「あの世へ昇るエレベーター」片理誠

(PDFバージョン:anoyohenoboru_hennrimakoto
 気がつくと暗がりに一人で立っていた。どこだ、ここは? 辺りを見回す。私は確か法廷にいたはずなのだが。
 何か、硬くて平らなものの上であることは、靴底からの感触で分かる。床、か。周囲はひんやりとしてはいたが、寒いというほどではなかった。完全な無風だからなのかもしれない。音は何も、いや……遠くからかすかに何かを叩くような響きが聞こえる。
 音のする方に振り返ると、遙か彼方に小さな明かりが見えた。

 子供の頃からずっと理屈に合わないことが大嫌いな性格だった私が理系に進んだのは、やはり理に適った行動であったと今でも思う。「この時の主人公の気持ちを答えよ」という国語のテストの設問には昔から我慢がならなかった。私がもし何かしらの解答をそこに書いたとして、その正誤がどうして採点者に分かるのだ。お前はこの小説の主人公ではないだろう?
 自ら望んで進んだ理系の分野で、私はめきめきと頭角を現した。この宇宙は幾何学的なパズルのようなもので、唯一、理性だけがそこへのアプローチの手段になり得るのだ。科学こそが私の人生の全てであった。
 だが厄介なことに、どんな世界、どんなジャンルにも“人間”はいる。他人をねたみ、そねみ、やっかむことしかできない厄介な奴らだ。それは科学の殿堂である研究機関であっても変わらない。
 ある日、同僚の一人が私の論文に難癖をつけてきた。曰く、「そこに書かれているのは私が考えたアイデアだ。以前、バーで飲んだ時、私が君に話したんじゃないか」と。
 くだらん! 誰が思いついたかなんて重要ではないだろう。要はどちらが執筆者として相応しいか。この点こそが重要だ。私の方が若いし、良い大学だって出ているんだ。学校での成績だって上だったし、私の親は町議会議員なんだぞ。どちらの方が研究者として、あるいは人間として、上等かなんて考えるまでもないだろう。
 だが相手は、どうやら筋金入りの馬鹿だったらしく、この私の理路整然とした理屈を真っ向から否定したどころか、私を裁判で訴えるとわめいたのだ。
 逆上した私が取り乱したのは当然だろう。誰だって逆上すれば取り乱すはずだ。私はカッとなって手近にあった百科事典並の大きなファイルで相手の頭を徹底的に打ち据えてやった。
 だがそんな私に、こともあろうに裁判官は殺人罪を適用すると宣告したのだ! 世の中には馬鹿しかいないのか? あいつが死んだのはたまたま頭の打ち所が悪かったからだし、そもそもの争いの発端はどちらの方が研究者として、いや、人間として上等なのかという点についてだった。私はあいつよりも良い大学を卒業しているのだし、何と言っても私の親は町議会議員で、しかも二期も務めているのだから、そんなの考えるまでもないことではないか。誰が誰を殺したかなどという些末な問題はこの際どうでもいいことだ。
 有罪判決を耳にするやいなや私はあらん限りの大声で「即刻、控訴する!」と叫んだ。
 そして、私の記憶はそこでぷっつりと途切れている。

 つらつらおもんみるに、どうやら私はあの瞬間に絶命してしまったようだ。いわゆる憤死、という奴か。そう言えば気を失う直前、「プツッ」と何かが切れるような音を聞いたような気がする。
 してみると現在の私は死後の時間にいるわけだ。魂だけの存在になったのだな。
 確かに自分の手首を握ってみても脈は感じられなかった。
 普通、こういう時にはパニックになるものなのかもしれない。しかし私はそうはならなかった。なぜなら、私は理知的な人間だからだ。確かに残念には思うが、なってしまったものは仕方がない。
 幸い、今は痛くもなければ苦しくもない。脈拍がないという以外には、肉体にはこれといった変化はなかった。裁判の時に着ていたスーツだって身につけている。
 とにかく、大事なのはこれからだ。
 私は遠くの光に向かって歩く。
 ここが死後の世界ならば、私はこの後、天国か地獄のどちらかに行くことになるのだろう。言うなれば人間界の裁判の続きがここで行われるというわけだ。考えようによっては、私は確かに控訴をしたことになるな。
 だがしかし、繰り返しになるが、大事なのはこれからだ。私の行き先が天国と地獄のどちらになるのか、これが問題である。
 もちろん私には一点たりとも非の打ち所などないが、何しろ人間の裁判官から馬鹿げた判決を聞かされたばかりである。多少は不安にもなろうというものだ。まさかあの世(もっとも、今の私にとっては既に“この世”だが)の裁判に、万に一つも間違いなどはないだろうが……。
 近づいてみると、遠くに見えていた明かりというのは、電灯だった。事務机に灯された弱々しい光だ。
 なんだぁ、と私は拍子抜けしてしまう。
 てっきり閻魔大王や天使に判決を告げられると思っていたのに、その粗末なスチール机に座っているのは、瓶底メガネをかけた貧相な中年の小男だった。とてもではないが大王にも天使にも見えない。よれよれの白シャツに黒いネクタイと黒い袖カバー。髪はボサボサで灰色をしていた。机の上にうずたかく積まれた書類の山から山へ、何の意味があるのかは知らないが、書類を一枚一枚移し替えている。その際にざっと眺めては、バンバンと荒っぽく判子を押す。近くで聞くと随分と騒々しい音だ。
 この真っ暗な、だだっ広い空間の中にいるのは、私とこの小男だけのようだった。他に動くものの気配はない。
 何かあるのかと思ってしばらくそのままじっとしていたが、男は自分の作業に夢中なようで、私には目もくれない。
 やがて、もしかするとこちらの姿が見えないのでは、と不安になった私が「あの」と話しかけると、その小男は顔も上げずに「あんたは、あっち」と背後を指さしながら告げた。
 見るといつの間にか淡く輝く扉が出現していた。
 男は私にはまったく関心がないようだ。一心不乱に判を押し続けている。
 思っていた裁判とは随分違うな、と私は面食らった。
 恐らくだが、私のような結果が明らかな魂を裁く場合、時間などかけないのだろう、ということにしばらく経ってから思いが至った。なるほど。理に適っているな。考えてみればそれはそうだ。毎日大勢の魂が死後の世界にくるのだから、分かりきっている簡単な裁判にまでいちいち時間などかけていられるわけがない。うむ。きっとそうだ。
 そして私の場合は裁くまでもなく天国行きなのだ。だって、それ以外には考えられない。私が上等な人間であることは明々白々たる事実であり、検証する必要などない、ということだ、この素っ気ない対応は。
 私は意気揚々と扉の前に立つ。
 それはチン、という音とともに横に開いた。その向こうは白い、清潔そうな小さな空間だ。随分と明るかった。まぶしいくらいだ。私は中をのぞき込む。
「これは……エレベーターか。なるほど。この乗り物で天国や地獄に魂を運ぶんだな。いわば直行便というわけだ。さすがあの世だなぁ、無駄がない。実に理に適っている」
 ねぇ、そうなんでしょ、と背後に振り返ったが、さっきの小男の姿は見えなかった。きっとエレベータからの明かりがまぶしいせいだろう。
 私は気にせず、中へと乗り込んだ。他に選択肢はなさそうだし、どうせ私の行き先は天国に決まっている。
 振り返ると目の前で扉は閉まった。床がかすかに振動をしているので、動いていることが分かる。
 このエレベータにはボタンなどはなく、ディスプレイの類も一切ない。もちろん窓もだ。ここは単なる白い箱の中だった。
 最初は確信に満ちていた私だったが、しばらく乗っているうちにだんだんと心細くなった。この昇降機は今、果たして昇っているのだろうか。それとも――
 もちろん昇っているに決まっている、と自分に言い聞かせる。天国は上の方向にあるのだから。私は上等な人間で、その行く先は天上の世界しかあり得ない。
 だが、振動のせいで自分が本当に上に向かっているのか否かが、よく分からないのだ。吐きそうな感覚だけはあったが、実際に吐いたりもしなかった。もう既に死んでいるからだろう。
 私は随分と長いこと揺られていた。不快な感覚はますます強くなってくる。それと呼応するように、不安な気持ちも。
 だが突然、私は大声で笑い始めた。
 体が、軽くなってきていることに気づいたからだ。間違いない。既に魂だけの存在になっているにも関わらず、とも思うが、実際、今までもずっと重力は感じていたし、だからこそあの真っ暗な空間も普通に歩くことができた。
 だが今、明らかにその力が弱まりつつある。私の体がふわふわとし始めているぞ。重力の影響がだんだん消えているのだ。つまり、私は地球から離れつつある、ということだ。私は大地の引力から逃れ、天国に向かっているのだ。やった! 勝った!
「アーッハッハ! やったぞ! やっぱり神の裁きに誤りはなかった! 万歳! 地上の馬鹿裁判官どもめ、ざまぁ見ろ! 神はちゃんと私の正しさを分かっているのだ! まぁ、当然だがな! ケェーッケッケ!」
 ひとしきり笑った後、私は大きく息を吸った。
 もうじきこの扉が開かれ、暖かな白い光によって迎えられるのだ。そして私は天国で永遠に幸せに暮らすのだ。そう考えると自然と笑みがこぼれた。当たり前の結果だろう。上等な人間に、上等な結末が用意されているというのは。実に理に適っている話だ。
 チン、という音とともに扉が開いた。

 だが私を迎えたのは、暖かな白い光などではなかった。灼熱の、真っ赤な光だ。
 ピギャァアアアッ!
 私は悲鳴とともに急いで奥に後ずさろうとしたが、開かれた扉の向こうから伸びてきた、燃えさかる巨大な手によって胴体をつかまれ、有無を言わさぬ乱暴な力によってエレベーターの外に引きずり出された。
 あ、ああ、熱いッ!
 熱いなんてもんじゃない! まるで溶鉱炉の中のようだ。もし既に死んでいるのでなければ、即死だったところだ。私はあまりの苦しさに、踊り狂うタコのようにもがいた。
 辺りには赤やら金色やらの光が充満していた。マーブル模様のように、その二色が溶け合っている。
 私をつかんでいるのは、周囲よりもひときわ赤く輝いている、炎の巨人だった。頭からは一対の角が生えている。
 地獄へようこそ、罪深い魂よ、とそいつはのたまった。奴は息までもが炎で、それを吹きかけられると熱いったらなかった。そこいら中を掻きむしられ、引き裂かれるような痛みが走る。消し炭になってしまいそうだ。
 ば、馬鹿な、と私は叫び返す。
「私は天国に向かっていたはずだ! この結果は間違っている! 体が軽くなったんだ! 絶対に重力は弱まっていたんだ! 私は地球から離れていたはずなんだぁぁぁ!」
 馬ぁ鹿は貴様だ、この愚か者め、と奴が超高温の息を私に向かって吐き出した。
「お前は下へ下へと、ずっと下っていたのだ」
「だ、だが、現に体が軽く」
「だからお前は馬鹿だと言うのだ。いいか、よぅく考えてみろ。お前が地表にいた時、お前を引っ張る大地は、お前の下にしかなかった。ゆえにお前は下方向からの引力しか感じなかったのだ。
 だが今、貴様は地球の中心にいる。ここではお前を引っ張る大地は下だけではなく、四方八方にある。つまり? お前は四方八方から引力を感じるのだ。互いの引力は打ち消し合い、ここではゼロになる。つまり無重量だ。分かるか? 体が軽くなるのは天国だけではないのだ。地獄でも軽くなるのさぁ。ダッハッハ!」
 こいつが笑うと私の周囲は更に、更に熱くなる。あああー、だが既に死んでしまっているので、もうこれ以上は死ねない。うぐぐ! あッ、熱い! とにかく、あっついッ!
 くッ! それにしても、ち、地球の中心に重力はない、だと?
「うーん」と私は鬼の手の中でうなる。
 な、なるほど。理に、適って、いるぅ……

片理誠プロフィール


片理誠既刊
『ガリレイドンナ
月光の女神たち』