(PDFバージョン:darekawatasiwo_aokikazu)
「猫が死んだの」女は言った。
「仕事が終わって家に帰ったら死んでいたの。お気に入りのベッドで、いつもみたいに丸くなった格好のまま、息だけが止まってた」
「病気?」男は尋ねた。
「そうね。あちこち悪かった。けどもう十七歳だったから、老衰というのかもしれない」
女は前を見つめたまま短い笑い声をたてたが、ちっともおかしそうには聞こえなかった。
「撫でたらね、まだ温かかったのよ。もう少し待っていてくれたら間に合ったのに。毎日私の帰りを待っててくれたのに、こんな時だけ先に行っちゃうんだから」
男は、女の笑い声がわずかに震えるのを聞き取ったが、何も言わなかった。男もまた前を見つめていた。フロントガラスに二人の影がぼんやり映っている。車内は暗く、お互いの表情は分からない。
車の外もまた暗い。正面は海のはずだが何も見えなかった。窓を閉め切ってしまったので、かすかに聞こえていた波の音ももう入ってこない。
「ミャアはね──猫の名前だけど、息子が拾ってきたの。親猫にはぐれたのかしらね、道端で鳴いてたっていってね。汚い子猫だったわ。痩せこけて蚤だらけで、風邪をひいて目脂でぐしゃぐしゃで。私、息子に嫌な顔したの覚えてる」
「猫が嫌いだった?」
「そうじゃないわ。嫌な顔したのは、息子が小さかったから。まだ自分の面倒も見られない年のくせに子猫なんかどうするの、って。でも息子が、触るのもためらっちゃうような猫を可哀想にって抱きしめられる子だということが嬉しくもあった。ちょっぴりね」
「息子さん、いくつだったの?」
「四歳。拾ってきたものは仕方がないから貰い手を探そうと思ったけど、絶対自分で面倒見るから飼ってって、強情なこと強情なこと。おとなしい子だったのに、変なところ父親に似たのね」
「父親──旦那さん?」
「ええ。姑に聞いたわ。あの人も子供の頃そんなだったって。二人でタッグ組まれたら私が折れるしかないじゃない。それで飼うことにしたの。なのにねえ──結局途中までしか面倒見ないでいっちゃうんだから、二人とも」
女は、窓ガラスの外ではたはたと揺れているガムテープの切れ端を見つめた。
「嘘つきね。夕方には帰るって言ったのに」
ぽつんと、吐き出すように言う。男は、首肯と取れるような取れないような曖昧なしぐさで首を動かす。体が少し重たくなってきたようだ。
「ミャアったらね、二人がいなくなった後、しばらく家中探して歩いてた。どこかに二人が隠れてると思ってたのね。ねえ、猫にも死って分かるものなのかしら」
「どうだろうね」
「この十年間、ミャアがいたから生きてきたわ。ミャアの世話をするのは私しかいないもの。でも終わった。本当に一人きりになったわ。空気みたいに自由よ。今にもどこかへ飛んでいってしまいそう」
女は吐息と共に小さなあくびを漏らした。
「眠りたいのよ。でもミャアのいないベッドは冷たすぎる。一人きりの家は静かすぎる」
女はまたかすかに微笑んで、静かにキーを回した。
「本当にいいんですか」男が聞く。
「それは私が言うことよ」
エンジンの音が振動になって、足元から静かに這い上がってきた。車内の空気に奇妙な臭いが混じり出す。空気が十分に変わるまで、どのくらいの時間がかかるのだろう。
「いいというのは、つまり──旦那さんと息子さんは車の事故で亡くなったんでしょう?」
「なのになぜ車を使うかってこと? だって家はまた誰かのものになるわ。汚したら悪いじゃない」
女は長い息を吐いてシートにもたれ込んだ。瞼がいかにも眠たそうに垂れ下がっている。薬が効いてきているのだろう。
沈黙が降りる、車内はエンジンの音と、女の静かな呼吸の音だけになる。
眠ったのだろうか──男が視線を動かして傍らをうかがう。その瞬間をまるで待っていたように「ねえ」と女が口を開いた。
「私のことばかり話しちゃったわ。あなたのことを聞いていない」
「いいんですよ。話すことなんかそんなにない」
「聞かせて。時間はまだあるわ」
男は少しためらうように口をつぐんだ後、静かに言った。
「ぼくの噂は──?」
女が男と出会ったのは、ミャアの弔いを終えた日だった。ミャアが死んだ夜、女はミャアが好きだったキャットフードの缶を開けてやり、だんだん冷たくなっていく小さな毛皮を膝に抱いて、夜通し子守歌を歌って過ごした。朝になると業者に連絡し、遺体を火葬にした。骨は動物霊園に埋めた。
簡素な弔いだった。夫と息子の時のように僧侶の祈祷があるわけでもなく、大勢の会葬者が来るわけでもなく、仰々しい出棺の儀式があるわけでもなかった。
日が暮れるまでミャアの墓の前で過ごした。暗くなりかけた頃ようやく立ち上がったが、家に帰る気にはならなかった。さまよっているうちに、気がつくと以前夫と来たことがある店に入っていた。敢えて選んだつもりではなかったが、足が記憶していたのだろう。
ただでさえ客の少ない、忘れられたような店だったが、さらに寂れた雰囲気に変わっていた。それでもマスターは彼女を覚えていて、久しぶりだね、と言ってくれた。
マスターは夫の友人だった。十年ぶりに会った彼は、すっかり髪が白くなっていた。
カウンターに座り、モルトの水割りを傾けながらマスターととりとめのない話をする。そのうちに、店の隅にひっそりといる男に気がついた。マスターは男のことを、いつの頃からか時々姿を見せるようになったのだと言った。
男は、どこがどう奇妙というわけでもないのに、不思議な雰囲気がした。確かに息をし、グラスの中身を呑んでいるのに、まるでレジンでできたフィギュアのように生気が感じられなかった。若いのか、そうでないのか、それも掴み所がなかった。
やがて男と視線が合った。その目を見て、魚の目のようだと思った。水槽の中でただ行ったり来たりしている魚の目。暗く不透明で、どこも見ていない。
──まるで一度死んだ人みたい。
唐突に、そんなことを感じた。
男が常連客から、冗談交じりに死神と呼ばれていることを知ったのは、そのすぐ後だ。
「ぼくは誰も死なせたりしてない」男は言った。
「ただ、ぼくに話しかけた人がみんな死にたがっている人ばかりだっただけです」
「私みたいに?」
男は口の中で微かな笑い声を漏らす。
「今までにたくさんの人と話した。あの店に行くようになる前から。男もいたし、女もいた。ぼくの目の前に突然立つんだ。そして話をしたいと言う。ほとんどの人は、自分のことだけ話して帰っていく。そして二度と来ない。でも本気だった人もいた」
「本気って?」
「本気で死にたがっていた、という意味です。そんな人はみんな死んでしまった。だからあんな綽名がついたんでしょう」
「ひどい話ね」
「そうでもないです。その人たちはぼくがいなければ死ななかったかもしれない。だとしたら、ある意味では当たっている……」
男は言葉を切り目を伏せる。少しの間、何か考えるように黙っていた。
「旦那さんや息子さんの棺に、何か入れましたか。一緒に」
「夫には帽子を入れたわ。息子には模型を持たせた。あの子が作った木製のティラノサウルス。──どうして?」
「お二人はそれを大切にしておられたんでしょうね」
「ええ、とっても……」
女は、いぶかしげな目を男に向ける。
「なんでそんなことを聞くのか、ですか? 昔ね、物の代わりに人形(ひとがた)を入れる風習があったのを知ってますか。死者と親しかった人間が、自分の身代わりに入れるんです」
女の返事を待つふうでもなく、男は続けた。
「そういうものを一緒にしてやらないと、死者が寂しがるからなんです。ねえ、人はどうして一人では逝けないんでしょうね。ぼくに話しかけてきた人もそう言いました。死にたい、でも一人はいやだと。だから、ぼくは」
一緒に死のうとした。そして生き残ってしまった、と男は言った。
「見ず知らずの人と?」
男はうなずく。女は驚いた。なんて気の狂った真似だろう。それでは男の役割はまるでその人形ではないか。
男は女の考えを読み取ったように、頬をゆがめた。
「ばかなことだと思いますか。でも実はぼくも一人では死ねないんです。誰かと一緒でないと、ぼくは──」
「ばかじゃないわ」
女は手を伸ばし、男の首を優しくかき抱いた。男が泣いているのではないかと思ったのだ。
「相手の名前や素性なんて、何も大事なことではないわ」
慰めるつもりで言ったその言葉が、次の瞬間にはなんの不思議もないことのように思え、女はむしろ最初に驚いた自分を疑った。欲しいのはただ、眠りに落ちていくときの温もりだけだ。ほかには何もいらない。
きっとみんな同じだ。男の相手も。男も。そして自分も。
まるで子供をあやすように、女は指で男の髪をくしけずる。そうしながら、車のドアとウインドウに目をやった。目に少し霞がかかってきていたが、それでも目張りのガムテープがどれほどしっかりと貼られているかは分かる。
「今度はちゃんと眠れるわ」
「うん」
男もシートに体を埋める。
「眠くなってきたわね」
「そうだね」
それきり会話は途絶える。車の中には、静かに忍び込んでくる排気ガスの音だけが満ちる。
*
男が目を覚ますと、車の中は冷たく冷え切っていた。
エンジンはとうに切れていた。外はまだ暗いが、空の一角がほんのり白んでいる。それが夜明けであるらしいことは車中の時計が示す数字から知れた。ただ、いつの夜明けかは分からない。
あれからどのくらいの時が経ったのか。
男はゆっくりと体を起こし、自分が死んでいないことを知った。
傍らを見ると、女は目を閉じたまま横たわっていた。
触れるまでもなく、硬直が始まっているのが分かった。苦しんだ様子はない。眠っているような静かな死に顔だった。
──そうだ。この人は眠りたがっていたのだった。
男はしばらく女の亡骸を見下ろしていた。
──そちらでもう会えましたか? あなたが愛した人たちに。愛した猫に。
答えは返らない。女は完全にここを立ち去ってしまったのだ。
男は笑いとも溜息ともつかない音を一つ漏らすと、目張りのガムテープを剥がしドアを開けた。めりめりという音と共に、外側から貼りつけたテープも外れる。
新鮮な空気が流れ込んできて、車の中の澱んだ空気が薄められていくのが分かった。排気ガスをたっぷりと含んだ空気──しかしそれも男を死なせることはできなかった。
──また、生き残ってしまった。
男は思った。また、また、また──これで何度目だろう。
男がこれまでに心中を諮った相手は一人ではなかった。しかしそのたびに相手は死に、男だけが生き残ってきた。どんな方法を使ってみても、男はいつも一人で目を覚ますのだった。
もう何度も、数も覚えていないほど。いつからかさえ覚えていないほど。
それを呪いと感じ、天を恨んでみたこともあった。しかしそんな激しい感情はとうに擦り切れ失われた。
ただ今は、眠りたいだけだ。
男はもう一度静かな溜息をつき、車を離れた。
一度だけ、女を振り返った。まだ髪に女の優しい指の感触が残っていた。男の存在は、女にとってわずかでも救いになったのだろうか。それとも、単にひとときの温もりを満たすだけのものでしかなかったのだろうか。
──たとえほんのわずかでも……。
女が安らかであったならば、寂しくなかったならば、それが少しは償いになるだろうか。
男ははるか昔、自分が人形として生まれたときのことを思った。おそらく彼を作った人間は、死者を慰めるために精魂をこめたのだろう。それゆえに彼は魂を得た。
だが彼は魂を得たゆえに、自らの役目を拒否した。身代わりで死にたくはなかった。
生きたいと強く願い、気がつけばいつの間にか地上を彷徨う身になっていた。それは主となるべき人を見捨てた罪への報いかもしれない。
男は死を求める人に束の間の安らぎを与え、それが罪への赦しとなることを望みながら、長い長い時を生きた。
今はただ、眠りたい。
しかし主に殉じるために作られた副葬品である彼は、一人で死ぬことはできない。誰かに愛され、共に連れて行ってもらわなければ、眠ることができない。
──誰か、どうかぼくを──。
男は一人歩き出した。
どこまで、いつまで。それは分からない。
東の空が紫色に染まり始めていた。
〈了〉
青木和既刊
『つくもの厄介7
すぐはの鰯』