入浴するだけ――とはいっても一時間もの長風呂だった。風呂上がりに冷蔵庫から冷えた瓶のジンジャーエールを取り出して湯呑に注ぎ、一息に飲み干す。
「お前さんも飲めたら良かったのにねえ」
 こう、必ず満足げに云ったものだ。

 12

 熱帯夜が続き、ぼくの腐りかけの体に悪影響が見られ始めた。
 とにかく体内に熱がこもった。夜間は仏間の雨戸を開けると涼しい風が入ってきたが、日中はひどいものだった。
 祖母に羽根が折れた扇風機を出してもらい、氷嚢を首にあてがった。効果があったかどうかは自分ではわからなかった。しかしこのままでは早晩、身体から腐臭が漂うだろう。虫がわくかもしれない。
 そうこうしているうちに、ようやく電気屋がやって来る日になった。
 前もって祖母には言い含めておいたので、一時間ほどでエアコンの修理が問題なく終了した。ぼくはずっと仏間で横たわって、電気屋がリビングとベランダを行き来する足音を聞いていた。
 電気屋が帰ったのを見計らって、リビングに戻ると、空調機から冷たい風が吹き出していた。それだけでとてつもない感謝の気持ちでいっぱいになった。
 祖母は心配そうに佇んでいたが、ぼくの喜ぶ顔を見て、微笑んだ。
「ああ、涼しいね。私はあまり暑さを感じないけど、お前さんが辛そうだったから良かったよ」
 涼しくなった部屋で、ぼくは郵便物を広げて祖母に説明し始めた。ハンバーガーやフライドチキンなどファストフード店のチラシ、ピザや寿司店のチラシ、不動産の投げ込みチラシが大量にあった。祖母はフライドチキン店のチラシに興味を持ったようだった。クーポン券を切り取ってテーブルに置いていた。
「こういうのも本当は食べたいんだけどね、買いに行けないから仕方ないね」
 ぼくは役所からの通知を見つけた。それは以前あった保険証の受け取りについての、再度の問い合わせだった。
 ぼくは、今度こそ返事をした方が良いと話した。病院に行くときに困るから、と頼むと、祖母は「そんなに云うなら電話をかけてみようかね」と云ってくれた。
 電話機の側で、ぼくが背後でところどころ補足をして、何とか再配送を依頼することができた。受話器を置いた祖母がとても嬉しそうだった。
 これに気を良くしたのか、祖母は次に「図書館で本を借りてきてほしい」と言い出した。
 ラジオの天気予報が、南方で発生した台風の到来を告げていた。
 ぼくはすぐに市立図書館へ行くことに決めた。台風の影響で暗雲が立ち込める風の強い日だったのだ。外出する人間も少ないだろう。ぼくにとって、外出するのにこれ以上うってつけの日和はない。
 箪笥にまだ紳士用の服が残っていた。ぼくはワイシャツにネクタイを締めて出かけることにした。祖母が出してきたパナマ帽を目深くかぶり、人相がわからない様にした。かえって目立つかもしれないという思いが脳裏をかすめたが、そんな心配はすぐに消えた。
 朝早くに祖母の家を慎重に出た。そぼ降る雨の中、傘をさして薄暗いバス停留所まで歩く。人っ子一人いない。
 時刻を五分ほど遅れてバスがやって来た。意外にも五、六人の人間が乗っていた。サラリーマン、学生、高齢者。
 バスに乗って丘を越え、川を渡って、勝手知ったる町までやって来た。
 ぼくは市役所前の停留所で降りた。
 それから道路を挟んで市役所の向かい側にある市立図書館へ向かった。
 ぼくは図書館に入り、祖母に云われた本を数冊抱えると、カウンターに向かった。ふと、ビデオの棚が目に入った。色々な映画が乱雑に並べられている。ぼくは気まぐれに幾つか手に取って、本と一緒に貸出カウンターに出した。
 『宇宙戦争』、『地球最後の日』、『猿の惑星』。
 帰りのバスはがらがらで一人きりだった。ぼくは窓の外を眺めながらぼんやりした。大通りにフライドチキンのお店の看板が目立っていた。
 祖母にお土産の一つでも買うべきだったかもしれないなと、少し後悔した。
 ニュータウンのバス停に着き、降りた時も一人だった。運転手はこちらを見ずにドアを閉めた。ぼくは歩き出した。
 祖母の家の前に立つと、インターホンを押した。
 沈黙。
 もう一度押す。
 沈黙。
 耳をそば立てて、ラジオ放送が微かに聞こえることを確認した。
 ぼくはインターホンをもう一度、ゆっくり押す。
 受話器を取る音が響いた。
「何ですか、もう」
 祖母のとげとげしい声を聞いて、ぼくは嫌な予感がした。
「僕です、一樹です。ドアを開けて下さい」
「結構ですよ。それじゃ……」
 がしゃんと受話器が降ろされた。祖母が開けてくれるのかと思いきや、そのまま放置された。そのことに気づいたのは五分以上経ってからだ。
 ぼくは一呼吸おいて、再度インターホンを鳴らした。祖母は待ち構えていたかのようにすぐに出た。
「はい、何よ、しつこいわね」
「一樹です。図書館に行って帰ってきました。開けて下さい」
「図書館から来たの」
「おばあちゃまに頼まれて行って来ました。ほら、ここに本があります」
「あら、仕方ないわね……それ、私がお願いしたのかしら」
「そうです。だから中に入れて下さい」
 そこでようやく扉が開いた。ぼくは玄関に入って安堵した。
 祖母は信じられないものを見たかの様に、目を見開いてぼくの姿を凝視した。
 それからくっくと震え出し、左手を両目にあててしばし声もなく笑っていた。
「ご苦労さま。嫌ね、私も頭が莫迦になっちゃって、お前さんのことを時々忘れてしまうのよ」

 13

 台風の影響で風雨が強く打ち付ける。
 祖母は借りてきた本を読んでいた。
 ぼくはビデオデッキを使わせてもらって、借りてきた映画を端から見始めた。世界の終末を描いた作品ばかりだ。
 いつの間にか祖母もテレビの画面を食い入るように見つめていた。
 最後の映画のエンドロールが流れ始めると、彼女はぼくに話しかけてきた。
「私の最初の伴侶の話でもしようか。こんなことを話したいなんて、たった今まで思いもよらなかったけど、まあいいでしょう。聞いて頂戴。あの人と初めて会ったのは前の戦争がもう末期の頃だったわ。父方の親族から紹介されて許嫁となったの。こちらの気持ちとは関係なく決まったのよ。でも当時はそれが当たり前だった。というより私が何も考えていない小娘だったからね。はいもいいえも無かったわ」
 ぼくが口を挟む間もなく、祖母は淡々と話し始めた。
 婚約後すぐに招集命令が出たので、慌てて婚礼を繰り上げて行った事。
 その翌日には夫が郷里の人々に見送られて戦地へ旅立った事。
 最初こそ、内地での訓練の話や休暇の日の四方山話を書いて葉書を送ってきたが、やがて音信が途絶えた事。
 負傷して帰還した同郷の人間から、夫が南洋の前線に派遣されたらしいと聞いたのが最後の消息だった事。
 そして長かった戦争が終結した後でも、とうとう帰って来なかった事。
 結局、遺体も戻らなければ遺品すら届けられなかった事。
「私も若かったから平静を保っていたものよ。でもね、堪えられない事を堪えた者だけが賞賛に値するなんて――それって爆弾を抱えて敵地に飛び込む兵士と同じじゃない。若いお前さんはきっと馬鹿馬鹿しいと思うでしょう。でもね、健気さというのはお前さんが思う以上に悪癖になるものなのよ。私もそうやって皆に感心されたかったのかもしれない。いつかあの人が帰ってきた時に、褒めてもらいたかったのかも――だけどそれは私のねじけた見方だね」
 たぶん惚けた顔で聞いていたのだろう。祖母はぼくの表情を見ると、くすくす笑い出した。真面目に聞いているのになぜ笑われるのだろうか。ぼくは憮然として話を続けるよう促した。
 戦後、彼女はようやく届いた夫の戦死の報を受けて喪に服し、次の年に別の男に嫁いだ。その男――それが、つまりぼくの祖父なのだ――との間に三人の子を産んだ。
 ところが戦後十年以上経って、話は錯綜し始めた。
 なんと死んだとばかり思い込んでいた元夫が生きて郷里へ戻ってきたのだった。
 これを陳腐な物語だと言われれば、そうかもしれない。祖母も「こんな風に話しているとドラマみたいだわね」と笑った。
 帰宅した元夫は、元妻の再婚を知り、絶望もせず、怒りもせず、何食わぬ顔で、夫婦が住む家の近所に住みついたのだという。
 あの人は――、と彼女が云う。
「他の人みたいに戦争の悲惨な話をしないの。とにかくお腹が空いて仕方なかったなんて愚痴ばかり。補給班だったのよ。前線の兵士達の食糧を一日一回運ぶのが仕事だったらしいわ。でも気になるのは自分の夕食の方。あの人らしいけどね。早く荷を運び終えて兵営で夕食を食べたかったとか、そんな話しかしないんだから。敵の妨害を心配したり、前線の兵士達を激励したりとか、そういう話はしなかったね。まあこればかりは性分だよ。仕事を終えて兵営に戻って食べたご飯の味は格別だったとか、本当にそればっかりなの。可笑しくて。だから私は、帰ってきたあの人においしいものをたくさん作って食べさせてあげたのよ。とても喜んでね」
 元夫の男は、祖母夫婦と普通に友人付き合いをしていたという。それから三十年以上経って、ぼくの祖父が仕事の引退と同時に亡くなった。
 その後、三回忌の時に騒動が起きた。
 祖母は親族が集まった席で、元夫と婚姻届を出した、と宣言した。古希を過ぎた人間が何を言い出すのかと、親族はみな一様に驚き、狼狽し、怒りの声をあげた。
 幼かったぼくですら、その時の光景を朧げに記憶している。
 ――おばあちゃま、みんなにおこられて、かわいそうね。
 確か、ぼくはみんなの前でそう云った。みんなは一瞬、黙り込んだ。それからまたののしり始めた。祖母だけが笑っていた。
 ぼくの母の取り乱しようは特にひどく、祖母を罵倒し、男を詐欺師扱いした。
 母は、祖母がまともな判断能力を持っていないものだと信じた。親族の中から後見人をつけると言い出して、しばらくすったもんだが繰り返された。
 結局、二人は住み慣れた街を離れ、親族との繋がりも断って、この辺鄙なニュータウンへ移ったのだった。
 だからぼくも、その後の祖母との記憶がほとんどない。「おばあちゃま」の話題は母の前では禁忌だった。
 祖母は云った。
「お前さんの一言は、本当に嬉しかったよ。一生忘れないね。あの頃は針のむしろに座るようだったけど、あの人とここで暮らすのは楽しかったわ。もちろんお前のお祖父さんもいい人だったし、何の不満も無かった。子供や孫を持つ事が出来たのは、彼のお陰。かけがえのない思い出がたくさんあるわ。比べる事なんか出来ないし、意味が無いわよ。ただ、ここまで生きてきて思うのは、私は長生きして良かったという事だけね。嫌な事も間違えた事もたくさんあったけれど、たまに嬉しい事があると、みんな吹き飛んでしまう時が来るのさ。あの人とは二回出会って、二回一緒になれた。私の前から去ったのも二回だけどね。そういえば、あの人は再婚する前になんて言ったと思う。出征の朝に持たせた私のおにぎりが生きてきた中で一番美味しい食べ物だった、ってさ。まったく笑っちゃうよね。ううん、そんな気障な人じゃなくて、素面でそうだったのよ。だから、私は好き勝手に生きることに決めたのさ。そうやっていつまでも生きて居たいのさ――何か気づいていなかった間違いが、ひょいと正されるときがくるかもれないからね。悲しかった記憶がある日突然、嬉しい事実に上塗りされるかもしれないじゃないか。だから私はまだまだ死にたくないの。悲しいことがたくさんあったからね。もうすぐ百歳になる婆さんがこんな事をいうのは変かね」
 ぼくは素直に、変じゃないと答えた。
 長生きしたせいで、ゾンビに変わり果てた孫と生活する羽目になったのに、とも思ったが、これは口に出さないことにした。
 祖母は笑って頷いた。

 14

 祖母の百歳の誕生日を二日後に控えて、ぼくはある一つの計画を考えていた。
 問題はやはり天気で、この快晴が続くようだと苦しい。だが、ラジオから流れる天気予報はぼくに味方した。
 新たな台風が南方で二つも発生し、計画にうってつけの進路で接近して来るらしい。
 その日、祖母は頭が痛く、調子がすぐれないと言って、一日寝室から出てこなかった。気圧が変動しているせいだろう。
 夜中に誰もいないリビングで、ぼくは一人熱心にテレビの天気予報に釘付けになった。この街を直撃する予報が徐々に現実味を帯びてきた。このまま行けば計画に好都合な悪天候となるだろう。嬉しいことに、未明になって沿岸部に注意報が発令された。
 ぼくの計画とは、祖母の誕生日祝いに、あのフライドチキンを買って帰ることだった。
 まず先日借りた本を返却すると言って外出する。もちろんまた変装して出かけるつもりだ。
 危険な行動かもしれない。ただでさえぼくは追われている身なのだから。しかしこればかりは――はたから見たら愚かなことかもしれないが――ぼくはどうしても祖母にしてあげたかったのだ。これくらいしか恩返しができなかったから。
 台風上陸。街は夜明け前から暴風域となった。ブラボー。
 翌朝、ぼくは計画通りに出かけることができた。祖母の寝室に声をかけると、返事がなかった。戸を開けると、祖母は上半身裸になって着替えをしている最中だった。ぼくは慌てて戸を閉めて謝った。彼女は、そこまで慌てることはないだろうに、と笑いながら言った。
「バス代が欲しいんです」と、ぼくは話しかけた。それから、「お加減どうですか」と付け加えた。
 寝室から現れた祖母は、今まで見たこともないくらいしっかり化粧をして、よそ行きの服を着込んでいた。ぼくが尋ねると、いつもの様に笑って「そりゃあ、あなた、今日が私の百歳の誕生日だからだよ。こんな日くらいは、きちんとした身なりでなくては」と言った。それはご機嫌で、ぼくを送り出した。
 ぼくはそんなものかと思い、玄関を出てバス停まで歩きながら、確かに百は切りが良いなと考えた。そして、お祝いを云うのをうっかり忘れた事に気づいた。しかし帰宅してから、プレゼントを渡す時でも遅くはないだろう。
 ぼくは先日と同じようにバスに乗り、市役所前で降りて図書館に向かった。こんな荒天にもかかわらず、利用客が結構いることに驚かされた。
 本と映画のビデオを返却し、また新たにいくつか借りた。図書館を出て、そこからバス通りをまっすぐ歩き、フライドチキンの店を探した。
 強風にあおられた。祖母がうるさく言ったので、ぼくは雨合羽を着込んでいたが、人間のようにフードを手で押さえながら、うつむき加減で歩いた。
 何だか調子が良かった。
 店にもすぐ到着した。店員はぼくを見咎めることもなく、丁重な接客をしてくれた。ぼくはチキンを二つ頼んだ後で少し考え、結局もう二つ追加した。お金を払うと、お釣りとともに次回使えるクーポン券まで貰った。
 買い物を終えて外に出ると、最寄りのバス停を探し始めた。街は暴風が吹き荒れ、空き缶が歩道を転がり、砂まみれのチラシが舞って遠ざかった。
 それからぼくは、目に入ったコンビニエンスストアで、乾電池と電球を沢山購入することにした。祖母の家の照明を交換するのと、止まってしまった時計を動かそうと思ったのだ。
 何といっても今日は百歳の記念すべき誕生日なのだから。
 店の中は天候とは無関係でむやみに明るく、軽薄な音楽が流れていたが、客は一人もいなかった。ぼくは奥の棚で見かけたスパークリングワインを一本かごに入れた。コルク栓のものを選んだ。コルク抜きもついでに購入した。
 店員は快活そうな中年の女性だった。ぼくは雨合羽のフードを深く被り直し、お釣りを貰いながら、バス停の場所を尋ねた。
 外に出た途端、雨粒が前から横から平手打ちの勢いで、ぼくの身体を叩いた。人の姿はほとんど見えなかった。
 骨が剥き出しのビニール傘が、くるくる回転しながら車道へ飛んでいった。ぼくの靴はずぶ濡れになっていた。雨合羽も泥が跳ねて汚れたが、気にせず歩いた。やがてバス停が見えてきた。
 予定時刻から遅れてやって来たバスの中は、ものすごく混雑していた。ぼくはなるべく機敏に見えるような振りをして乗り込んだ。押しくらまんじゅうのように、人と人の間に潜り込み、軍手をはめた手で目の前の吊り革を握った。
 小さな男の子が「なんか、くさいよ」と囁いた。隣の母親らしい女性がしっ、と嗜めた。ぼくはフライドチキンの箱が入った袋を胸元で大事に抱え直した。
 橋の上でバスが停車した。対向車線からサイレンを鳴らした救急車が走り去っていった。どこかで被害が出ているのかもしれない。
 バス停で止まると人間が何人か降りていくので、その度に押し合いへし合いとなった。ぼくはなるべく邪魔にならない様にしていたつもりだったが、何度も人間とぶつかってしまい、すれ違いざまに何度か舌打ちをされた。
 動きが緩慢すぎて苛立たせたのだろう。ぼくは寧ろゾンビだとばれなかった事に安堵した。
 河は増水して渦巻きながら下流へと迸っていた。橋を渡り、丘を越えるとようやく車内が空いたが、次がニュータウンのバス停だった。ぼくは降車口に近づいた。
 バスを降りるために、整理券を出そうと雨合羽を探った。しかし乗るときに取ったはずの整理券がどこにも無かった。ぼくは焦った。運転手が「どこからお乗りですか」と尋ねて、こちらの顔を覗き込んだ。すると急に運転手の顔が強張った。
 それから先の事はよく覚えていない。ぼくはポケットから小銭をあるだけ掴み出して、運賃の投入口に放った。無我夢中で外に出た。
 運転手は明らかに狼狽していた。正体がばれたのだ。
 ぼくは後ろを振り返らず足早に歩いた。適当な路地に入り、人気の無い場所を選んで無茶苦茶に歩き回った。
 しばらくそうしてから、バス通りに戻ってそっと伺うと、もうバスは去っていた。通りにはいつものように誰もいなかった。
 ぼくはフライドチキンの箱を大事に抱えて、強い向かい風の中を祖母の家まで歩いた。
 インターホンを押しても応答が無い。またもやぼくの事を忘れているのだろうと思った。だが三十分も経つと、ようやくただ事では無い事に気がついた。
 ラジオの音が聞こえない。
 ぼくは隣家との脇をすり抜けて、祖母の家の裏庭へ足を踏み入れた。
 雨戸はいつものように閉められている。強風が当たるたびに金属音が響いた。ぼくはそのうちの一枚が、留め金の不具合でがたが来ており、外れることを知っていた。そこを手で外した。部屋の中が覗けるだけの隙間が出来ると、窓ガラスの中を窺った。
 リビングは暗く、誰もいなかった。窓ガラスに耳を押し付けても、ラジオの音はしていなかった。手のひらで叩いてみたが、動くものは見えなかった。
 やむなくぼくは窓ガラスを叩き割った。石を拾って握り、強く打ち付けると、いとも簡単に割れた。狂ったような風がリビングに吹き込み、雨とともに落ち葉や土埃が床で踊った。
 割れたガラスの隙間から手を入れて、内側のロックを外した。土足で家に入り、雨戸を閉めてから、すぐに祖母の寝室に向かった。雨合羽を廊下に脱ぎ捨てた。ドアの前で声を掛ける。応答なし。ドアを開けてみる。
 祖母はいない。
 ベッドはきれいに整えられており、異常は無さそうだ。
 ラジオは枕元に置かれており、電源が消えていた。その静謐が怖かった。
 次に浴室とトイレを確認した。どちらも異常はない。
 階段を上り、今度は物置部屋を探した。幾つも積まれたダンボール箱の上には埃がかぶっている。奥の方にあった大きい壺の様な物が目を引いた。人がひとり入れるくらいだが、中は空っぽでこれもやはり埃まみれだ。何年も触れられていないように見えた。
 再び下に降りて、玄関も確認する。荒らされた様子はまるでない。
 もしやぼくは帰る家を間違えたのだろうか。
 念のため、外の表札を確かめに出た。だが、ここは確かに祖母の家だった。郵便受けには市役所からの配達物の不在票が一枚差し込まれていた。またもや保険証を受け取り損ねたらしい。
 ぼくはリビングに戻った。すきま風が雨戸を震わせてうるさい。
 祖母は何処に居るのだろうか。
 ぼくは途方に暮れてソファに座った。テーブルの上に載せたフライドチキンの箱が哀れなくらい、よれよれに潰れていた。中身はすっかり冷えきってしまっただろう。
 箱を開けようとして、右手の甲が血まみれになっている事に気づいた。窓ガラスを割った時に切ったのだろう。
 ぼくは思わず、手の甲を舐めようとした。それから、あわてて口を閉じた。
 喉が渇いていた。
 ふと、ぼくは台所を覗こうと思った。もしかすると祖母はそこで倒れているかもしれない。この家の中で見ていない場所は、もうそこしか残されていなかった。
 初めて足を踏み入れる台所は、きれいに片付いていた。湯呑み茶碗が二つお盆の上に伏せてあった。
 台所の奥に冷蔵庫と、電気釜と電子レンジが収まった棚、生ごみ用のダストボックス。それから壁面に食器棚。その上に並んだ幾つかの写真立て。
 ぼくはその写真立てに目を向けた。
 それぞれ犬や猫を撮った写真で、写真立ての前には小さなお皿が置かれ、お菓子が載せてあった。
 それから、ぼくの写真があった。懐かしい成人式の時の写真だ。当時、ぼくが送ったものだ。生前の自分の顔を見たのは久しぶりだった。あの動画の顔とは、やはりまるで違う。ぼくはこの写真にとても満足した。
 ぼくの写真立ての前にもお皿があって、ボツルスが山盛りになっていた。
 だが、ここにも祖母はいなかった。
 その晩、台風はこの街に猛威を振るった。
 雨戸を閉めてもがたがたうるさく、もがり笛の甲高い音とともに、鋭い突風がリビングに入り込んだ。
 ぼくは、台所にあったダンボールを窓ガラスの割れた部分にあてて、ガムテープで塞いだ。応急措置だが、隙間風はなくなった。
 夜になっても祖母は帰ってこなかった。迷い人になってしまったのだろうか。しかし、あの歩き方ではそう遠くまで行けないだろう。
 外へ探しに行く事もできず、ぼくは土足で汚した廊下やリビングを拭いてきれいにすることにした。それから、借りて来たビデオ映画を見る事にした。そのうちに彼女はひょっこり帰宅するかもしれない――そう考えた。
 『アイ・アム・レジェンド』、『ノウイング』、『ゾンビ』。
 どの終末映画を見ても、生者と死者が混在しているような、今ここにある現実の世界を描いているものはなかった。映画の中の世界では、善良な人々の安寧な生活を脅かす大きな事件が起き、凶悪な死が世界を覆い尽くす。人類は滅びる。あるいは、生き残ったわずかの人間たちが、何処かへ去って行ってしまう。映画の結末は大抵そのどちらかだ。理解しあえない対立関係があって、それが解消されることはまずない。
 翻って、今ここ――画面の外側の世界では、生者と死者の間で大きな争いが起きることはめったにない。と同時に、誰もがここではない何処かへ行く事はできないのだ。終わらない世界の話は物語にならないのだろうか。
 けれども――と、ぼくは思った――現実世界でも対立関係が無いわけではない。映画のようにはっきりと明示されないが、ここでも生者と死者は一向に融和しないではないか。ぼくがこの家に逃げていることも、その一つに他ならない。ただ誰も、こんな事になっていることを知らないだけなのだ。
 そんな益体もないことを、ぼくはぼんやり考えた。
 借りてきた全ての映画を観終わる頃には、すっかり夜が明けていた。

 15

 突然、家の電話が鳴り響いた。
 ぼくは思わず電話器の前に駆けつけた。留守電に切り替わると、スピーカーから声が流れた。
「お兄ちゃん、そこに居るの。居るなら今すぐ電話に出て」
 妹の声だ。ぼくは即座に受話器を取って喋った。
「どうしてここが分かったんだ。おばあちゃまはどこに居るんだ」
 妹が一瞬、口ごもるのがわかった。
「本当にいたの。びっくりだわ。おばあちゃまが言っていたのは、本当のことだったのね」
「いいから、おばあちゃまは今どこに居るのか教えてくれ。元気なのか」
「元気じゃないわよ、一緒に居たのなら何をしていたの、お兄ちゃんは。急にいなくなってお母さんも心配していたのよ。それよりも、うちに警察が来たの。お兄ちゃんがいなくなった次の日よ。まだ寝ている時間に来たの。非常識だと思わない。お兄ちゃんのことを根掘り葉掘り聞いてきたわ。ねえ聞いて、お兄ちゃんの部屋まで物色してめちゃくちゃにしたのよ。ノートパソコンを包んで持って行ったわ。人権侵害だって訴えたけど、ゾンビに人権は無いって言われたわ。何なのあれは。変な動画を見せられたけど、あれはお兄ちゃんなの? あんなことをしていたの? そのせいなの? 私たちが何も知らないって正直に話しているのに、全然信じてもらえないんだから。取り付くしまもないの。あいつら、お兄ちゃんが人殺しをしたって言っていたけど、本当なの」
 ぼくはひたすら妹に謝り、殺人事件の話はあとにして、祖母の様子を一刻も早く聞き出すことに努めた。
「おばあちゃまはね、病院まで運ばれたのよ。心臓発作だったみたい。それで、自分で119番に電話して、冷静に自分の容態を伝えて救急車を呼んだの。反省しなさい」
「具合はどうなんだい」
「ずっと眠っているわ。たまにうわ言で、お兄ちゃんがご飯を食べなくて心配だとか何とか言うから、まさかと思ったけど、かけてみたの」
「母さんは」
「今、先生の話を聞いている。でも詳しい検査結果はまだ分からないって。おばあちゃま、家族の事を訊かれて、すぐ来てくれるのはうちのお母さんしかいないって言ったらしいの。それを聞いたお母さんは、すっ飛んで行ったのよ」
 ぼくは、祖母の家に匿ってもらっていたことを妹に説明した。追われていること、その理由、例の「NOTLD」のことも話した。面倒なので白石さんの事は協力者という風にしてぼかした。
 祖母の家での生活のこと。百歳の誕生日にフライドチキンを買おうとして出かけていたくだりで、やはり妹の罵声を浴びた。
「ばかじゃないの」
 そのとおりだ、ばかばかしいのは百も承知で、ぼくは出かけたのだ。それだけは間違いない。だからどんなに罵倒されても甘んじて受けるしかない。
 電話を切ってから、ぼくは台所へ行き、ボツルスを口に放り込んだ。
 日が沈んだ頃にまた電話が鳴った。今度は母親の声が流れてきた。はっきりとぼくの名を呼んでいる。ぼくは受話器を取った。
 祖母の容態が悪い――はっきり言えば危篤状態だ、と母は告げた。伯母たちには既に連絡を入れており、もうすぐ孫や曾孫も含めて親族がたくさん集まるのだという。母は言った。
「お前にも一応、その事を伝えなくちゃいけないと思って」
 どのみちぼくには何もできないし、ゾンビが病院へ駆けつけた所で大騒ぎになるだけだ――そのことを告げると、母はため息をついて、ゆっくり電話を切った。
 ぼくは、ふと思い出して、買ってきた電球と乾電池を袋から取り出した。まずは切れてしまった廊下や洗面所の電球をすべて取り替えることにした。スイッチを入れると、家の中が見違えるほど明るくなった。しかし、ぼくには少々まぶしすぎたので、すぐに消すことにした。
 それから、止まったままのリビングの時計の電池を全て交換することにした。117番で時報を聞きながら、現在の時刻に合わせた。一個の時計が動き始めると、秒針の音が一つ増えた。
 さらに一個の時計を動かすと音は倍になった。やがて全ての時計が動き始めると部屋は沢山の秒針の音で満たされた。
 一秒ごとに微かにずれて鳴るその音は、祖母とぼくの過ごしたこの家の生活に似ている気がした。
 ぼくは今夜、この賑やかなリビングで眠ることにしよう。

 16

 次の朝にも妹から電話があった。家にいるらしい。
 病室には親戚一同が集まって、順番に祖母の様子を窺っているという。祖母は意識が無いまま眠り続けているらしい。
 電話の向こうで、幼い子供達が甲高い声をあげてはしゃいでいる。一人の女の子が妹のそばでしつこく話しかけていた。
 ――ねえ、おねえちゃん、だれとおでんわしてるの。
 ――お姉ちゃんのお兄ちゃんとよ。
 ――ぞんびになったおにいちゃんのことでしょ、あたし、しっている。おかあさんがいっていたわ。
 ――違うわよ、可哀想な病気になっちゃったの。
 ――おにいちゃんが、おばあちゃんのちをすえば、おばあちゃんも、もっとながく、いきられるんじゃない?
「お兄ちゃん、うるさくてごめん、一回切るね」
 通話が切れた。
 この電話の後、何度も繰り返し電話が鳴ったが、ぼくは出なかった。
 妹が二、三度、留守電に吹き込もうとしたが、ぼくは途中で通話を切った。すると電話は掛かって来なくなった。
 当然、インターホンが鳴っても沈黙を保った。モニターで来客の姿を見る事が出来たが、大抵は新聞屋やら何やらの営業らしかった。
 その日の夕方に一人の訪問者があった。ぼくはいつもの様に居留守を決め込んでいたが、モニターに映し出されたのは、ショートカットで眼鏡をかけた女性だった。傾いた陽射しがその色白の頬を、うっすらと桃色に浮かび上がらせた。周囲を見渡す時に眼鏡のレンズが反射して光る。すらりとした背丈に長細い手足。
 白石さんだ。
 ぼくは慌ててインターホンに出た。
「どうして」
「いいから早く中に入れて」
 彼女は短く囁いた。
 部屋に招き入れると、白石さんはソファに倒れるように沈み込んだ。
「こうして会うのは、お久しぶりね」
 しばらくして落ち着くと、彼女はぼくに話しかけてきた。
「お宅に訪ねた時以来になるのかしら」
 彼女は今宵も恐ろしいほど美しい。
 尋ねたい事なら山程あった。
 どうしてこの家が分かったのか、何があったのか。ぼくにどんな用があるのか。
 白石さんは電話をくれた後日談を話してくれた。
 案の定、自宅へ警察がやって来たこと、母と妹がそいつらを丁重に追い払ったこと。そいつらが、まだぼくを探しているということ。
 彼女の声は、森の中を流れるせせらぎの音みたいだ。出来る事なら、木洩れ日がきらめくような心地よい響きに、ずっと耳を澄ませていたい。
 だが、ぼくはどうしても彼女に確かめたいことがあった。
「君だろう、おばあちゃまにボツルスを手渡していたのは」
 ふいに白石さんは、ぼくの顔をまっすぐ見つめて、一気にまくし立てた。
「……そうよ。あの晩、私はあなたの家のすぐ近くで電話をかけたの。実は、あなたがここに来るまで、後をつけて歩いたわ。途中で土手の上に立ってぼけっとしていたでしょう。莫迦かと思ったわ。あれは目立って危険だったんだから。近くを警官が自転車で巡回していたのよ。私の目の前を通って、あなたの方に向ったから、慌てて呼び止めたの。後ろから誰かがつけて来る気がするから、確かめてくれませんか、って。あなたの影が橋のたもとに消えるまで気が気じゃなかったわ。あなたは人目を忍んで歩いていたつもりだったのかもしれないけど、私から言わせたら、踊りながらふらふら歩いているとしか思えなかったわよ。まあ、ゾンビはみんなそうなんだけど、もう少しどうにかならなかったのかしら。この家まで辿り着いて、あなたが中に入ったのを確認してから帰ったのよ。朝になって車で戻って来て、すぐそこで待っていたの。すると、ちょうどあなたのお祖母さんがごみ袋を持って玄関を出る所だったわ。私が、お手伝いしましょうか、と声をかけたら、袋の持ち手が汚れてしまったから、なんて言われて断られた。あなたのお祖母さんは気持ちのさっぱりした素敵な方ね。だから私はすぐにあなたの事を打ち明けたの。最初は思い出せない様だったけど、ゾンビになってしまったお孫さん、と言ったらわかってくれた。それで私の持っていたボツルスを預かってもらったのよ。勿論、私の事は内密にお願いしてね――ああ、ありがとう」
 白石さんは、ぼくがワイングラスに入れたジンジャーエールを一息で飲み干した。
「おいしい。それにしても、よく気づいたわね。あなたはぼけっとしているようでいて、たまに妙な所で鋭いのね」
 彼女の耳たぶが上気のあまり赤く染まっていた。そこからうなじに流れる輪郭線に、ぼくは完璧な美を見出した。
 ぼくもワイングラスにジンジャーエールを注いで一口飲んでみた。炭酸の刺激だけで、味はしなかった。
「あなたのお祖母さん、一昨日のお昼に救急車で運ばれたでしょう。あなたはここから一刻も早く逃げた方が良いわ。もう奴らに嗅ぎつけられてしまったもの。バスの運転手からの通報も決め手になったのよ。今まで手が出せなかったけれど、これを機にあなたを取り押さえようとしてくるわ。家に入り込む理由なんて幾らでも作れるから。ゾンビが雨戸を破壊して人間の家に入り込み、部屋を引っ掻き回している、なんてことをね。なんだったら、うら若き乙女を人質として拘束している、っていうのも付け加えても良いわよ」
「祖母の家に孫が居て何が悪いのさ。逆に身の潔白を証明してやるよ」
「そういう所は相変わらず鈍臭くて、へそ曲がりね。今更何を言っているの。誰がどう証言するのよ。まず、人間じゃないあなたには発言権がないの。大体、殺人の容疑者のくせに偉そうよ。頼みの百歳のお祖母さんは病院のベッドの上だし、私だって――そう、うら若き乙女がゾンビの逃避行の手助けをしているなんて、そんな荒唐無稽な話を誰かに信じてもらえるわけないじゃない」
「じゃあ、どうしろというんだ。僕はこのまま奴らに捕らえられて、罪を着せられるのか。ここから出られたとしても、行くところなんてもう他には無いよ」
「だけど、ここでこうして居ればいるだけ危険は迫ってくるのよ。とにかく私と一緒に来て。私の部屋まで行きましょう。急いで。すぐそこに車を止めてあるの」
 魅惑的な響きがぼくの耳に届いた。ぼくに断る理由などない。
 家を出たぼく達は、静まり返ったニュータウンの夜道を二人で歩いた。バス通りに入ると、やけに目立つ黄色い軽自動車が停車していた。
 白石さんが運転席に座って、ぼくを助手席に促した。窓に自分の顔が写っていた。その瞬間、急にぼくはどうしても生前の自分の写真を持って行きたいと思った。
 ぼくが確かに生きていた頃の写真。
 あれさえあれば、ぼくはこの先、何があっても耐えられる気がしたのだ。
 ぼくは祖母の家に引き返すことにした。白石さんは渋々承諾し、車の中で待っていると云った。
 ぼくは台所の写真立てから自分の写真を抜き取り、それを財布に挟んだ。それからお皿のボツルスを掴めるだけ掴んでポケットに入れた。
 リビングを出る時に、ぼくは、留守番電話の光が点滅していることに気付いた。家を出る前までは点いていなかったはずだ。
 録音が一件。おそるおそる再生させると、祖母の声が流れた。それはいつもの祖母の声――張りのある、どこか優しく諭すような声だった。
「一樹、お前さん、そこに居ないのかい。まあいいさ、よくお聞き。この前、お前に話しそびれたことを思い出したんだよ。いいかい、これから話すのは全て本当の事だから、よく覚えておきなさい。私はゾンビを人間に蘇生させる方法というのを聞いたことがある。なんでも、ある山奥にその蘇生法を授けてくれるゾンビがいるというのさ。現に密かに何人かが人間に蘇生して戻って来ているらしい。なんで急にこんなことを言うのかって、お前さんは思うかもしれないね――話せるうちに伝えておこうと思ったんだよ。思い出せる事もだんだん少なくなってきたからね――あとは、そうね、この話を聞いたのは、私はお前さんよりもっと前にゾンビを一人、匿ったことがあるからだよ。それも長い間ね――」
 それから祖母の録音はまだ続き、その山の場所、複雑な行き方を詳しく教えてくれた。残念ながらここでは詳らかにできないが、ぼくはその内容をしっかり記憶に刻みつけた。
 祖母は最後にこう言った。
「お前さんは今、悪い夢を見ているんだよ。死んだなんて誰かに刷り込まれた大嘘に決まっている。私みたいにみっともなくても生き残ってごらんよ。そうすればいつかそれが悪い夢だったと気づくからね。じゃあ、また会いに来ておくれ。お腹が空いたらちゃんとご飯を食べるんだよ。冷凍庫におにぎりを入れておいたから、よかったら食べておくれ――ああ、それから、保険証はちゃんと届いたからね。インターホンに出る前に配達員がさっさと行ってしまったから、郵便局に私が電話をしたんだよ、まったくさ――」
 声が途切れて電話機が録音日時を告げた。
 その時、外から異常なほど強烈なクラクションが鳴った。
 目の前の電話も、けたたましく鳴った。ぼくは仰け反りながらその場に固まった。
 留守番電話のアナウンスに変わると、そこに白石さんの悲鳴が被った。
「逃げて!」
 電話の向こうで何かがぶつかり合い、揉み合っている様な音がした。クラクションが短く鋭く響いた。彼女の声が絞り出された。
「そっちに、奴らが、行った……」
 その後は、彼女の口が塞がれたのか、こもった甲高い唸り声と雑音しか聞こえなかった。

 17

 同時に、玄関から硝子が割れる音、扉がこじ開けられる音、廊下を走ってくる足音、数人の男の怒号が静寂を破った。
 床の上を冷たい突風が吹きぬけた。
 ぼくはリビングの雨戸を開けて、裏庭に飛び降りようと考えた。
 ドアが音を立てて開いた。背後に数人の男の影が見えた。ぼくは、傍のローテーブルに置いたワインボトルを片手で持ち上げて、振り向きざま思い切り投げつけた。鈍い打撃音と小さな悲鳴があがった。
 そして、雨戸から無我夢中で飛び出した。そこにも一人待ち受けていたが、ぼくが野獣のような咆哮をあげると、そいつは腰を抜かして倒れた。
 裏の家と家の間をすり抜けて、路地に逃げ込もうとした、その瞬間。
 銃声が夜の庭に響き渡った。
 ぼくは痛みを感じなかった。
 しかし、銃弾はぼくの右肘を貫通して、ぼくの腐乱した筋肉と神経をぶった斬り、骨を破壊した。
 ぼくの右腕は血まみれで、半分以上ちぎれて、皮一枚で上腕に繋がれている。
 右腕を抱えながら、ぼくは街路に抜けた。それからニュータウンを右往左往して逃げ回った。何度か発砲する音が聞こえた。
 ここが隠れるのにうってつけだと、ぼくは前に書いただろうか。だとしたら撤回しよう。ここには身を隠すような空間など一つも無い。やむなく小さな公園に駆け込んだ。やけに見通しがよい。何人かの足音が近づいてきた。ぼくはしゃがみながら、近くの茂みに隠れた。
 その途端、ぼくはいきなり何者かに口を抑えられ、手足を担ぎ上げられた。
 何者かわからないが、二、三人の手で運ばれた。その内の一人が囁いた。
「俺たちは味方だ。お前はもう大丈夫だ。ある人から連絡をもらってやって来たのだ。おとなしくしていろ。これから安全な場所へ連れて行ってやる」
 よく見ると、彼らはゾンビだった。
 味方かどうかはわからないが、撃たれるよりはましだろう。
 ぼくは、なされるがまま運ばれることにした。
 やがて、ガソリンの匂いが鼻をつき、エンジン音が聞こえた。
 ぼくの体は、予告なく乱雑に放り出された。硬い床だった。そこは軽トラックの幌付き荷台だった。
 その時、ぼくはうっかり抱えていた右手を離してしまった。右手は完全に肘から切り離され、荷台から弾んで外に落ちた。道路を横切って転がり、路肩で止まるのが見えた。
 声を上げる間もなく、ドアが閉まる音が響き、車輌はすぐに発車した。
 どこかへ向かって、猛スピードで。

 18

 さて、この文章が、いつか誰かの目に触れる時がくるとして、さらにここまで読んでくれた酔狂な人が居たとしよう。その人はおそらくこう考えるだろう。
 ぼくを助けてくれたゾンビたちは、本当に味方だったのか。ぼくは一体どこへ連れていかれたのか。
 祖母から教わった、ゾンビを人間に蘇生させてくれるという山まで、ぼくは辿り着いただろうか。そして蘇生できたのか、できなかったのか。
 白石さんはその後、どうなったのだろうか。ぼくは、いつか白石さんと再会することができたのだろうか。そしてそれはどんな結果をもたらすのか。
 あるいは、祖母がこの後、病院で亡くなってしまったのか、あるいは持ち直したのかどうか。
 そもそも殺人の真犯人は明らかにされるのか。ぼくの濡れ衣は晴れるのか。
 これらの結末を知りたいと望む者が、もしかしたら、この世のどこかにいるかもしれない。
 その希望に全て沿える事ができるかどうか、まだわからない。
 状況が許すのであれば、ぼくはこの後に自分の身に起きるであろう事を、どこかできちんと記しておきたいと考えている。だが、それが果たされるのは困難を極めるだろう。
 なぜなら、最初に書いたように、未だにぼくは結末を知らないからだ。
 ぼくは、軽トラックで連れ去られた方のぼくの、その後を知らないからだ。
 ぼくは置いて行かれた方のぼくなのだから。

 そう、ぼくは小角一樹の右手である。
 手の甲に、元凶となった歯型が残る右手。
 ぼくが今まで、この物語を綴ってきたのだ。

 ぼくは――つまり右手は――軽トラックの荷台から転がり落ちた。
 ゾンビの体は――ご存知だろうか――ばらばらに引きちぎられても、活動することができる。望めば元の体に帰ることだってできるのだ。
 ぼくは地面に落ちてから、気が遠くなるほど長い時間をかけて、この場所に辿り着いた。それは辛く苦しい旅だった。なにせ一日に十メートルくらいしか進めないのだから。
 ぼくは五本の指で地面を掻きながら、少しずつ前へ向かった。
 人間に見つかったらおしまいだ。それだけではない。野良犬や野良猫も危険だった。しかしその危険を察知する術は、ぼくには無かったのだ。
 なるべく目立たないよう物陰や溝の中を通るしかなかった。汚泥まみれのぼくは、文字どおり手探りで進んだ。それでもネズミや虫に邪魔されて、たくさん傷つけられた。
 今、ぼくは祖母の家にいる。一軒ずつ表札の名前を指でなぞって、とうとう「如月キヨ」の家を見つけ出したのだ。
 開けっ放しの雨戸から中に入り込み、ソファの下に潜り込むと、一昼夜まるまる休息を取った。最後にボツルスを摂取してから大分経つが、飢えは感じなかった。
 体力が回復すると、ぼくは引き出しからノートとペンを探し出し、二階の物置部屋にこもって、これを書き始めた。何日も書き続けた。
 この家に祖母が帰ってきているのかどうか、それすらわからない。あるいは、家が他の誰かの手に渡っていることだって十分あり得る。
 だが、少なくとも、ぼくがこれを書き続けているということは、つまりここには誰もいないということだ。あるいは誰かがいたとしても、ぼくの邪魔をするつもりがない、という意味だ。
 ぼくは、書くべきことを全て書き終えたら、ノートをここに残して、もう一人のぼくを探しに出かけるつもりだ。
 確かなことは、どこか離れた場所で、別の自分の体がまだ活動しているということだけ。あちらが滅べば、こちらも同時に滅ぶ。だが、今はまだその時ではない。
 ぼくには目も耳も鼻も口も無いが、どこかにかすかな脈のようなものを感じる。この脈をたどって行けば、もう一人のぼくに巡り会えるだろうか。それとも、途中で力尽きてしまうだろうか。
 もう一人のぼくならば、この物語の結末を知っているかもしれない。そして真実を語ることができるかもしれない。
 それを知りたいと思う。

 なぜ、ぼくがこの話を書いたのか、とあなたは問うだろうか。
 中途半端で不完全なものなのに、書く意味があったのだろうか、と。それは自分でもわからない。
 この前、一度だけ冷凍庫を開けてみたことがある。
 手探りで中を確認すると、かちかちに凍ったおにぎりが二つ、ラップに包まれていた。しかし、今のぼくには食べられない。
 この文章は、凍ったおにぎりのようなものかもしれない。
 これを「生きている」とは、とても云えないかもしれない。
 けれども、――おばあちゃま。

 ぼくは、これを悪い夢だと思うことにしました。

小珠泰之介プロフィール