「追憶負債者」窓川要


(PDFバージョン:tuiokufusaisha_madokawakaname
「それではいつも通り、楠木さんからは――息子さんとの記憶を、息子さんからは――楠木さんとの記憶を、それぞれ消去いたします」
 はい、と私は答えた。女性係官はキャリーバッグから認証用のタッチパッドを取り出し、目も合わせずにこちらへ寄越した。私はそれを受け取り、掌を重ねて認証を済ませ、そっと壁に立てかけた。手狭なアパートの玄関だ。私と息子と係官、三人も腰を下ろしていれば、物も置けないほど窮屈になる。
 係官はバッグを開き、二組の装置を取り出し、私と息子に差し出した。フルフェイスヘルメットのようなそれは、俗に「壺」と呼ばれている。私は「壺」を被り、アジャスターを締めた。真っ暗な「壺」の内側を見つめた。顔の前面には空間があるが、後面から首筋にかけてはジェルクッションが密着している。ひんやりとした感触が背筋を震わせた。
「起動します」
 係官の声と共に「壺」の中にゆらゆらと光が漂い始め、顔面を撫でた。青く冷たい光は水底のようだった。
「もう一度確認しますが」係官の声はくぐもって聞こえた。「楠木さんからは――息子さんとの記憶を、息子さんからは――楠木さんとの記憶を、それぞれ消去します。一日分の、共有した時間の記憶です。構いませんか」
「いつもの事です。昨日だってそうしたじゃありませんか。……な、蓮二」
 うん、と答えた息子の声は、すぐ隣にいる筈なのにひどく遠くに聞こえた。込められた感情すら判然としなかった。
「いつもの事、ですか。……しかしこのままではずっと息子さんとは、」
「構いません」と係官の言葉を遮る。「他に消せる記憶もありませんから」

 人類の「意識と記憶」は、高次元の有限なメモリ領域で演算されているプログラムのようなものらしい――我々がそれを知ったのは、二十年前に起きた出来事が切っ掛けだった。
 ちょうど私が今の蓮二と同じぐらいの、中学生の頃だ。〈処理落ち〉と呼ばれる、全人類同時の意識消失現象が起こった。
 全ての人間が同時に気を失い、また同時に目覚める――およそ一年に渡って断続的に発生した〈処理落ち〉は世界を揺るがした。無数の事件事故を引き起こし多くの死傷者を出した。新兵器か、天変地異か、神の裁きか……世界は混乱を極めた。
 だがそんな中である仮説が立てられた。それは「われわれ人類の『意識と記憶』はひとまとめのプログラムであり、あるメモリ領域内で演算されているものなのではないか。高度情報化と人口増加によって遂にその能力が限界に達し『人類の意識』が処理落ちを起こしたのではないか」というものだった。これは断続的に発生した〈処理落ち〉の継続時間とインターバルが、その時の死者数と相関関係にある事を根拠としていた。
〈処理落ち〉が発生した後、ある程度の人間が死ぬとメモリに空きが出来て演算が再開される。意識を取り戻した人々が周囲から情報を収集し始めると、再び「人類の意識」というプログラムの扱う情報量、すなわち「記憶」が増えてメモリを圧迫する。それが断続的な〈処理落ち〉の正体だと考えられた。
 突飛だが辻褄は合っていた。ほどなくこの仮説は極秘裏の実験によって確かめられた。意図的に〈処理落ち〉を発生させ、その後、時限装置によって任意の時間で「人類の意識」を復帰する事に成功したのだ。これを確かめる為に億単位の人々が犠牲となった。
 我々は演算されたひとまとめのプログラムであり、ひいてはこの世界そのものがヴァーチャルなのかも知れない。例えばここはゲームの中の世界なのかも知れない――。全人類の価値観が揺らいだ。しかし、現実に積み重なった死体の山と、再び起こるかも知れない〈処理落ち〉の脅威の前には、些事でしかないと言えた。
 人類は生きる事を望んだ。
 プログラムの如き存在であるなら、演算され続けることを望んだ。文明の存続と――我々が従来信じてきた――個人の自由意志の確保、その両立の為に、有限の共有リソースと化した「記憶」を個人レベルで消去する、という方策が考え出された。
 高次元に存在する謎のメモリ領域に直接手を加える事は出来ずとも、人間の脳から記憶を消す事で間接的にクリンナップを図る。その為の記憶消去装置が「壺」だった。

 朝食を食べていると、蓮二がやって来た。
「おはよう。朝練か」
「うん」
 白シャツと黒ズボンの制服、野球帽、エナメルバッグという出で立ちだった。
 楠木蓮二。中学生。血は繋がっていないが私の息子だ。野球部のため朝は早い。……私はそれらの情報を知っている。だが、昨日二人でどんな会話を交わしたか、一昨日どんな時間を過ごしたか、具体的に言うとここ五年ほどの間に共有した時間を、一切記憶していないのだった。ただ表層的な情報だけを知っている。
「ご飯はコンビニで買うから」
「そうか。金はあるか」
「一昨日もらったみたい」
「……そうだったか」
 私と蓮二への「壺」の使用はほぼ毎日行われている。昨夜以前の出来事は互いに覚えていない。財布の中身から類推したのだろう。
 蓮二はコップに水を注ぐと一息に飲み干し、こちらを一瞥して、背を向けて玄関へ向かった。
「行ってきます」
「気を付けてな」
 アパートを出る背中はまだ子供の小ささだった。
〈処理落ち〉以後の、記憶が共有リソースと化した世界で、人々は法によって定められた量の記憶を定期的に消去する義務を負った。この消去は単に「思い出せない」忘却とは異なり、脳から情報を完全に消すものだった。そうして高次元にあるというメモリ領域に空きを作る。何の記憶を消すかは当事者の判断に委ねられているが、私たち親子はここ五年ほどずっとお互いとの記憶――即ち共有した時間を消去し続けていた。
 だが互いの関係を忘れてしまったりはしない。例えるなら、脳内にある「蓮二との時間を余す事なく撮影した動画」を消去しつつも「蓮二の画像」「蓮二の特徴を記したテキスト」などの簡便なデータを保持する事で、蓮二を蓮二として認識出来るようにしつつ低容量化を図っているのだ。「壺」の記憶消去メカニズムは良くできていて、ピンポイントに消去できる。消去する記憶の設定・引き出しのプロセスに対象者の脳そのものをデバイスとして使うため、高精度なのだという。
 人はしばしば何故覚えているのか不思議な些末事を、不意に思い出す事がある。それは体験そのものを余す事なく律儀に記憶しているからだ。記憶が共有リソースと化した今、そんな冗長なデータを保持する余裕はない。低容量な表層的理解だけを残して、高容量な、実体験の鮮やかな記憶は捨て去らねばならないのだった。
 とは言え普通はその日の記憶を消去などしない。もっと過去の曖昧になった記憶から消して行く。係官が毎日訪れる家も殆どない。私たち親子がこんな逼迫した状況にあるのは、我々が「追憶負債者」と呼ばれる存在だからだ。

 デスクに置いた写真は妻の姿を伝える唯一の縁だ。
 気怠い昼休み、背もたれに身を預けて亡き妻を追憶していた。写真には私と、妻の美世と、その間に蓮二が映っていた。清々しい笑顔を浮かべた美世に比べて、私と蓮二の表情はぎこちなかった。
 この日の事はよく覚えている。美世の提案で、近くのお宮で催される花の展覧会を観に行ったのだ。前衛的な展覧会だった。凜とした色合いの花に南国のフルーツを取り合わせていたり、紅葉や黄葉を花に見立てていたりと面白い試みに溢れていた。中でも美世の興味を惹いたのはタマネギだった。白い枝の先に巨大な紫の球が付いており、何かと思えば紫タマネギが突き刺されていたのだった。美世は目を見開いて「たまねぎ?」と零(こぼ)し、すぐにはっとして恥ずかしげに口元を覆っていた。その仕草は彼女のお茶目さと育ちの良さを素朴に表していた。
 ……そうだ、これこそが「記憶」だ。この瑞々しい感覚こそが記憶だ。もし「壺」で美世の記憶を消して簡易なものに置き替えれば、写真を見ても「妻である」と分かるだけで何も連想しなくなるのだ。耐え難い事だった。
 写真に映った私と蓮二の表情はぎこちない。そこにあるのは父と子の関係ではなく、妻の連れ子・母の再婚相手という関係だった。そしてこの後まもなく美世が亡くなってしまった為に、私たちの時間は止まったままとなった。五年前のあの日、我が家のアパートを全焼させたガス漏れ事故以来、我々は一歩も進めずにいた。
「楠木さん」
 名前を呼ばれて振り返ると同僚が立っていた。戸口を指している。
「出前、来てますよ」
 見ると、戸口で中華料理屋の店員が待っていた。私は同僚に礼を言って、注文した事すら忘れていたラーメンを取りに行った。
 先ほどまで腹が減っていた筈だが、追憶に耽る内に食欲をなくしてしまった。……五年前は美世の弁当を食べていた。彼女の作るだし巻きは一流料亭にも負けなかった。甘い香りの中に、じんわりと旨味が染み出して……
 いや、止めよう。私は頭を振った。
 これが「追憶負債者」と呼ばれる者の有様だ。
「壺」による記憶消去は普通それほど逼迫していない。対象者の社会的立場と、「壺」がスキャンした脳の使用状況から、消去すべき記憶の量が決定される。通常このノルマは、遠い過去の記憶を順に消す程度で達成できる。しかしある程度以上「消せない過去」を持つ人間は、仕方なく現在に近い記憶を消す羽目に陥る。
 また追憶という行為そのものも、記憶が共有リソースと化した世界とは相容れないものだった。追憶には参照先の記憶を肥大化させる性質がある。誰にでも覚えがあるのではないだろうか。何度も反芻した記憶はより重い存在になっていく。情報量を増していくのだ。この性質が膨れあがる利息のようである為、半ば揶揄の意味を込めて「追憶負債者」と呼ばれるのだった。
 溜息を吐く。ひとまずスープを啜ろうとレンゲを手にして――ああ、私はこんな事でさえ美世を想起してしまう。レンゲを持った私の指先。人差し指を持ち手の溝に添え、親指と中指で支える持ち方。これがレンゲの本来の持ち方なのだという。私は美世と出会うまで、スプーンと同じ持ち方をしていた。多くの人がそうだし、別に悪い事ではない。しかし美世の上品な持ち方に気付いた時、心を惹かれたのだ。些細であるが彼女が私に与えた影響の一つだった。記憶を消せば、この経緯も忘れ去ってしまうだろう。

 いつも通り定時に帰宅の途についた。息子との時間を消していながら仕事の「いつも通り」を記憶している私は、やはり父親失格だ。だが職を失う訳にはいかない。蓮二に親子の記憶を与えてやる事は出来ずとも、せめて生活に不自由はさせたくない。それが私の精一杯の親心だった。
 夕映えの川沿いを歩く。情緒的な風景は美世の事を想起させる。彼女がいてくれたら。私と蓮二の関係性は、美世を失ったきり宙ぶらりんになってしまった。蓮二は孤独だ。彼は生物学上の父も知らないらしい。彼にとって親とは母親のみ、美世ただ一人だ。その唯一の家族はもう記憶の中にしかいない。どうしてそれを奪えると言うのだろう。
 ふと、前を歩く背中に見覚えを感じた。
「……蓮二?」
 無意識に声をかけた。小さな背中が驚いた様子で振り返った。白い練習用のユニフォーム。ちょうど部活を終えた帰り道らしい。
「父さん。今帰り……?」
「ああ、いつもこの時間だ」
「そうなんだ……」
 私たちは並んで歩き始めた。帰る場所が同じなのだから当然だった。だがその足取りは酷くぎくしゃくとしていた。
 蓮二の様子を窺った。ユニフォームが土埃で黄色かった。汗をかいた鼻頭が西日に照らされてぎらついていた。蓮二。戸籍上の息子。昨日お互いにどんな言葉を交わしたのかすら知らない、今ここで出会った事も明日には忘れている筈の、そんな親子。このままいつも通り家に帰って、いつも通り係官が訪れて、「壺」を被ってしまえば、もうそれきり忘れてしまう筈の一時。
 美世がいてくれたら、と私は思った。隣に立つ蓮二の向こうに、彼女がいてくれたら。あの朗らかな笑顔で楽しげに話しかけてくれたら……あり得ないと分かっているのに。
 分かっているのなら。
 ならば私は、父親として振る舞うべきなのではないか。
 ……無理だ。それは美世の記憶を消し去るという事だ。だが私と蓮二の縁は美世なのだ。彼女が亡くなったときに私たちの時間は停止し、もう永遠に親子にはなれないのだ。
 やめよう。こんな事を考えるのはやめだ。
 気まずい沈黙だった。会話の糸口が欲しかった。蓮二の横顔を見て、肩にかけたバッグを見た。ファスナーが閉じきっておらず、何かがはみ出していた。
「……ミット? おまえ、キャッチャーをやってるのか」
 蓮二は一瞬目を合わせ、しかしすぐバッグへと視線を落として、ファスナーから覗くミットを取り出してみせた。
「うん。結構前から」
「そうなのか」
 全く知らなかった。聞いた事もあるのかも知れないが当然記憶にはない。
「これ学校の備品なんだけど、今ぼく使ってるから。持って帰って手入れしなきゃだから」
「良い心がけだな……しかし、普通のグラブは持ってないのか。入部した時に、その」
 まさか私はグラブの一つも買ってやらなかったのだろうか――と、その考えを察したのか、蓮二はバッグからオールラウンドモデルのグラブを取り出した。手に取ってみると、値の張りそうな良いものに思えた。
「それ、買ってもらったんだと思う……覚えてないけど。気に入ってるけど、キャッチャーなっちゃったから」
 そう言って蓮二ははにかんだ。申し訳なさそうなその笑顔は、取り繕いではなく心底残念がっているように見えた。
 ――その表情に、何かが揺り動かされた。
 私は目を細めた。唇がからからに乾いていた。軟式グラブが確かな重みを持って手の中にあった。このグラブもよく手入れがなされていた。革の匂いが鼻をくすぐった。グラブの中には軟球が挟まれていた。
「なあ蓮二」
 からからの唇が、のろのろと動き始めた。
「――キャッチボールでもするか」
「えっ」
 露骨に動揺した蓮二は私の顔を覗くように見返した。私ははっとして、自分の言葉のおこがましさに狼狽え、俯いてしまった。
「いやっ、すまん、疲れてるよな」
 何を今更キャッチボールなど。そんな如何にも父親らしい真似を。
 しかし――横目で窺った蓮二の顔には、戸惑いながらも微笑みが浮かんでいた。
「……疲れてないよ。ぼくやりたい」
「……そうか?」
 蓮二はぎこちなく頷いた。何故かお互いしどろもどろになりながら、私たちは道を逸れて河川敷に向かった。蓮二は黙って付いて来た。硬い土を踏み、数歩分の距離を置いて対峙した。西日が二つの濃い影を投げかけていた。
 はたと気付いた。キャッチボールなんていつ以来だろう? 普段は運動など全くしていないが、果たして身体が動くだろうか。
「じゃあ、いくぞ」
「うん」
 不安ながらもグラブをはめ、軟球を握る。そしてゆっくりと投げた。
 緩く弧を描く一投目は、無事に蓮二のミットへと収められた。
 ……なんだ。意外に動くじゃないか。何故かすんなりと投げられた。そう悪いフォームでもなかったと思う。俄に自信が漲り始めた。
「いくよ」
「おう」
 蓮二が投げ返してくる。放物線の終着は、ちゃんと私のグラブへ収まった。悪くない感じだった。
「いくぞ」
 私は縫い目に指をかけ、
「あら楠木さん」
 突然かけられた声にびくつき、軟球を零してしまった。
「……横田さん。どうも」
 河川敷の散歩道に立っていたのは、アパートの隣室に住む横田氏の奥さんだった。
「相変わらず仲がよろしいですね」
 横田さんはそう言って口元をにたりと歪めた。私は目を逸らして、零した軟球を拾った。何か言おうとして、だが呻きが漏れるだけだった。あまり関わりは無いが、隣人である横田さんは私と蓮二の事情を知っている筈だ。なのに「仲が良い」とはとんだ皮肉だった。
 横田さんは歩み去って行った。気まずい空気が残った。
 後悔した。やはり父親の真似事など止めておけば良かった。先ほどの皮肉は蓮二にも聞こえていただろう。謝りたかった。そして叶うならこの身と引き替えにして、蓮二に母親を取り戻してやりたかった。だがそれは不可能だった。
 私はばつが悪い思いを抱きながらキャッチボールを続けた。軟球が飛び交い、グラブへと収まった。だがそれだけの事だった。私は努めてグラブと軟球に意識を注いだ。蓮二の顔を見る事ができなかった。
「父さん」と不意に蓮二が言った。
「なんだ」と私は顔も見ずに応えた。
「横田さん、笑ってたね」
「……ああ」
 私はそれだけ言って返球した。笑いものにしてすまない、とでも言えば良いのだろうか?
「横田さんの様子見て、思ったんだけどさ」
「……なんだ」
 胸がきゅっと痛んだ。やはり自分達は親子ではないと、そう思ったのだろうか? 父親のいない自分は不幸だと、そう思ったのだろうか? 母親に会いたいと、そう思ったのだろうか?
 蓮二が、返球を投げた。

「もしかしてぼく達、昨日もここで、キャッチボールをしてたんじゃないかな」

 返球は、鈍い感触でグラブに収まった。
 逆光の中、蓮二は微笑っているように見えた。
「……なに」
「だって、横田さん言ってたから。『相変わらず仲が良い』って」
 蓮二は屈託なく笑っていた。眩しそうに、そして幸福そうに。
 それは、横田さんの言葉を額面通りに受け取ったという事だろうか? あの表情は嘲笑ではなく、真実微笑であったと、そう言いたいのだろうか?
「父さん、いつもこの時間に帰るんだって言ったよね。ぼくも、いつもこの時間だから。
寄り道とかしないから」
 だから――自分達はいつもこの場所で出会う筈なのだと、そう言いたいのか? 何度も同じやり取りを交わした筈だと、そう言いたいのか? 私たちが覚えていないだけで、私たちはいつも帰り道で出会って、先ほどと同じようなやり取りを辿って、ここでキャッチボールをしていたのだと、そう言いたいのか? 毎日毎日、同じ場所でキャッチボールを――まるで、本物の親子のように。
 胸が震えるのを感じた。
 思えば筋が通っていた。先ほど私は自身に驚いたではないか。普段運動などしていないのに、苦もなく投球できた。それは毎日キャッチボールをしていたからではないか。
 横田さんの言葉を嘲りと受け取ったのは、私が卑屈だったからなのだろうか。「相変わらず仲が良い」という言葉は皮肉でもなんでもなく、ここで私たちを何度か見かけていたからそう言っただけなのだろうか。あるいはこれまでは声をかけなかったり、「珍しいですね」だとか、そんな言葉をかけていたのだろうか。何度も何度も、私たちは覚えていなくとも、ここで毎日キャッチボールを繰り返し……その事実が、「相変わらず仲が良い」という言葉を引き出したのか?
 まるで私たちは時間のループに囚われていたかのようだった。毎日同じ事を繰り返し、毎日その事を忘れていく。だが――その記憶が脳から消え、高次元のメモリ領域から消えたとしても、我々は確かに時間を積み重ねていたのだ。その積み重ねが幾つかの因果を残し、そして外部の観測者たる横田さんの言葉を生んだのだ。
 消去された筈の共有した時間が、一つの演算結果を出していた。
 私たちは――ずっと以前から、互いのたった一人の家族だったのだ。
「父さん」
 その声は少し震えているように思えた。私は蓮二を見つめた。一歩、二歩、知らず足が動いていた。二人の間にあった距離はすぐに縮まった。私は蓮二の体を見下ろした。見上げてくる瞳が潤っているのは、眩しさの所為だけではない筈だった。
 どうしても声が震えてしまうのを、抑えられなかった。
「蓮二、おまえは、忘れられるか? 先に進めるか、父さんと――」
 泣き出しそうな蓮二は、それでもしっかりと頷いてくれた。

 美世の記憶を消去する意志を伝えると、係官は一瞬だけ驚いた表情を浮かべた。だがすぐに微笑んで「よく決断なさいましたね」と言ってくれた。その目は少し涙ぐんでいるように見えた。

 こんな大切な日なのに夕食が炒飯では格好が付かない。炒飯が二皿だけ並んだテーブルを見下ろすと、苦笑を堪える事ができなかった。
 これは蓮二の要望だった。私の一番得意な料理を食べたいとの事だった。。
 ふと、果たして美世の得意料理はなんだっただろう、と考えた。しかしもう全く思い出せなかった。悲しい事だった。だがもっと悲しいのは、その悲しみが容易に受け入れられる程度でしかない事だった。それはもはや美世の存在が、私にとって記憶を――実感を伴っていない事を意味していた。
 私たちの記憶から、そしてメモリ領域からも消えてしまった美世は、この世から消え去ったのだろうか? 「妻・母として」の彼女を演算するものは、もうどこにもない。
 考えを振り払った。
「食べようか。大事な日なのにこんなのですまんな」
「そんな事ないよ。おいしそう」
 蓮二は笑顔だった。私も頬が緩むのを感じた。
「いただきます」
 レンゲを持ち、炒飯を口へ運ぶ。……我ながら悪くないと思う。蓮二はどうだろう……とそちらを窺って、
「……なんだ?」
 私の声に、蓮二はきょとんとこちらを見つめた。私はレンゲを持つ彼の手元を指した。
「おまえ、妙にお上品な持ち方するんだな、レンゲ」
 言われた蓮二はちらりと自分の手元を見つめ、意外そうな表情を浮かべ、そしてその後、私の手元を見て怪訝そうに零した。
「……父さんも」
「えっ?」
 自らの手元を見た。人差し指を溝に添え、親指と中指でレンゲを摘んだ、柄にもなく上品な持ち方……。
 私たちがはっとした表情を浮かべたのは、殆ど同時だっただろう。この仕草が一体誰に由来するのか――もうどこでも演算され得ない筈の存在を感じて、私たちは微笑みを交わし合った。
 失われた過去すらも演算され続ける。それらが遥かな闇の中に忘れ去られようと、我々の営為が現在を成し、未来へ進んで行く限り。

窓川要プロフィール