(PDFバージョン:niwanohotokesama_iinofumihiko)
「おい、庭に仏様が来ている」
祖父が言った。私は答えた。
「そう、良かったね」
「ああ、ほんとうにありがたいことだ」
祖父は、流しに向かって、コップに水を入れる。
「飲むなら、ここで飲めばいいのに」
またあちこち零したら、母さんに叱られるから……とまで言う前に、
「おれが飲むんじゃない。仏様にあげるんだ」
と言って、祖父は台所から姿を消した。
今度は仏様かと思いながら、私は渋茶を啜った。時刻は午前十一時を回ったところである。私は二階にある自室から降りてきたばかりだ。仕事と称して明け方近くまで起きていた。そのくせ原稿は進まず、隠しておいた焼酎のボトルを一本空けていた。完璧なる二日酔いである。
私、井之妖彦は、当年取って四十路を迎えた。都落ちして実家に転がり込んで、早一年近くになる。実家には父と母と、さらに九十五になる祖父がいる。六十代後半の父と母はまだまだ元気で、二人してシルバー人材センターなるところに登録し、働きに出ている。
今日も起きたときには、とうに二人の姿はなかった。だが、祖父は半分棺桶に足を突っ込んだ状態だ。一人にしておくのは危ない。私が帰省するまで、母が家にいたのだが、今では私が祖父の監視役を仰せつかっている。
祖父は長年、小学校の教員を務めてきた。かつて私が家にいた頃、つまり東京の大学に合格して上京するまでは、孫の私にも厳格で厳しく、敬語で会話したものである。しかし今では、ぴしっと一本通っていた背筋を抜かれ、前屈みのかっこうでへらへら笑ってばかりいる。それでも身の回りの世話は、自分でできるし、徘徊するようなこともなく家の中におとなしくいてくれるので、私でも監視役がこなせるのである。
私が渋茶を飲み干し、ぼんやりしていると、祖父が戻ってきた。
「おい、おまえも、挨拶しなさい」
「誰か来たの?」
「さっきも言ったじゃないか。仏様が庭にいらっしゃってるんだ」
「ああ、そうか。でも、良いよ。別に用事もないから」
「おまえ、そういうもんじゃないだろう」
いつになく祖父は強情だった。食卓の自分の定位置(私から見て左隣になるのだが)に坐り、身を乗り出して、なおも言うのである。
「滅多にあることじゃない。ご挨拶しなさい。おまえが取りなしている間に、康夫と幹子さんにも電話をして、大至急帰ってくるようにさせるつもり――」
「わかったよ。挨拶する」
私は祖父の言葉を中断させ、
「ただし父さんや母さんのところに電話するのは、なしだよ」
と言った。そんなことをされたら、後で私が怒られる。
「しかし……」
なおも愚図る祖父を説得し、私は台所を後にした。念のため玄関に置かれた電話のコードを抜いてから、庭に向かった。
庭といっても、まさしく猫の額程度のものだ。道路に面したブロック塀のこちら側、こぢんまりとしたところに砂利が敷き詰められ、ところどころに盆栽が置かれている。その盆栽とブロック塀の間の湿気ったところに、仏様がいた。シーツを巻きつけたような白い衣装を着込み、座禅を組んでいる。
「おじゃましております」
私を見て、微笑んだ。
「いえ、あの……」
サンダルを引っかけて、庭に出た。一メートルほどのところまで近づき、改めてその姿を見回す。後光がさし、全身も金色に輝いている。仏様としか思えない姿である。
「なあ、ありがたいことだ」
祖父がやって来て、私の隣に立ち、両手を合わせて念仏を唱えた。
「しかし、どうして家なんかに……」
熱心な仏教徒でもないのだから、不思議に思ってとうぜんである。すると仏様は、微笑みながら、私を見上げて言った。
「素通りするつもりだったのですが、ぐうぜん康治さんにお会いして、ついつい立ち去りがたくなったので。ああ、康治さん、お水、ごちそうさまでした」
仏様の前に置かれたコップは、空になっていた。
「いえいえ滅相も。ああナンマイダブ……」
祖父はなおも頭を垂れて、両手を合わせる。ところが、
「それで御礼に、何か願い事を叶えてあげようと思うのですが」
と、仏様が言った途端、祖父は顔を上げて言ったのである。
「昌子を連れてきてください」
昌子というのは、三年前に脳梗塞で倒れ、そのまま意識を取りもどさずに逝った祖母のことである。
「お祖父ちゃん、何を言い出すんだよ」
私が言っても、祖父は聞く耳を持たない。仏様の前にひざまずき、
「昌子を、昌子をどうか……」
とくりかえす。
「わかりました」
仏様は笑顔で言った。
「そんなことが、できるんですか?」
私が訊ねると、笑顔のままこくりと頷く。
「あなた。あなた、どこにいるの?」
家の中から声が聞こえてきた。ずいぶんと嗄れてはいるが、耳に覚えがある祖母の声である。すくっと身体を起こした祖父は、
「ああ、今行くよ」
と返事をし、さらに、
「まったく、動けなくなってから、わしばかり頼りにして。わしがいるから、いいようなものの……」
と独り言を言いながら、仏様がいることも忘れたように、そそくさと家に入っていった。
「ほんとうに、お祖母ちゃんが?」
仏様は微笑みを浮かべたまま、
「それじゃ、お邪魔しました」
と言った。見る見るその姿が、薄くなっていく。
「あ、待ってください」
薄れながらも私を見上げ、首を傾けた。頭の中が真っ白になった。こんなチャンスは滅多にどころか、二度とない。私も何か、お願いをしたい。しかし咄嗟のことなので、何も思い浮かばない。
どんどん仏様の姿が薄くなっていく。ああ消えてしまう。と思ったとき、気がついたら、
「どうです、一杯」
と言っていた。
「酒ですか?」
「ええ。まあ、せっかく来てくださったんですから」
そう言いながらも、まずかったかと、心で舌打ちした。仏様は戒律に厳しく、酒など以ての外、と怒り出すかもしれない。全身の血の気が音を立てて引いていくのがわかった。すみません、つい、と土下座しようとしたとき、仏様はにっこりと笑って言った。
「いいですね。一杯やりますか」
「ほんとうですか?」
「ええ。たまには、いいでしょう」
「わかりました。今すぐ持ってきますから」
私は家に駆け込み、台所に向かった。買い置きしてあった一升瓶の清酒と、コップを二つ持って庭に駆けもどる。仏様の姿はふたたびくっきりと金色に輝いていた。
「ああ、コップはこれで」
仏様は先ほど祖父が持ってきたコップを手にした。私は注いだ。すると仏様が一升瓶を取り、私に注いでくれた。世の中広しといえども、仏様にお酌してもらったのは、私だけではないだろうか。
「それじゃ、遠慮なく」
私たちはコップを合わせて、乾杯し、そして飲んだ。仏様は一息で飲み干し、
「ふう、おいしい」
と息をついた。私が一升瓶を持つと、遠慮しながらもコップをさしだす。うれしくなって私も、一気に飲み干した。するとまたしても仏様が注いでくれた。二杯が三杯に、三杯が四杯になるころには、ずいぶんと酒が回っていた。
「ねえ、仏様。世の中には悪い奴がいますね。どうして懲らしめないんですか」
「そんなやつらは、ほっとけ」
「ほっとけって……ああ洒落ですか。ははははははははは」
気がついたら一人大笑いしていた。笑いを止めたのは、母親の声だった。
「妖彦、おまえ、そんなところで何してるの?」
振り返ると、自転車を引いた母が、門の内側から、こちらを見ている。辺りはいつの間にか、薄暗くなりはじめていた。
「何してるって、仏様とこうしてお酒を」
だが仏様の姿はない。辺りを見回してもいない。私は庭の砂利の上にあぐらをかいて、一人で酒を飲んでいた。
「人目が悪い。ご近所さんに見つかる前に、中に入りなさい。まったく、仕事もしないで、何様のつもりなんだか」
「お言葉ですけどね。明け方まで書いてるんですよ。それに昼は昼で、お祖父ちゃんの面倒を見てるんですから」
私は立ち上がり、ふらつく足取りで、母に近づきながら言った。
「あんたが、お祖父ちゃんの面倒を?」
「そうでしょ。私がお祖父ちゃんの面倒を見ているおかげで、母さんも安心して働きに出られるんでしょうが」
「酒臭い。もう、何をわからないことを。いいから入りなさい」
私は母に身体を押されて、家の中に入った。奥から祖父の声がした。
「幹子さんかい?」
「はい。遅くなりました」
母はそそくさと台所に向かう。私も後に続いたのだったが、驚きのあまり、廊下に立ち尽くす。食卓では、祖父が血まみれの老婆に寄り添い、スプーンでお粥を食べさせていた。
「お義母さん、具合はどうですか?」
「相変わらずですよ。ありがとう」
血まみれの老婆は、お粥を咀嚼しながら言った。
「着替えてすぐに来ますから」
母親が台所から消えた。
「おい、妖彦、ちょっと便所に行ってくるから、代わってくれ」
祖父はそう言って立ち上がり、よたよたと台所から出て行った。後に残ったのは私と血まみれの老婆だけである。
血まみれというだけではない。よく見ると肉が腐って、あちこちから粘液が滴り、骨が露出しているところもある。髪の薄い頭部で蠢いているのは蛆虫だった。
「あのね。あなたにはどう見えるかわからないけれども、まあこうなったんだから、ごちゃごちゃ騒がないで、ちょうだいね」
老婆が片手で頭を掻くと、蛆虫がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「何だよ、代わってくれと言ったのに。……ほらほらご飯をつづけようね」
戻ってきた祖父は、ふたたび老婆の隣に坐り、スプーンを手にした。
「だめじゃないか。食べこぼしたりして」
食卓に落ちた蛆虫を、お粥と間違えて、つまみ、自分の口に入れる。もぐもぐ顎をごかしながら、お粥をすくい、老婆に食べさせる。
祖母は脳梗塞から助かったものの、半身不随になった。それまで厳格だった祖父は、がらり人が変わったように、献身的に介護している。
対して、一年前に都落ちして帰ってきた私は、まったく祖母の面倒をみようとせず、酒ばかり飲んでいる。と、家族の評判はすこぶる良くない。しかし、私に言わせれば、
「これが飲まずにやっていられるか」
という心境である。
(了)
飯野文彦既刊
『ゾンビ・アパート』